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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

上伊那における火祭りの呼称

2024-11-17 23:35:59 | 民俗学

 当たり前と思って検索すると「出てこない」。当り前だろう、昨年は本日記は空白だらけだった。したがって記録として残すべきものも、まったくない。ということで今回検索したのは、長野県民俗の会第239回例会のこと。この例会は民俗地図研究会の発表機会でもあった。その内容について、何も記録はない。それはさておき、その例会でわたしが利用した地図が下図である。これは何かと言えば、図のタイトルにあるように「火祭りの呼び名」を示したもので、範囲は「上伊那」を示している。実はこの図は『長野県上伊那誌 民俗篇下巻』(昭和55年 上伊那誌編纂会)のもので、下巻は方言編であった。方言だけで680ページ近いもので、かなり力を入れられた書と言える。方言についてのこうした公的編纂物では特筆されるものなのかもしれない。方言地図が288枚作成されており、さらにその調査地点は240箇所にものぼる。長野県史民俗編の調査地点数が県外を含めると455箇所ほどあったから、この狭い範囲だけで240箇所というのは密度が濃いとも言える。方言を扱ったものだから、方言外の民俗に興味を持っているわたしたちには、そのすべてに視線が向くことはないが、ここに示した図の呼び名には、方言と言うよりは、信仰の地域性が垣間見えて興味深い。実際の前掲書に掲載された地図は、複数の呼び名があると括って両者を表示しているが、今回わたしたちが目指している民俗地図は、地図を作成した上で意図のある図に編集しているので、「括る」という表現は、よほど複数の記号を示さなくてはならないという意図がない以上やらない予定だ。

 ということで、あらためてQGISを利用して前掲書の地図を作り直してみたものが、ここに表したもの。せっかく上伊那誌の方言調査地を地物として落としたから、ほかにもいくつか地図を作成したいところである。

 さて、地図であるが、行政枠は大正9年のものを示している。行政枠外に表示されているのは塩尻市や諏訪地方、ようは上伊那郡外のデータも示している。セイノカミと呼ぶ地域が伊那市は天竜川両岸、そして辰野町までの天竜川右岸に多くあるとともに、諏訪や大鹿村にも点在する。駒ヶ根から伊南ではホンヤリが圧倒しているのがわかる。

 

 

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青木村の自然石道祖神③

2024-11-15 23:01:40 | 民俗学

青木村の自然石道祖神②より

 

青木村奈良本神社下の道祖神


 青木村といえば思い浮かぶのは奈良本神社の神楽である。とはいえ、見たことがあるわけではない。『信州の芸能』(昭和49年 信濃毎日新聞社)に紹介されていた東信の民俗芸能はそう多くはなく、9件。その中に奈良本神社の神楽が掲載されていて、いつか訪れてみたいと思っていたものの、前述したように青木村そのものに足を運んだことがほぼない。

 実は今になって奈良本神社の近くにあった道祖神なんだと気がついている。写真の道祖神は、奈良本神社への参道の入口から少し西に行ったところ、位置的に言えば奈良本神社の下にある道祖神である。5基並んでいて、向かって左から二つ目には「道祖神」と彫られている。あとは自然石。左端のものが「石」としては最も形状は変わっているかもしれないが、特別変わった「石」でもない。これらを道祖神として祀る背景は何か。東信地域の自然石道祖神の中では、青木村のものは少し様子が違うようにも見える。

 さて、神楽のことについて触れておく。前掲書をあらためて読んでみるとここの神楽、24年ぶりに復活したと記されている。その神楽が現在も奉納されているのかというと、検索してもはっきりしない。そんななかで、青木村公民館で開催される青木村総合文化祭に各地区の神楽が上演されていて、下奈良本区保存会が神楽を上演しているよう。ただし今年も舞われたのかははっきりしない。当郷区の「壁塗り踊り」も上演されているようなので、いつか訪れてみたいと思う。奈良本の神楽には「鳥さし舞」もあるようで、演じるのは前掲書では「子ども」とある。また「和藤内」も子どもが演じるようで、かつて「和藤内」について鍾馗が登場する獅子舞との関連について触れたことがある。前掲書でも子どもが唐傘をさして登場するといい、さらには「〝和藤内〟はトラを生けどる勇ましいはなし」と表現しているから獅子を生け捕るという意味合いで演じられるのかもしれない。印象では松川町生田中山神社の獅子舞と似ているようで、また鳥刺しについては、ここから比較的近い殿野入に伝承されている。殿野入と奈良本は松本と上田を結ぶ道の延長上にある。現在も演じられているのなら、ぜひ見てみたいと思う。

 奈良本について検索していて、地図と『長野縣町村誌』を歴史館のページから参照してみる。

 地図を見ると、神社のあるところは「殿入」というらしい。ますます「殿野入」と関係を感じる。

 『長野縣町村誌』は、最近長野県民俗地図に関係して研究会の中で話題になっている書。

続く

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〝扇・真綿・麻〟 前編

2024-11-13 23:39:12 | 民俗学

箕輪町小河内神社

 

