黄色の線に沿って散策します。
高梁市役所です。
鎌倉時代の秋庭三郎重信によって延応二年(1240年)に市街地の北方、臥牛山の山頂へ砦が築かれて以来、明治維新まで、城下町として栄えてきました。
ゆっくり歩きます。落ち着いた雰囲気の、綺麗な街です。しばらく行くと、公園内に、「郷土資料館」がありました。
旧高梁尋常小学校の本館で、明治37年の建築です。非常に多くの民具を展示しています。
右手前の像は、幕末、備中松山藩の藩政を改革し、財政を立て直し、教育に尽くした「山田方谷」です。この地の聖人として尊敬を受けています。
この公園で、昼食をとりました。岡山駅で祭り寿司の駅弁を購入していました。
ここから、黄色の線に沿って散策を再開しました。「安正寺」に出会いました。備中松山城主板倉公の菩提寺であります。
安正寺の前の通りを北へ少し行ったところの風景です。
いちばん手前の右側の建物が「海軍中将 杉正人」誕生の地です。
「順正女学校」発祥の地です。
さらに、北へ進んで行くと、紺屋川の通りにぶつかりました。
紺屋川は、松山城の外堀として使われました。この通りは、桜と柳の並木道が続き、「日本の道100選」にも選ばれています。
県下で、最も古い高梁キリスト教会堂や、藩校の「有終館跡」等があり、情緒豊かな町並みが感ぜられました。
この通りを東に歩くと、伯備線を渡る踏切があります。そこの風景です。
その踏切を渡って、すぐ右手の「龍徳院」に行きました。
この寺を含めてこの地の多くの寺が、東側の山麓に連なるように配置されました。軍事的防衛に意味があったのでしょう。
紺屋川をなんとなしに眺めていると、水鳥を見つけました。
次の瞬間、偶然にも、次の写真が撮れました。
逆立ちして餌を取っていました。カモの一種だと思うのですが?。
少し東へ行くと「順正寮跡」があります。
明治29年の建築。洋風の匂いがします。和風の匂いも。「福西志計子」がつくった県下の最初の女学校である「順正女学校」の校舎であり、寄宿舎だそうです。
裏にまわってみました。
ここから、引き返して、黄色の線に沿って「頼久寺」を目指しました。
一見して、城郭を想像します。ここを上がっていき、寺の中に進みました。
建物の中を見学しました。
松山城主「上野頼久公」の名前をとって頼久寺と名づけられました。
慶長5年(1600年)と言えば、関ヶ原の合戦が済んだ時です。小堀新助正次が、備中国に一万石余りを領しましたが、4年後に逝去したので、子の小堀遠州が遺領を継ぎました。
その頃の松山城は備中兵乱後で、荒廃していたため、遠州は頼久寺を仮の館としました。ここの庭は遠州の作庭になります。
遠くに見える石灯籠もいわくのあるものらしいです。
中央に見える石組みが、「鶴島」です。
わかりにくいですが、「亀島」です。
庭を充分に堪能して寺を後にしました。寺の前の通りを北へ歩いて行くと、突き当たりにアニメに出てくる風景がありました。アニメ「バッテリー」です。
ここから先は、次のブログで書きます。
コメント一覧
traveler51
mamekichi
最新の画像もっと見る
最近の「旅行」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事