Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盃状穴の背景

2025-03-02 23:59:59 | 民俗学

 本日記では盃状穴について何度となく記してきた。とりわけ盃状穴再びにおいて、ウェブ上に掲載されている盃状穴の取り扱いについてもまとめてある。Wikipediaでの扱い方も紹介したが、現在もなお「謎」として取り上げられている印象だ。加藤幸一氏は、越谷市郷土研究会のページ石造物にみられる謎の「盃状穴」を掲載しており、その中で次のように報告している。

 この「盃状穴」の信仰は、江戸時代には盛んであったようであるが、明治以降の石造物には盃状穴があまり見られないことから、明治以降になると何故か衰退したと推定されている。この信仰に関してはまだ解明されておらず謎の習俗としてとらえられているようである。埼玉県の東京に近い蕨市では、蕨市史調査報告書第八集「蕨の石造物」(平成4年刊)によると「凹の残されている石造物はすべて江戸時代のものであり、(調査の時点で)明治以降のものは一基も見えないことから、明治以降この風習は廃れてしまったため、このような風習があったということが伝わらなかったのであろう。」としている。全く同感である。 
 昔は「盃状穴」という名称はなかった。単に「穴」と呼ばれていたようだ。この「穴」は、子供たちのままごと遊びに利用され、特に、ヨモギなどの草を穴に入れ、棒で搗いてすりつぶして遊んでいたという。 

 としながらも文中では「結局は「盃状穴」がどうしてできたのか、本来の盃状穴の習俗については、今となってはよくわかっていないのが現状である」と述べており、やはり「謎」という印象を与える。しかし、「女児が数人でままごと遊びに凹み穴へドングリを盛ったり、草の葉を叩き擦ったりもしていました」と言う例も紹介しており、こうした伝承が少なからず存在することには触れている。ようは伝承からたどれば、信仰の対象ではなく、子どもたちの遊びの中で語られていたものと推察可能だと思うのだが、それらは江戸期の石造物に見られるもので、近現代では忘れられてしまったものという捉え方もされている。

 さて、盃状穴再びで触れた通り、伊那谷南部では「石屋さこまんば」にみられるように子どもたちの遊びによって造られた「穴」だと触れた。先日飯田市誌のアンケートを紐解いていて、当時の調査報告書にもわたしが「石屋さこまんば」について記していたことに気がついた。飯田市誌編纂委員会民俗部会が2001年に発行した『山本久米の民俗』の中に次のように報告した。

 家の周りでの遊び 石屋さ駒場は、石の窪みをよもぎでつついた遊びをいう。「石屋さ駒場穴掘って通れ」という歌もあり、こうして長年突かれた石には、窪みがいくつもできて残っている。どういう意味かわからずに遊んでいたという。つつく際には主にヨモギを使った。子どもたちが家に集まって男も女も混じってやったもので、よそにそういう石はそれほどなかった。

というもの。これは飯田市久米北平の昭和3年生まれの男性に聞いた話をまとめたもので、その男性に書いていただいた「子どものころ遊んだ場所」の図には、家の庭に「石屋さこまば」と記入されている。そして実際に家の庭にある石に盃状穴があることも確認している。

 

飯田市久米北平の個人の庭にあった盃状穴(2001年2月17日撮影)

 

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かつて飯田市誌編纂で行われた民俗に関するアンケート

2025-02-28 21:00:00 | 民俗学

「多様な民俗地図への試み」より

 飯田市では、かつて飯田市誌編纂の取り組みがされていた(「中央と地方」参照)。その中で民俗部会はアンケート調査を行ったが、編さん事業が中止されたため、それらは死蔵されることになった。おそらくこれまでも、これからも当時のアンケートが利用されることはないだろう。ちなみにアンケートが実施されたのは平成12年ころのこと。内容が重いアンケートだったが、市内全域から141名の方に協力いただいた(平成12年であるからその後の合併村は含んでいない)。生年月日を見ると明治35年生まれの方が数名おられ、明治時代に生まれた方が15名もおられた。貴重なデータではあるものの、前述したように死蔵されているもの。このアンケートの利用に関しては、その後発足した歴史研究所を通して了解いただいているが、もう10数年以上前のことだから認識されているかどうかは不明である。そもそもこの大量のアンケートについて、協力していただいた方たちに還元できていないことは失礼な話なのだが、繰り返すが編纂事業が中止されたから仕方ないことなのだろう。中止されるまでに使われた費用は無駄となったわけであるから。

 

 

 さて、141名の方たちには同じ地域の方たちもいてそのまま地区数とはならない。アンケートをまとめられたのは当時の編さん室であるが、その際に地区名を付している。その地区数は92箇所あった。それら調査地区を図に落としたものが今回示したものである。旧飯田市の形状は左上から右下へ帯状になっているうえに、左端と右端は山間部のため集落がほぼない。外れた位置にある大平は廃村になっている地区でこれを外すと市域の真ん中あたりにしか集落がない印象を受けるだろう。それらがわかるように、今回は農振地域と用途区域を着色して示した。地区名が確認できる大きさで表示したため、すべての地区名が表示てきていないのは勘弁いただきたい。市街地のいわゆる丘の上といわれる地域は、比較的近いところに調査地点があるため、地区名を表示できなかった。

 こうしてみてみると調査地点にやや偏りがあるように思える。薄く大正9年の行政区域を示したが、旧山本村には「久米」の1箇所しかない。旧三穂村にも「伊豆木」と「立石」の2箇所しかなく、南部が粗い印象を受ける。これらの地点で行われたアンケート結果から民俗地図を作成したものを次回から紹介してみる。なお、実はこれらアンケートを利用したものを既に本日記ではいくつか記している。

年明けの墓参
2月8日の行事を飯田市にみる

続く

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多様な民俗地図への試み

2025-02-27 23:11:53 | 民俗学

 安室知氏は、民俗地図に関連した記事を各誌に掲載している(長野県民俗地図研究会が日本民俗学会年会でグループ発表したは「日本民俗学会第七六回年会に参加して」『長野県民俗の会通信』305号へ、また「方法としての民俗分布論―民俗地図の可能性―」『長野県民俗の会会報』47など、ほかに第36回 現在学研究会 リモート研究会において「方法としての民俗地図、ver.2」2025年1月28日など)。それらで安室氏はこれまでは「小縮尺の議論が中心であった」と言い、「そうした小縮尺の民俗分布論は、特定の事象しか取り上げられないこと、圧倒的にデータ数が不足すること、用いられるデータの出所が不分明であること、データが質的に不均衡であること、民俗誌データと大きく乖離することなど問題が多い」と指摘している。そして「県・地方といった中縮尺の民俗分布論が必要である」と述べて、中縮尺の民俗地図を勧めている。

