伊那市美篶芦沢の道祖神
すでにここに記したことのある道祖神、伊那市美篶芦沢の子安神社へ通じる道路の途中にあるもの。そこにこう記している。
真ん中に「道祖神」と彫られた石碑が祀られ、両脇に自然石を従えている。『長野県上伊那誌民俗篇』(昭和55年 上伊那誌刊行会)にある道祖神一覧には、芦沢の道祖神としては1箇所文字碑として記載がある。ただし注記として「奇石二個七戸で建立の由」とある。いっぽう『伊那市石造文化財』(昭和57年 伊那市文化財審議委員会編)には芦沢の道祖神として2箇所記載があり、1箇所は子安神社で形態欄に「奇石群」と記載されている。「群」と記載されるもいくつあるかの記載はない。もう1箇所は「子安神社参道西口坂」とあり、形態欄には「自然石」、「中称」欄に「奇石道祖神群」と記載されている。こちらは「現在三個残っているのみ」とあり、この記載から読み取れば、かつてはもっとあったようにもうかがえる。
そして、真ん中の「道祖神」について後から刻んだのではないか、と想像しており、「宿題」にしていた。学会でグループ発表する際のテーマが自然石道祖神であったこともあり、先ごろあらためて確認してみた。この道祖神の祀られている場所が木戸口になっていて、北へ坂を上ると家があり、その家の方と以前話をしたことがあり、「この道祖神は河原からみんなで運んできたもの」と聞いていた。その方に再度話を聞こうと思って訪れたが、体調を崩されていて聞くことはできなかった。ということで、周囲の家を何軒か歩いて聞いてみた。すると、現在でも「道祖神講」というものが行われていて、かつては2月8日に行われていたという話を聞いた。そして当番に回す箱があると聞き、さらにその中に年寄りから聞いた「謂われ」が入っていると聞き、その箱のありかを探した。来年の当番のところに渡されていると聞き、その当番さんを訪ねて、「謂われ」を見せていただいた。
その謂われには「道祖神について」と記されている。まとめられたのは7軒の講仲間のおひとりで、「父が書き残したものをワープロでまとめたもの」という。道祖神がここに祀られていることについて書かれた部分を引用すると、次のようである。
私たちの信仰している道祖神については、現在の参宮線の入り口を少し入った大上(おうえ)の木戸との交差点にあります。参宮線も昔は細い路であったので、道祖神周辺は広場になっており奇石が数多く建てられて芦沢中の道祖神場となっていた。明治の末期になり、区内に点在する各神社は法令により一か所に集められることになった。各神社は子安社境内へ移され、その時に道祖神も全部が境内の庭に移転した。子安社の舞台の庭の南端、子安社に向かって左側大きな栂の木の元に並んで、私が覚えている数でも二〇個位の石が建てられていたが、石ブームのあった時代に心無き人に持ち去られ、数少なくなってしまったことは残念なことです。
大上に孫半さんと言う方が居り、この方が木戸を上り降りする度に、今まであった道祖神が無いこを心淋しく思い、近所の方たちと相談し小さいが形か変わった石神を建て、二月八日に寄り合ってお祭りをしたということです。
孫平さんは信仰心が厚く又、区の役も多くやられていたので村中を歩く機会が多くあり、良い形をした石がNさんの庭あるのを見て、通る度にこの石を譲ってもらって道祖神にしたらと考えており、Nさん(チョンマゲ爺さんと呼ばれていた)に話をしました。Nさんも信仰心の深い人であったことから、良く承知し仲間に加わりました。
この石についてはNさんが水出の折り、河原で田普請をしていた時風変わりな石が出たので河原の端から河原の坂下まで手間隙かけて独力で転がして運び、そこから家までは身内の若い者に選ばせて来たとのことです。
三峰川の河原ではなく、田んぼの中から拾い出したもののよう。とはいえ、三峰川はかつてたびたび氾濫したことから、田んぼの中といっても、元は河原だったのだろう。先日触れた子安神社の道祖神は、そもそもこうした謂れでまとめられたものだった。そのうえで、かつてはもっとたくさんあったのに、現在はずいぶん減ってしまったという。いずれにしても、かつては自然石がたくさん、子安社へ上る道の途中に祀られていたという証言になる。いずれにしても、この道祖神が祀られることになるまでは、Nさんは講仲間ではなかった。石を道祖神として譲り、仲間に入ったということだ。その石を拾ってきたという方の息子さんが書き記したものを、そのまた息子さんがまとめたもの、ということになる。
続く