 先日仕事で郡内を回っていた際に、ひるの時間に箕輪町南小河内にある小河内神社に立ち寄った。2か月前にも立ち寄ったのだが、ここの神社は周囲に車を停められる場所が広くあるため、車の中で昼をとるには良い場所だ。この神社拝殿の左手に奉納物を掛けられる柵があり、そこにはいくつもの奉納物が見られた。目立つのは、やはり「扇」であり、扇とともに真綿と麻も付いている。ようはその三点がセットで奉納されている。「初宮参りの扇と真綿と麻と」でこの三点を奉納す事例を知り、その後「初宮参りの供物」を記した。そこで掲載した民俗地図を見ての通り、この三点を初宮参りで奉納するのは辰野町当りに集中するとともに、そのあたりに限られた。この小河内神社にもそれは見られ、扇に記されている奉納日を見ると、「令和5年」というものがほとんどだった。さすがに今年奉納されたものはなく、それが少子化のせいか、風習の衰退のせいかははっきりしない。

 神社の近くで農作業をされていた80代と思われる女性にこのことについて聞いてみた。すると親に言われた通り倣ってやったが、それはもう半世紀以上前のことで、今もそうした奉納物がされていることを認識されていなかった。さらにはそれぞれの奉納物にどのような意図があるかもわからないという。その方が初宮参りで三点を奉納したのは息子さんの時のことだったようで、「お孫さんの時はどうだったのですが」と聞くと、未婚のためそうした機会がなかったという。「子どもが減るのも当たり前」と口にされた言葉からは寂しさがうかがえた。先日も昨年の出生数が75万人台だったという報道がされていたが、今年の出生数は既に半年を過ぎているのに昨年の半分には到底及ばないという。毎年毎年「統計開始以来、過去最少になりました」とみみにすることになるのだろう。これ、実にやばいことなのだろうが、本旨を口にすると差別だと叩かれる世の中で、少子化改善策などありえないのかもしれない。さらに「30歳になったら子宮摘出」などということを口にする極右の代議士が誕生しているのだから、この世は「終焉に向かっている」のかもしれない。

 小河内神社の奉納物を見ていて気がつくのは、扇・真綿・麻の三点のほか、筆が周囲に何本か落ちていたりする。字が上達するようにという意図もあるのだろうが、いずれにしても初宮参りの奉納物が多い神社のひとつである。ちなみに「初宮参りの扇と真綿と麻と」で紹介した長岡神社は隣の集落の神社である。

続く

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青木村の自然石道祖神②

2024-11-10 23:26:39 | 民俗学

青木村の自然石道祖神①より

 

青木村田沢木立の道祖神

 

 原池公民館からそう遠くない、田沢川の対岸、木立集落の山道沿いに写真の道祖神が祀られている。「道祖神」の背後には次のような銘文がある。

明治丗四年二月建之
立谷組中

また、「道祖神」の横に彫りは浅いが次のように刻まれている。

芝嶽翁書

というもの。道祖神文字碑に揮毫者の名が刻まれている例は珍しい。
そして右側に祀られている自然石である。前回の原池のものもそうだが、特別変わった石でもない。石質は「道祖神」とほぼ同じよう。どちらが先に祀られたものか分からないが、並んでいる雰囲気では、いずれも同じ時期に祀られたようにも思う。

 さて、この祭祀空間、近くに民家があるものの、「山の中」という印象が強い。その上でたまたまなのだが、ついさっき草が刈られたと思われる感じ。まるだわたしが訪れるのがわかっていたように…。

続く

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青木村の自然石道祖神①

2024-11-08 23:21:12 | 民俗学

青木村田沢原池公民館辻道祖神

 

 青木村のことについて触れた過去日記はほとんどない。なぜかといえば、青木村を訪れた記憶がほとんどない。もしかしたら長野県内で訪れたことのない唯一の自治体かもしれないが、記憶に無いだけなのかもしれない。が、青木村の隣接市町村を見たとき、ここへ訪れるには上田市から入るのが一般的で、山越えの筑北村から入るルートは、確実に通ったことがないルート。したがって、もし訪れたことがあったとしても、上田市ルート以外考えられない。大法寺が青木村にあるから、記憶にあまり残っていないのだが、もしかしたらこの寺には訪れているのかもしれないが、実はこの寺は上田市境にあって、青木村に入ってすぐのところにある。したがって上田市の延長上のようなところ。

 余談はともかくとして、青木村には自然石道祖神が多い。『東信濃の道祖神』には218項目掲載されている。ただし自然石が1か所にいくつも祀られているケースが多く、それらを集約していくと自然石道祖神の祭祀箇所数は44箇所。双体像が22基、文字碑61基と合わせて127基・箇所とわたしは捉えている。前掲書に取りあげている数だけで捉えると、自然石道祖神が圧倒的に多いことになるが、今までにも触れているように、自然石を数で数えてしまうと、基数という捉え方のイメージが崩れてしまうので、あえてわたしなりのデータの捉え方を推奨する。もちろん双体像も、文字碑も数基を1箇所に祀る例はあるが、その数は多くても2,3基のもの。それに対して自然石は数えきれないほど1箇所に置かれているけーすが珍しくない。

 さて、青木村の原池は県道丸子信州新線の沿線にある、田沢川を遡ったところにある集落。その公民館の建つ辻にこの道祖神は祀られている。4基あるが、右端のものは「道祖神」、あとは自然石である。自然石といっても何の変哲もないもので、こういう自然石も東信では珍しい。青木村にはこうした自然石が多そうである。

