カレンダーを見て、あぁもう月末なんだわ…と思い、
確かに2月はいつもの月より短いけれど、今年の2月は、
特になんだかわからないうちに終わってしまった気がしています。
長いことお休みいただき、またたくさんのコメントやメールをいただきましたこと、
改めて、心から厚くお礼申し上げます。
「風邪ダウン」がなければ、もう少し早く落ち着けたかと思いますが、
これもまた疲れていたことの証拠、そして皆様にもかけていただいたお言葉
「神様からのお休み」…そう思って、居直るように?休み続けました。
おかげさまで、私の方もやっと普通の食事もとれるようになりました。
いつも残る「咳」だけがまだ悪さをしています。おかげですっかり声がかすれ、電話すると
親でさえも「とんぼか?」と、確認する始末。ハスキーボイスでシャンソンでも歌おうか…です。
さて…あの1月31日の「青天の霹靂」…つい昨日のことのようでもあり、
また遠い昔のことでもあるような、不思議な感覚で過ごしております。
落ち着いたらさみしくなる…とも思っていましたが、ひとりで膝を抱えて泣くような、
そんな寂寥感は、いまのところありません。
まぁ夫婦というものは、100組いれば100組の夫婦の形があるものです。
人から見たら「冷たいのねぇ」なのかもしれませんが、とりあえず年齢的に60を過ぎていることと、
元々が離れて暮らしていた夫婦であったことで、泣き崩れるような悲しみは、
たぶんこれからも感じないと思います。
完全帰国してからの6か月(私以前間違えて5か月って言ってました)、
それまでいなくて当たり前の人が戻ってきて、改めて「そう3人家族なのよね」なんて思ったり、
そのために急に台所に立つ時間が長くなったり、買い物の量が増えたり、
家事の時間をきにするようになったり、それなりに用事もストレスも増えるのは当たり前です。
めんどくさくなったことも増えたのですが、それでも、振り返ってみればこの半年は、
日常よくあるストレスよりずっと多くの「楽しかったこと」があったわけです。
家では一切仕事の話をしない人でしたが、常に肩に「仕事」が載っていたときと比べて、
ようやく荷物を全部おろし、「素」だけの自分で暮らせていた分、
軽い会話や、漫画のようなやりとり、うれしそうな笑顔もたくさんありました。
この半年の思い出だけでも、私は十分幸せだったと思っています。
元々私は「たられば」の話はニガテだし、振り向いてばかりの暮らしも嫌いです。
泣いても笑っても1日は24時間、だとしたら、できるだけ笑って前をむいていきたい…
そんな性格なので、えぇーい、こうなったらなったでシャーナイやんか、生きたろやないの、です。
そして、アホかと言われるのも承知で言わせていただくならば、
こんな私だから、惚れて女房に選んでくれたのだとも、思っているのです。
風邪の治りきらない25日の水曜日、京都のいとことその息子が、大きなバンに乗って
やってきてくれました。告別式のあと、主人の部屋のテレビなどを譲る話をしていまして、
いずれ、ほかのものも宅配で送るから…と言ったのですが、
家具もあるし、それなら車で行くから…と連絡があったわけです。
電話口の私のあまりにもかすれた風邪声に、少し先に延ばそうかと言ってくれたのですが、
あちらも親子で仕事の休みが重なるのが難しいし、私も熱でうなって寝ているわけではありませんでしたから、
指示だけ出すから、と決行してもらったわけです。
昨年の夏、主人は自分の部屋のセッティングをするのに、毎日ものさし持ってあちこち計っては
パソコンであれこれ家具や道具を探しまくり、お気に入りのベッドやリクライニングチェアをそろえました。
今回、それらはほとんど京都に行きました。家具を分解したり折りたたんだりするのを見ながら、
私はずっと、ついこの前までその椅子にでーんと沈み込んでは、好きなコーヒーを飲みながら、
熱帯魚を眺めていた主人のことを思いだしていました。
毎日お昼はお弁当を運んでいましたが「へいお待ち」と持っていくと、
ちゃんとテーブルに「お弁当とお味噌汁とお茶セット」のお盆が置けるスペースがあけてあって、
目の前のテレビは、大好きなサッカーの試合だったり、二時間ドラマだったり…。