 地図には大・中・小の縮尺が知られる。一般的には

大縮尺 5千分の1より大きい縮尺の地図
中縮尺 1万分の1から10万分の1程度の縮尺の地図
小縮尺 20万分の1より小さい縮尺の地図

と言われている。ようは縮尺の分母が大きいほど小縮尺と言われ、小さいほど大縮尺ということになり、大小のイメージが逆転するためわかりづらいことは確かである。実際のところ長野県民俗地図研究会が作成した地図はA4版で長野県図を出力しており、縮尺は100万分の1程度である。利用する際にはさらに小さくしているため、実際の縮尺は200万分の1とか500万分の1といったところが実際だ。したがって縮尺レベルでいけば小縮尺なのかもしれないが、安室氏が述べているのはそういうことではない。ようは日本地図であれば広域表示であるから小縮尺であり、県図であれば限定された地域を表しているから中縮尺、もっと狭い範囲を示そうとすれば大縮尺であるという意味である。ようは日本地図で表したような民俗地図は、前述の「小縮尺の議論が中心であった」に当るわけである。

 さて、民俗地図研究会では長野県図の地図を作成してきたわけであるが、いっぽうで「それは長野県という限定範囲のこと」という指摘もある。したがって周辺県を含めた地図も今後は課題となってくるし、会員の中にはそうしたところに目を向けようという意識もある。多様な展開は予想されたことであるし、当初の県史データだけにとどまらない地図も今後は展開されることになるのだろうが、応用していくにはさらなる地図作成が容易なものであるという意識が広がらないと難しい。そういう意味で、ここでは盛んに地図を垂れ流しているわけであるが、「多様」な展開は今後も検討していきたいと考えている。

 そうした中で以前上伊那郡内を示した地図も示してきたわけであるが、ここでは市域という範囲を示した地図を事例として展開していこうとも考えている。もちろん大縮尺化することは地域性を捉えられない可能性が高いが。それらをもう少し広いエリア、例えば郡とか県といったところへ反映することでデータが多くなり、地域性の検証にもたどり着くのだろう。

続く

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〝厄年〟その5

2025-02-24 23:00:00 | 民俗学

〝厄年〟その4より

 〝厄年〟その2において男性の大厄について触れたが、女性の大厄についても触れてみたい。男性の場合42歳を大厄としているところは全県にまんべんなくあり、25歳を大厄としているところがやはり全県に点々とあった。ようは地域性というものは見られなかったわけだが、女性の大厄についてここに図を示してみた。見ての通り、女性についてはここ数回で触れてきているように、「37歳」大厄という箇所が下伊那に集中している。ようは男性の25歳と42歳のようにほぼ全県に当り前に厄年として認識されているのとは異なり、女性の場合は「33歳」厄年地帯と「37歳」厄年地帯が明確に分かれているためにこうした地域性が現れる。もうひとつ特徴的なことは、男性の場合の主たる厄年25歳と42歳の場合の大厄「25歳」は19箇所しかなかったが、女性の場合の主たる厄年19歳と33歳における大厄「19歳」は72箇所もあり、女性の大厄は男性の42歳ほど「どこでも」というわけではないことが解る。図を見ても「19歳」大厄は全県に例が見られる。あえて言えば奥信濃といった北部県境地方には「19歳」大厄というところはほとんど無いようだ。以前にも触れたが、「37歳」大厄が長野市と信濃町に点在しているのは意外なことである。

 

 さて、あきらかに「37歳」厄年に地域性が現れたわけだが、この女性大厄と男性大厄を比較してみようと、両者を同じ図に載せてみた。女性大厄の記号をそのままに、男性大厄の記号を明確にしようと違う系統の記号に変更してみた。とくに気がつく点は2点。1点は女性「33歳」と男性「42歳」はほぼ同じ箇所に整合するということ。裏を返せば男性「42歳」があまりにも一般的だからということになるだろう。もう1点は事例数は3箇所しかないが、男性「25歳、42歳」とふたつの歳を回答した地点では、女性も「19歳と33歳」とふたつの歳を大厄として捉えているいる。回答者に大厄は二つあるという認識があるようにもうかがえ、これらは地域と言うよりは回答者の認識に影響しているようにもうかがえる。

続く

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〝厄年〟その4

2025-02-21 23:27:32 | 民俗学

〝厄年〟その3より

 〝厄年〟その2において男性の厄年について、25、42歳をセットで厄年としている箇所で、加えて25、42歳以外の厄年だけをあえて図化したものを示した。同様に女性の場合も19、33歳をセットで厄年と答えている箇所は255箇所あり、さらに19、33歳に加えてほかの年齢を厄年と答えた箇所が65箇所あった。したがって合わせると320箇所にのぼり、全体の75パーセントにのぼる。またセットではなく年齢だけで割合を見てみると、意外にも最も多いのは19歳の359箇所であり、次いで33歳の337箇所、次いで32箇所を数えた37歳である。ほかに2歳が26箇所、7歳が20箇所などである。ここに男性同様に、19歳と33歳に加えてほかに何歳を厄年と答えたかという図を示してみた。奥信濃に13歳が顕著に見られ、61歳ほかというところが北信域に、同様に北信域に3歳というところも見られるが、上伊那にも数例見られる。また、男性の際に顕著であった2歳が同じように諏訪地域あたりに見られ、男性の図で示した2歳エリアの線を載せてみた。

 

 加えて問題となるのは「37歳」エリアであるが、「37歳ほか」という箇所が4箇所だけ見られる。伊那市から宮田村あたりに2箇所、長野市と信濃町に2箇所見られる。意外に37歳が目立たないのは、19歳と33歳をセットに厄年としている箇所に絞って「ほかの厄年」を図に示したからだ。そこでもうひとつ、33歳は厄年ではなく、19歳は厄年と答えている箇所に絞ってそれ以外の厄年を図化したものが2枚目の「19歳以外の厄年」の図である。すると「37歳」、「37歳ほか」という箇所が下伊那に集中していることがわかる。それと32歳ほかと答えた箇所が県中央部辺りに点々としている。

 

 ここで両者の図を同じ図に示したものが3枚目の図である。当り前に厄年として捉えられている19歳と33歳以外の厄年については地域性がはっきりしていることが図から読み取ることができる。

 

