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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続 古本を買う

2025-02-11 20:38:16 | つぶやき

 昨年11月に「古本を買う」を前後編で書いた。その際にも記したが、「注文してもすぐに届く」。最近「山の神」について触れている中で、どうしても読みたい本があった。『山の神信仰の研究』である。同書は伊勢民俗学会 が1966年に刊行したもので、第5回(1966年)柳田(國男)賞を受賞した際の対象業績である。その後昭和55年(1980)に増補改訂版が刊行されていて、大幅に増ページしている。この読みたかった本であるが、県内の図書館で閲覧しようとして検索すると、たった1館しか所蔵していなかった。さらに所蔵しているものの閉架扱いで貸出不可なのだ。541頁にものぼる本だから手元で読みたい。ちなみにその所蔵されている館のものは増補改訂版だった。

 そこで検索したのはもちろん古書である。541頁もある本だから高額なことは予想していた。本日現在は初版本は14書店が掲載していて、最安値は8800円。最高値は27500円と幅がある。先日最も安かった1万円以下の書店へ注文したのだが、よく考えると初版本ではなく増補改訂版が欲しい。そこで初版本はキャンセルし、あらためて増補改訂版を探してみた。ちなみに本日の検索では7書店あり、最安値は22000円、最高値は41800円である。この増補改訂版の刊行当時の定価は11800円だった。もちろん当時は消費税の無い時代。

 実は堀田吉雄先生の『山の神信仰の研究』という本は、若いころに認識していた。しかしとても購入できる価格ではなく、「買えなかった本」である。堀田先生には会ったことがある、というよりは同じ空間にいたことはある。まつりと同好会の27周年大会が昭和62年3月28日に行われ、その会場に参加されていた(「昭和62年の記憶」でこの27周年大会を触れたと思っていたら、当時忙しくて書いてなかった。かろうじて翌々日の白骨温泉行の記事だけ本日記には掲載されていた)。まつり同好会を主宰していた田中義広先生と堀田先生の交流は深かったと記憶する。堀田先生と言えば伊勢民俗学会であり、『山の神信仰の研究』だった。その本を35年以上経てようやく読んでみたいと思っているわたしの学識の無さは勘弁してもらう。さて、本日検索すると最安値でも22000円なのだが、数日前にはとても安いものが古書一覧に掲載されていた。ただ購入する際にちょっと悩んだ。ようは状態が記載されているのだが、「函(ヤケ・シミ・スレ・少剥し跡・少汚れ)付 本体少ヤケ 小口少シミ・少汚れ 扉頁少シミ 終頁少汚れ 開き癖」とあった。ほかと比べてとても安かったので、かなり傷んでいると推測した。あと心配だっのは、以前購入した本にページの欠損があったこと。実物を見ずに購入するからそういう心配は伴う。とはいえ、傷んでいても読みたいのが優占だから最安値を選択した。そして決裁して書店が送付したのは月曜日の夕方。そして今日着くのである。急いではいないのですぐ着かなくても良いのだが、早さは相変わらずだ。そして何と言っても状態である。古い本だから黄ばんでいるのは当たり前。我が家の書斎に置いてある本だった黄ばんでいる。そして届いた本は予想以上に綺麗。あの状態コメントはまったく気にならない。良い買い物をしたと安堵している。

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〝あしなか〟

2025-02-05 23:37:18 | つぶやき

 最近友人が「〝あしなか〟を辞めようかどうか悩んでいる」と言う。〝あしなか〟とは、山村民俗の会が発行しているもので、歴史のある研究会の機関誌である。かつては年に何号も発行していたものの、最近は発行数が減っているうえに、内容も薄くなっている。さらに最近は毎号送付される度に会費納入用の振替用紙が同封されていて、先々の会費まで催促されているようで、そもそもちゃんと会費の納入について整理されているのかどうか心配になってくる。会員数が減って、それほど煩雑ではないと思うのだが、しばらく前には残金がなくて会報の発行が厳しい、みたいな報文が同封されていた。最新号である331号が送られてきて、そこにも振替用紙が同封されていて、振替用紙には手書きで「8年」と朱書きされていた。ようは令和8年分の会費を納入する際に利用してほしい、といった意味のよう。まだ7年が始まったばかりだと言うのに…。