続く

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東信の道祖神と五輪塔⑪

2024-11-07 23:08:55 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔⑩より

上田市塩田富士山中組佐加神社入り口

 

 東信の道祖神と五輪塔⑩で紹介した上田市塩田富士山の日米人神社から距離にして400メートルも離れていない同じ富士山の佐加神社の入口にある四辻に道祖神がいくつか祀られている。写真の通り、個体としては4つというところだが、全て道祖神かははっきりしない。これもまた『東信濃の道祖神』で確認してみると、「冨士山中組三門寺」と表記されている道祖神がそれにあたるのだろう。3基一覧にはあげられている。したがって向かって右端の五輪塔は含まないということになる。

 左端は台石の上にコンクリートで固定されているが、石そのものは石碑にしては不均一な石で、わたしの想像では、もとは自然石として祀られていたのではないか。そこへ後から「道祖神」と彫った。彫ったといっても文字は浅く、その彫りも稚拙な感じだ。素人が彫ったのでは、と思わせるほど。背後から撮った写真が3枚目であるが、一層もともとは自然石ではなかったか、と思わせる。

 左から2基目はこれこそ文字が彫れそうな石だが、無銘である。右から二つ目の「道祖神」は碑高50センチほどのもの。4基いずれも注連縄が掛けられていて、ひとつの空間でまとまって祀られている印象があり、やはり右端の五輪塔が注目される。風空火地はあるが、「水」が欠けている。風空と火と地は別々のもので、欠損しないようにそれぞれモルタルで固定されている。安山岩系の石であるが、とりわけ五輪塔は火山噴出物っぽい。それぞれの石碑の前にも石が置かれている。供え物用の台を意図しているのかもしれないが、自然石と捉えてられないこともないが、その大きさが大きく異なるから、前者の意図なのだろう。

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お薬師さまの祭り

2024-11-03 23:30:13 | 民俗学

お薬師様の祭り(令和6年11月3日)

 

 旧三郷村楡の小路集落で行われる「お薬師さまの祭り」を訪れた。集落の中を三つに分けて当番が回って来るそうで、今年は西第一と第二組合が当番であった。午前9時から公民館で当番組の方たちが集まって「お目団子」というものを作ったようで、訪れた際には、既に団子を作り終えたところだった。この団子、本来は五つ藁苞にいれるようで、二つの藁苞の先端を結んで二つがひとセットになるようにするのだと言うが、今年の当番組では一つの藁苞に6個の団子を入れていた。この藁苞に入った「お目団子」をそれぞれの家で持ってお薬師様にお参りするという祭り。昔はされざれの家でこれを作ってこの日お参りしたものというが、昭和の終わりごろから当番組で集まって「お目団子」をつくるようになったという。そのおかげなのだろう、現在も毎年11月8日ころに祭りを定めてお薬師様の祭りを行っている。各戸それぞれの実施であったなら、廃れていたかもしれない。

 ただこの祭り、「お目団子」を持ってお参りするだけではなく、子ども達が祭りの世話をしたようで、現在も子どもたちによってお祭りの触れをして回ることが続けられている。コロナ禍前までは、お薬師様の前に小屋掛けをして祭りの日はここで番をしたよう。ようは子どもたちの祭りでもあった。今日も午後1時に小路の集会施設に子どもたちが集まると、小路地区内を太鼓を叩きながら触れ歩いていた。そのさいの言葉は

お薬師様のお祭りだ、お目団子あげとくれ

というものだったが、高学年は女の子ばかりだったこともあり、触れて歩いてはいるものの、おそらく周辺の家々に声は届いていないようだった。

 お薬師様は石造の薬師瑠璃光如来で、銘文はないがかなり古いものと見える。昔は松本道と言われる集落内の東西の道沿いにあったようだが、道を通る馬が度々暴れるため、松本道から南へ入った場所に移動したという。現在は田んぼの一角の祠の中にお薬師様は安置されている。

 今年は午後2時までにお参りに来てください、と知らせをしてあったようで、子ども達も触れ回った後、午後2時には供えられていた「お目団子」とお菓子などを皆で分けて持ち帰り、お祭りは終わりとなった。子どもの数も5人と少なくなり、夕方まで子どもたちが小屋掛けしてお守りをする姿はなくなった。当番組では午後2時には飾りを片付けて終わりとなった。「お目団子」は家々に持ち帰ると、それぞれ焼いたり、あるいは煮たりして食べるといい、眼の病に効くと言われている。昔は目を患う人が多かったため、近在に知られた祭りだったようだ。

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北大出新明神社例祭へ 後編

2024-11-02 23:10:16 | 民俗学

北大出新明神社例祭へ 前編より

 

天狗と獅子に登場する面(天狗3、獅子4)

 

参道の階段

 

子どもたちによる太鼓

 

傘鉾を先頭に舟が進む

 

フネが境内に入る

 

フネは境内で右回りに3回転

 

獅子の登場

 

一番天狗の登場(右手に扇)

 

子ども達を追いかける

 

坂を転がる

 

三番天狗の登場

 

子どもをさらう天狗

 

天狗が消えると、境内のあちこちでこんな光景が(令和6年10月20日)

