風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

比歌句 その一 右

2018年02月13日 | 日記

旧年(ふるとし)に春立ちける日、よめる   在原 元方

年の内に春はきにけり去年(こぞ)とやいはむ今年(ことし)とやいはむ

 年内に早くも春が来てしまったよ。この一年を立春の日の今日からどう呼べばよいのだろう、去年と言おうか、今年と言おうか。(岩波書店 新日本古典文学大系『古今和歌集』)

本日(2018年2月16日)は、旧暦での元日です。旧暦の元日からブログを再開。誰にも読んでもらえなくても、めげずにブログを更新しようと思う。

さて、この元方の歌を理解する為には、まず、旧暦について一寸した知識がないと理解できない。

日本が現在の暦(グレゴリオ暦)を採用したのは1872年(明治五年)からで、それ以前は旧暦(改定は何度かされている。)だった。旧暦は、太陽太陰暦で太陽の運行と月の運行とを考慮して作られている。(基本的に、その時の統治者の命令を受けた天文方が作成)月の公転(月が地球を一周する)のは、約29.5日であり、これで『月』を決めていく。(大の月(30日)、小の月(29)日というように)すると十二箇月で約354日となる。地球の公転は約365日なので、十二箇月で十一日間の差が生じる。そのズレを二十四節季(太陽暦)でカバーしている。因って、「年内に春が来ることもある。」ということだ。(私の拙い説明で不明な方は、暦に関する本やネットで調べて欲しい。)

どうして一年が一三箇月になる閏月を設けたりして、月の運行を重要視したのかと言えば、電気やガスがなかった(夜の明るさは月の明るさ)から。だから十五夜は満月。

さて、ここからが本題。「年の内に」の歌は、軽いユーモアの歌として評価されている。正岡子規にはくそみそに貶されている。(まあ、子規の後ろ盾は、賀茂真淵なのだろうが。)

確かに、この歌を素直に解釈すれば、それは間違いない。

だが、古今集の巻頭を飾るがなぜ歌なのかを考えると、それだけの本意だとは思えない。

暦を皮肉ってどうするのか、暦とは何か。暦は中国文明のことを指しているのではなかろうか。

この歌は、「まだ年の暮にもならないのに春が来てしまった。春が年内に来るなんて、今日の日を今年と呼べば良いのやら、去年と呼べばよいのやら。中国の暦(文明)にだって完全なものではないでしょう。中国の暦は有難いものですが、それだけに縛られるのも考え物でしょう。(漢詩だけ賦してればいいというものではないでしょう。)我々日本人は、日本の歌を詠んでいこうじゃありませんか。」という意味だと思う。

確かに万葉集のような益良雄振りではなく、雅男振りではあるが、歌意は雄々しい。

古今集編纂当時、日本語表記は、万葉仮名から平仮名、片仮名への大変革を進行中であり、新しい表現方法で自らを表現したいという意欲に燃えたのではないだろうか。

私は、何ら勉強をしたことがなく、知識が乏しいので良くは分からないが、古今和歌集の歌は、秘められた歌の意味を解いていく必要があるように思う。


ミサイルにイルミネーション クリスマス

2013年12月23日 | 日記

 クリスマスがイエス・キリストの生誕祭であることは忘れ去られ、日本では、「聖夜」は、変質した。「聖夜」は、恋人と楽しく過ごす夜であり、恋人がいない若者にとっては、妬ましい夜である。子供を持つ両親にとっては、子供にサンタクロースの実在を信じ込ませようとする滑稽で、明るく、楽しい夜である。

 子供は、誰かがプレゼントをしてくれるのを待つ楽しみを味わう夜である。

 日本で変質した「聖夜」をイエス様はどう思われるであろう。

 私は、日本のクリスマスのとらえ方をイエス様は微笑みを持って迎えれ下さると思う。

これも、私の中で変質したイエス・キリスト像なのかもしれないが。

 そして、遠い異国でクリスマスを迎える兵士達は、故国に残した恋人を思い、まだ見ぬ恋人を思い、そして、自分を待ってくれている子供の姿を思い浮かべる。


『インカ帝国地誌』って・・・・・

2013年12月22日 | 日記

 前回、人は他人をどこまで同族(仲間)と認めるのかという視点で、孔子が評価されていることを『逆説の日本史』を拾い読みして提示したが、結局、仲間以外は食材に成り得るということなのだろう。(飢餓状態の時は、別として。)

 では、人は人を食べていたのか?

 驚きの記録があります。『インカ帝国地誌』シエサ・デ・レオン 岩波文庫

インカ帝国ではなく、その周辺国の話ですが、ある地方の民族が、人肉を食べる習慣があることを語っています。戦争で勝つと敗者の肉を全て食べる。捕虜も食べてしまう。捕虜とした女性に、子供を産ませる。その子供は、十一、二歳までは大事に育てるが、育ったら食べてしまう。つまり、飼育だ。その女性も子供を産めなくなったら食べてしまう。

・・・こんなことがあるのか。まあ、16世紀のことですが。

この本の著者は、インディオの男に追われる女を目撃しました。

 著者は、なんとかして追われている女を助けてやりたいと思い、自分たちの存在を知らせ、自分たちの方へ来るように態度で示したそうです。

 インディオの女性はどうしたか。見知らぬ者の方へは来ず、殺されることを選択したとのことです。追ってくる男の方へ戻どり、殺されたというのです。その後食べられてしまうことが分かっているのに。

こうなると、この女性(民族)は、殺され、食べられる運命を受け入れていたのではないかと思えてなりません。そこには、再生とでもいうべき信仰のようなものがあるのではないか・・・・。

