Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

美篶芦沢の道祖神建立の背景 前編

2024-10-28 23:12:54 | 民俗学

「美篶芦沢子安神社 自然石道祖神」より

 

伊那市美篶芦沢の道祖神

 

 すでにここに記したことのある道祖神、伊那市美篶芦沢の子安神社へ通じる道路の途中にあるもの。そこにこう記している。

真ん中に「道祖神」と彫られた石碑が祀られ、両脇に自然石を従えている。『長野県上伊那誌民俗篇』(昭和55年 上伊那誌刊行会)にある道祖神一覧には、芦沢の道祖神としては1箇所文字碑として記載がある。ただし注記として「奇石二個七戸で建立の由」とある。いっぽう『伊那市石造文化財』(昭和57年 伊那市文化財審議委員会編)には芦沢の道祖神として2箇所記載があり、1箇所は子安神社で形態欄に「奇石群」と記載されている。「群」と記載されるもいくつあるかの記載はない。もう1箇所は「子安神社参道西口坂」とあり、形態欄には「自然石」、「中称」欄に「奇石道祖神群」と記載されている。こちらは「現在三個残っているのみ」とあり、この記載から読み取れば、かつてはもっとあったようにもうかがえる。

そして、真ん中の「道祖神」について後から刻んだのではないか、と想像しており、「宿題」にしていた。学会でグループ発表する際のテーマが自然石道祖神であったこともあり、先ごろあらためて確認してみた。この道祖神の祀られている場所が木戸口になっていて、北へ坂を上ると家があり、その家の方と以前話をしたことがあり、「この道祖神は河原からみんなで運んできたもの」と聞いていた。その方に再度話を聞こうと思って訪れたが、体調を崩されていて聞くことはできなかった。ということで、周囲の家を何軒か歩いて聞いてみた。すると、現在でも「道祖神講」というものが行われていて、かつては2月8日に行われていたという話を聞いた。そして当番に回す箱があると聞き、さらにその中に年寄りから聞いた「謂われ」が入っていると聞き、その箱のありかを探した。来年の当番のところに渡されていると聞き、その当番さんを訪ねて、「謂われ」を見せていただいた。

 その謂われには「道祖神について」と記されている。まとめられたのは7軒の講仲間のおひとりで、「父が書き残したものをワープロでまとめたもの」という。道祖神がここに祀られていることについて書かれた部分を引用すると、次のようである。

 私たちの信仰している道祖神については、現在の参宮線の入り口を少し入った大上(おうえ)の木戸との交差点にあります。参宮線も昔は細い路であったので、道祖神周辺は広場になっており奇石が数多く建てられて芦沢中の道祖神場となっていた。明治の末期になり、区内に点在する各神社は法令により一か所に集められることになった。各神社は子安社境内へ移され、その時に道祖神も全部が境内の庭に移転した。子安社の舞台の庭の南端、子安社に向かって左側大きな栂の木の元に並んで、私が覚えている数でも二〇個位の石が建てられていたが、石ブームのあった時代に心無き人に持ち去られ、数少なくなってしまったことは残念なことです。
 大上に孫半さんと言う方が居り、この方が木戸を上り降りする度に、今まであった道祖神が無いこを心淋しく思い、近所の方たちと相談し小さいが形か変わった石神を建て、二月八日に寄り合ってお祭りをしたということです。
 孫平さんは信仰心が厚く又、区の役も多くやられていたので村中を歩く機会が多くあり、良い形をした石がNさんの庭あるのを見て、通る度にこの石を譲ってもらって道祖神にしたらと考えており、Nさん(チョンマゲ爺さんと呼ばれていた)に話をしました。Nさんも信仰心の深い人であったことから、良く承知し仲間に加わりました。
 この石についてはNさんが水出の折り、河原で田普請をしていた時風変わりな石が出たので河原の端から河原の坂下まで手間隙かけて独力で転がして運び、そこから家までは身内の若い者に選ばせて来たとのことです。

 三峰川の河原ではなく、田んぼの中から拾い出したもののよう。とはいえ、三峰川はかつてたびたび氾濫したことから、田んぼの中といっても、元は河原だったのだろう。先日触れた子安神社の道祖神は、そもそもこうした謂れでまとめられたものだった。そのうえで、かつてはもっとたくさんあったのに、現在はずいぶん減ってしまったという。いずれにしても、かつては自然石がたくさん、子安社へ上る道の途中に祀られていたという証言になる。いずれにしても、この道祖神が祀られることになるまでは、Nさんは講仲間ではなかった。石を道祖神として譲り、仲間に入ったということだ。その石を拾ってきたという方の息子さんが書き記したものを、そのまた息子さんがまとめたもの、ということになる。

