風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
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比歌句 その一 左

2018年02月15日 | グルメ

去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

 

インターネット上で『大岡 信ことば館』を発見した。『折々の歌』で大岡先生には、色々な歌や句を教えていただいた。

そこで、上記の句の解説は、以下の通り。

『六百五十句』(昭三〇)所収。昭和二十五年十二月二十日、新春放送用に作った句という。当時七十六歳。「去年今年」は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。「貫く棒の如きもの」の強さは大したもので、快作にして怪作というべきか。

 

簡潔で分かり易い解説だ。だが、<「貫く棒の如きもの」の強さは大したもので>で、具体的に何が大したものなのかは語っていない。

これを語ると様々な解釈を生じ、異論百出となるだろうが。

現代俳句協会のホームページで横須賀洋子さんは、この棒を男性器のメタファーと捉えていらっしゃる。これも面白い。(蛇足だが、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」とどうしても書きたくなった。)

 

私が回りくどく、分りづらい解釈は以下の通り。

去年今年とは、本来「年内立春」のことであり、明治五年以降、起りえないこととなった。

俳人達は、この「去年今年」を行く年、来る年のような意味合いで新年の季語とした。本来は使われなくなる運命だった言葉を、再生させたことになる。

貫く棒は、去年今年を貫く棒であり、歴史的な連続性を加味した時間軸であり、また地軸のようまものでもある。

話は飛ぶが、季語とは何かというと原則は、ひとつの物や現象に対して詠われてきた内容を本意とし、色々な観察で派生した意味を膨らませながら発展していったものだ。

例えば、春雨の本意は、降りみ降らずみの柔らかい雨のことであり、春にもザーザー降りの雨もありだろうが、それは春雨とは言わないという類(たぐい)のことだ。

「月様、雨が。」「春雨じゃ、濡れて行こう。」

月形半平太は、風流を知っていたということになる。

(子供の頃、劇場中継をテレビで見ていて、傘があるのに何故傘を差さないのか、不思議だったので、この会話の部分だけ覚えている。)

話が大分それたので、ハンドルを切り返す。

虚子の思いは、どこまで繋がっているのか。芭蕉か、それとも「古今集」か。

日本は記紀に表されているように、神話から歴史に連続性があり、そして、日本人の文化は現代へと引き継がれている。

世界史で様々な国の興亡を見ると、攻め滅ぼされた国が如何に多いか、新しく生まれた(略奪)国が如何に多いかが分かる。アメリカ大陸に元から住んでいた人は決して、新大陸などとは言わない。中国にしても古代から様々な王朝が生まれ、滅んでいる。古代はいざ知らず、隋・唐以降その度に支配している民族が入れ替わっている。

日本という国の伝統である花鳥諷詠も日本という国の連続性の上に成り立っている。

山鹿素行が「中朝事実」で言うように、日本は「万世一系」なのだ。

また、イザナミノミコトとイザナギノミコトの国生みの神話でも、棒のような“アメノヌボコ”が介在している。

この「棒のようなもの」は、日本のそうした歴史全体をとぼけた味わいで包括していると思われる。