続く

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甲斐市寺平道祖神祭り 後編

2025-02-16 22:14:16 | 民俗学

甲斐市寺平道祖神祭り 前編より

 寺平は現在40戸ほどという。昔は倍近くあったというが、高齢化によって住まなくなった家があったりして減ってきた。子どもが生まれたり、あるいは祝い事があったりすると、依頼があってこの日「練り込み」ということをするのだというが、今年はない。練り込みをするとその家でお客になってくるようで、昔はそういう家が何軒もあって遅くなったという。練り込みは厄を払うという意図もあるという。

 

区長の音頭で道祖神へお参りする

 

習字を燃やす

 

繭玉を供える

 

道祖神の前に立て掛けられたご神体(竹筒)

 

道祖神に供えられた繭玉

 

 午後7時になると、区長の挨拶で祭りが始まる。道祖神に参拝しお神酒をいただく。隣では火が焚かれ、習字を盛んに燃やす子どもたちや、縁起物のヤナギなどを火の中に入れる。最初はいつもより人出が少ないという声も聞こえていたが、徐々に人は集まり、女性や子どもたちの手には繭玉があり、火の近くでそれらを焼く人も増える。繭玉は道祖神にお参りするといったん道祖神に供えられ、最後にはまた持ち帰られる。

 さて、道祖神の祭日であるが、山梨県では小正月にこうした道祖神の祭りを行うところが多い。獅子舞もそうだ。こんななか、こと八日ごろに行う寺平を知ったわけであるが、本来は2月13日、14日に行われたという。休日に祭日を合せるようになって、2月13日ころの土日が当てられるようになったようだ。ようは月遅れの小正月ということなのである。ぼんぼりに付けられた灯籠の四方には「正一位道祖大神」「無病息災」「五穀豊穣」「交通安全」が書かれている。祭りの主旨ということになるだろう。ぼんぼりの頂に付けられたヤナギは、数にして12本ほどだろうか。祭りの終わりにヤナギは欲しい人が競うのだという。縁起物になるわけだが、家へ持ち帰ると玄関先やそれぞれの家でここはと思うところに飾るようだ。

 翌日は「村まわり」を午前9時から行うという。村まわりにはもちろん獅子が回って行くわけだが、昔は門舞いといって入口で舞をしたというものの、今は各戸で獅子舞は行わない。今は頭を持って行って「ぱくぱく」とやるだけだという。そしてお賽銭をいただき、「正一位道祖大神」のお札を配る。村まわりの際に長潭橋と東の荒川端へ行って獅子を舞うというが、その時の雰囲気でやらないこともあるという。

 寺平の獅子舞は甲府市の塚原から教わったものといわれているが、塚原から嫁に来られた方がいて、そのご主人が90年ほど前に途絶えていた獅子舞に塚原のものを取り入れて始めたよう。それ以前にも獅子舞があったというが、現在のものは塚原から伝わったもののよう。ただそれも全部ではなく一部だと言い、寺平スタイルにして舞われているようだ。現在舞われる獅子舞は3段階に分かれている。まず最初は二人が幌の中に入り、ひとりは獅子頭、もう一人は幌の端を平行にして高く持ち上げている。頭は手を前にしてやはり幌を平行にしてゆっくりと左右に舞う。二つ目の舞では、頭の独り立ちとなり、幌をコンパクトにぐるぐると巻いて身体に縛る。そして最初は御幣と鈴を右手に持って舞い始め、途中で鈴は左手に持ち変える。三つめはいわゆる蚤取りである。再び後方が幌の中に入り、幌後部を高く持ち上げて舞う。頭は小刻みに激しく動き、身体の蚤を取るような所作をする。

 道祖神の前で舞うと村入口へ向かい、コンクリート吹き付けされたところに梯子が常備されていて、そこを登って洞になっているところに竹のご神体を納める。道祖神が分祀されているというが、昼間確認することはできなかった。街灯のないところで、真っ暗な中、ここで獅子舞が奉納される。終わると再び道祖神のところに戻って獅子舞を舞って、この日の祭りを終える。

 

道祖神前での獅子舞

 

村入口の高いところにご神体が納められる

 

村入口での獅子舞

 

宵祭り最後の舞(最初と違って観衆はいない)

 

寺平の獅子舞については、過去(7,8年前のもの)の動画が配信されているので、参考に添付した。

寺平 獅子舞

 

寺平獅子舞

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甲斐市寺平道祖神祭り 前編

2025-02-15 23:07:59 | 民俗学

 何十年ぶりに山梨県内の道祖神祭りを訪れた。なぜこの日道祖神祭りを訪れることになったのか、最初の発端がどうも記憶にない。たまたまネット検索していた際にこと八日ごろに行われる道祖神祭りがヒットし、それが「寺平地区道祖神祭り」だった。見れば記事を掲載しているのは甲斐市役所の秘書課広聴広報係で、「この記事に関するお問い合わせ先」があったので問い合せしてみた。さすがにこうした記事を見て問い合わせてくる人は実際にはそれほどないのだろう、担当の方も戸惑われていた。しかし、今年の実施日について聞くと地元に問い合わせをしていただき返事をいただいた。1月の末だった。すると2月1日に地元で打合せがあってそこで決まるということで、あらためて確認し連絡いただけるということになった。翌週連絡をいただき、今日がその祭日だと教えていただいた(親切に対応していただいた秘書課広聴広報係の方には感謝します)。今日地元でうかがって知ったことだが、毎年2月1日を「初寄合」といって道祖神祭りの準備をする最初の日なのだという。そこで祭日を正式に決定し、その日から道祖神祭りの当日まで準備をするのだという。獅子舞の練習やボンボリのヤナギを作ったり、お札を刷ったりするようだ。

村入口に張られた注連縄

 

寺平道祖神

 

集落東の荒川沿いに張られた注連

 

区長、ご神体、ボンボリと続く

ボンボリ(トウローという人もあった)

 

 祭りは午後7時から始まるということで、昼間の様子をうかがいたいと、暗くなる前に地区内の様子をうかがった。甲府市内から荒川を渡ると中島という集落があって、甲斐市に入る。甲斐市といってもいまひとつわかりづらいのだが、旧敷島町である。昇仙峡へ向かう道沿いにある地域で、よそから見れば甲府市のように思うのだが、ここは甲斐市である。その中島から少し上ると荒川沿いの尾根を過ぎて寺平に入る。その入口に注連縄が張られていてここが境界域なのだと察知する。ネットで検索してみると翌日の村まわりでは東西の入口で獅子舞をするとあったので、東にもこうした注連が張られていると思い、集落内の細い道を進むと、荒川沿いの巨石のところにも張られていた。これがその村境なのだと思っていたら、あとで聞くと、県道をさらに昇仙峡の方に進んだ長潭橋にもこの注連は張られているという。獅子舞の終わったあとに行ってみると、確かに橋の手前に注連が張られていた。以上3か所が村境と認識されている場所のよう。