 

 10月20日に行われた神明神社の祭りについては次のような伝承があると言う。

昔、北大出に獅子が舟に乗ってやって来て上陸しようとして天狗に相談した。天狗は神に祈祷した後に村人と掛け合った。しかし協議は難航し、三人目の天狗でようやく話がまとまり、獅子はめでたく上陸した。

というもの。新明神社には「千度石」はないが、舟を曳行して境内に入ると、舞台前の庭で舟を右回りに3回回す。その後半周戻して南向きに停めるのだが、境内で舟を3周させるというのは、安曇で盛んなオフネの祭りと類似している。安曇で行われるオフネ祭りでは、境内で千度石のまわりをフネを3周させるところが多い。そしてこれをオフリョーと呼び、その際にフネを煽る所も多い。神明神社の祭りでも、フネを煽るというほどではないが、かなり揺らす場面がある。もっと言えば、天狗が登場する際にはフネを揺らしているようにも見える。オフネについて詳しい三田村佳子氏は、ここのフネは「諏訪型」と分類している(『風流としてのオフネ』2009年 信濃毎日新聞社)。いわゆる諏訪地方で行われるオフネの形式に近いということなのだろう。しかし、なによりここの祭りはオフネが中心ではなく天狗と獅子が中心。風流芸能ではなく、分類上困惑するような民俗芸能に仕上がっている。天狗も獅子も「芸」らしいものがないから、やはり風流芸能なのかもしれない。

 かつては参道の階段下の堂がある庭から舟を神社まで担ぎ上げたという。青年衆が少なくなってしだいに舟が出始める場所は上へ上へと移動してきたようで、現在は舟を上げる道は50メートルほど北から曳行するのみとなった。その先導は傘鉾であり、神の依代としての意味があるのだろう。そして舟を3周させると、いよいよ天狗の登場となるが、最初に舟から出てくるのは獅子4頭である。獅子舞の獅子頭であるが、ここの獅子には舞らしきものはいっさいない。腰を屈め、低姿勢であたりをうろうろするのみ。天狗が登場すると天狗にちょっかいを出そうとするのか近寄るが、結局天狗と絡むようなこともほぼない。何よりなぜ4頭なのかというところも不思議だ。

 一番天狗は舟の先から登場する。獅子たちと同じである。右手に扇子を持っているが、その扇子をよく見ると、確かにお宮参りに奉納されたもののよう。あたりを転げまわったりするが、境内にいる子どもを拉致して舟の中へ連れ込む。大泣きする子どもも多いし、ある程度大きな子どもは逃げ回る。天狗と獅子の競演は、境内一帯が騒然となる、一大演芸場のような雰囲気。天狗が思う存分境内を駆けまわる間も、獅子は舟の周囲で低姿勢でゆっくり動き回るだけ。「天狗と獅子」とは言うものの、これほど天狗と獅子がどのような場面設定になっているのか不明瞭な構成はない。長い祭りの歴史の中で、なぜ両者の絡みを演じるような機会がなかったのか、などと思ったりする。天狗は境内で動き回った末、神社拝殿の前に座って拝むような所作をした後、背後の神明山へ上る。宝石の前でも拝礼した後、子ども達を追いかけ回した後、山の上からごろごろとでんぐり返しで境内へ転げ落ちてくる。再び境内で自由な行為をした後、舟へと帰って行く。二番天狗は右手に笹を、三番天狗は杉の葉を持って、いずれも舟の上から境内へ飛び降りる。二番天狗は西へ向かって、三番天狗は東へ向かってである。

 舟だけをみればオフネ祭りと共通しているが、メインの天狗と獅子は、どこにもない独特な祭りを構成している。何より参拝者とこれほど絡む祭りはなく、見るものを楽しませるだけに、カメラマンが多い。辰野町のホームページで祭りの日程が公表されるほど、参拝者の多い祭りである。もともとは年番制ではなく青年衆が担ったものなのだろうが、今は北大出にある三ツ谷新田、宮下、多屋小路、鞍掛、原小路の五つの集落で当番制で行っている。したがって5年に一度氏子は関わることになる。今年は原小路が年番だった。

 

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東信の道祖神と五輪塔⑩

2024-10-31 23:04:34 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔⑨より

 

上田市塩田富士山日米神社道祖神

 

 実は『長野県道祖神碑一覧』としては最もデータが不足している地域があった。もちろんこれまでも触れている通り、東信地域であることに変わりないが、その中でも最も違っているのは旧上田市(平成の合併以前の)である。一覧に掲載された上田市の道祖神数は、双体像13基に過ぎない。ところが『東信濃の道祖神』によれば、自然石を祭祀箇所として修正したとしても、双体像43基、文字碑396基、石祠6基、自然石81箇所となり、合計526基・箇所にもなる。この526基という数字は、長野県内最多である。これほど上田市に道祖神が多いということを、誰が認識していただろうか。悉皆調査をされた岡村知彦氏のみだろう。とくに文字碑の数は突出しているが、自然石の81箇所という数字も多い。