 実は今号には2枚の手紙のコピーが同封されていた。1枚は編集者である岡倉捷郎さんの「いま灯りを点し続ける意味」というもの、もう1枚は事務局の塩野谷昭夫さんの「参々壱巻の重み」というものである。いずれも会の状況はひっ迫していること、会員の高齢化や減少といった状況において、〝あしなか〟を継続するべきなのか廃刊にするべきなのかという問いである。一時は300名いた会員が、今は85名だという。同じような状況はどこの会にもあることで、この後こうした発行物は皆がみな消滅してしまうのかもしれない。友人とこのことを話しながら、過去の話を思いだして昔の会報を書棚から取り出してみたりした。すると手元にある最も古い会報は152号だった。そこには新入会員の名前が一覧化されていて、わたしの名前も印刷されている。昭和52年の3月に発行されたもの。わたしがまだ高校1年だった時のものである。当時は年5回発行されていて、会費は2000円だった。現在は会費7000円で年3回発行が目標なのだろうが、会務報告をよく見ると今号を発行すると次の号は金銭不足で会費が入らないと発行できないよう。そもそも今号は昨年度の発行予定のものだったという。これはかなりヤバい状況であることに間違いはない。そんな話を友人としながら、「いつから入っているの」という話になって前述のように最も古い会報を紐解いた次第。会では令和3年に最も新しい会員名簿を発行している。名簿にはそれぞれの入会年が記されていてわたしのところには「昭54」とある。あらためて古い会報を取り出してみて、これが間違っていて昭和52年だとわかった。友人は平成15年に入会している。

 古い会報を紐解いてきて、友人に見せたらコピーをされていた。もう少し会員を継続するよう考えるかどうか…。実は入会後間もない157号へわたしは稚拙なものを投稿している。事例を並べただけのごく短いものである。昭和53年の6月に発行されているから、高校2年の時に書いたものだろう。山村民俗の会は、当時復刻本を刊行していて、第2期として101号から160号までの復刻本を昭和56年11月末から配本していた。その第2期全4冊は、34,800円もしたが、注文したので手元にある。その配本された本を開いて見たら、当時のパンフレットが挟んであった。それが下記に載せたもの。スクロールしてもらえば見開きの右側も閲覧できる。160号まで復刻されたから、唯一わたしが投稿した短文も、ここに収録されているが、見るに堪えないような内容である。過去の会報の内容を紐解くと、あらためて「こんな記事もあったんだ」と気づく。155号には横山篤美さんが「野荒し柱の立つ村」をまるごと1冊に書かれている。現松本市の稲核について書かれたもの。しばらく前に稲核には何度も足を運んでいたが、こんな記事があったことすら知らなかった。もう一度読み返してみたい。

 

 

 

 

 

 

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懐かしい〝物語〟

2025-02-03 23:01:26 | つぶやき

 昨日は、仕事でお世話になった方の叙勲の祝いの席があり、招待をされて出席させていただいた。かつて叙勲についても記したことがあるが、公な立場に無い者には、叙勲などというものは無縁な世界である。したがって親戚筋に対象になる人がいない限り、まずそうした席に関わることはない。招待ともなると、対象者にとってそうした立場(仕事上で縁があり、その上で自らが代表的な立場)に無い限りあり得ないこと。ようは叙勲の対象どころか、そうした席に出席する機会すら無いだろう。そういう立場で招待を受けたのは、過去に1回限り。今回はすでに一線を退いているから通常であればそのような席に出る機会も無いのだろうが、受賞された方が受賞対象の立場にあった際に「お世話になった人たち」を対象に招待されたため、現役というよりも「元」立場の方たちが大変多かった。したがってわたしも懐かしい方たちと再会できて、過去話で盛り上がらせていただいた。この後「会うことはあるだろうか?」、そう思わせる方たちとも顔合わせでき、もしかしたらもう会うこともないのかもしれない、と思いながら交流をすることができた。

 今から15年ほど前、受賞された方がその組織の改革に立ち上がられた際に、支えておられた事務局長さんとは3年ほどのおつきあいだけだったが、その改革を演出された第一人者とわたしは思っている。もっと長くその立場を続けられると思っていたら、道筋ができたところであっさりとお辞めになった。でもわたしの中では存在感の大きな方だった。その方とも昔話で交流でき、しっかりと当時やってきた会計検査のことで懐かしく話ができ、「あの時」を知っている数少ない関係者だけに、あらめたてその方の偉大さを確認できた。会計検査の経験値の高い方、ようはわたしから言わせると「当たり屋」である。そうした方に当時わたしが示した検査院へのやり取りを褒められると、その後の自分の糧になった事件だったと気づくわけである。その際には受賞された方も同席していたわけで、3人だけが知る物語なのである。

