夕顔や女子(をなご)の肌の見ゆる時 千代女(ちよじょ)
夕方になると肌が見えると言っているのだから、日中はしっかりと小袖(絽かな?)を来ていたのだ。夕方になり、女性が行水を浴びて浴衣に着替える。
夕顔の白さと女性の肌の白さが競い合っている。そんな場面を想像させる色っぽい句だ。
夕顔や女子(をなご)の肌の見ゆる時 千代女(ちよじょ)
夕方になると肌が見えると言っているのだから、日中はしっかりと小袖(絽かな?)を来ていたのだ。夕方になり、女性が行水を浴びて浴衣に着替える。
夕顔の白さと女性の肌の白さが競い合っている。そんな場面を想像させる色っぽい句だ。
行きなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへあつき夏の小車 藤原定家(ふじわらのさだいえ)
大岡信ことば館 より
http://kotobakan.jp/makoto/makoto-1393
<『玉葉集』夏歌。牛車、つまり牛にひかせる乗用の屋形車だろうか。炎天にあえぎ、人はもちろん牛までものろのろ歩む。その足元から乾いた塵ほこりが舞いたつ。風がたてば涼しいはずなのに、塵をまきあげる炎天の風はかえって暑くるしさを増す。抜群の耽美的作風の歌人定家に、この印象的な作があるおもしろさ。「むしますなあ」「どこぞ涼しい川べりにでも」。古都の夏は王朝の余映の時代にもやはり暑かったのだ。>
この歌は言ってみれば、自家用車の渋滞だ。しかもクーラーなどとい代物がなかった時代の。
平安時代の貴人の移動はすべて牛車に依っているようだ。
『枕草子』に牛車で説法を聞くことが書いてあった。(詳しくは覚えていない。)千年よりも前にドライブシアターのようなものがあったんだと感心したことだけを覚えている。
良い席を争って取ったり、帰りの渋滞があったりと、今と変わらないなあと思った。
やっぱりクーラーって、凄いよね。
ついでながら、牛車の乗り心地について一言。
今昔物語に、関東武者である平貞道・平季武(すえたけ)・坂田金時の三人が乗り馴れない牛車に乗って、大変な目に合う話がある。
牛車は、乗り馴れない者にとっては、あまり乗り心地の良いものではなかったようだ。
とまあ、この話のおおよそは、以下のブログで面白く読めますよ。
戦国ジジイ・りりのブログ
満員の電車に乗りて濠見ればうつらあかるく鴨はむれゐる 古泉千樫(こいずみ ちかし)
<うつらあかるく>が分からない。“うっすらと明るく”だと、鴨の入る場所の描写だ。“虚ろに明るく”だと、鴨の様子を心象的に理解していることになる。この<うつら>の意味が分かる方がいらっしゃったら、是非ともお教えください。
まあ、それにしても、満員電車に押し込まれて職場と向かう、そんな生活は大正時代から始まっていたことが察っせられる歌だ。そして、窓外の景色を何気なく見つめる心情も。
日本で鉄道の営業開始が明治5年(1872年)だ。
明治3年から測量から始め工事を開始したことは、とてつもなく早い対応だと思う。
大政奉還から高々3年なのでから。
徳川幕府でも鉄道の敷設を計画していた。しかし、それはアメリカに全てをまかせる形でだった。幕府から得た「江戸・横浜間鉄道敷設免許」を盾に事業の推進を迫るアメリカに対し、政府が変わったから、その権利は無効であることを宣告し、どうにかアメリカの要求を拒否することが出来た。
幕府は事業の承認を外国に認めて国益を害することに考えが至らなかったのだろうか。しかし、自国で鉄道を敷設できると考える方が無謀なのではないだろうか。なぜなら、何らのノーハウも持っていなかったのだから。
諸外国を眺めると、鉄道に限らず機械文明の普及を外国に任せる(自国ではできない)国が多々ある。そうした中で、イギリスに頼ったとは言え、自国で鉄道をと考え、それを実現した、このことを褒めなくて何を褒めるのか。
私はこの事実のみで、王制復古と言う名のクーデターが成功して良かったと思っている。
<国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。>川端康成の『雪国』の冒頭だ。
昭和10年からこの小説を発表し始めたとのことだ。凄いなあ。
この頃になると、もう長いトンネルを掘り、鉄道を運行させる技術まで確立していたんですね。
この技術の実現による鉄道の普及がなければ、この小説は生まれなかったということだ。
色々調べてみると、地下鉄は、大正4年(1915年)東京駅で、郵便物搬送用地下軌道(200m)を魁として、昭和2年(1927年)には、乗客を乗せた東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線)の浅草駅 - 上野駅間(約2.2 km)が開通したということだ。
(以前ネットで、嬉しそうに地下鉄に乗る柳屋金語楼似の、おじさんの映像を拝見した。)
とまあ話は大きくそれたが、古泉千樫は、満員電車でもまれながらも、皇居のお濠の群れ居る鴨を眺めている。羨ましかったのかもしれない。
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼(さいとう さんき)
晶子の<春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ>に対して、「怨霊退散」とばかり、魔除けとなる句を並べて見た。
年若い乙女が、乳を手にさぐらせようという思いを寄せてくれる年齢を、とっくに過ぎてしまった者にとって、微苦笑をもって迎えられる句だ。
<ちからある>と乙女は表現し、<豊満>と青年は表現する。<おそるべき>と中年は思い、<あこがれ>と老人は呟く。
本式の鑑賞は以下の通り。
<戦後の混乱を経て時代が大きく変わり、いままで抑圧されて慎ましさを求められた女性が夏へ向けて薄着となった。そして街には乳房のかたちが鮮やかに見える女性のさっそうと歩く姿を見掛けるようになった。
敗戦後、男性がすっかり自信を失いかけているとき、自由を手にした若い女性たちの胸を張って歩く姿に、三鬼は、乳房に焦点をあてて「おそるべき」と詠んでいる。「夏来る」という生命感と乳房の生命感とをぶつけることで、その時の驚きが伝わってくる。いまでは当たり前のことのようだが、それまで普通の女性は乳房を誇示することはなかった。(子育て中の女性は人前でも平気で授乳をしていたが)>
現代俳句データベース(現代俳句協会) 姉崎蕗子
春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ 与謝野晶子(よさのあきこ)
晶子の心は強いなあ。「ちからある乳」とは、若い女性自ら感じる乳の感触なのだろう。
しかし、この歌は事実を詠ったのだろうか?
柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君
と呼応しているように思える。
しかしながら、
乳(ち)ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き
とも響き合う。
まあ、事実関係なぞ詮索せず、歌を味わうのが良いのだろう。
与謝野晶子の乳房により、短歌は新しい命を授かった。