 その上田市の道祖神は、ほんのわずかしか見ていないが、ここに取りあげる道祖神の脇にも五輪塔の残欠がある。塩田富士山にある日米神社の境内の道端に祀られている。ちゃんとした石垣の上に祀られているから、大事にされていることがわかる。もちろん主神は自然石だが、その舞台の脇に五輪塔の残欠がある。五輪塔残欠らしきものは、塩田平には幾例かあるようだ。

 自然石は頭部はだいぶ風化していて、手でいじれば剝がれてしまいそうな部分も見えるが、最近剥がされたという痕跡もなく、この状態で長年維持されてきているようにも見える。掛けられている注連縄は、最近のものではない。

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美篶芦沢の道祖神建立の背景 後編

2024-10-30 23:06:41 | 民俗学

美篶芦沢の道祖神建立の背景 前編より

 

芦沢、大上木戸口の自然石道祖神

 

 あらためてこの話を聞きに行った際に、同じ道祖神の写真を撮ってきたわけだが、もともとあった自然石の道祖神を、それぞれ単体でとらえたのがこの写真である。「道祖神について」の中で、「小さいが形の変わった石神を立て」といっている石がこの二つの石になるのだろう。向かって左側の石は、ちょっと見「犬」の形をしていてかわいい感じ。右側の石は水流によって削られて、柔らかいところが凹んでごつごつしている。このくらいの大きさなら、容易に運んでこれる。Nさんのところにあった待望の石をここに据えて「道祖神」と刻んだわけであるが、どのような石が理想だったのか…。謂れには次のようなことがカッコ書きされている。

この他にもこの時大島井から出た、伊勢の二見ケ浦の夫婦岩に似た石がNにはある

と。そこでNさんの家にうかがって実際の石を見せていただいた。するとそれは床の間に飾られていて小さな石で、確かに頂が二つある一石。そして色は黒く、テカテカとしている。みなで撫でたせいかはわからないが、こうした黒っぽい石も、三峰川にはよく見かける。

 「道祖神」建立後、講を行うには掛け軸があった方が良いという話になって掛け軸をこしらえて、現在もお祭りの日には掛け軸を掛けて直らいをするよう。大正時代のことという、掛け軸を用意したのは。その大正時代からの帳面が、現在も使われていて、当番へ引き渡されている。

 さて、謂れの中に「大文字」のことが書かれている。芦沢でもデーモンジが行われていたという話は、箕輪のデーモンジを文化財指定した際に調査された蟹沢さんに聞いたことがあった。現在はすでに跡形がないという話だったが、この謂れに少しばかりその「大文字」の意味が記されている。

 現在、庚申塔のある広場を大文字と言う、もとはでえもんじとも呼んで厨た。これは旧県道伊那~高遠町線・槌屋の東の連から新県道への小路・上中村の前の路、この三本が交差ずる形が「大」の字になるからとの言い伝えがある。
 昔の芦沢村は大文字から下村にかけてと、これから山際をお子安様の方へかけての部落であった様に思われる。庚申様・石打籠・石仏・その他石碑等が数多く立ち並び、小林商店が昔は「至誠館」といって村の集会所になっていて、各種会議・催し・子供達の天神様等が行われていた。広場は盆踊り、野外映画の上映が行われ、又子供達の野球場・遊び場であり、村中の人が集まり大東亜戦争の出征兵士を送り出す場でもあった。
 吉祥寺道の西側に西羽場の墓地があり、又下羽場の墓地が三の道の際にあったこと、さらに増田屋と権現沢の宅地が西和手の東側にあったこと等、大文字周辺が芦沢の中心であったのではないかと考えられる。

 

 ここでいう広場をグーグルマップで示す。北を上にしても「大」に見えるし東を上にしても「大」に見えるだろうか。いわゆる柱の大文字のことは何も書かれておらず、Nさんの現在の当主にお聞きしたが、柱を立てたということは聞いていないと言う。

 この広場に祀られている巨大な「庚申」については、以前触れたことがある。これほど大きな「庚申」はちょっと見たことがない。次の「庚申」年も近いが、と聞くと、「次からは小さくしていくものだ、と聞いている」と言われた。そういう話も初耳だった。

 なお、謂れには二月八日にかつては藁で馬を作り、これに餅を二つつけて道祖神に行って、ほかの人の供えた餅を1個持ち帰ったと記されている。いわゆるワラウマをコトヨウカに供える習俗がこのあたりにもあったということになる。

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美篶芦沢の道祖神建立の背景 前編

2024-10-28 23:12:54 | 民俗学

「美篶芦沢子安神社 自然石道祖神」より

 

伊那市美篶芦沢の道祖神

 

 すでにここに記したことのある道祖神、伊那市美篶芦沢の子安神社へ通じる道路の途中にあるもの。そこにこう記している。

真ん中に「道祖神」と彫られた石碑が祀られ、両脇に自然石を従えている。『長野県上伊那誌民俗篇』(昭和55年 上伊那誌刊行会)にある道祖神一覧には、芦沢の道祖神としては1箇所文字碑として記載がある。ただし注記として「奇石二個七戸で建立の由」とある。いっぽう『伊那市石造文化財』(昭和57年 伊那市文化財審議委員会編)には芦沢の道祖神として2箇所記載があり、1箇所は子安神社で形態欄に「奇石群」と記載されている。「群」と記載されるもいくつあるかの記載はない。もう1箇所は「子安神社参道西口坂」とあり、形態欄には「自然石」、「中称」欄に「奇石道祖神群」と記載されている。こちらは「現在三個残っているのみ」とあり、この記載から読み取れば、かつてはもっとあったようにもうかがえる。