 ここの道祖神は山梨県らしい丸石道祖神である。古い立派な台石の上に置かれているが周囲にもたくさん丸石が祀られている。主神は中央のものなのだろうが、周囲の丸石も道祖神として認識して良いかと聞いてみると、はっきりはしない。もともとここの道祖神はもう少し東側の辻にあったものという。ここに移されてまだそれほど経っていないというが、元の場所にあった時は丸石が盛り上げられるように置かれていたという。そして台石にある盃状穴に丸石が置かれていたともいう。昔の姿がわからないので何とも言えないが、盃状穴についてもこれまで道祖神に関連して触れてきているのでその成り立ちが気になるところ。

 さて午後7時前に宿である公民館からやってくる。先頭は区長さんである。区長さんについてどなたかが「この2日間は神様」と口にされていた。区長さんに次いで太い竹の筒を持った方がやってくるが、この筒は道祖神に奉納される。名前はないかと聞いたが長老でも知らなかった。ご神体という意図であるよう。この日はこの竹の筒は2本道祖神の前に供えられたが、昔は3本あったという。もう1本は子どもたちが「お祝い申せ」といって竹に綱を繋いでみんなで地面に仰いで叩いて割ったという。「割れるほど良い」とされてやったらしいが、今は子どもたちがいないためやらなくなったよう。なお、2本供えられた竹のうち1本は、ムラの入口の注連を張ったところに持って行って納めるという。次いでボンボリがやってくる。ボンボリは県道端のガードパイプの支柱に括られて立てられる。寺平の祭りを見てみたいと思ったきっかけは、このボンボリだった。それはヤナギとその下の灯籠の形が、辰野町鞍掛のデーモンジなどに似ていたからである。実物を確認してみたいということでこの日足を運んだわけである。

続く

 余談であるが、寺平まで我が家から120キロちょっと。遠いと言えば遠いが長野市へ行くことを思えばずっと近い。本日記の初期に長野より近い県庁に触れたが、実は県庁なら長野より近いところに他県の県庁がひとつどころかいくつもある。長野県庁が北に寄っているという事実がこういうことになる。寺平から帰るのに一般道を利用した。コンビニに寄った時間を除くと時間にして2時間半。驚いたのは国道20号である。韮崎市から茅野市まで、距離にするとかなりあると思うのだが、この間ほぼ単独走行だった。最初は前に2台ほど走っていたが、信号待ちでそれらの車から離れると後ろから接近されてくる車が見えてきてもそのうちに信号で離れたりしてわたしの前後には車がいない。そこそこスピードは出していたのでそのうちに前の車にたどり着いたが、それらの車も登坂車線で1回(1台)、信号で左折して1回(1台)、3回目はわたしが国道152号へ分岐してさよならをしたためお別れという具合で、前後に車がいた時間はほんの10分くらいだっただろうか。それほど国道20号に車が走っていない。ちなみに対向車には数えきれないほど出会ったが。それも午後9時代である。こんなに国道20号から車が減ったとは驚きであった。

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〝厄年〟その3

2025-02-13 23:58:19 | 民俗学

〝厄年〟その2より

 竹入弘元氏は「厄落としの道祖神―上伊那郡の事例を中心に―」(『あしなか』157 昭和53年)において「厄年は全国的に、男は二十五歳・四十二歳。女は十九歳・三十三歳と言われているようです。伊那谷の場合、上伊那は同様で、更に二歳(三歳)・七歳・六十歳もそうだという所があります。下伊那では、女の三十三歳の代わりに三十七歳を厄年といっています。そしておもしろいことに上伊那南部の飯島町・中川村・駒ヶ根市辺は下伊那に隣接するため、三十三歳・三十七歳の混乱がみられ、両方とも厄年だという人も多くなっています」と述べている。竹入氏は度々このことについて触れていて、わたしにとっての「厄年」のイメージになっている。そして生家ではも女性は37歳が厄年と言っていた。ちなみに生家は以前から触れているように飯島町本郷である。

 「〝厄年〟その1」において『長野県史民俗編』第5巻総説Ⅰの記述を紹介したが、そこには女性の37歳のことは一言も触れられていない。そこでもう少し地域を限って捉えている。『長野県史民俗編』第2巻(一)から南信地方についての記述を見てみると次のように書かれている。

 厄年とはある特定の年齢は災いの多い年であるから、特に忌み慎しまなければならないとされた年齢のことである。南信では男一、二、三、七、一三、二五、四一、四二、六〇、六一歳、女一、二、三、七、一三、一八、一九、二九、三三、三七、三八、四二、六一歳が厄年とされ、幼児の一歳から六一歳にまでわたってみられる。一般に男二五、四二歳、女一九、三三歳を厄年と考えている所は多いが、下伊那地方では女三七歳を厄年ときめている所が目立っている。

 ここでは下伊那地方では女性37歳を厄年としている所が目立っていると述べているが、竹入氏ほど特徴あるものという捉え方はされていない。「〝厄年〟その1」で触れた米山梓氏が年齢に注目しなかった背景にも、利用しているデータが県史であるところから察すると、県史に見る厄年への捉え方が影響したのかもしれない(想像に過ぎないが)。繰り返すがわたしは生家で「37歳」という数字を耳にしていたため、竹入氏の記述が記憶に留まったわけである。ここに男性と同様に女性の厄年年齢について地図化したものを提示し、さらにここで触れた女性の厄年33歳と37歳の分布域がわかるように地図化したものも取り上げた。

 

 

 

 女性も男性同様にふたつの年齢に集中する。それが19歳と33歳であり、男性同様に凡例上は7種に分類される。男性以上に地域性が見られるが、とくに33歳を厄年とせずに19歳とほかの年齢という記号が下伊那あたりに目立っているだろう。これはそのまま2枚目の図の37歳と重なるわけである。ようは1枚目でいう19歳のほか、という部分の「ほか」に37歳が入るわけである。繰り返すが33歳を厄年としていない地域として下伊那があげられるわけである。これは男性にはなかった分布である。また、19歳のみ、あるいは33歳のみという分布は松本―佐久ラインより北側に多く見られる。2枚目の33歳か37歳かという図では明確に上伊那南部あたりから33歳と37歳が登場し、下伊那では37歳が多くなる。竹入氏が触れた通りの分布域がここに表れているといって良いだろう。ただし、北信あたりにも37歳という例が点々と見られるのは意外であった。

