『逆説の日本史 第2巻』には、孝徳天皇が悲劇的な運命に見舞われたと書かれていた。
蘇我一族を滅ぼした後、中大兄皇子に傀儡として天皇に祭り上げられた。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に都を構えた。
しかし、中大兄皇子(天智天皇) が近江大津宮へ遷都することを決めた時に孝徳天皇が反対したため、一人旧都に取り残された。皇后(中大兄皇子の妹、間人皇后)も新都へ移られた。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮 で侘びしく死んだ。
・・・無念だったろうね。
遠山美津夫先生は、大化の改新の影の主役は孝徳天皇だったとの見解を持たれている。
逆説と遠山先生の説を読み合わせれば、大化の改新後に 中大兄皇子がクーデターを起こして遷都したことになるのではないか。
真相はどうあれ、私は、孝徳天皇を偉い人だと思っている。
何故か?
日本書紀には孝徳天皇がなされたことが書かれているんだけれど、殉死の廃止、目安箱(のようなもの)の設置のことに関しては、何故このことが教科書に載っていないのか不思議でしょうがない。(本当の話かどうか疑わしいのだろうか)
殉死の廃止を提言していることから察すると、孝徳天皇の時代は朝廷では殉死が当然のこととして行われていたことになる。
では、殉死の代替えとして、埴輪が陵(みささぎ)に供えられることになったのではないか。
また、時代が下がると、貴族階級での殉死はなくなっている(孝徳天皇のお考えが浸透した)と思うのは、私の歴史認識が間違っているのだろうか。
目安箱(のようなもの)に関しては、下々の苦情をお聞きになるという態度はすばらしいと思った。都へ役務の提供のために派遣された人から「約束の期限が来ても故郷へ帰してくれない。」という苦情に対して善処するよう回答なさっている。吉宗はこの事績を参照したんじゃあないかなと思う。
日本書紀で天皇の行政について詳しく記載しているのは、孝徳天皇の事績についてのみだ。(私は日本書紀を現代語訳でしか読んでいませんが・・・。)後は、聖徳太子。
後、仁徳天皇の民の竈はにぎはいにけりがある程度ですよね。
日本書紀が天武天皇政権の正統性を謳い上げた書物だとすれば、天武朝は、聖徳太子、孝徳天皇の後継者だと自任しているように思える。
さあ、あなたはどう思いますか?
天帝の臣とし蝉の生まれいづ