そして、真ん中の「道祖神」について後から刻んだのではないか、と想像しており、「宿題」にしていた。学会でグループ発表する際のテーマが自然石道祖神であったこともあり、先ごろあらためて確認してみた。この道祖神の祀られている場所が木戸口になっていて、北へ坂を上ると家があり、その家の方と以前話をしたことがあり、「この道祖神は河原からみんなで運んできたもの」と聞いていた。その方に再度話を聞こうと思って訪れたが、体調を崩されていて聞くことはできなかった。ということで、周囲の家を何軒か歩いて聞いてみた。すると、現在でも「道祖神講」というものが行われていて、かつては2月8日に行われていたという話を聞いた。そして当番に回す箱があると聞き、さらにその中に年寄りから聞いた「謂われ」が入っていると聞き、その箱のありかを探した。来年の当番のところに渡されていると聞き、その当番さんを訪ねて、「謂われ」を見せていただいた。

 その謂われには「道祖神について」と記されている。まとめられたのは7軒の講仲間のおひとりで、「父が書き残したものをワープロでまとめたもの」という。道祖神がここに祀られていることについて書かれた部分を引用すると、次のようである。

 私たちの信仰している道祖神については、現在の参宮線の入り口を少し入った大上(おうえ)の木戸との交差点にあります。参宮線も昔は細い路であったので、道祖神周辺は広場になっており奇石が数多く建てられて芦沢中の道祖神場となっていた。明治の末期になり、区内に点在する各神社は法令により一か所に集められることになった。各神社は子安社境内へ移され、その時に道祖神も全部が境内の庭に移転した。子安社の舞台の庭の南端、子安社に向かって左側大きな栂の木の元に並んで、私が覚えている数でも二〇個位の石が建てられていたが、石ブームのあった時代に心無き人に持ち去られ、数少なくなってしまったことは残念なことです。
 大上に孫半さんと言う方が居り、この方が木戸を上り降りする度に、今まであった道祖神が無いこを心淋しく思い、近所の方たちと相談し小さいが形か変わった石神を建て、二月八日に寄り合ってお祭りをしたということです。
 孫平さんは信仰心が厚く又、区の役も多くやられていたので村中を歩く機会が多くあり、良い形をした石がNさんの庭あるのを見て、通る度にこの石を譲ってもらって道祖神にしたらと考えており、Nさん(チョンマゲ爺さんと呼ばれていた)に話をしました。Nさんも信仰心の深い人であったことから、良く承知し仲間に加わりました。
 この石についてはNさんが水出の折り、河原で田普請をしていた時風変わりな石が出たので河原の端から河原の坂下まで手間隙かけて独力で転がして運び、そこから家までは身内の若い者に選ばせて来たとのことです。

 三峰川の河原ではなく、田んぼの中から拾い出したもののよう。とはいえ、三峰川はかつてたびたび氾濫したことから、田んぼの中といっても、元は河原だったのだろう。先日触れた子安神社の道祖神は、そもそもこうした謂れでまとめられたものだった。そのうえで、かつてはもっとたくさんあったのに、現在はずいぶん減ってしまったという。いずれにしても、かつては自然石がたくさん、子安社へ上る道の途中に祀られていたという証言になる。いずれにしても、この道祖神が祀られることになるまでは、Nさんは講仲間ではなかった。石を道祖神として譲り、仲間に入ったということだ。その石を拾ってきたという方の息子さんが書き記したものを、そのまた息子さんがまとめたもの、ということになる。

続く

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年会へ 後編

2024-10-27 23:41:12 | 民俗学

 年会でのグループ発表は、A1という、研究発表メニューの真っ先に置かれる会場で行われた。事前の打ち合わせをした8月のウェブ打ち合わせの際、用意する資料は25部にするという話だった。「それほど人は来ない」というものだったが、その後のメールのやり取りの中で、Y先生にはカラー版で資料を作成したいと申し出ていたわたしは、30部郵送するという話をした。しかし、よく考えてみると、グループ発表は4枠を使って2時間用意されている。通常なら4人分の発表枠だ。とすると、最初に参加してくださる方々がその程度だとしても、後から参加される方たちには補助資料がない可能性がある。ということで、資料を用意してくださったY先生から送られてきた補助資料全体のPDFと同様に発表者それぞれから送られてきていたデータを構成して、同じような資料に組んで、さらに荷物になるのが嫌だったから、縮小版にして増刷して持っていくことにした。「万が一」というより、おそらく足らなくなるだろうと想定してのこと。