続く

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〝野荒し柱〟

2025-02-12 23:30:07 | 民俗学

 『あしなか』157号(昭和53年)の巻末「たより」に田中義広氏が同155号に掲載された横山篤美氏の「野荒し柱の立つ村」について「「野荒し柱の立つ村」には大変感銘をうけました。手入れをしたら『遠野物語』より面白い「安曇物語」が生まれるとさえ思いました」と記している。『あしなか』155号はまるごと同名の記事で横山篤美氏が書かれている。なぜこれが掲載されたかについて表紙裏に解説されていて、もともとは信濃毎日新聞の土曜夕刊に掲載された『山と木と人と』というタイトルの第2部として昭和52年5月14日から8月13日まで13回にわたって掲載されたものという。切り抜き記事が事務局に送られてきて、転載することを了解得たという。いわゆる民俗誌であり、対象地域は横山氏の住まわれていた近くの「稲核」だった。副題に「長野県南安曇郡稲核」と記されている。

 さて、「野荒し柱」という聞きなれない単語が気になるところ。過去の『あしなか』を取り出してきて、当時あまり読んでいなかったことに気がつく。稲核では

 明治二年陰暦八月四日、村中が法界寺に集まって「極難者調べ、並に野荒し過躰改め」をしている。この年は四年前の寅年の凶作に並ぶ不作年になることが見込まれ、松本藩庁ではすでに極雑者、つまり飢え寸前の者の調査を村々に命じていた。そこで、不順を天候を案じる村人が集まって、村内銘々の生活実態の調査と、畑作盗難への警戒を申し合わせたのである。

村に残っているその際の議事録を載せていて、

一、野荒し致し候者は見附け次第、野荒柱にくくり附け三日さらし、その上その者の家へ村中集り喰うべし、その上六八籾は申すに及ばず、すべて御拝借物決して貸付け申すまじく候
 さてまた役場表へ目安箱掛けおき、なりずもく(果樹)等に至って盗取り候を見当り候はば、見のがしなくきっと目安箱へ入れ申すベく候(後略)

とある。野荒し者とは他人の畑の作物を盗み取る者のことを言う。そしてこれはその時限りのものではなく、昔から野荒し柱があったことは、古文書に見られるという。「野荒し柱は常設のもので、村中に一本かまたは幾本もあったかは分からないが、そこに三日間縛りつけ晒し者にしておき、一方、村中の者がその盗人の家に集まって、あるだけの食物を食べてしまえというのである」と横山氏は書いている。その上で「三日間のくくり付け中はどんなふうに過ごしたか、家族や親類の者が密かに食物を運んだであろうか。それよりも、そのこと自体村定めであっても、果たして実際に行なわれたものだろうか。もしそのようなことをすればこれ程にするぞ、ということをお互いの胸にしみこませるための表示であったかも知れぬ」と、本当にそういうことが実施されたかどうか思案している。厳しい触れではあるが、「入れ札」のことも記している。

 稲核村の五人組頭前田長七の日記によると明治3年(1870)陰暦3月5日に、またも法界寺に村の総寄り合いがあったという。村持ちの栃沢山に小屋掛けして杣、木礁をしていた金之丞ら5人が、家に帰っていた3日間のうちに、小屋に置いた鋸、斧、やすり外諸道具を誰かに盗まれたという。その場所が他村から及ぶところではないことから、村の者の仕業に相違ない。そこで村中集まって〝入札″(いれふだ)で犯人を割り出そうとしたのである。こうした「入札」もよく行われた犯人割り出し法だったという。かつての村で暮らすことの厳しさがうかがわれるが、犯罪を犯した者を自らの掟で裁く。確かに物語になる話かもしれない。

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こと八日行事の今

2025-02-10 23:36:03 | 民俗学

里山辺追倉の道祖神(令和7年2月9日撮影)

 平成29年(2017)に「年々変わっていくコトヨウカ行事の状況を記した。その後どうなったのかと思い、こと八日の翌日、9日に松本市の入山辺近辺の様子をうかがってみた。あれから7年も経つことから、とくに気になったのは里山辺追倉(おっくら)でこと八日に行われる綱引きである。7年前にずいぶん簡略された綱の姿を見たわけであるが、そもそもそれすらなくなってしまっていないかという危惧だった。行ってみると7年前とほぼ同じ姿を見た。同姓5軒で行われていた綱引きも、3軒となって綱引きもしなくなったよう。したがって「綱」というよりは荒縄を2,3本をふたつ撚っただけのものだが、一応道祖神に巻き付けてある。

 

入山辺厩所の道祖神(左)平成23年 (右)令和7年

 7年前も確認してみた厩所の道祖神の様子もうかがってみた。平成26年(2014)の様子は「石仏に彩色するということ⑨」に示してあるのと、平成29年の様子は前述した通り。ここでは平成23年(2011)のものと今年の写真を並べてみた。見ての通り、餅を付けた痕跡は見えるが落ちてしまったのか道祖神の表面にはそれらしいものは付いていなかった。ちょうど通られた方に聞いてみると、今も餅を塗りつける方はおられるというし、少なくなったものの家の庭先で行うエブリダシを行う人もいるという。ちなみにビンボーガミの祭りはこと八日である昨日行われたという。川端には燃やしたと思われる黒くなった灰が残されていた。

 

入山辺原の道祖神(上)平成23年 (下)令和7年

道祖神前の道端に何かを燃やした痕跡があった(令和7年2月9日撮影)

 もう1箇所、厩所の手前の原の道祖神もうかがってみた。いずれも14年前とは様子が違うことははっきりわかる。時間の都合で入山辺では2箇所しか確認できなかった。参考に厩所より奥の大和合と小仏の平成23年に撮影したこと八日の道祖神の写真を取り上げてみる。14年前の入山辺の道祖神は、餅がたくさん塗り付けられたものが多かったということになる。なお入山辺のこと八日行事については、平成5年に記した「松本市入山辺のこと八日行事」を参照されたい。

 

大和合の道祖神(平成23年2月8日撮影)

小仏の道祖神(平成23年2月8日撮影)

 

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美篶芦沢の「道祖神講」へ

2025-02-09 23:23:05 | 民俗学

道祖神講(令和7年2月9日)

 

