風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

ミサイルにイルミネーション クリスマス

2013年12月23日 | 日記

 クリスマスがイエス・キリストの生誕祭であることは忘れ去られ、日本では、「聖夜」は、変質した。「聖夜」は、恋人と楽しく過ごす夜であり、恋人がいない若者にとっては、妬ましい夜である。子供を持つ両親にとっては、子供にサンタクロースの実在を信じ込ませようとする滑稽で、明るく、楽しい夜である。

 子供は、誰かがプレゼントをしてくれるのを待つ楽しみを味わう夜である。

 日本で変質した「聖夜」をイエス様はどう思われるであろう。

 私は、日本のクリスマスのとらえ方をイエス様は微笑みを持って迎えれ下さると思う。

これも、私の中で変質したイエス・キリスト像なのかもしれないが。

 そして、遠い異国でクリスマスを迎える兵士達は、故国に残した恋人を思い、まだ見ぬ恋人を思い、そして、自分を待ってくれている子供の姿を思い浮かべる。


『インカ帝国地誌』って・・・・・

2013年12月22日 | 日記

 前回、人は他人をどこまで同族(仲間)と認めるのかという視点で、孔子が評価されていることを『逆説の日本史』を拾い読みして提示したが、結局、仲間以外は食材に成り得るということなのだろう。(飢餓状態の時は、別として。)

 では、人は人を食べていたのか?

 驚きの記録があります。『インカ帝国地誌』シエサ・デ・レオン 岩波文庫

インカ帝国ではなく、その周辺国の話ですが、ある地方の民族が、人肉を食べる習慣があることを語っています。戦争で勝つと敗者の肉を全て食べる。捕虜も食べてしまう。捕虜とした女性に、子供を産ませる。その子供は、十一、二歳までは大事に育てるが、育ったら食べてしまう。つまり、飼育だ。その女性も子供を産めなくなったら食べてしまう。

・・・こんなことがあるのか。まあ、16世紀のことですが。

この本の著者は、インディオの男に追われる女を目撃しました。

 著者は、なんとかして追われている女を助けてやりたいと思い、自分たちの存在を知らせ、自分たちの方へ来るように態度で示したそうです。

 インディオの女性はどうしたか。見知らぬ者の方へは来ず、殺されることを選択したとのことです。追ってくる男の方へ戻どり、殺されたというのです。その後食べられてしまうことが分かっているのに。

こうなると、この女性(民族)は、殺され、食べられる運命を受け入れていたのではないかと思えてなりません。そこには、再生とでもいうべき信仰のようなものがあるのではないか・・・・。

 ですが、どうにもならない陰惨さを感じずにはいられません。

 この本を読んだ時の気持ちは、忘れられません。インカ帝国には、人肉を食べる習慣はなく、穏やかな人々であったことに救われる思いがしました。

 


四方の海皆はらからと思ふ世にいつからなって来たんだろうか

2013年12月15日 | 日記

『逆説の日本史』古代言霊編 桓武天皇と平安京編の中で下記の本の引用がある。

『漢文入門』藤堂明保 学燈社

引用されている文章は以下の通りだ。

 

 大昔の殷の時代の甲骨文字の記録や、周の時代の青銅器をみると、「用十六羗(きょう)といった記録によく出くわす。羗とは、西方にいた外民族である。用とは犠牲として殺すことである。つまりお祭りのさいには、捕虜として奴隷として使っていた外民族を、さっさと「用いて」神にささげたわけだ。牛や豚を殺すのと、ちっとも変わらない。時には、百人、百五十人という数を血祭りにあげているのだから、恐ろしい。また、「十人を賜う」といった記録もある。また、逃げた牛一匹の代償として、四人の奴隷を支払いに供した記録も見える。日本でもあちこちに部族が割拠して、たがいに闘争していた時代には、これと同じであったろう。

 さて身辺の仲間だけ、つまり「君と僕」といった関係の者だけを人(ニン)と称していた世界において、はじめて広い意味の人ということを唱え出したのは、だれあろう、有名な孔子にほかならない。そして彼はその心がけを仁と名づけた。人と仁とは、まったく同じコトバであり、おまけに「人と二」を合わせて仁という字ができている。漢代の鄭玄(ジョウゲン)という学者が「仁とは仁遇(ジングウ)すること」と説いたのが一番よう解説である。おたがいに人として認め合うのが仁だというのである。こうして、従来はみわめて狭い仲間だけを人といったのが、今や同村の人だけでなくて、他村他部族の人をも、またはるかに遠い所に住む人をも、おしなべて人というようになった。(中略)アジアの精神史の中では、孔子が「人間性」というものの発見者としての栄誉を与えられるのである。

 

 

 この文章は、桓武天皇が平安京遷都前に「徴兵権の放棄(正規軍の廃止)」をしたのにも関わらず、蝦夷に対しては、強靭な軍事行動を起こし、投降してきたアテルイ他、蝦夷の指導者を処刑したのは何故かという疑問に対する回答(傍証)として、掲げられたものです。

 

 これを読んでいる時は、この文章に納得し、『仁』とはこういうものだとブログに書こうとしたんです。でも、キーボードでタイプしている内に、どうも分からなくなってしまいました。この解釈では、墨子の『兼愛』とどう相違するのか。『孝』に関わる『仁』の位置づけはどうなるのか。まあ、私は墨子は孟子が墨子を批判している文章でしか知らないんですが。

