私が、従軍慰安婦の存在を知ったのは、若い頃にヘミングウェイの『日はまた昇る』を詠んだ時でした。ヘミングウェイは、古株の従軍慰安婦のことを『戦友』とまで言っていました。仲間としての最高の褒め言葉じゃあないか。
韓国の元従軍慰安婦の女性たちは、怨嗟の声を発し、いまだに謝罪と賠償を求めています。
そして、性奴隷だったとも。これは真実なのでしょうか。
ネットで従軍慰安婦に関するテキサス親父の発言を知りました。
テキサス親父の調査結果の発言のコピペは以下の通り。
・慰安婦達の証言では、志願して雇用され高額の給料を貰っていた。
・街へ出かけて化粧品や洋服など好きな物を買っていた。
・時間の関係で全てのお客(兵士)にサービスができない事を悔やんでいた。
・日本人の兵士達とスポーツをしたり、ピクニックをしたり宴会をしたり様々なイベントを一緒に仲良くやっていた。
・借入金がある慰安婦は、その返済が終われば希望があれば国へ帰ることも出来た。
・日本の兵士と結婚する者もいた。
しかもこれは、ネットに1944年に報告された「マッカーサー電文」の「尋問調書」が記載されている内容であったため、テキサス親父は米国の「国立公文書館」へ問い合わせた結果、本物であることが確認したという。
ネットを通じ、世界中の人たちが事実を認識してくれるのは嬉しいな。
私は、このブログを目にした皆さんが、秦 郁彦先生の『昭和史の謎を追う』を読んでくれたらいいなあと思います。
また、黄 文雄先生の書物(書籍名は忘れちゃいました)で、ある島に配置されていた部隊での話しが忘れられません。
その島には、配属部隊の他に従軍慰安婦を含む一般人もいたのですが、敵がその島の奪還を目指していることが分かったので、一般人は船で脱出させることにしたそうです。
ところが、一人の慰安婦がある兵士と結婚したいとので島に残る覚悟を決めました。そして、もう一人、その慰安婦の姉的存在の慰安婦の二名が島に残こりました。
どうも、もう一人の慰安婦は、その部隊の司令官に思いを寄せているようでした。
他の一般人は、船で島を去りました。
慰安婦と兵士は結婚しました。
そして、予想通りに敵が島に進撃してきました。
夫婦は、弾運びに従事していましたが、敵の砲弾に打たれて死にました。
そして、守備隊は全滅寸前とまりました。敵に銃弾を発する機関銃の音も聞こえなくなりました。
そして、司令官は、静かに自刃に向かいました。
すろと司令官に恋していた慰安婦は、(男性の軍服に身を包み)敵弾を掻い潜りつつ機関銃ある山上のトウチカへと登って行きました。
そして、最後まで、敵に機関銃を放ち続けました。
が、敵の銃撃は、最終的に彼女の心臓を貫きました。
米兵は、最後まで抵抗していた者が誰だったのか確認しました。その勇者が女性だったことが分かると、米兵たちは哀悼の意を捧げたとのことです。
※従軍慰安婦という言葉は、戦後の造語のようですが、私は敢えてこの名称を使いました。何故なら戦場の売春婦というよりも、彼女たちに敬意を込めた響きが感じられるからです。