続く

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年会へ 後編

2024-10-27 23:41:12 | 民俗学

 年会でのグループ発表は、A1という、研究発表メニューの真っ先に置かれる会場で行われた。事前の打ち合わせをした8月のウェブ打ち合わせの際、用意する資料は25部にするという話だった。「それほど人は来ない」というものだったが、その後のメールのやり取りの中で、Y先生にはカラー版で資料を作成したいと申し出ていたわたしは、30部郵送するという話をした。しかし、よく考えてみると、グループ発表は4枠を使って2時間用意されている。通常なら4人分の発表枠だ。とすると、最初に参加してくださる方々がその程度だとしても、後から参加される方たちには補助資料がない可能性がある。ということで、資料を用意してくださったY先生から送られてきた補助資料全体のPDFと同様に発表者それぞれから送られてきていたデータを構成して、同じような資料に組んで、さらに荷物になるのが嫌だったから、縮小版にして増刷して持っていくことにした。「万が一」というより、おそらく足らなくなるだろうと想定してのこと。

 昨夜の二次会が功を奏したのか、二次会に参加されていた先生方が大勢発表会場に足を運んでくださった。そしてS先生には厳しい指摘もしていただいた。そもそも今回のグループ発表は、ここ2年ほど活動してきた長野県民俗地図研究会のお試し発表でもあった。QGISで長野県民俗地図を作って、みんなで年会で発表をするという志で進めてきたが、実はQGISを利用して地図を作成するところまで、参加した会員全員がたどり着けなかった。例会や、専用の研究会も設定したが、なかなかソフトを理解するのに苦労された。ようは内容を深く詰めて発表というわけにはいかなかった。S先生には、ひとつのテーマに沿って地図を提示すれば分かりやすいのに、と言われたが、地図ありきで、地図により何を表すのかという部分については共通の視線を当てられなかった。ようはとりあえず作ってみた、そしてこういうことができる、をとりあえず示してみた、というのが実態だ。とはいえ、このような民俗地図に焦点を当てて年会で発表がされたということはあまりなかっただろうから、現代的手法の事例として、興味を持つ人たちには参考になったと思う。もっとたくさんの地図を作成し、その地図からどの地図を採用して何を見出していくか、そこまで地図のデータが膨らんでくれば、おのずとS先生が指摘されたようなところをカバーした発表が可能になるのだろう。これで「終わり」ではなく「始まり」なのだ。そういう意味でも、もっと会員の多くが「使える」ようになることが先かもしれない。

 結果的にわたしが用意した補助資料すべてがなくなった。「万が一」と思って用意した資料は40部あった。ようは70部はけたわけだが、そもそも会場は70席が定員だった。したがって出入りがあればそのくらいは必要だったということなのだろう。もう少し用意しても良かったのかもしれない。いずれにしても、とりあえず発表を終えられて、それも本来なら2時間枠なのに、5人で発表したから時間超過して、通常なら×の世界だが、5枠目が開けられていたせいで、その5枠目もフルに使って発表させてもらった。1枠目の午前9時半からお昼の12時まで、ずっと聴講いただいた皆さまには、感謝いたします。

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年会へ 前編

2024-10-26 23:01:06 | 民俗学

 國學院大學で開催された日本民俗学会第76回年会に参加した。2日間にわたる年会だが、今年はいつもと違う。何が違うかと言えば、長野県民俗の会でグループ発表する。わたしにとっては初めての発表であり、また民俗の会がグループ発表するのも初めてである。ということで明日のグループ発表が気になるところだが、いつもどおりシンポジウムに参加して、総会、懇親会へも参加し、そのあとの二次会も予定されていた。

 今年のシンポジウムのテーマは「祭り・芸能をめぐる現代的課題」というもの。発表は

桜井弘人「南信州における女性参加の実情と課題」
石垣悟「祭りのなかの『子ども祭り』」
矢島妙子「祭り・イベント・芸能とツーリズム」

の3つであった。大雑把に言えば、民俗芸能への①女性参加の現状と、②本来芸能に参加してきた人たち以外の人の祭りへの参加の現在(子どもを中心に)、③絶滅に瀕している芸能の復活の可能性、というものだった。とすると、民俗芸能の変容を前提とした課題に取り組もうとしたのか、とも見えるがその趣旨を読み返してみよう。そこには「祭り・芸能に焦点をあて、その現場がどのような課題を抱えているのか、論点の所在を明らかにすることを目的としたい」とある。さらに「このことは一方では、現代社会が抱えている諸問題が、その祭り・芸能に映し出されているともいえる」という。こうしてみると、現代社会で派生している問題を祭りや芸能のフィールドに探る、ということなのだろう。結果的に研究者が決めることではなく、民俗芸能を継承している当事者である地元の人々がどうするかということになるのだろうが、討論の中では、研究者として助言することが限界だろうということだった。民俗芸能分野では、希少価値のあるものに焦点を当ててきた風がある。発表者の一人、桜井弘人氏が「南信州は民俗芸能の宝庫である」と発表内で発言されたが、背景には国指定の無形民俗文化財が多いことによるものだという説明をされている。しかし、趣旨である現代的な課題で捉えようとすれば、周囲が民俗芸能の宝庫だということで、保護活動をしている政策の背景も現代的課題を創出しているとわたしは思う。このことはまた別項で触れるとして、女性参加に限らずこの地域で起きている事実と似通った事例が、討論の中の石垣氏の言葉にあった。