(勉強が足りないなあ)自分の無知さ加減が嫌になってしまいます。

で、何でこの話を載せたのか、それは次回のお楽しみ。

 


日本の歴史は深い謎ばかり転換点は帝(みかど)のみひかり

2013年12月08日 | 日記

『逆説の日本史 第2巻』には、孝徳天皇が悲劇的な運命に見舞われたと書かれていた。

蘇我一族を滅ぼした後、中大兄皇子に傀儡として天皇に祭り上げられた。

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に都を構えた。

しかし、中大兄皇子(天智天皇) が近江大津宮へ遷都することを決めた時に孝徳天皇が反対したため、一人旧都に取り残された。皇后(中大兄皇子の妹、間人皇后)も新都へ移られた。

孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮 で侘びしく死んだ。

・・・無念だったろうね。

遠山美津夫先生は、大化の改新の影の主役は孝徳天皇だったとの見解を持たれている。

逆説と遠山先生の説を読み合わせれば、大化の改新後に 中大兄皇子がクーデターを起こして遷都したことになるのではないか。

真相はどうあれ、私は、孝徳天皇を偉い人だと思っている。

何故か?

日本書紀には孝徳天皇がなされたことが書かれているんだけれど、殉死の廃止、目安箱(のようなもの)の設置のことに関しては、何故このことが教科書に載っていないのか不思議でしょうがない。(本当の話かどうか疑わしいのだろうか)

殉死の廃止を提言していることから察すると、孝徳天皇の時代は朝廷では殉死が当然のこととして行われていたことになる。

では、殉死の代替えとして、埴輪が陵(みささぎ)に供えられることになったのではないか。

また、時代が下がると、貴族階級での殉死はなくなっている(孝徳天皇のお考えが浸透した)と思うのは、私の歴史認識が間違っているのだろうか。

目安箱(のようなもの)に関しては、下々の苦情をお聞きになるという態度はすばらしいと思った。都へ役務の提供のために派遣された人から「約束の期限が来ても故郷へ帰してくれない。」という苦情に対して善処するよう回答なさっている。吉宗はこの事績を参照したんじゃあないかなと思う。

日本書紀で天皇の行政について詳しく記載しているのは、孝徳天皇の事績についてのみだ。(私は日本書紀を現代語訳でしか読んでいませんが・・・。)後は、聖徳太子。

後、仁徳天皇の民の竈はにぎはいにけりがある程度ですよね。

日本書紀が天武天皇政権の正統性を謳い上げた書物だとすれば、天武朝は、聖徳太子、孝徳天皇の後継者だと自任しているように思える。

さあ、あなたはどう思いますか?

天帝の臣とし蝉の生まれいづ








記憶とは記録ではなく渡り鳥

2013年12月08日 | 日記

久しぶりに『逆説の日本史 第2巻』を読み返したら、驚いたのなんのって。

・・・まるで、覚えていなかった。

天智天皇が暗殺されたこと、天武天皇が忍者だったこと、三井寺が大友皇子の菩提寺だったこと

これらは、大方の歴史学者からすると証拠不十分ってところなんだろうけどね。

我ながら忘却力の凄さには恐れ入谷の鬼子母神・・(って今どき、時代劇でも言わないか)

記憶力が良い人って羨ましい。以前TVでIQ160以上の人だけが入れるクラブを紹介していたけれど、本を丸ごと暗記するレベルだった。ある文章が何ページに書かれているかも覚えているんだから。

林羅山の伝記かなんか読んだ時に、読書について語っている個所があった。本は一行づつ読むのではなく、三行まとめて読めば、早く読めるって。

これは、どういうことか。つまり読むということの次元が違うってことだ。

羅山の読書方法は、映像のまま、脳に焼きつけるってことだよね。それができる人は、それが当たり前だと思っているんだろうね。

密教に「求聞持聡明法 」っていうのがあるって聞いたけれど、まさしく生まれながらにしてその技術が備わった人たちなんだろう。

私のような頭の悪い人間には、さびしいけれど無縁な世界だ。



聖徳太子 十七条憲法

<十、いきどおりを絶ちいかりを捨て。人が従わないことを怒らない。人には皆それぞれの心が有ります。心は各人思いとらわれるところが有ります。彼は我では無く。我は彼では無い。我も必ずしも物事の道理に通じた者では無い。彼も必ずしも愚か者では無い。共に凡夫なばかりです。これが道理で無くて、どんな定めが出来ようか。お互いに道理に通じた者でもあり愚か者でもある。まるで金輪に端が無いように。それで彼が人を怒る事が有っても。顧みて我がしくじりが無いか心配しなさい。我一人が適任と考えても。皆に合わせて同じ様に用いなさい。>

  http://home.c07.itscom.net/sampei/17ken/17ken.html by  三瓶 精二さん

十七条憲法を読んで感動したのが、この部分です。

何故、和をもって貴しとなすのか。絵にかいたような凡夫の私にとって、とても心に沁みました。

賢治の『雨にも負けす』もそうですね。

だけれど、一寸の虫にも五分の魂。凡夫は凡夫なりにがんばらにゃあ。

世の中の不思議は何と問はるれば 吾が世に生まれ物思いする