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須沢の記憶

2025-01-31 23:04:05 | つぶやき

 古くは2005年の「夜中の赤石林道越えをしたころ」に、霜月祭を度々訪れていたことについて次のように記した。

かつてはこのように八日市場に始まり、10日が南信濃村木沢、11日が上村上町、12日が上村中郷、13日が南信濃村和田、14日が上村程野と南信濃村小道木、15日が南信濃村八重河内(尾島)、16日が南信濃村須沢、17日ころ(ちょっと忘れてしまったが、20より前だった)南信濃村大町と続き、正月に南信濃村上島と上村下栗で行なわれた。連日のように行なわれるため、平日に連続して行くことは仕事にも影響があるため、なかなかできなかった。それでも、たとえば8,10,11,12,14,16というように年に5回か6回は足を運んだ。

昭和61年を中心に前後の時代である。そこに「須沢」の地名があり、この日記での初出である。「夢の弾丸道路」は、その翌年に記した。先ごろも「中央道「幻の南回りルート」とは? 決定後に経路を変更した理由。【いま気になる道路計画】」(1月28日 メルマガ「KURU KURAニュース」)という記事がヤフーニュースに掲載された。わたしの日記にも「左側が東京方面、右側が名古屋方面てある。左端に大井川畑薙ダムが描かれ、真ん中左よりに県境ラインが引かれている。その上に長大トンネルの易老嶽トンネルが表示されている。右側へどんどん下っていき、北又渡、須沢と遠山川沿いに下り、遠山谷最下点の上島へ至る」と記している。ここにも「須沢」が現れる。この中央道「幻の南回りルートが完成していたなら、遠山川上流域は全くことなった景色となっていただろう。もちろん狭い谷の中だから、もしかしたらこんな道路が完成していたら、とっくに須沢の集落は消滅していたかもしれない。

1月28日 メルマガ「KURU KURAニュース」より

 

 さてその須沢については、「須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)」で祭りについて触れた。当時まだ行われていた須沢の霜月祭の記憶を呼び戻したものだが、最近感慨深い話を聞いた。『伊那民俗』139号(2024/12/19発行 柳田記念伊那民俗学研究所)に近藤大知氏が昭和50年に野牧治氏が撮影した霜月祭の写真とともに、祭りのことについて触れている。その中で「須沢には昨年まで住人がいたが、高齢を理由に転居したため、無住の集落となった」と記されている。ようは廃村となったといって良いのだろう。もちろんこうした山中の集落は、無住になったとしても里から通いで耕作、あるいは管理に往来する人がいるから、まったく人影がなくなったというわけではないだろうが。

 以前にも記したが、平成10年に地滑りが発生して霜月祭は途絶えた。その際にも様子をうかがいに向かったが、須沢の集落はわたしにとっては記憶の深い地である。等高線沿いに下栗に向かう道の途中から、祭りが行われた宇佐八幡社までの道を開ける仕事に携わった。それこそ祭りに訪れる直前の年に初めて道から分岐する箇所の測量に入って、どう下って行けばよいか、まったくの新道だったこともあり、悩んだものだ。その道の先に1軒家があり、さらに八幡社の近くにも1軒家があって何度となく立ち寄った。

 考えてみればそれから40年である。当時50歳の人だったら90歳。そんなに若い人と話したことはなかったから、もはや鬼籍に入られている方がほとんどだろう。したがって人がいなくなっても当然なのかもしれないが、そもそもわたしの仕事は、そうした道のまだない家々へつなぐ道を造る仕事だった(本日記では時おり書いていることだが、こうした道は、もともと「農道」で開設されたものが多かった)。須沢だけではない。南信濃をはじめ、下伊那郡内のあちこちで新道を開設した(例えば南信濃なら十原、此田など。上村なら大野、風折。天竜村なら倉平、梨畑など)。しかし、山の中の点々とした家々へ造った道は、もはやその先に住人の居ない状況になっている道は多い。何のための道だったのか、と。

 ここでは「須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)」に掲載しなかった写真を引用して、あの時代の霜月祭を偲ぼうと思う。

 

 

昭和61年12月16日(1986)撮影

 

「遠山谷の今」へ続く

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学習しない人たち

2025-01-28 23:21:04 | つぶやき

 運転に関することは何度となく書いてきた。思い出すように同じようなことを書いてしまうが、それほど鬱陶しいというか、腹立たしいことが多い。以前にも記したかもしれないが、いつもと同じことを繰り返していれば、学習能力によって鬱陶しいことを回避したいと思うもの。それを繰り返し学習せずに繰り返す人は、頭が悪いんじゃないか、と思うのはふつうだと思う。