 石垣氏への質問に祭りに参加する外部の人は、どのようなつてで参加するのか、というものがあり、石垣氏は知人や学校の関係からつながっていると答えられた。石垣氏が事例として発表された「子ども祭り」は、大人の祭りに倣って子どもの祭りが創出されるというもの。そして子どもの祭りも本来の祭りと同じような形に変えていくともいう。子どもの祭りに参加した子どもたちは、成長するとそのまま大人の祭りにも参加するようになるといい、ようは本来の祭りを継続していくための2軍が出来上がっているようなもの。外部の人が加わって祭りが成立するというような例は飯田下伊那地域でもある。果たしてそこまでして継続するべきなのか、という意見もあるだろうが、そうした場合の祭りの伝承地とはどこなのか、という疑問も生まれる。この知人や学校つながりというところには、問題が派生するとわたしは考えている。かつてなら地域の祭りには資格のあるものはみな参加した。あるいは参加せざるを得なかったかもしれない。ところが知人や学校の関与で地域外の者が加わり、さらにそれが広がりを見せるタイミングが、まだ地域に大勢の対象者がいる中で行われると、地域の中で違和感が生じる。自分たちの祭りという意識が薄れる人たちが生まれるだろうし、祭りを担う人たちが「おともだち」組織に変わってしまう。もちろんそれが地域の本来の対象者だけならともかく、地域外の者がそのような「おともだち」の集まりに変わっていくと、地域内の不協和音も生じるだろう。ようは地域として危なくなるというわけだ。

 祭りに限らず聞き取りをしていると、つながりのある人たちが良好にとらえている事象が、実はそうでない人びとからは敬遠されている姿を目にしたりする。ようは人それぞれ思うところがあり、好き嫌いで見る人が必ずいる。そうした現実を加速させるような要因に、祭りがなってしまう可能性を秘めている。したがって全く成立しないほど人口が減少しているのならともかく、対象者がある程度確保できる状況で、外部から安易に人を増やすのには問題があると思う。したがって矢島氏が報告したイザイホーに至っては、1978年以降実施されていないという。観光の資源として復活させるとなれば、それは本来の趣旨に沿っていればともかく、人寄せという趣旨だけでは偽物ということになるだろう。

 確かに現代社会における課題が祭りには表れている、ということになるだろう。そしてそれを扱っていく分野として民俗学があるのだろう。さて、シンポジウム後の定刻に始まった総会は、今年も予定時間内で終わらなかった。昨年と同じ指摘で時間をくった。予算の問題だ。会場からの指摘は予想できたものだと思うのだが、そもそもこの議案は評議員会を通っている。評議員会で会場で指摘されたような指摘はなかったのか、とも思うが、その場に参加すべき者がしなかったのにどうこう言えるものでもないし、ちょっとわたしには発言はできない。とはいえ、このためだけに総会に足を運ばれた重鎮もおられただろう。わたしのような者でも、決算案を見て「わかりづらい」と思った。二次会はいつも二次会でわたしたち長野県民俗の会の仲間の二次会に加わってくださっているI先生のお誘いで、学会の重鎮の先生がたと席を同じくして始まった。総会が遅れたから懇親会も遅れて、二次会も予定より遅く始まった。二次会だけに足を運ばれたS先生、T先生は予定の時間には二人で始められていたよう。そこへ懇親会から合流したわたしたち、そして懇親会を設営してくださったI先生、総会で「このために来た」といって発言されたF先生も加わっての楽しいひと時を過ごさせていただいた。何といっても隣に座られたF先生から「あなたはわたしがいる間、一度も顔を出してくれなかった」と、あるわたしの身近な研究会へかかわらなかったことを指摘された。「近いのに」と言われ、まさにその通りなのだが、裏には「いろいろある」と察知されているが、どうしてもわたしの看板になってしまっているようだ、F先生には…。

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旧東部町赤岩の自然石道祖神

2024-10-25 23:18:36 | 民俗学

東御市赤岩旧道口の自然石道祖神

 

 『東信濃の道祖神』(岡村知彦 令和5年)において「横久根旧道口」と位置情報を記している道祖神が墓地の入口にあるもの。ここは、旧東部町赤岩で、墓地の北側はしなの鉄道が通っている。道祖神の祭祀空間なのに、お地蔵さんと、馬頭観音と、「奉納 秩父坂東西国四国 百八拾八ケ所供養」塔が建っている。もともとこの構成だったかはわからないが、道祖神が道祖神ととして受けとめられなくなるような構成だ。