 伊那市美篶芦沢の道祖神講にうかがった。美篶芦沢の道祖神建立の背景で詳細を触れているが、実際の講がどのように行われているか見てみたかった。午後6時に講員の方たちが集まり講は始まる。講といっても懇親会が主たる中身である。

 集まった人たちは、各々床の間に掛けられた「道祖神」の掛軸にお参りする。掛軸の前にはお神酒と洗米、塩が供えられるが、お神酒と洗米については、当番の方が実際の道祖神に供えておき、講で披露される。お神酒で献杯となるが、そのさいのお神酒は、昼間道祖神に供えておいたお神酒が使われる。掛軸にお参りすると、線香に火をつけ線香立てに立てられる。道祖神なのに線香を立てる理由は、講員の方たちも知らない。聞くところによるとこの地域では秋葉講も行われていて、その際にも線香を立ててお詣りするのだという。掛軸にお参りをすると、席に着くが、年配の方が上座に座り、若い人ほど下座に座る。7軒あった講員は一昨年一方が退会されて、現在は6軒となった。みなが集まると講の始まりとなるが、当番の方が挨拶をされて、長老の方の発声で献杯となる。あとは直会となり講を終える。

 現在は公民館で行われているが、元は当番の家を巡回していた。当番の方を「オトウヤ」と言ったらしくオトウヤでは必ず芋汁を作ったという。先ごろ高遠町藤沢の荒町の山の講を訪れたが、その際にも芋汁が必ず作られた。芦沢のこの講の方々に山の神のことを聞いたが、ここでは山の講は行われていない。

 オトウヤに渡される道具類の中に、「道祖神講」という講のやり方を記した紙がある。道祖神へのお神酒と洗米を供えた写真、床の間に飾る掛軸と供え方の写真の2枚が貼られ、①会費は2000円、②来た人からお茶を出す、③お神酒で献杯(音頭は長老)と記されている。講仲間は後から加わったNさん以外は屋号で記されている。表紙に昭和10年2月8日と記しの入った道祖神講の帳面があり、記されているのは会計簿である。古い記述かをうかがうと、オトウヤのことを「宿」と記しており、「御当番」とも記されている。昭和10年にはすでにNさんは加わっているようで、当時も7軒が講員だったよう。戦時中も講は実施されている。なお、もともとは2月8日に行われていたものだが。現在はその日に近い日曜日にあてられている。こと八日にあたるが、この日を「コトヨウカ」とは言わずに道祖神のお祭りの日と言っている。現在参加される長老の方も経験はないというわら馬を作って道祖神にお参りしたという習俗が、昔はあったという。

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〝厄年〟その2

2025-02-08 23:35:36 | 民俗学

〝厄年〟その1より

 前回厄年として7種に凡例を分けて示した。25、42歳がほとんどのため、地域性が見えなかったわけだが、今回は25、42歳以外の厄年だけをあえて図にしてみた。すると前回はシンプルに見えた県南が賑やかになった。図には2歳境界線を示したが、このラインより南には2歳を厄年とするところがあるが、北には小谷村に1箇所だけ記号が落ちているが、あとは皆無。理由などはわからないが、たまたまこういう結果になった。そして上伊那を中心に2歳のみのエリアが描かれた(あくまでも25、42歳を厄年としているが、それ以外に示された年齢である)。なぜか2歳境界から北側に全くの空白エリアが生まれる。ようは厄年は25あるいは42歳に限られるエリアである。7、15歳は北信のみにあり、とくに栄村に集中する。

 

 もうひとつ図を示そう。男性の大厄を示したものである。やはりほとんどが42歳であるが、42歳ではない回答もそこそこある。ちなみに42歳大厄は424箇所中299箇所を数え割合にして71パーセントにのぼる。次に多いのは25歳で19箇所、8パーセントである。全県に分布するが、25歳は県の中央部に多いようだ。そのほか41歳は4箇所、25歳と42歳というところが3箇所あった。圧倒的に42歳ながら、そうではない箇所もあることは認識しておかなければならない。

続く

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〝厄年〟その1

2025-02-07 23:25:22 | 民俗学

 デーモンジと厄年がかかわりあることは、その度に触れている。今年のデーモンジを紹介したデーモンジ(令和7年)においても、「扇子」をテーマにしたが、聞き取りは叶わなかった。辰野町界隈における「扇子」については、初参りの「扇子」とともに調べてきたいところ。

 さて、厄年について『長野県史民俗編』第5巻総説Ⅰでは「県下では男性は二五歳と四二歳、女性は一九歳と三三歳を厄年と考えている所が圧倒的に多い。そのほか、上伊那郡長谷村市野瀬のように男性は二、七、二五、四二、六一歳を、女性は二、七、一九、三三、六一歳を厄年としている所や、木曽郡開田村髭沢のように男性は二、七、四二、六二歳、女性は二、七、一九歳を厄年としている所などがあり、厄年の年齢の考え方は地域によってさまざまである」(91頁)と述べている。「圧倒的」と表現しているように、厄年の年齢は県内変わりないと言っても良いということになるのだろう。長野県内の厄落しに関しては、米山梓氏が「長野県における厄落とし習俗」と題して『伊那民俗研究』28号(柳田國男記念伊那民俗学研究所 2021年)へ寄稿している。また、同氏は同会の2021年9月25日例会において同じ題名で発表をされている。ただし、そこでも県史の捉え方同様に厄年の年齢については特別視されていない。ここでは年齢について少し検証してみることにする。

 

 

 まず男性の厄年について県史の調査資料から地図化したものが、「男性の厄年」である。どう描いて良いかと思案した結果であるが、特徴が出ないのは確かである。ようは地域性が現れないのは、前述したように圧倒的に25歳と42歳が多いからである。凡例に示したのはその25歳と42歳のセットの例と、25歳と42歳に加えてほかの年齢を厄年と言っている例、また25歳とほかの年齢という例と42歳とほかの年齢という例をとりあげた。圧倒的にセットで厄年としている例は多く。その数は424箇所中241箇所に上る。57パーセントにであり、ここに25歳と42歳とほかの年齢の事例79箇所を加えると75パーセントは男性の厄年として25歳と42歳と答えていることになる。とはいえ25パーセントはそれ以外の回答となるが、実は無回答地点も多い。意外であったのは42歳を厄年ではないと答える箇所が回答中に9箇所あったことである。42歳厄年はかなり常識的に言われる厄年であるが、その年を厄年でないという。さらに25歳も厄年ではないという箇所は2箇所あった。図から受ける印象は松本―佐久ラインから北は多様な記号が見られるいっぽう、南はシンプルな印象を受ける。南側は、ほぼ25際と42歳のセットにほかの年齢が加わる箇所がほとんどと言える。いっぽう北側は、25歳のみ、あるいは42歳のみといった例が目立つ。とはいえ、地域性が現れる地図では無いことは確かで、故に厄年を対象にした地図は県史でも扱われていない。