 昨夜の二次会が功を奏したのか、二次会に参加されていた先生方が大勢発表会場に足を運んでくださった。そしてS先生には厳しい指摘もしていただいた。そもそも今回のグループ発表は、ここ2年ほど活動してきた長野県民俗地図研究会のお試し発表でもあった。QGISで長野県民俗地図を作って、みんなで年会で発表をするという志で進めてきたが、実はQGISを利用して地図を作成するところまで、参加した会員全員がたどり着けなかった。例会や、専用の研究会も設定したが、なかなかソフトを理解するのに苦労された。ようは内容を深く詰めて発表というわけにはいかなかった。S先生には、ひとつのテーマに沿って地図を提示すれば分かりやすいのに、と言われたが、地図ありきで、地図により何を表すのかという部分については共通の視線を当てられなかった。ようはとりあえず作ってみた、そしてこういうことができる、をとりあえず示してみた、というのが実態だ。とはいえ、このような民俗地図に焦点を当てて年会で発表がされたということはあまりなかっただろうから、現代的手法の事例として、興味を持つ人たちには参考になったと思う。もっとたくさんの地図を作成し、その地図からどの地図を採用して何を見出していくか、そこまで地図のデータが膨らんでくれば、おのずとS先生が指摘されたようなところをカバーした発表が可能になるのだろう。これで「終わり」ではなく「始まり」なのだ。そういう意味でも、もっと会員の多くが「使える」ようになることが先かもしれない。

 結果的にわたしが用意した補助資料すべてがなくなった。「万が一」と思って用意した資料は40部あった。ようは70部はけたわけだが、そもそも会場は70席が定員だった。したがって出入りがあればそのくらいは必要だったということなのだろう。もう少し用意しても良かったのかもしれない。いずれにしても、とりあえず発表を終えられて、それも本来なら2時間枠なのに、5人で発表したから時間超過して、通常なら×の世界だが、5枠目が開けられていたせいで、その5枠目もフルに使って発表させてもらった。1枠目の午前9時半からお昼の12時まで、ずっと聴講いただいた皆さまには、感謝いたします。

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年会へ 前編

2024-10-26 23:01:06 | 民俗学

 國學院大學で開催された日本民俗学会第76回年会に参加した。2日間にわたる年会だが、今年はいつもと違う。何が違うかと言えば、長野県民俗の会でグループ発表する。わたしにとっては初めての発表であり、また民俗の会がグループ発表するのも初めてである。ということで明日のグループ発表が気になるところだが、いつもどおりシンポジウムに参加して、総会、懇親会へも参加し、そのあとの二次会も予定されていた。

 今年のシンポジウムのテーマは「祭り・芸能をめぐる現代的課題」というもの。発表は

桜井弘人「南信州における女性参加の実情と課題」
石垣悟「祭りのなかの『子ども祭り』」
矢島妙子「祭り・イベント・芸能とツーリズム」

の3つであった。大雑把に言えば、民俗芸能への①女性参加の現状と、②本来芸能に参加してきた人たち以外の人の祭りへの参加の現在(子どもを中心に)、③絶滅に瀕している芸能の復活の可能性、というものだった。とすると、民俗芸能の変容を前提とした課題に取り組もうとしたのか、とも見えるがその趣旨を読み返してみよう。そこには「祭り・芸能に焦点をあて、その現場がどのような課題を抱えているのか、論点の所在を明らかにすることを目的としたい」とある。さらに「このことは一方では、現代社会が抱えている諸問題が、その祭り・芸能に映し出されているともいえる」という。こうしてみると、現代社会で派生している問題を祭りや芸能のフィールドに探る、ということなのだろう。結果的に研究者が決めることではなく、民俗芸能を継承している当事者である地元の人々がどうするかということになるのだろうが、討論の中では、研究者として助言することが限界だろうということだった。民俗芸能分野では、希少価値のあるものに焦点を当ててきた風がある。発表者の一人、桜井弘人氏が「南信州は民俗芸能の宝庫である」と発表内で発言されたが、背景には国指定の無形民俗文化財が多いことによるものだという説明をされている。しかし、趣旨である現代的な課題で捉えようとすれば、周囲が民俗芸能の宝庫だということで、保護活動をしている政策の背景も現代的課題を創出しているとわたしは思う。このことはまた別項で触れるとして、女性参加に限らずこの地域で起きている事実と似通った事例が、討論の中の石垣氏の言葉にあった。

 石垣氏への質問に祭りに参加する外部の人は、どのようなつてで参加するのか、というものがあり、石垣氏は知人や学校の関係からつながっていると答えられた。石垣氏が事例として発表された「子ども祭り」は、大人の祭りに倣って子どもの祭りが創出されるというもの。そして子どもの祭りも本来の祭りと同じような形に変えていくともいう。子どもの祭りに参加した子どもたちは、成長するとそのまま大人の祭りにも参加するようになるといい、ようは本来の祭りを継続していくための2軍が出来上がっているようなもの。外部の人が加わって祭りが成立するというような例は飯田下伊那地域でもある。果たしてそこまでして継続するべきなのか、という意見もあるだろうが、そうした場合の祭りの伝承地とはどこなのか、という疑問も生まれる。この知人や学校つながりというところには、問題が派生するとわたしは考えている。かつてなら地域の祭りには資格のあるものはみな参加した。あるいは参加せざるを得なかったかもしれない。ところが知人や学校の関与で地域外の者が加わり、さらにそれが広がりを見せるタイミングが、まだ地域に大勢の対象者がいる中で行われると、地域の中で違和感が生じる。自分たちの祭りという意識が薄れる人たちが生まれるだろうし、祭りを担う人たちが「おともだち」組織に変わってしまう。もちろんそれが地域の本来の対象者だけならともかく、地域外の者がそのような「おともだち」の集まりに変わっていくと、地域内の不協和音も生じるだろう。ようは地域として危なくなるというわけだ。