 前掲書には「焼石」として陰陽対で祭祀されているものとされているが、実はその二つの石の背後にもう一つ、それらしい石がある。これは道祖神ではないのかどうか。1枚目は正面から撮影したもの。2枚目は左が女で、右が男、らしさを醸し出していると捉えるべきか。3枚目は少し上から撮影したが、背後にある石がわかるだろう。さらに6枚目はそれらを背後から撮影したもの。

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旧望月町春日本郷の道祖神

2024-10-24 23:40:02 | 民俗学

春日本郷泰國寺前辻

 春日本郷の泰國寺前の辻に写真の「道祖神」が建っている。以前触れたように、文字碑であっても、年銘のないものが東信には多く、この「道祖神」にもそれはない。「道祖神」の横に、ふたつほど「石」がある。もちろんこれが自然石道祖神ではないか、と取り上げているが、確実ではない。すぐ横にある石は台石かもしれない。さらに横の砂岩質の石は、相応に見えるが、果して…。

 

春日本郷2691番地先

 春日の2691番地先に建つ双体像は、写真の通りかなり摩耗している。まだ男女神の姿がのこっているだけ、まだましかもしれない。やはり横に自然石がある。最も大きなものは、陰石かもしれない。さらに二つの小さめの石と、固定されていない石が一つ。陰石と二つの石、計3個はアスファルト舗装によって固められている。置かれているというよりは祭祀対象物と見てよいのだろう。

 

「春日小学校入口」信号機東側

 あとは双体像をいくつか紹介しておく。「春日小学校入口」信号機の東側の空き地に、大きな石が置かれている。道路を整備した際に空き地ができてこの空間はできたようだが、その大きな石の脇に、双体像がある。光背の上部は欠損しており、双体像の摩耗も著しい。

 

角間川沿い旧道脇

 角間川沿いの旧道脇に建つものは、屋根が加工されている双体像だが、頭部の部分は両神とも欠損に近いほど摩耗している。それでも手を繋いでいたのだろう様子がうかがえて、かなり摩耗しているにもかかわらず、双体像の仲睦まじさがうかがえる。

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旧長門町古町の自然石道祖神

2024-10-23 23:30:58 | 民俗学

 

旧長門町古町改善センター西辻

 

 旧長門町の古町、古町改善センターの西辻に写真の自然石道祖神が祀られている。ここの自然石は三つと数えられる。そしてここのものは火山弾ではない。真ん中の石は石碑っぽい印象だが、無銘でこのままでは字を彫るのは大変そう。向かって右側の石も石碑らしい姿を見せるが、無銘である。左側の石に至っては「力石」かと思わせる。長久保に比べると北側にある古町の集落には自然石道祖神は少ない。ここの道祖神は北向きに祀られている。根元をコンクリートに固定されているから、盗まれるのを防止するためなのだろうか。

 自然石の道祖神は、その数を数えづらいということがある。ここのものは三つとはっきりしているが、例えば“続「自然石を祀る(長久保の道祖神)」”で紹介した長久保の例は、正確には数を数えられない。その理由は大小の石がまとめられていて、どこの事例もそうだが、小さいものをどこまで道祖神として捉えるか、となる。自然石道祖神の場合は、その数が流動的だとも言える。ようは個人的に追加することも可能で、祭祀空間が地域のものであっても、道祖神そのものはそれぞれの人によって認識が異なるだろう。個人的に「一緒に祀ろう」と思って石を加えれば、その数は増えもする。いっぽう持ち帰ってしまえば、数は減る。信仰対象として石を借りていって願掛けするということもあるのだろう。正確にいくつあるねか数えられないのは、そうした借用があったり、場合によってはその借用物が戻ってこずに減ってしまうということもあろう。像碑や文字碑と違って、異動が激しかったのではないかとも想像する。

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続「自然石を祀る(長久保の道祖神)」

2024-10-22 23:05:06 | 民俗学

自然石を祀る(長久保の道祖神)後編より

 

長久保12区の自然石道祖神

 

 前回触れなかった長久保の自然石道祖神が写真のものである。10区長安寺参道入口の自然石から南へ100メートルほどのところにある。ここの道祖神は周辺では認識の高いもののようで、信仰の篤かったものと思うが、現状を見ると近ごろはあまり信仰の対象となっているというふうでもない。火山弾系の石が多く祀られていて、数をてくつと数えて良いのか悩む。1枚目の写真は長安寺参道入口の自然石から南へ続く道から下段の街道道へ降りる縦道から見たもので、道端ではなく、少し歩く道を北へ入り込んだところに祀られている。ちなみにその歩く道には行政で通行しないようにバリケードがされている。

