司会者の物なれぬおもはゆさにも若き時代はうれしげに来つ 土岐 善麿(とき ぜんまろ)
「今回の司会者はまだ司会を務めることに慣れていず照れているが、その照れている姿に若々しさを感じ、新しい時代がやってきたことを私は喜ばずにはいられない。」
土岐善麿さんは本当に温かい人だと思う。司会が下手だと、まだまだ修行が足りないとか今後に期待するにしても、反省を促す人が多いと思う。たどたどしさを初々しさと感じられる感性が、素晴らしい。私もかくありたいと思う。
昭和21年刊の『夏草』に収録されている。どんな会合かはわからないが、終戦後間もなくの会合なのだろう。だから、「若き時代はうれしげに来つ」は、「戦争が終わって、自身の生を全う出来る時代が戻って来たんだ。」という意味も込められていると思う。
さて、ここで比歌句と言いながら、どうも歌句の並べ方がおかしいのではと思われなかっただろうか。
ここで、今回の比歌句を再掲してみる。
A 長松が親の名で来る御慶かな 志太野坡
B わらんべの溺るるばかり初湯かな 飯田蛇笏
C 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり 与謝蕪村
D 司会者の物なれぬおもはゆさにも若き時代はうれしげに来つ 土岐善麿
AからCは正月を祝う句であるのにDはそうではない。何故、ここでこの歌を取り上げたのか?
話は変わるが、ゲーテに『親和力』という小説がある。「A夫とB子という仲睦まじい夫婦がいた。A夫の友人であるC夫とも楽しく交際していた。そこにD子が現れる。A夫は、D子に恋をしてしまう。すると「可哀そうたあ惚れたってことよ。」とばかり、C夫は、B子への恋心が芽生える。」そういう化学反応的な(この比喩はゲーテ自身のものだ。)恋愛の始末をテーマとしている。
そこで、AからDを見直して欲しい。
Dが出現すると、Aは正月の祝いと若者への祝意が含まれており、AとDは共鳴するものがあるということになる。
すると、BとCは、家族団欒という要素で結びつく。
さあ、あなたはどう感じられるだろうか。牽強付会と言われてしまうだろうか。