 祭りに限らず聞き取りをしていると、つながりのある人たちが良好にとらえている事象が、実はそうでない人びとからは敬遠されている姿を目にしたりする。ようは人それぞれ思うところがあり、好き嫌いで見る人が必ずいる。そうした現実を加速させるような要因に、祭りがなってしまう可能性を秘めている。したがって全く成立しないほど人口が減少しているのならともかく、対象者がある程度確保できる状況で、外部から安易に人を増やすのには問題があると思う。したがって矢島氏が報告したイザイホーに至っては、1978年以降実施されていないという。観光の資源として復活させるとなれば、それは本来の趣旨に沿っていればともかく、人寄せという趣旨だけでは偽物ということになるだろう。

 確かに現代社会における課題が祭りには表れている、ということになるだろう。そしてそれを扱っていく分野として民俗学があるのだろう。さて、シンポジウム後の定刻に始まった総会は、今年も予定時間内で終わらなかった。昨年と同じ指摘で時間をくった。予算の問題だ。会場からの指摘は予想できたものだと思うのだが、そもそもこの議案は評議員会を通っている。評議員会で会場で指摘されたような指摘はなかったのか、とも思うが、その場に参加すべき者がしなかったのにどうこう言えるものでもないし、ちょっとわたしには発言はできない。とはいえ、このためだけに総会に足を運ばれた重鎮もおられただろう。わたしのような者でも、決算案を見て「わかりづらい」と思った。二次会はいつも二次会でわたしたち長野県民俗の会の仲間の二次会に加わってくださっているI先生のお誘いで、学会の重鎮の先生がたと席を同じくして始まった。総会が遅れたから懇親会も遅れて、二次会も予定より遅く始まった。二次会だけに足を運ばれたS先生、T先生は予定の時間には二人で始められていたよう。そこへ懇親会から合流したわたしたち、そして懇親会を設営してくださったI先生、総会で「このために来た」といって発言されたF先生も加わっての楽しいひと時を過ごさせていただいた。何といっても隣に座られたF先生から「あなたはわたしがいる間、一度も顔を出してくれなかった」と、あるわたしの身近な研究会へかかわらなかったことを指摘された。「近いのに」と言われ、まさにその通りなのだが、裏には「いろいろある」と察知されているが、どうしてもわたしの看板になってしまっているようだ、F先生には…。

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旧東部町赤岩の自然石道祖神

2024-10-25 23:18:36 | 民俗学

東御市赤岩旧道口の自然石道祖神

 

 『東信濃の道祖神』(岡村知彦 令和5年)において「横久根旧道口」と位置情報を記している道祖神が墓地の入口にあるもの。ここは、旧東部町赤岩で、墓地の北側はしなの鉄道が通っている。道祖神の祭祀空間なのに、お地蔵さんと、馬頭観音と、「奉納 秩父坂東西国四国 百八拾八ケ所供養」塔が建っている。もともとこの構成だったかはわからないが、道祖神が道祖神ととして受けとめられなくなるような構成だ。

 前掲書には「焼石」として陰陽対で祭祀されているものとされているが、実はその二つの石の背後にもう一つ、それらしい石がある。これは道祖神ではないのかどうか。1枚目は正面から撮影したもの。2枚目は左が女で、右が男、らしさを醸し出していると捉えるべきか。3枚目は少し上から撮影したが、背後にある石がわかるだろう。さらに6枚目はそれらを背後から撮影したもの。

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旧望月町春日本郷の道祖神

2024-10-24 23:40:02 | 民俗学

春日本郷泰國寺前辻

 春日本郷の泰國寺前の辻に写真の「道祖神」が建っている。以前触れたように、文字碑であっても、年銘のないものが東信には多く、この「道祖神」にもそれはない。「道祖神」の横に、ふたつほど「石」がある。もちろんこれが自然石道祖神ではないか、と取り上げているが、確実ではない。すぐ横にある石は台石かもしれない。さらに横の砂岩質の石は、相応に見えるが、果して…。

 

春日本郷2691番地先

 春日の2691番地先に建つ双体像は、写真の通りかなり摩耗している。まだ男女神の姿がのこっているだけ、まだましかもしれない。やはり横に自然石がある。最も大きなものは、陰石かもしれない。さらに二つの小さめの石と、固定されていない石が一つ。陰石と二つの石、計3個はアスファルト舗装によって固められている。置かれているというよりは祭祀対象物と見てよいのだろう。

 

「春日小学校入口」信号機東側

 あとは双体像をいくつか紹介しておく。「春日小学校入口」信号機の東側の空き地に、大きな石が置かれている。道路を整備した際に空き地ができてこの空間はできたようだが、その大きな石の脇に、双体像がある。光背の上部は欠損しており、双体像の摩耗も著しい。

 

角間川沿い旧道脇

 角間川沿いの旧道脇に建つものは、屋根が加工されている双体像だが、頭部の部分は両神とも欠損に近いほど摩耗している。それでも手を繋いでいたのだろう様子がうかがえて、かなり摩耗しているにもかかわらず、双体像の仲睦まじさがうかがえる。

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