続く

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〝山の神〟再考 ⑪

2025-02-06 23:48:23 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑩より

 昨日〝あしなか〟について触れたが、復刻版を開いていてそこにあった山の神の記事に目が留まった。昭和26年2月に発行された〝会報〟20号に掲載された胡桃沢友男氏の「山の講」である。平成一桁時代に盛んに長野県民俗の会に出席されていた胡桃沢氏の名は『日本の石仏』(日本石仏協会)でも度々拝見していて、道祖神の「通せんぼ」の記事はインパクトがあった。その胡桃沢氏がこの古い時代の山村民俗の会にも投稿されていた。大正10年生まれの胡桃沢氏であるから氏が30歳の時のもの。

 冒頭こう始まる。「山の麓に育った人々にとって、毎月十七日は山の神の日として忘れられない思い出が残されている」と。胡桃沢氏の地元は松本である。あらためて「〝山の神〟再考 ②」に掲載した祭日の地図をここに加工して示してみて、なるほどと思う。「月の17日」が祭日と答えられている地域は、白馬村と大町市境から軽井沢町まで線を引き、また安曇村から原村へ線を引いた地域の間に限られている。そしてその地域には「1月17日」という回答が「月の17日」より優占する。胡桃沢氏は山の講は「今から三十年位前迄は盛んに行われた」と記している。ようは大正時代までということになる。そして「今は一部の山村の部落にかぎって年一回、三月とか五月だけ行われている処もある」と記す。ようは毎月が年1回に衰退したというわけである。地図でいえば、前述のエリアでは、もともと毎月17日が山の神の祭日であったが、年1回に変わって行ったということになるのだろう。その地域が県の中央部に完全に分別できるわけである。もしかしたら高遠町藤沢の荒町で1月17日を祭日としていたこと、また弓矢を供える地域が高遠町が南限であるということも合わせると、安曇村―原村ラインは、もう少し南に下って奈川村―富士見町ラインなのかもしれない。そしてそれは十日夜の山の神(10月10日祭日)の北限にもあたるのだろう。参考に十日夜南限も示してみた。西北西から東北東へ傾斜したラインでいずれも分別できるのも特徴であり、なぜこうしたラインで分別されるのかは今後の課題である。

 

 胡桃沢氏の70年以上前の記述には興味深いかつての山の講が見えてくる。「山の講と云うのは部落の中の近所隣十軒位いとか、部落全部で組織し、山の神の日には、昔は講の仲間が米を五合宛持ち寄って、飯を焚き、茶碗に飯を山盛りにして、それに箸を差し御飯がついて上がる程固く盛って食べた」という。これまでにも触れた通り、もともと山の仕事に携わる人たちだけの講ではなく、地域ほぼ全戸がいずれかの講、あるいは地域全体の講に加わっていたと考えられ、ここにも「五合」という米が示されている。高遠町荒町で疑問に浮かんだ「五合」の米を持ち寄るという話、なぜ2合だけ使って3号持ち帰るのかという理由は、やはりここにあると言える。いまもって過去の「五合」持ち寄るという風習が残っているわけである。そして荒町にはそれほど戸数の多い集落ではないにもかかわらず、4つの講があったというあたりも胡桃沢氏の表現する形式を物語るもので、古い姿を残していると言える。

 胡桃沢氏の記述でもうひとつ思いだしたことがある。「ちんば山の神」という単語である。「前述の「あしなか草履」を馬の沓を片方づつ作って供える事であるが(註1)山の神が慌てて片ちんばにはいて、弓と矢を持って狩りに行くのだと云われているが、又処によっては、山の神はちんばだから足なかを用いた云はれているし、弓と矢を供えるのは、案山子の意味だと云はれている」という。どこで「ちんば山の神」の話を知ったのか覚えていないが、山の神は「ちんば」であるという話は昔からわたしの記憶にあって、それを「ちんば山の神」と称していた。この言葉で検索すると「山のなかでちんば山の神という石碑を見つけましたが、山の神さまは片足が不自由なびっことかかたちんばの身体障害者(カラカサお化けや一つ目小僧)みたいな妖怪だったのですかね?」というものがYahoo!知恵袋にあった。ベストアンサーには「仰るとおり、山にまつわる神や妖怪には、なぜか一つ目で一本足のものが多く見られます。あの柳田國男もこれに関して「一目小僧その他」や「一眼一足の怪」などの文章で考察しています。なぜ一つ目一本足が多いか、理由についてははっきりとはわかりませんが、神の依り代となる人間の眼と足を潰して閉じ込めたのがおおもとだとか、製鉄に関わる人が強い火を見てふいごを踏むため片目と片足を悪くしやすいのが元になっているとか様々な説があります。」と書かれている。

 胡桃沢氏は十日夜の案山子あげに関連づけており、そもそも案山子は弓矢を持った一本足の姿だったものが山の神の衰退に伴って田の神を象った案山子に変化したものだという。案山子が山の神から発生したと考えれば米5合とも関連して山の講だけに限らず、「〝山の神〟再考 ①」へ記したコトヨウカへとも繋がっていくわけである。「一眼一脚の山の神」について大護八郎氏が『山の神の像と祭り』に触れており、それこそコトヨウカの一つ目小僧の話と関係する。山の神信仰については多様な信仰形態を有しているためその実像が把握できないまま今日に至っている言われており、従来の山の神信仰の考え方では柳田國男以後主張されている先祖神であるという考え方、と狩猟や焼畑などの生業に関わる神としての考え方の二つに大別されるという(註2)。これまでの長野県内の山の神の信仰事例から捉えられる山の神は、前者の祖先神であるという考え方が色濃いと言えそうである。

註1 「前述」の内容は「山の講には、一般には柳で弓を作り、これに竹で作った矢をつがえ、それにあしなか草履と馬の沓を片方づつ作って、洗米や塩を紙に包んでしばりつけ、屋敷の中の立木にしばりつけたものであった」というもの。

 2 永松敦「山の神信仰の系譜」


続く

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〝山の神〟再考 ⑩

2025-01-30 23:19:38 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑨より

 引き続き『長野県史民俗編』の調査資料の「祭り方」欄に書かれた項目から気になるものを拾ってみよう。

 「小坂」(岡谷市湊)では「早朝ムラ人が柳の木で作った弓張りに矢2本あてそえて、山の神さまに供えてお詣りする。一張りを前に供え、人と交換して来て門口に飾っておく」という。人のものと「交換する」という例である。