 ですが、どうにもならない陰惨さを感じずにはいられません。

 この本を読んだ時の気持ちは、忘れられません。インカ帝国には、人肉を食べる習慣はなく、穏やかな人々であったことに救われる思いがしました。

 


四方の海皆はらからと思ふ世にいつからなって来たんだろうか

2013年12月15日 | 日記

『逆説の日本史』古代言霊編 桓武天皇と平安京編の中で下記の本の引用がある。

『漢文入門』藤堂明保 学燈社

引用されている文章は以下の通りだ。

 

 大昔の殷の時代の甲骨文字の記録や、周の時代の青銅器をみると、「用十六羗(きょう)といった記録によく出くわす。羗とは、西方にいた外民族である。用とは犠牲として殺すことである。つまりお祭りのさいには、捕虜として奴隷として使っていた外民族を、さっさと「用いて」神にささげたわけだ。牛や豚を殺すのと、ちっとも変わらない。時には、百人、百五十人という数を血祭りにあげているのだから、恐ろしい。また、「十人を賜う」といった記録もある。また、逃げた牛一匹の代償として、四人の奴隷を支払いに供した記録も見える。日本でもあちこちに部族が割拠して、たがいに闘争していた時代には、これと同じであったろう。

 さて身辺の仲間だけ、つまり「君と僕」といった関係の者だけを人(ニン)と称していた世界において、はじめて広い意味の人ということを唱え出したのは、だれあろう、有名な孔子にほかならない。そして彼はその心がけを仁と名づけた。人と仁とは、まったく同じコトバであり、おまけに「人と二」を合わせて仁という字ができている。漢代の鄭玄(ジョウゲン)という学者が「仁とは仁遇(ジングウ)すること」と説いたのが一番よう解説である。おたがいに人として認め合うのが仁だというのである。こうして、従来はみわめて狭い仲間だけを人といったのが、今や同村の人だけでなくて、他村他部族の人をも、またはるかに遠い所に住む人をも、おしなべて人というようになった。(中略)アジアの精神史の中では、孔子が「人間性」というものの発見者としての栄誉を与えられるのである。

 

 

 この文章は、桓武天皇が平安京遷都前に「徴兵権の放棄(正規軍の廃止)」をしたのにも関わらず、蝦夷に対しては、強靭な軍事行動を起こし、投降してきたアテルイ他、蝦夷の指導者を処刑したのは何故かという疑問に対する回答(傍証)として、掲げられたものです。

 

 これを読んでいる時は、この文章に納得し、『仁』とはこういうものだとブログに書こうとしたんです。でも、キーボードでタイプしている内に、どうも分からなくなってしまいました。この解釈では、墨子の『兼愛』とどう相違するのか。『孝』に関わる『仁』の位置づけはどうなるのか。まあ、私は墨子は孟子が墨子を批判している文章でしか知らないんですが。

(勉強が足りないなあ)自分の無知さ加減が嫌になってしまいます。

で、何でこの話を載せたのか、それは次回のお楽しみ。

 


日本の歴史は深い謎ばかり転換点は帝(みかど)のみひかり

2013年12月08日 | 日記

『逆説の日本史 第2巻』には、孝徳天皇が悲劇的な運命に見舞われたと書かれていた。

蘇我一族を滅ぼした後、中大兄皇子に傀儡として天皇に祭り上げられた。

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に都を構えた。

しかし、中大兄皇子(天智天皇) が近江大津宮へ遷都することを決めた時に孝徳天皇が反対したため、一人旧都に取り残された。皇后(中大兄皇子の妹、間人皇后)も新都へ移られた。

孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮 で侘びしく死んだ。

・・・無念だったろうね。

遠山美津夫先生は、大化の改新の影の主役は孝徳天皇だったとの見解を持たれている。

逆説と遠山先生の説を読み合わせれば、大化の改新後に 中大兄皇子がクーデターを起こして遷都したことになるのではないか。

真相はどうあれ、私は、孝徳天皇を偉い人だと思っている。

何故か?

日本書紀には孝徳天皇がなされたことが書かれているんだけれど、殉死の廃止、目安箱(のようなもの)の設置のことに関しては、何故このことが教科書に載っていないのか不思議でしょうがない。(本当の話かどうか疑わしいのだろうか)

殉死の廃止を提言していることから察すると、孝徳天皇の時代は朝廷では殉死が当然のこととして行われていたことになる。

では、殉死の代替えとして、埴輪が陵(みささぎ)に供えられることになったのではないか。

また、時代が下がると、貴族階級での殉死はなくなっている(孝徳天皇のお考えが浸透した)と思うのは、私の歴史認識が間違っているのだろうか。

目安箱(のようなもの)に関しては、下々の苦情をお聞きになるという態度はすばらしいと思った。都へ役務の提供のために派遣された人から「約束の期限が来ても故郷へ帰してくれない。」という苦情に対して善処するよう回答なさっている。吉宗はこの事績を参照したんじゃあないかなと思う。

日本書紀で天皇の行政について詳しく記載しているのは、孝徳天皇の事績についてのみだ。(私は日本書紀を現代語訳でしか読んでいませんが・・・。)後は、聖徳太子。

後、仁徳天皇の民の竈はにぎはいにけりがある程度ですよね。

日本書紀が天武天皇政権の正統性を謳い上げた書物だとすれば、天武朝は、聖徳太子、孝徳天皇の後継者だと自任しているように思える。

さあ、あなたはどう思いますか?

天帝の臣とし蝉の生まれいづ