 いつも通り我が家の近くまで来ると、前に車がいれば、とくに車間を長めに保つ場所がある。左折する車が直進する車より多い交差点。左折レーンがあるわけではなく、みながみな左折する車はブレーキをかけるから、当然のこと後ろについている車は減速せざるを得なくなる。直進車もだ。わたしはほぼ100パーセント、その交差点は直進する。したがって車間を詰めると自ずとブレーキを踏まなくてはならなくなるため、あらかじめ車間を長くとってブレーキを掛けずに減速だけで通り過ぎることを選択する。ところがだいぶ手前から徐々に減速するから、わたしの後ろについている車は接近してくる。鬱陶しいわけである。時には後ろについた車も直進する車だったとすると、わたしの前の車が減速して左折支指示をすると、わたしがいるのに対向車線にはみ出して左折車を追い越すようにわたしの車も含めて抜いていく車もある。わたしは左折指示など出していないのに。

 後続車の学習能力のない例はいくつもある。例えばやはり交差点でのこと。前方の交差点の信号機が赤になりそうなのでアクセルを戻して減速していく。にもかかわらず右折しようとする後続車が前方にいるわたしの車を右折レーンに出て抜いていく。もうすぐそこに信号機があるというのに、あえて追い抜くように右折レーンに入っていく。赤なのだからそんなに早く行ったとしても停止しなくてはならないことが目に見えているのに、スピードを上げて右折レーンに入って行くのである。こういう交差点の場合、信号機が青くなったとしても、対向車が繋がっていればしばらく右折できないのに「何を焦っているんだ」というしょうもない行為だ。

 同じような例だが、信号が赤で、あるいは赤になりそうなのに、横道から出ようとしている車の前に出て、道を防ぐ行為。当然のことだが、交差点であれば前が詰まっていれば開けなくてはならない。詰まっていないとしても前方の信号機が赤であるならば横道から出ようとしている車は出させてあげるのが常識だ。とくに自分側のレーンに入ろうとしているのではなく、対向車線に出ようとしている車がいて、対向車が来ないのならなおさらだ。少しは周囲のことも見ろよ、考えろよ、学習しろよ、と思う。

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手紙を書く

2025-01-22 23:14:43 | つぶやき

 新年早々「年賀状じまい 後編」において、「「年賀状」ではなく、自分スタイルの新年のあいさつに変えれば良いだけのこと」と書いた。そして「もう少し歳をとったら、そんな仕掛けに変えていきたい」とも。その後6日ころ新たに年賀状が届いて、遅くなったがもちろん返信は投函した。しかし、あまりに遅い年賀状となってしまったため、あらためて「自分スタイル」ではないが、手紙を書くことにした。近ごろはメールで返信すれば早いし、字のきたなさも目立たないから楽なのだが、あえて手紙を書くことを選択した。ということで、久しぶりに手書きの手紙を書くことに…。最近は、もし手紙だとしてもワープロで印刷して出していたから、本当に久しぶりだった。もちろん半世紀近く前は死語となった文通好きだったから、面倒とも思わないが、なにしろ年老いてくると漢字を忘れているし、勢い文字を間違えたりする。なかなかワープロで文字を打つようなわけにはいかない。

 とはいえ、実は最近はワープロも、かつてのように早く打てない、というか文字を間違える。文字を羅列していく順番をよく間違えるのである。したがってこの頃、backspaceキーを押すことが多い。なんだかしらないが、最近のパソコンは昔のように思うような漢字変換をしてくれない。ようは思うような文章を書くには時間がかかる。単純に年老いた、だけではないと自分では言い訳をしている。先ごろ提出した原稿も、初校があがってきて読み返していると、あまりに程度の低い間違いをしていて、「こんな間違いをするはずがない」と印刷屋のせいにするが、あらためて原稿をパソコンで開くと、確かに間違っている。情けない事実である。

 さて、その後も数通手書きの手紙を出している。いずれも年賀状のお詫びのようなもの。さすがに茶封筒では、と思い便せんや封筒を買い足そうと文具を売る店に行ってみると、ちょっと気の効いたものを買うと、1000円くらいしてしまう。そこへ値上げされた郵便料金となると、手書きで手紙を書くのも、もはや贅沢な世界だ。だが、手紙をもらう方の気持ちになってみればどうだろう。もちろん年老いたわたしの捉え方であって、若い人は無駄だと思うのだろうか。カタチ、モノにこだわってきたわたしたちとは、世界が全く違うように見えるこの後の世界。そもそも年賀状を「出す」という意図が意味不明なら、手紙を書くなどと言う行為は選択肢から消滅しているのだろう、若い世代からは…。今こそ、「手紙がいい」とわたしは思う。