食べ終わると「ごっそさん」と、お盆を持って降りてきて「明日…パスタがいいな」と、
さりげなくリクエストしていく、そして開けてみればお弁当はいつも完食。
アルミのおかずカップしか残っていなかったのが「おいしかったよ」の言葉だと思っていました。
その「おべんとスペース」のあったガラスのテーブルは、残しました。
昔からずっとあったもの、20年以上前に「ガラスは物を落としたら割れるから」というのに、
どうしてもこれがいい、と自分で買ってきたテーブルです。
主(あるじ)のいなくなったあの日も、そのテーブルの下には、リュウキンが泳いでいましたっけ。
「全然悲しくない、寂しくない」と言ったらウソになります。それなりに「あぁもういないんだ」と思います。
でも、私はそういう姿を思い出すたびに「でも楽しかったよね」と思うのです。
「もう少し長く楽しめたらよかったのに、それだけは残念だよね」と、写真につぶやきます。
あれだけ水族館&オーディオルームみたいで、所狭しとものがあふれ、
歩くところがわずかしかなかった部屋は、すっかり広くなりました。
「おとサン」の写真は、ベッドのヘッドボード代わりに置いてあった木製の台の上にのっています。
ひとつひとつモノが運び出されるのを、しっかり見ていてほしかったのです。
「ちゃんと次につなげるから。おとサンの大事にしていたものだから、
おとサンと同じように『これいいねぇ』と使ってくれる人に渡すから」…と、そういいました。
事実、いとこの息子H君は「こういうの、ほしかったんだぁ」とか「おじさん、ありがとね」とか
「これ、オレが使いたいけど、嫁さんにとられそうだぁ」とか、ひとつひとつそういって運んでいました。
毎度ひょいと肩にかけて使っていた大きな黒いリュックも、サッカーに使っていたらしい赤いリュックも、
一緒に運ばれていきました。いとこの子二人には、それぞれまた元気のいい子供たちがいます。
空手を習っていて、あちこち遠征に行ってる子もいます。
きっとその子供たちの背中で、お役にたつことでしょう。おとサン、よかったね、と思うのです。
「モノはモノ」です。100年越えれば付喪神になると言いますが、まだ半年…ははは。
それでも、それを使った人の思いをわかってくれる人にゆだねるなら、
私はとても安心だと思っています。
いつも着物の古着を手にするとき思う「これを着ていた人」の思い、会ったことがなくても、
大事にしていたとわかるものは、無下には捨てられません。同じことだと思っています。
今回大きな家具があったので、瞬く間にバンの後ろは満杯になりました。
「これが夜やったら夜逃げとまちがわれるわぁ」というくらい。
それでもまだ洋服関係は手付けずなのです。一度ではとてもすべては運びきれず
「しばらくたったら第2弾でくるから」と、二人はあわただしく日帰りで、京都に戻っていきました。
「これは思い出に」と残す予定のものは、結婚してすぐに買った「グレーのジャケット」。
すっかり体型が合わなくなっても、不思議とタンスの中にずっとありました。
まだ安月給のころのモノ、後ろのデザインの変わった部分がお気に入りでした。
そして、亡くなるその日まで履いていたスリッパ、これがまた長年の出張暮らしで、
あちこち行ったホテルの「アメニティグッズ」のスリッパ…たくさん持ち帰ってました。
最後に使っていたのは、ライトグリーンのもの、外国のホテルのはサイズが大きくていいんだ…と、
言ってましたっけ、足も大きい人でしたから。
結婚してすぐのものと、ほんとの最後のもの…それが目に入ったのは偶然ですが、
ジャケットとスリッパの間には、36年の年月があるわけです。ふふふと笑いました。
写真のほかに、何点かは残すつもりですが、モノはつかわれてこそ「モノ」。
おとサンは、踏ん切りのいい私を見て「やれやれ、やると思った」と、苦笑いかもしれません。
バイパスが混む前にと、あわただしく出発した二人を見送って玄関に入ったら、
おとサンのサンダルが目に入りました。
これをつっかけて新聞受けを覗きに行っていた人はもういません。
主のいなくなったサンダルは、ポツンと寂しそうに見えました。私の寂しさも似ているのかもしれません。
