播州赤穂駅から赤穂線で岡山まで行き、伯備線の新見行きに乗り換え備中高梁駅を目指します。
新見行きの電車です。
10時ぐらいに高梁駅に着き、10時50分の吹屋行きのバス(備北バス)に乗り込みました。
のんびりとバスに揺られながら約1時間で吹屋に着きました。
前に一度来たことがあるのですが、ぜひ再び来たかったところです。
黄色の線に沿って歩きます。
正面の向こうの方に見えるのが「藤森食堂」。昭和40年ごろまで郵便局舎でした。昭和56年に改修して食堂となったそうです。
右側手前に見えるのが「べんがら屋」明治初期の建築だそうです。元来は米問屋でありました。現在は、おみやげ屋となっています。
藤森食堂の前を通って、先の方へ進みました。
旧吹屋町役場です。明治中期頃の建築です。
「山神社」です。吹屋の銅山経営者らが銅山の守護神として勧請したものだそうです。
吹屋は銅山で発展し、ベンガラで栄えた町です。中世末期以降、銅の産出で知られ、江戸時代に吉岡銅山と呼ばれました。明治末から大正にかけては、日本三大銅山にもなりました。
神社からもと来た道を戻ります。
小川家です。江戸末期の建築です。もとは油屋であったそうです。
もと来た道を戻り、最初のバスを降りたところあたりまで来ました。
「旧片山家住宅」です。1759年の創業以来、200年余りに渡って、ベンガラの製造販売を行ってきた老舗の家です。「近世ベンガラ商家の典型」として、中も見学できるそうです。
地図の黄色の線に沿ってゆっくり歩きます。見る建物がすべて素晴らしいです。全体が打ち合わせたような統一感があります。
手前に見えるのが「長尾家(本長尾)」。長尾の総本家で、ベンガラの窯元のうちの一軒です。江戸時代は、鉄、油等の問屋で、酒造業も営んでいたそうです。1700年代末頃の建築で、現在の建物は、幕末から明治、大正頃の増改築したものです。入り口中央の柱に、牛馬をつなぐ金具があります。
すぐ隣の遠いほうが「長尾醤油、酒店(新長尾)」です。江戸末期の建築。1826年に酒、醤油を作り始め、戦後からは、醤油のみを作って、現在も伝統的な製法を守り醸造販売が続けられているとのこと。
「中山家」です。ベンガラ窯元の一軒。明治、大正の頃は、醤油屋をしていたそうです。
2階壁面にある七宝模様のなまこ壁が印象的です。
土台には牛馬をつなぐ金具が付いていました。
「吹屋郵便局」です。1993年に建築されました。それ以前にあった民家に出来るだけ近い姿に復元したものです。
「麻田家」。屋号を伊予屋といい、旅館業を営んでいました。明治中期頃の建築です。
吹屋は、江戸時代中期からは、ベンガラ生産も新たな産業としておこり、銅山とともにこの地域の産業として、隆盛を極め、1965年頃まで、有数のベンガラ特産地として繁栄しました。
先へ歩きました。見るもの全てが素晴らしく楽しい気分です。
この辺りの風景。
いちばん東の端まで来た時の風景です。ここから、戻って行きます。
「松浦本家(旧日向家)」。江戸末期の建築。
「那須家(旧水野旅館)」。江戸末期の建築。
道を西の方へ戻っていると、「大黒屋(黄金荘)」が現れました。
江戸末期のベンガラ仲間の1人であった「大黒屋」がつくったものです。
「高梁市成羽地域局吹屋連絡所」です。地区にマッチした建物です。
少し高いところから、吹屋の町を見た風景です。
前に来た時に、「旧吹屋小学校」のステキな風景に出会ったので、そこへ行ってみました。
残念ながら、修復工事の最中でした。
その先の「ラフォーレ吹屋」にも行きました。
そろそろ、バスの時刻が迫ってきたので、バスを降りたところに戻ることにしました。
しばらく歩いて、バス停に着きました。
ご婦人二人が、のんびり世間話しをしているところに、仲間入りしました。
「高梁バスセンターに戻るバスはここから出るのですか。」 「大丈夫ですよ。ここからです。」
「向こうの方から来ます。」
「小学校が修復の工事中で残念でした。」「すいません。申し訳ないですね。」
このご婦人らと、世間話しをしていると、別の観光客の夫婦づれも加わって、楽しい話になりました。
そのうちに、バスが来て、楽しい吹屋観光も終わりになりました。
次のブログは「高梁城下町」を散策します。
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和三郎
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