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「ブラク(漢字)」は消された

2025-01-10 21:15:02 | つぶやき

 かつてこの日記の中で「被差別ブラク(漢字)」について何度か記した。ここに「」の中にブラク(漢字)を挿入していたが、気づいたら本ブログでは「」表示になっていて、ようは単語が消されていた。これがgoo blogサービス利用規約に違反していたから消された、ということかどうかは不明である。もしかしたらいずれここに記した「被差別ブラク(漢字)」も「被差別」とだけ表示される時が来るのかもしれない。いずれにしても今ここに「被差別ブラク(漢字)」の「ブラク(漢字)」の部分に漢字を入れても、おそらくは表示されていて、いずれ消されるのだろう。これに気づいたとき、「ブラク」が非差別用語として捉えられていて消されたとわたしは判断したが、本当のところはよくわからない。田舎では今もって差別とは無縁に「ブラク(漢字)」を口にする人はいる。もちろんひと昔前に比較したら減ってはいるものの…。

 ということで、2010年3月26日に記した〝消された「部落」〟について文中内の空白を修正して「ブラク(漢字)」と修正した。前述したようにこの修正もいずれ消されるかもしれないが、消されてしまうと逆に内容が歪曲されて捉えられるような気がしてならない。ただ、この〝消された「部落」〟のページタイトルの「」内が消されていないのは腑に落ちない。そもそも消すにあたって何らかの指摘が外部からされたため消されたのか、それとも自動的に消されるようになったのか、いずにしても不明である。「ブラク(漢字)」については、ページ内の検索欄に入れて検索しても該当記事は表示されない。ようは検索機能からも削除されている単語なのである。ちなみにまだ修正していないページを参考に確認してもらいたい。例えば2011年8月3日投稿の「衣生活」である。「ブラク(漢字)」は消されている。goo blogサービス利用規約の第11条(禁止事項)に「(8)他の会員又は第三者を差別又は差別を助長する行為」というものがある。これが当てはめられて、「ブログ情報が前項各号のいずれかに該当すると判断するときは、該当のブログ情報が投稿された会員ページ(公開であるか非公開であるかを問いません)を会員の承諾を得ることなく、かつその理由を会員に説明することなく、ブログ情報を変更・非表示・削除等の処置が」がされたものと思われる。投稿の原稿には単語は表示されているが、閲覧ページには無いのである。そして利用規約では「この場合、当社は、当該ブログ情報を投稿した会員の会員資格を失効させることができるものとします。」とも掲げている。失効されていないだけまだ良いということなのだろうか。もしかしたらこんなことを書いたから、消されるかもしれない。

 たまたま「ブラク(漢字)」が消されていることに気がついたが、もしかしたら長年の記事の中には、ほかにも消されている単語がたくさんあるのかもしれない。

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ことしの〝松飾り〟

2025-01-02 23:50:36 | つぶやき

令和7年正月飾り

 我が家の今年の松飾りである。これを玄関にある柱に結わえ付けた。毎年玄関にある1本柱に松を結わえ付けてきたが、ここへ家を建てたばかりのころは、玄関先に杭を2本立ててそれに松と竹を結わえ付け、しめ縄を渡して紙垂を付ける、いわゆるこのあたりでふつうに行われている松飾をしたものだが、玄関先の柱に結わえ付ける簡略したものに替えて久しい。

 外出して世間の松飾りを見ていて気がつくのは、すでに昔風の飾りをちゃんとしている家は少ない。もちろん「少ない」という印象だけで、実際はまだまだ昔風の飾りをしている家もあるが、年々減少してきているのは確かだ。ようは年寄りが亡くなると次世代はしない、そういう感じなのだ。親に飾りの作り方を聞いていた人はまだしも、まったく気にせずにいた人たちにとっては、いきなり飾りをしようとしても難しい。とりわけ亡くなった翌正月は喪中で飾りをしないのもそうした家が減少していく要因になる。

 我が家ではわたしが注連飾りを作れないから、義理の弟が妻の生家のものと一緒にこしらえてくれる。今年は別居した息子の済むアパートへの飾りも用意してくれた。このところほぼ同じようなスタイルでこしらえていたが、年々リース風になってきている。以前は松と竹がもっと大きかったが、一体感のあるものに変わってきた。松、竹、南天、そして注連縄は円形となってオヤスも付く。いずれも小型化してきたが、そのぶん一体感が出てきて、このスタイルなら「松飾り」として販売できるかもしれない。こうして松飾が時世にあわせて変化していくのも成り行きだと思うし、それほど材料を要しないという面では良い変化ではないかと、わたしは思う。

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令和6年を送る

2024-12-31 23:59:59 | つぶやき

 今年も今日でお終いである。昨日も記した通り、年老いて作業能力は落ち気味である。数日前に「何をしただろう」と、メモ帳に記録しようとしても、ペンが走らない。思い出せないのである。たいした作業をしていないからなのかもしれないが、その時はこう記そうと思っていたことが記憶に戻ってこない。ほぼ確実にメモにすることはできず、「何をやっているんだ」と憤慨する。したがって過去の日記を記そうなどと言うことは無理な話だが、それでもと思い試みる、そんなこのごろである。