 2枚目の写真はこれら道祖神群の正面に当ると思われる。茶碗が置かれている石も火山弾で、これも元は道祖神の一つか…。3枚目は1枚目と同じ方向(南)から撮影したものである。4枚目は3枚目とは反対の北側から撮影したもの。さらに5枚目は背面(西)から撮影しようと思ったが、石垣になっていてそちらには立てないため、北側から背面を撮影した。長久保の自然石道祖神には、火山弾系の石が多い。

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滋野甲井子の自然石道祖神

2024-10-21 23:03:31 | 民俗学

小諸市滋野甲井子

 

 小諸市と東御市境に滋野というところがある。甲乙という地域があり、甲は小諸市、乙は東御市になっていて、どうも紛らわしい地域。『東信濃の道祖神』(岡村知彦 令和5年)では、「滋野」と括って一覧化されていて、集落別に記載されているからはっきりはするが、読む側はわかりづらい。そして、井子という集落の3600番地先の辻、南東側に道祖神が祀られている。繰り返すが、前掲書の中でどれかはっきりしないが、赤岩道口の自然石道祖神がそれなのだろう。そこには自然石1基のみ記載されている。しかし、写真を見ての通り、しめ縄と幣束が付いている石は2基ある。さらに周囲にある石は何か、ということになる。

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北大出新明神社例祭へ 前編

2024-10-20 23:32:30 | 民俗学

本殿

 

お宮参りの扇子、麻、真綿

 

廻り舞台

 

宝石(以上令和6年9月10日撮影)

 

舞台の引幕「鞍馬天狗」(令和6年10月20日撮影)

 

 10月第3日曜日は、辰野町北大出神明神社の例祭である。かつて「北大出神明社の天狗と獅子(昭和61年の記憶70)」を記したが、その昭和61年以来の例祭を訪れた。祭りの内容は前項に記している通りだが、「舟は「お舟道」と言われる道を上って境内に入る」と記しているが、今回その道の名を聞いたが、「お舟道」とは聞けなかった。今年の年番は、原小路で、詳しそうな方に聞いたのだが、「とくに名はない」とのこと。五つの集落で年番を務めるのは、もう半世紀になるようだ(昭和49年に信濃毎日新聞社が刊行した『信州の芸能』に「今では地区内を五つに分け、当番制でゆってましてね」とある)。

 今回話を聞いて、驚く話を聞いた。天狗が三つ登場するが、それぞれ持ち物が違う。最初は扇子、次は笹、三つめは杉の葉だろうか。最初に登場する天狗の扇子は、お宮参りで奉納された扇子だと言うのだ。実は9月10日の昼休みに、神社を訪れた。そもそも訪れた理由は、お宮参りに扇子と、麻と、真綿を奉納していないか確認したいと思って昼休みにいくつかの神社を見て歩いた。その際の写真を紹介しよう。ここの神社にもその3点がセットで奉納されていた。辰野町エリアでのお宮参りの特徴とも言える。

 また裏山には巨石が祀られていて、チャート系の石である。辰野町の西山は粘板岩の地質で、点々とチャートが露頭する。この巨石は「宝石」と言われていて、元々は富士山にあったという。その富士山がどこにあったのか、何人かに聞いてみたが、はっきりしなかった。そもそもこの宝石そのものを認識されていない人も多い。富士山には単独でこの石があったようで、「一つ石」と呼ばれていたという。大正3年(1914)に大正天皇即位記念として新明神社に安置することになったという。

 もうひとつ、ここの舞台は大きな舞台で廻り舞台となっている。もちろん今は動かないのだろうが、直そうと思ったが高額な費用がかかると知って辞めたようだ。明治5年(1872)に建てられたもので、地芝居が行われていたという。舞台は本殿側に向けて建てられており、庭は舞台から山に向かって傾斜しているとともに、背面に斜面があって、境内は窪地になっている。ようは桟敷席スタイルになっている。この舞台前の庭が、天狗と獅子の入り乱れる舞台となる。

続く

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美篶芦沢子安神社 自然石道祖神

2024-10-19 23:38:16 | 民俗学

伊那市美篶芦沢子安神社 自然石道祖神

 

 2022年1月に「自然空間の道祖神」を記した。伊那市芦沢の子安神社にある道祖神のことについて触れたのだが、あらためてここの道祖神について今回触れることにした。その理由は後編にまとめるため、とりあえずここでは子安神社の道祖神を再確認しておく。