 「東高遠」(高遠町)では「この日は働かず休む。働くと身に災害をうける。ご馳走を腹いっぱい食べて休む」という。「〝山の神〟再考 ⑦」で5合米を集める話をした。長谷村非持の事例に「以前は米を持ちよって御飯をたき、御飯を大盛りにして食べ、食べきれないで泣きだした人もいたという」ものがあったように、山の神の祭りの日は「腹いっぱい食べる」という例は、高遠町周辺によく聞かれる例なのだろう。

 「大島山」(高森町)では「山を守ってくれる神で、また田の神ともなるので、毎年耕作の始まる2月になると山の神が山から下りて田の神となり、耕作の終わった10月には、山へ還って山の神となる」といい、いわゆる冬は山の神、耕作期は田の神という二面性を表す事例である。

 「小川」(根羽村)では「ヤマシ達はヨイヤマには、親方の家でゴヘイモチを焼いて食べ、一杯飲むのを楽しみにしていた。古くは何人かが組んで山の現場に入り、親方からの仕送りで現場の親方らを中心にヨイヤマにはゴヘイモチを焼いて食べたらしい。五平五合といって一升炊きの鍋で五平餅を2本の五平餅を作った」という。ここにも「5合」が登場する。山の神が味噌を好むという話は知られている。『日本の俗信』(井之口章次)の「山の神と味噌」によれば、「中部地方の山村で御幣餅といい、奥州でタンポヤキと呼んでいるものを、北関東の山村ではバンダイ餅という。赤城山北麓の村々では、今に古風な形を留めている。利根郡の旧赤城根村砂川では、杣の十二講と呼ばれる山の神祭の際、杣たちはふかした粳【うるち】米を板台【ばんだい】の上で、ヨキの鋒で磨りつぶし、それを長さ一尺幅一寸、厚さ三分位の串に固めつけ、囲炉裏で焼いて味噌をつけ、また焼いて山の神に供え、人もこれを食べている」(「山ノ神memo」より)という。下平加賀雄氏は「伊那の山の神」(『あしなか』120)において、「山仕事をする人たちが山の中で火を焚き、串に草鞋のように平たく握りつけた御飯に胡桃味噌をつけ、あぶってまず山の神に供え、それから仲間が頬ばったもので、これが「ごへい餅」のおこりらしい」と述べている。ここではいわゆる板御幣を言っているが「中郷」(上村)では「山で働くものたちが集まって山の神をまつる時は(不定期)祭りのあと串五平餅を作って酒を飲み会食」したという。ここでは串の五平である。

 「嶺方」(白馬村)では「各戸トウローを持ち寄りトーロー揃えをしてお宮までお詣りにいった」という。北の県境地方に多いトーローヅレを山の神の祭りに行ったという例である。

 「髭沢」(開田村)では「絵馬を木の枝に吊るして山の神を馬でお迎えする意味で農業の神となるので、山から下りてきてもらう」といい、「藤沢」(開田村)では「山の神は春は馬に乗って出雲へ行くと言うのでノリモチのほか絵馬を進ぜる」という。『あしなか』111号(昭和43年 山村民俗の会)に吉田勇氏が北魚沼郡小国町に滞在した際に山の神祭りの絵馬の版木を見つけたことを記している。宇桜田に住まわれていた星幸永さんとのやり取りである。

 半紙を何故かに切りおわると、墨をすりながら星氏は「今じゃ絵馬も馬という字を書くだけで、板木なんて使うのは見たこたねーよぅだなー」と昔を述懐する口振りであった。板木の上に筆で墨がぬられると、スタンプのようにべったりと馬の絵が半紙に刷られた。「できましたな」と覗きこむと「まあまあ」これを訳すと東京語で「まだまだ」となる。刷りあがった絵馬の一端を細く一部を残して鋏を入れた。けげんな顔で見守るうちに、細く切った方を器用に観世よりに仕上げると、外に出た。ふたたび座についた氏の片手には一米ほどの木の枝が握られている。
 「この枝は栗ん木でねーばならんのし、絵馬の数かね、それは七、五、三のどれかをつけるなも」。説明のうちに奉納絵馬は出来上った。素朴な、そして雅味に富んだ紙絵馬がゆらめくと七夕飾りを思いだした。時ならぬ絵馬飾りに、この家の主婦が「じゅんさま」ともらした。二度三度聞き返したが、らちがあかない。文字に書いて「十二様」と解った。「旧三月十二日のじゅんさまの前の日は、明るいうちに湯へ入ってじゅんさまごしらいしたがんだ」
 雪のくる前に、枝振りのよい栗の木を二本切っておいて、その一本が絵馬飾りで、いま一本が次の弓となる。
 一米ほどの手頃な枝から小枝を払って、下の方から筆で七、五、三本の黒線がくるりくるりと書き込まれる。絃は新しい麻糸できりりと張る。続いて茅が持ち出され、先端を斜めに切り落す。
 「矢ですか」氏は返事の替りに切り落した反対の方を縦に裂くと、厚紙で作った矢羽根を差し込み、「そうです」という顔つきで仕上った弓矢を前にした。たかが飾りものの栗と茅の弓矢だと手に取ってみて、その強さに驚いた。これはなかなかの武器である。祭礼後に子どもたちがこの弓矢をもて遊ぶ危険を重視したことも、山の神祭りのすたれた一因でもあるという。(吉田勇「山の神祭りの紙絵馬」『あしなか』111)

馬の絵馬の事例であるが、遠く新潟県の事例を聞くと、こうした例は昔はもっとあったのだろうと想像する。さらに吉田氏の報告を読むと、棒に紙垂風の飾りを付けているようにも見え、だからこそ「七夕飾りを思いだした」と感想を口にされた。この形、下伊那でコトヨウカに行われる風の神送りの短冊と似ているようにも思う。さらに「旧三月十二日のじゅんさまの前の日は、明るいうちに湯へ入ってじゅんさまごしらいしたがんだ」と言っている。十二様への供物をこしらえるにあたり、風呂に入って身を清めている。これは高遠町荒町で聞いたオトウヤでの風呂焚きに共通している。それぞれの行為の背景に関連性が見えて面白い。さらにだ、最後に「祭礼後に子どもたちがこの弓矢をもて遊ぶ危険を重視したことも、山の神祭りのすたれた一因」という。なるほどとも思う説明である。

続く

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