 初めて息子夫婦との大晦日を迎えるとあって、今日は大掃除である。もちろん全部は無理だから、見られる空間だけだ。いつもは洗濯物の干場であり、わたしの作業場でもある居間は、人には見られたくない、というか見せられる状況ではない。しかし、これまでのお客さん的な関係でいつまでもいるわけにもいかないので、大晦日はこれまでの座敷からキッチンに場所を変えることとなった。キッチンの隣が居間だから、居間とキッチンの間の戸を閉めておくわけにもいかないから、居間も見られる空間となる。ということで居間の大掃除なのである。居間を片付けるのはいつ以来か、記憶が戻らないほど昔の話だ。我が家では人が来なければ掃除をすることはない。たまには人に来てもらわないと、綺麗にならないというわけだ。

 

令和5年4月17日撮影

 

 さて、今年の大きな出来事は、何と言ってもシロが亡くなったことだ。いつもその居間を走り回っていたシロがいなくなった。とりわけ四六時中一緒だった妻にとっては、シロが居なくなったことは大きい。あまり人懐こくなかったシロでも、お母さんのことは大好きだった。そのシロが居間から消えた。ここに家を建てたころからいた犬が居なくなったのは、言い難い寂しさがある。悲しい想いはしたくない、と妻は犬を飼うことをためらうが、やはり寂しい。

 写真は亡くなるちょうど1年前に撮ったもの。以降亡くなるまで、あまりカメラに納めることはなかった。シロの居ない居間で、新しい年が来る。

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5年前と同じ仕事が処理できない

2024-12-30 23:40:51 | つぶやき

 12月はすっかり空白だらけとなった。マジに忙しかった、仕事が…。定年したあとの再雇用の人間がこんなに忙しく仕事をしてはいけない、と思うのだが、長年わたしが担ってきた仕事は、思い入れもあるが、ほかの人に委ねたら必要日数が何倍にもなってしまう。けして私でなければならない仕事ではないが、継続してきたからわたしが担当になっていた仕事。したがって間に合わないからといった時点でほかの人に仕事を手伝ってもらっても予定の日数では納まらなくなってしまう。わかっていればそういうこともできただろうが、忙しくなってからそうした配分を考えても、もう遅いのである。

 そもそも12月末まではと考えられていた物件は、5年前にも同じ作業をした物件。その際には12月の10日ころから現場に入って4日ほど調査をして、それから月末までにまとめていた。今回もほぼ同じころから現場に入って計画書にまとめたのだが、5年前と同じような流れで処理できなかった。当時はほかの事務仕事も担っていたから大変だったと思うのだが、今はその事務仕事が無い分、「なんとかなるだろう」と思っていたのが間違いだった。もちろん年老いて処理能力が落ちたとも言えるのだろうが、それにしても5年前との違いは何か、と床に入っては考えた。「いよいよか…」などとも思ったが、5年前のデータを紐解いていて気がついたのは、当時も最後にまとめた計画書の中の補足的な資料は、ファイルにして4つほどあり、保存日時が早いもので12月30日、ほかに1月1日午後5時というものがひとつ、さらに最後にまとめたと思われるデータは1月3日の午後3時となっていた。当時も年末年始に最後のまとめをしていたようだ。もちろんこの計画書のヒアリングは年内に行われていて、その際にはそれら資料は添付していなかったのだろう。ということで少し安堵。確かに処理能力が落ちていることに変わりはないが、それほど落差が無いことに気がついてホッとしたところだ。今回は年内にとりあえずデータは出来上がった。当時何をいつやっていたのか、と振り返ろうとしたが、当時もいっぱいいっぱいだったようで、記録簿には年末年始のことが何も書かれていない。でも、過去日記を紐解くと毎日記されていた。まだ余裕があったのか…。

 5年前の年末に「平成31年を振り返る」を記している。やはり今と違って内容の濃いものを記していて、暇になったはずの今の自分と対比しながら「これではいけない」と反省している。そこに書かれている日記を見て、また気づいた。そこには〝今年末唯一の「忘年会」〟とあるが、今年のわたしには「忘年会」ただのひとつも無かった。友人との忘年会も予定していたが、仕事を理由に延期したほど…。

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「運」がなす業

2024-12-03 23:28:46 | つぶやき

 人には「運」というものがある、そうきつく教えられるような出来事があった。裏を返せばのほほんと暮らしている人たちも大勢いるのに、なぜ「その人が」被らなければならないことだったのか、まさに「運」なのである。