 知らない人がこれらの石を見ても「道祖神」だとは思わないだろう。境内の一角、木の根元に石が散在しているという感じだ。どこにでもある光景である。先日芦沢で道祖神のことを尋ねていたら、子安神社の道祖神が話題になった。ここにある道祖神は、明治時代の末期に芦沢地区内にあった神社を1箇所に集めさせられたという。いわゆる合祀させられたというわけで、その際に道祖神も子安神社へ移されたというのである。集められた際には20個くらいの石があったという。もともと自然石であって石碑ではないから、どのように集めたものを祀ったのかは、現状からは推測しがたい。ところが石のブームがあった時代、心なき人が持ち去ったため、数はへってしまったという。現状にある石は、数えて6個。根元側にある小さな石は、道祖神ではないかもしれない。とすれば5個。だいぶ減ってしまっている。繰り返すが奇怪な石であれば、庭石としても好まれる。ただ、現状にある石は庭石にするには小さい。裏を返せば、盗まれた物は大きな石だったのかもしれない。

 写真は多方向から撮ってみたが、一つ明確に花崗岩が混ざっている。これがもともとあった道祖神化は分からない。いずれにしても現在は緑色片岩系の石とともに転がっている。どの石もどちらかと言うと「転がっている」で似合っていて、「祀られている」、あるいは「建てられている」という印象は薄い。一応子安神社にまとめられた、という意識は今の人たちにも認識されているようだが、ここにある石が、信仰の対象として「祀られている」という感じではない。

続く

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中尾の丸石道祖神

2024-10-17 23:24:31 | 民俗学

伊那市長谷中尾 丸石道祖神

 

丸石道祖神背後の陰陽石

 

 ブログ内検索しても発見できない。ということは、今まで記していなかったのか?、と事実を知るが、そんなことはない、とも思ってまた別のキーワードで探すが登場しない。長い日記なので、どこかで書いているのでは、と思うと、おおかた同じようなものが発見されるが、こういうケースもたまにはある。

 自然石道祖神が現在のテーマであるが、意外にも伊那市長谷中尾の丸石道祖神が発見できない。したがってもしかしたら重複しているかもしれないが、ここで中尾の道祖神について触れる。

 丸石神というと山梨県である。とても丸石の道祖神が多い地域。その延長線上にある諏訪や長谷にあって不思議ではないが、実際はそれほど丸石神は多くない。とくに道祖神となると、山梨型のものは本当に稀だ。その中の一つが写真の中尾のものだ。実はこの道祖神は台石に「道祖神」と刻まれている。したがっていわゆる無銘の自然石というわけではない。もちろん球形の本体には文字がないが…。この丸石神の周辺に陰陽石がいくつかある。2枚目の写真がそれらで、背後にあるから、もともとはこれらが道祖神で、丸石神が祀られたことで背後に追われたのかもしれない。左端は頭にまさに頭のように石が載せられていお地蔵さん風になっているが、本来は上の石は無かったもの。右側の二つは、いずれも男根である。亀頭冠は以前にも触れたように硬い鉱物の部分が残って輪状になったもの。故に男根に見える、というわけである。

 だいぶ石の表面が苔むしていて(というか黒ずんでいて)石質がはっきりしない。しかし、丸石神は風化の状況から明らかに花崗岩である。不思議なことに、三峰川下流域では上流域の違った石を好んで祀っているのに、ここでは逆に中央構造線谷にはない花崗岩をあえて祀っている。どこから運んできたのかわからないが、こういうケースもあるんだと気づかされる。

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あるオコシン仲間の掛軸

2024-10-16 23:17:05 | 民俗学

庚申掛軸

 

甲子掛軸

 

 昨日中信のあるオコシン仲間の道具を見せていただいた。やはりコロナ禍に陥ってオコシン仲間は衰退しそうだが、全て同姓の仲間と言われるここのオコシン仲間は、葬儀の道具も当番に渡していた。たまたま訪ねた家にそれらは留まっているが、その葬儀道具とは祭壇だった。いわゆる家に飾られる祭壇で、今でこそ葬儀場で葬儀を行うが、かつて家で葬儀をした際にはこの祭壇が葬儀の場の祭壇となった。敷物もあったが、これら道具を直近で利用したのは見せていただいた家で行われた令和3年の葬儀だったというから、最近まで使われていた。「うちが最後かも」と言われていたが、留まったまま次の家に渡されることはないのかもしれない。

 道具を見せていただいていて、直近の葬儀の話題になった。先ごろ行われた葬儀で、今では珍しい精進落としが家族のみではなく、参列者にオープンな形だったという。コロナ禍を経て、葬儀も精進落としも「家族葬」、あるいは「近親者のみ」というのが当り前になった中で、新聞のお悔やみ欄にもそうした記載がなかったという。当日会葬して従来のスタイルで行なうことを知ったという人も多かったよう。

 さて、ここのオコシン仲間で庚申講を行う際の掛軸を見せていただいた。二つ掛けるのだというが、一つはいわゆる庚申の掛軸であるが、もうひとつは甲子の掛軸のよう。いずれも表装が同じスタイルなので同じ時期に購入したものなのだろう。甲子の掛軸の方に「明治十五歳」とある。実際に購入されたのはもう少し後のようだが、甲子の掛軸の方が一まわり大きい。

