風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

比歌句 その六 左

2018年02月28日 | 和歌

ながれ来て氷を砕く氷かな   吉川五明(きつかわ ごめい)

 「吉川五明は、秋田の富商。氷→俳諧ではもっぱら河川の流氷を指し、春の季語とされる。氷ながるる→春。雄物川(秋田)の河口あたりの実景であろう。」ということだ。(書名は忘れたので、今度、図書館に行って調べ直して来ます。)

「氷を砕く氷」という表現に迫力がある。嘱目、目にしたものをいかに表現するか。しかし、それを如何に目にするのか。寒いから炬燵で熱燗ということではだめなんですね。

ついでながら、吉川五明は、心を澄まして見て聞いて、言葉に表す達人だ。今後も知っている句を紹介します。


比歌句 その六 右

2018年02月27日 | 和歌

流氷や宗谷の門波荒れやまず   山口誓子

 「門波」とは、海峡に立つ波のことだという。

「流氷だ!宗谷海峡の沖合の波が荒れていて、一向に鎮まる気配がない。」と散文にすると

つまらなくなってしまう。「門波」とは、古語にあるらしいが、素晴らしい発見だ。沖つ(白)波等の使い古された言葉ではない。将に新しい俳句という語感だ。

素晴らしすぎて、今後、この句を意識せずに「門波」の語は使えないだろう。

では、過去に流氷を詠んだ句はないのか?それが、あるんです。

それは、明日のお楽しみ。


比歌句 その五 左

2018年02月26日 | 和歌

頻(しき)り頻るこれ俳諧の雪にあらず    中村草田男

今年は大雪で、多大な被害を被っている地方もあるので、気が引ける引用だが、「ものすごい勢いで雪が降っている。これは俳句を詠んでいるような場合じゃないな。」ということを俳句にした可笑しみ。

俳諧の雪とは、先に取り上げた芭蕉の「雪見にころぶ所まで」のような雪のことになるだろう。


比歌句 その五 左

2018年02月25日 | 和歌

いざ行かん雪見にころぶ所まで     松尾芭蕉

俳句の軽みとはどういうことかとの問いに対する答えのような句だ。

私には、すってんころりんと転んでしまうところを相手に想像させる可笑しみが“ころぶ所まで”に込められているように感じられる。

最終案は初五が「いざさらば」とのこと。これはこれで送別の句で、別れて行く友人を見送る句として詠めば面白い。

(但し、この解釈では、「笈の小文」本文とちぐはぐになってしまうのだろうか。)


比歌句 その四 D

2018年02月24日 | 和歌

司会者の物なれぬおもはゆさにも若き時代はうれしげに来つ  土岐 善麿(とき ぜんまろ)

 「今回の司会者はまだ司会を務めることに慣れていず照れているが、その照れている姿に若々しさを感じ、新しい時代がやってきたことを私は喜ばずにはいられない。」

土岐善麿さんは本当に温かい人だと思う。司会が下手だと、まだまだ修行が足りないとか今後に期待するにしても、反省を促す人が多いと思う。たどたどしさを初々しさと感じられる感性が、素晴らしい。私もかくありたいと思う。

昭和21年刊の『夏草』に収録されている。どんな会合かはわからないが、終戦後間もなくの会合なのだろう。だから、「若き時代はうれしげに来つ」は、「戦争が終わって、自身の生を全う出来る時代が戻って来たんだ。」という意味も込められていると思う。

 さて、ここで比歌句と言いながら、どうも歌句の並べ方がおかしいのではと思われなかっただろうか。

 ここで、今回の比歌句を再掲してみる。

A 長松が親の名で来る御慶かな     志太野坡

B わらんべの溺るるばかり初湯かな   飯田蛇笏

C 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり     与謝蕪村

D 司会者の物なれぬおもはゆさにも若き時代はうれしげに来つ  土岐善麿

 

AからCは正月を祝う句であるのにDはそうではない。何故、ここでこの歌を取り上げたのか?

話は変わるが、ゲーテに『親和力』という小説がある。「A夫とB子という仲睦まじい夫婦がいた。A夫の友人であるC夫とも楽しく交際していた。そこにD子が現れる。A夫は、D子に恋をしてしまう。すると「可哀そうたあ惚れたってことよ。」とばかり、C夫は、B子への恋心が芽生える。」そういう化学反応的な(この比喩はゲーテ自身のものだ。)恋愛の始末をテーマとしている。

そこで、AからDを見直して欲しい。

Dが出現すると、Aは正月の祝いと若者への祝意が含まれており、AとDは共鳴するものがあるということになる。

すると、BとCは、家族団欒という要素で結びつく。

さあ、あなたはどう感じられるだろうか。牽強付会と言われてしまうだろうか。