 帰りがけに従妹の家に立ち寄った。1週間ほど前に庭木の剪定をしていて脚立から転落し、首の骨を折って手当てのかいなく亡くなった。労災認定されたというが、従妹がアルバイトで剪定作業に行っていたことは知らなかった。身体は丈夫で事故に遭うかしなければ長生きをされたに違いない。落下するといってもその状況で様々だろうから、死に至る特別な例だったといえる。1時間ほど心肺停止だったということが大きかったし、頭部から落下したという状況が大きな要員になった。

 2015年になるからもう9年余前のこと、「また、ひとつの別れ」を記した。首都圏にそれまで暮らしていたが、奥さんの実家のある奄美大島へ移住した従兄弟は、子どものころによく遊んだ。身近な従兄弟の一人で、その兄が今回脚立から落下して亡くなった従兄弟にあたる。奄美大島へ移住した従兄弟はまだ50歳代後半だった。そしてその兄は60歳代後半。いずれも長寿の世において早い別れとなってしまった。いずれも事故で亡くなったことになる。従兄弟の母親が父の妹にあたる。叔母さんは93歳、まだまだ元気で足が少し不自由になってきたが、見た目は90歳代には見えないし、記憶もはっきりしている。息子さん二人を見送ることになったつらさは痛いほど伝わる。時おり手土産を持って立ち寄っては、叔母さんの顔を拝見していた。最近はその度に従兄弟とも顔を合わせては「みんな元気かい…」と声を掛けてもらっていた。あっけない別れで言葉が詰まる。まさに「なぜ」二人とも、と思う。「運」とはこんな時に使う言葉なのだろうか。繰り返すが、転落の仕方はたくさんあるだろう。そんなたくさんのパターンの中で、なぜ選択された道筋だったのか、そう思わせる事例なのではないだろうか。兄と生まれた日が近かった従兄弟。その従兄弟の分も、叔母さんには長生きをして欲しい、そう思った。

合掌

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続 今年も柚子を採る

2024-11-30 23:24:20 | つぶやき

今年も柚子を採るより

 昨週に続いて柚子採りをした。それにしても棘がすごい。その棘が実に刺さって傷をつける。したがって採った柚子のうち傷のないものは3割とか2割ほどになってしまう。人にあげるのだが、傷のないものを、と思うと傷のついたものがたくさんコンテナに残ってしまう。実が大きくなる前に棘をカットすれば良いのだろうが、手の届かないところの棘を取るなんて言うことはできない。

 この棘、ウェブ上には「トゲは動けない植物の生存戦略として、動物から食べられることを防いだり、蒸散を抑え乾燥から守ったりするため」などと書かれているが、ではほかの植物にもあって良いはずだか、柚子ほどの棘はめったに見ない。棘の少ない品種もあると言うが…。

 

 

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〝まさか〟…

2024-11-27 23:43:02 | つぶやき

 〝まさか〟の展開になっている。先ごろ「回帰」を記したが、それから1か月、この日記を11月の末に記したことにしようとしているから、半月もしないうちに、「回帰しても、昨年までのように日記が空白になることはないと思う」は嘘になってしまった。この日記は12月13日の未明に記している。前述したように空白をなくすためのこと。ところが空白が半月にもなってくると、それを埋めようとするには、よほど時間的余裕がないと難しくなってくる。さすがにこういうことを日記に記すことは初めてかもしれない。ようは今日は〇〇日だが、前月の〇〇日の日記を書いている、などということは。果たして空白をなくすことができるかどうかは、わからない。

 その理由はやはり「生業」だろう。ずるずると中途半端に未解決な事項が送られてきて、結局これまでと同じことを繰り返している。定年になって「楽になるはず」が大きな誤算だった。そもそも負債を抱えて定年なんてありえないのに、わたしにはその負債がある。それも複数。自ら招いたことだが、信頼関係の上に背負った負債だから、この負債は絶対今年度のうちに処理しなければならない。年明け後はその負債を処理しなければならないが、ずるずると中途半端に工期が延長された仕事も、もはや負債に近い。一月単位を目途に、それに負債を処理しなくてはならないし、年末までに提出しなければならない申請書もある。昨年までは負債について「来年やります」、と回答していたから負担を軽減できたが、今年はそれができないからますます窮地に立っている。このところの生業以外の仕事の「言い訳」は、「来年からやります」になっている。もう口にすることはなかったはずの言葉が、今年も口から出る始末。もう今年もあと半月である。ここからが今年のピークである。

