古くは2005年に「夜中の赤石林道越えをしたころ」に
かつてはこのように八日市場に始まり、10日が南信濃村木沢、11日が上村上町、12日が上村中郷、13日が南信濃村和田、14日が上村程野と南信濃村小道木、15日が南信濃村八重河内(尾島)、16日が南信濃村須沢、17日ころ(ちょっと忘れてしまったが、20より前だった)南信濃村大町と続き、正月に南信濃村上島と上村下栗で行なわれた。連日のように行なわれるため、平日に連続して行くことは仕事にも影響があるため、なかなかできなかった。それでも、たとえば8,10,11,12,14,16というように年に5回か6回は足を運んだ。
と記した。昭和61年を中心に前後の時代である。そこに「須沢」の地名があり、この日記での初出である。「夢の弾丸道路」は、その翌年に記した。先ごろも「中央道「幻の南回りルート」とは? 決定後に経路を変更した理由。【いま気になる道路計画】」(1月28日 メルマガ「KURU KURAニュース」)という記事がヤフーニュースに掲載された。わたしの日記にも「左側が東京方面、右側が名古屋方面てある。左端に大井川畑薙ダムが描かれ、真ん中左よりに県境ラインが引かれている。その上に長大トンネルの易老嶽トンネルが表示されている。右側へどんどん下っていき、北又渡、須沢と遠山川沿いに下り、遠山谷最下点の上島へ至る」と記している。ここにも「須沢」が現れる。この中央道が完成していたなら、遠山川上流域は全くことなった景色となっていただろう。もちろん狭い谷の中だから、もしかしたらこんな道路が完成していたら、当時須沢の集落は消滅していたかもしれない。
1月28日 メルマガ「KURU KURAニュース」より
さてその須沢については、「須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)」で祭りについて触れた。当時まだ行われていた須沢の霜月祭の記憶を呼び戻したものだが、最近感慨深い話を聞いた。『伊那民俗』139号(2024/12/19発行 柳田記念伊那民俗学研究所)に近藤大知氏が昭和50年に野牧治氏が撮影した霜月祭の写真とともに、祭りのことについて触れている。その中で「須沢には昨年まで住人がいたが、高齢を理由に転居したため、無住の集落となった」と記されている。ようは廃村となったといって良いのだろう。もちろんこうした山中の集落は、無住になったとしても里から通いで耕作、あるいは管理に往来する人がいるから、まったく人影がなくなったというわけではないだろうが。
以前にも記したが、平成10年に地滑りが発生して霜月祭は途絶えた。その際にも様子をうかがいに向かったが、須沢の集落はわたしにとっては記憶の深い地である。等高線沿いに下栗に向かう道の途中から、祭りが行われた宇佐八幡社までの道を開ける仕事に携わった。それこそ祭りに訪れる直前の年に初めて道から分岐する箇所の測量に入って、どう下って行けばよいか、まったくの新道だったこともあり、悩んだものだ。その道の先に1軒家があり、さらに八幡社の近くにも1軒家があって何度となく立ち寄った。
考えてみればそれから40年である。当時50歳の人だったら90歳。そんなに若い人と話したことはなかったから、もはや鬼籍に入られている方がほとんどだろう。したがって人がいなくなっても当然なのかもしれないが、そもそもわたしの仕事は、そうした道のまだない家々へつなぐ道を造る仕事だった(本日記では時おり書いていることだが、こうした道は、もともと「農道」で開設されたものが多かった)。須沢だけではない。南信濃をはじめ、下伊那郡内のあちこちで新道を開設した(例えば南信濃なら十原、此田など。上村なら大野、風折。天竜村なら倉平、梨畑など)。しかし、山の中の点々とした家々へ造った道は、もはやその先に住人の居ない状況になっている道は多い。何のための道だったのか、と。
ここでは「須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)」に掲載しなかった写真を引用して、あの時代の霜月祭を偲ぼうと思う。
昭和61年12月16日(1986)撮影
「遠山谷の今」へ続く