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東信の道祖神と五輪塔⑨

2024-10-15 23:47:17 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔⑧より

 

佐久市望月春日新町道祖神脇の五輪塔残欠

 

 佐久市望月の春日本郷から細小路川沿いに少し遡っていくと(南へ)新町の集落がある。かつて宮之入の根神社の三番叟を訪れたことがあるが、その根神社から新町集落へ続く道の先、三叉路に双体道祖神が2基祀れている。四角く石で囲われた空間にそれらは祀られているが、いずれの双体像も像容ははっきりせず、ほぼすべて摩耗してしまったという感じ。先般も触れたが、この地域にはこうした双体像がよく見かけられる。摩耗しているから古いとも簡単には言えず、これらは石質によるところもあるのかもしれない。とはいえ安山岩系の石を利用しているのだろうから、それほど柔かいわけではないだろう。

 その双体像が祀られている空間の外側に五輪塔の残欠がある。ここもまた道祖神の祭祀場所に五輪塔があるということは、道祖神と無関係では無いと思われる。岡村知彦氏の『北佐久石造文化財集成―望月町―』(平成5年)には、道祖神と共に「空風輪」の五輪塔片と「火輪」が掲載されている。確かに「空風」の横に四角い人工的な傘があり、これが「火輪」なのだろうが、「空風」と重ねてもバランスが悪く、これらが一つのセットとは思えない。別の五輪塔の残欠と思われる。ちなみにこれら残欠は道祖神の一覧(『東信濃の道祖神』)には記載がない。

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子獅子誕生の背景 後編

2024-10-14 23:15:40 | 民俗学

「子獅子誕生の背景 前編」より

 

 大正11年に発行された『中澤村誌』の「曽倉館趾」に次のようなことが記されている。

天文十九年仁科信友(又の名穴山梅園)其子佐衛門佐(又の名穴山梅雪)と共に高見に居住し、同時に曽倉に別館を設けて梅園常住せりといふ。永禄五年穴山氏の封を駿河に移すや妻子を北原氏に託して去る或時梅雪の女神楽獅子に驚き即死せしかば之を居館の傍に葬り今に其塚あり幾許も無くして夫人は駿河に移りて廃館となる爾来北原氏は館跡に居住す同家にては今に至るまで家法として神楽獅子の門内に入るを許さず又城主の遺物ありしが明和五年火災に罹り古文書一切と共に焼失して傳はるものなし、灰燼中より発見せし無銘の短刀二口あり前記梅雪の女の短刀なりと今に傳ふ。

 曽倉館は現在の本曽倉にあった。ということで、地元では御坂山神社の獅子舞はこの当時からあったと伝えられるが、事実としても現在の獅子舞がそのまま当時のものとは言い難いが、古い時代から舞われているということは言えそうだ。こんな話を御坂山神社の獅子頭を製作した北原氏(前述の穴山梅雪の話に登場する北原氏とは異なる)が前編でも触れた『伊那路』(北原親房「神楽面のはなし」平成2年4月号)に記している。光前寺に伝わる青獅子について旧本曽倉村原での言い伝えとして「もとはといえばここの寺(廃寺京宗寺)にあったもので、それがあるとき光前寺にいったままもどっこなかった」というのだ。真偽はともかくとして、青獅子に関する謎めいたものを抱く。北原氏は獅子頭を造ってほしいと言われ、引き受けるにあたりあちこち頭を見て、御坂山神社の古い頭をよく調べたよう。そして向きを違えた三つの部材を漆で接いだ寄木材によって製作されていたことに気づいた。木材の欠点である割れに対する配慮によるものと北原氏は言う。

 試作品1号を造るにあたり、木材を乾燥するのに電熱炬燵を使ったといい、「多少の満足と反省」の1号が完成したという。材料の制限もあって、2号、3号は8割ほどの小さな頭を造った。そして本番の頭造りとなったよう。本番の4号完成は昭和59年の3月半ばだった。そして新聞披露になったというから前編でも触れた中日新聞に記事が掲載されたと思われる。早春に塗師に依頼するため、富山県井波へ一泊の旅行をすることになった。参加者は20数名だったという。その一泊は山中温泉で、その席で「縮小の試作品をしあげ子獅子として小中学生を神楽に加える計画など話題のはずむ愉快な席となった」と北原氏は記している。ようはここで子獅子計画が話し合われたというわけである。「小型の面は二年後さらに三つ加え計五つのうち、赤三、青緑二と色をちがえこれを女獅子の五つ仔誕生に看たてた」という。現在の獅子舞の背景には、①光前寺の青獅子、②穴山梅雪の娘が死んだという話、③御坂山神社の獅子は雌だという言い伝え、などから創作された世界が描かれていると言えるのかもしれない。いずれにしても、子どもたちにも獅子舞に親しんでもらうための仕組みが、頭の新調を契機に完成されたわけである。