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オートライト

2024-11-26 23:35:25 | つぶやき

 近ごろの車は厄介で仕方ない、というところは「今どきの軽自動車」で記した。軽トラックごときで使いづらいとなると、もっと良い車はオートだらけなのだろう。ライトについては考えた末にちょっと細工をして、自動点灯を制御しているが、最近まで軽トラックには手こずっていた。自動でライトがハイビームになるのが気になって仕方なかった。1年もそんなことで悩んでいたが、それを制御することは簡単なことだった。ようはライトをオードではなく、強制点灯にすれば、ロービーム状態にスイッチをしておけばハイビームにはならない。常用している車ではなかったことから、それに気がつくのに1年もかかってしまった。

 しかし、このオートライトに手こずっていた間に気がついたことがある。わたしはけっこう車間を空ける方だということはこれまでにも記した。自分が後ろから接近されるのが嫌だから、自分が嫌だと思うことは相手にもしたくない。したがって前の車との車間は、ひとより広めだと自負する。先日記した「毎朝の鬱陶しい“奴”のこのごろ」の鬱陶しいのも、詰まるところ後ろから接近されることに始まった。都会はもちろんだろうが、直線道路も気にはならないかもしれない。しかし山間地の道路を走っているとこのロービームとハイビームの切り替えが自動だと本当に厄介で仕方ない。ようは接近していると車の後ろを走っているからハイビームになることはない。ところが車間を空けていると頻繁にハイビームとロービームが切り替わるのだ。これって前を走っている車はけっこう嫌なはず。なぜハイビームになるかといえば、カーブで前の車が視界から少しでも外れると、すぐにハイビームに切り替わる。ものの1秒か2秒、前方から明かりが消えるとすぐにハイビームになるのだ。したがってカーブが連続すると頻繁に切り替わることになる。車間を空けているとそういう状態になるため、切り替わるのを避けたければ接近するしかないのである。もちろん前方から相手が消えるからハイビームになるのだから、前を走っている車はそれほど気にはならないかもしれないが、前に灯りを感知しない限りロービームにはならないのだから、瞬間ハイビームを目にしていることは確かだと思うのだが…。

 ロービームとハイビームの切り替えで対向車や後続車が気になることは、今のところそれほどないが、「通常の走行時は、ハイビームで走行するのがルール」でみんなが自動化すると、きっと「眩しい」という対向車は増えるのだろう。

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今年も柚子を採る

2024-11-23 23:21:53 | つぶやき

2024.11.23撮影

 

 柚子採りをした。例年より早いと言っていたが、2014年には12月1日2015年には11月22日の収穫の記事を記したから、今年も同じくらいだろう。2010年に初めて我が家でも柚が成り始めたと記している。「昨年から」としるしているから、2009年から収穫を始めたということになる。植えるきっかけになったのは、剪定をしてもらっている方から頂いたこと。2010年にも記したが、その方が地域の直売所に置いたものの、ほとんど売れ残ったと言う。柚子そのものに親近感の無い地域の人たちには、買う意欲が生まれないということだ。「どうやって消費すればいいの」とは、柚子を差し上げた方たちの第一声である。けして柚子が成らない地域ではないにもかかわらず、柚子が増えないのは、親近感の無さといえる。

 2015年の日記には柚子が成っている写真を掲載した。その様子がよくわかるように、と邪魔な葉をとって撮影したら、妻には「不自然だ」と言われたことを記した。今回も同様に木に成っている写真を引用してみたが、葉に覆われて成っている。2015年の葉をとって撮った写真ではたくさん成っていることがよくわかるが、葉に覆われていると「たくさん」というあたりがわかりづらい。我が家には2本、柚子が植えられているが、近年は生活クラブなどで売ってもらっていて、それらはすぐに売れるという。地域の直売所に出して売れなかった、という話とはずいぶん違う。知っている人たちにはその使い道がよくわかっているのだろう。

 「ゆずの使い道にはどんなものがある?活用方法やレシピをご紹介」というページがある。冒頭はジャムである。妻も最近はジャムにして保存している。なぜかというと、柚子は棘があって、自ら実を傷めてしまう。したがって表面に傷がないものとなると、収穫した柚子のうち、3割くらい。ちゃんと管理すればもっときれいな実がなるのだろうが、ほったらかしだからこんなものなのだ。実が大きくなる前に棘をカットする、という方法もあるのかもしれないが、ちょっとそんな余裕はない。傷ついた柚子は加工に限るからジャムとなる、というわけである。

 柚子みそは以前にも記しているが、おでんのタレにすると良いことは言うまでもない。やはり柚子そのものメインで食すという方法があまりないから、目立たない存在だ。とはいえその添え物としての存在は少なからずあり、利用法は多様だとは思う。

続 今年も柚子を採る

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