でもサンダルに言いました「大は小を兼ねる!これからは私が履くし」
それでなくても足の小さい私がつっかけると、子供が大人物を履いているみたいです。
つっかけて玄関回りをちょっと片づけながら思いました。
「ダイジョブ、おとサンは、私のハートの中にいるから」
いろいろご心配、本当にありがとうございました。
まだ風邪が完全に抜け切れていませんで、特に夜になると咳がでる…で、
ただいま咳による筋肉痛があちこち…というアリサマです。
少しずつ始めます。着物も触ります。元気でいることが、ハートの中のおとサンへのメッセージ、
そんなつもりでやっていきます。これからもよろしくお願いいたします。
素敵な半年間をお過ごしになったのですね。
とんぼさんのお書きになる、お母さまの思い出話が好きです。
また、旦那さまの思い出話も教えてくださいね。
おもいでの品は、父が元気な頃もらった、父の仕事関係のものです。
形見分けは気持ち的にまだ貰う気になりません。
トンボさんのように配偶者となると想像つきません。
気丈なトンボさんに涙してしまいます。
とんぼさんのブログを祈るような気持ちで読んでおります。これからもずっと書き続けてくださいね。
とても素敵なご夫婦のあり方だなぁと。
仏様の世界では、この世はわずか1泊2日の旅なのでそうです。
この世に住む私たちには、長き別れになるかもしれませんが
あの世で待っていてくれる方にはほんのしばしの別れですから
明日もお弁当よろしくと、待っているかもしれませんね。
まだ、時折冷たい風が吹く季節、くれぐれもご自愛くださいませ。
私の父は 20年以上前に亡くなりましたが…私の20歳位からは 入退院繰り返していたので…付き添いをしていて 最後を看取ったのに 不思議と あー 父さんは あそこに入院中だ…なんて 思ってしまっています。
母の方は7年になりますが…こちらも入退院していたのに ちゃんと いない人なのだと 気持ちは納得していて…
おとサンの 大事に使ってくださるようで 安心ですね。
あー 明日から3月 市内で 蕗の薹が 顔を出した所が有ると新聞に有りましたが…私が 仕事や生活をしているエリアでは見かけない。でも 春は来ていますね
我が家も単身赴任が長く、主人が不在の暮らしが当たり前になっております。
いつまでも元気で働いてくれる…と、根拠のない自信は、いったい何処から湧いてくるのか。
主人ばかりでなく、親や自分に対しても「死なないみたい」なんてバカなことを考えたり。
もしも突然の別れが来ても泣かないと思うの・・・という私を「冷たいわぁ」と言った友人は、お母様が無くなった時に泣けなかったと言いました。
人の心は不思議です。泣くことと、悲しさや寂しさはイコールではないのですね。
傍目に薄情に映ろうとも、おとサンやお母様はきっと「それが、らしいよね」と笑ってくださるでしょう。
御子息と、お父様がとんぼさんの支えかと思います。
ゆっくりと、とんぼさんのペースで・・・お元気でいらしてくださいね。
この半年は、今にして思えば「神様からのごほうび」…
そんな気がしています。
主人の立場になれば、まだまだもっと…と
そういう気持ちだと思いますが、
遺ったこちらとしては「あれがあるから」と、
そんな風に思えるのです。
いずれ「マンガ夫婦」のお話もしましょうねぇ。
決して気丈というわけではないのだと思いますよ。
なにしろ家族がたくさんいるわけではありませんし、
なんとかせねば…の気持ちですかねぇ。
夫は血のつながった身内ではありませんから、
親とはまた違う喪失感ではないかと思います。
私も母のモノは、そんなにあっさり…とは、
できないでいますしね。
ぼちぼち…ですね。
立ち直りの早い私も、風邪には負けました。
体は大事…でいきます。
経、やっとちょっと着物にさわれました。
細く長く続けたいと思っていますので、
よろしくお願いします。
あぁそうなのですね。この世のことは一泊二日…。
なんだかほっとします。
彼岸の地で、主人はゆっくり待っていてくれると
そんな気がしています。
横には母もいて…弁当二人分かいっ…。
そのときは「たまには作ってよ」といってみますかね。