 

子獅子は「青獅子」である

 

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荒井神社獅子舞

2024-10-13 20:38:49 | 民俗学

拝殿前での「舞出し」(令和6年10月13日 午前10時)

 

「舞出し」後に宮司からお祓いを受ける

 

出発前に鳥居前において、これから記念撮影

 

上荒井の家々へ

 

屋台の内部

 

戸毎舞「おかざき」

 

 伝播が正確に捉えられている獅子舞の例は少ない。今日明日と宵祭り、本祭りが行われる伊那市荒井神社の祭典に奉納される獅子舞を訪れた。この獅子舞にいては『伊那市のまつり』第1集(平成12年 伊那市教育委員会)に詳しく記述されている。現在の荒井区には伊那市駅があったり、現在も長野県の合同庁舎があったり、またかつては市役所もあったりと、この地域の中心地にあたる。このように中心地になったことで、明治から大正にかけて統一の神社を設けたいという機運が高まった。大正8年から造成が始まり、拝殿が完成したのは昭和5年だったという。当時の青年会が造成や植栽工事に関わったことにより、青年会では昭和8年の祭典に奉納する芸能を検討したという。「全員が参加できる大型獅子舞」をという考えから、飯田市松尾1丁目の獅子舞を伝授したいと申し出たという。快く引き受けてくれたようで、松尾町より師匠5人が訪れ1か月宿泊して特訓を受けたという。そして同年10月1日、2日の例祭奉納にこぎつけたということで、獅子舞発生の謂れがはっきりしている。

 松尾町1丁目の獅子舞は6年に一度のお練りにしか舞われない獅子舞だった。現在の東野の獅子のように。飯田下伊那における屋台獅子の最も古風なものだったといわれるが、既に途絶えて久しい。したがってその獅子舞が伝わっている正統な伝承地とも言えるのだろう荒井神社は。この松尾町1丁目の獅子は「松一獅子」と言われ知られていた。前掲書とは少し記述が異なるが、屋台獅子が盛んな飯田下伊那の獅子舞について企画展が平成22年に飯田市美術博物館で開催され、その図録(飯田市美術博物館『獅子舞』平成22年)に桜井弘人氏によって解説がされている。それによると松尾町1丁目の獅子舞が途絶えたのは昭和31年だったという。飯田の大火による頭の消失も影響したのだろう。演目として「道中」「舞出し」「うた」「鈴が舞」「おかざき」「ねらい」「おひょうひょろ」の7種だったという。大火後あらためて獅子頭を新調したようだが、焼けた屋台の代わりに「舵の付いたリヤカーに似た一つの前輪と、木枠の両側に固定された二つの後輪が付いていた」という(図録85頁)。実は荒井の屋台は鉄枠でできており、「いつこれにしたのですか」と聞くと「最初から」と答えられた。昭和8年当時のものにしては少し新しいようにも見え、これについては再確認したいが、おそらく伝授した荒井神社の獅子を、伝えた側の松尾町1丁目は大火後見ていたのではないだろうか。まさに現在の荒井神社の獅子屋台は、前輪一つと後輪二つで、前輪に舵が付いている。宵祭りでは上荒井の家々を回り、本祭りには町の中を回るという。段丘があるから、木枠の屋台では重くて無理があっただろう。そう考えると、当初から現在のような屋台を考案していたのかもしれない。

 さて、現在の荒井神社の獅子舞では獅子は1頭のみである。ここでは各戸を回ることから回り切れないといって昭和26年に雌獅子を新調して増やした。それから2頭で回っていたようだが、もうずいぶん前から保存会の人手が減って1頭のみの奉納になっているよう。今日回っていた頭は雌獅子ということで、昭和26年に新調されたもの。昭和20年代にはこうして盛んになった獅子舞も、昭和30年代に青年会員が減少して獅子舞そのものも中断した時期があったという。もともと松尾町1丁目からは「道中」から「おかざき」までの5曲を教わったようだが、現在は神社での舞初めに「舞出し」が舞われ、あとは各戸を回る際は「おかざき」が舞われる。家によっては「舞出し」を加えるというが、いわゆる大神楽の舞である「鈴が舞」は、復活しようとしているが、今は舞えないという。したがって祭礼では「舞出し」と「おかざき」の2曲のみが舞われるようだ。あと「うた」についてはお祝いの席で舞うことがあるという。この地域では珍しい屋台獅子が、2日間にわたり地域を舞うわけで、その数は200戸ほどという。ちなみに区内の戸数は1500戸ほどという。

 

 この日は午前8時30分から子どもたちによる相撲大会が境内で、また12時からはガラポン抽選会が行われていて、ずいぶん賑やかだった。さすがに戸数が多いだけに、「昔の農村のお祭りは、こんな光景だったのだろう」と、そんなことを思った。

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