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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

草刈の葛藤

2024-08-20 23:02:01 | 農村環境

 

 先日「炎天下の草刈」を記したが、今回刈ったのは写真の畦畔。これまでにも記しているが、ここの畦畔を初めて草を刈ったのは、もう30年以上前のこと。その際は稲を植えていたから、上の畦畔を刈るのは気を遣った。そもそも畦畔は上の人のものだから「刈る必要はない」とも言えるが、上の人が草を刈らないと稲に草が掛かったりして生育に障害となるため、下の田んぼの人が刈ることは、現在でもあるという。先日会社の先輩にそのことを聞いたところ、伊那市美篶の方であったがも場合によっては刈ることもあるという。今はスパイダーモアを使って刈るから、上の人の畦畔の途中に足を掛けて刈ることになるというが、かつてなら手で刈っただろうから、水田に足を入れて刈っていたことだろう。わたしが初めてこの畦畔を刈った30年以上前に、義父から「鎌1本分刈るように」と言われたもの。当時は今と同じ刈払い機で刈っていたが、いつの間にか写真のように上の畦畔の半分くらいをわたしが刈るようになった。上の水田の方が、途中に足掛けようの足場を作って、それより上しか刈らなくなったため、その間を残しておくのも困ると思い手を出したのがいけなかった。それ以降我が家でかることになってしまったというわけだ。もちろん今は水田を耕作していないので、上の畦畔は全て刈らなくても良いのだが、境界が曖昧なこともあって刈っている。

 さらにいけないのは、写真の通り、畦畔の途中辺りに刈った草が固まっている。もちろんこの草は上の人が刈ったもの。ところが刈ったままにしておくから、重力で結果的に我が家で刈っている範囲に刈った草が覆いかぶさる。それを何も処理しないから、上の人が先に草を刈ると、わが家では刈り倒された草とともに、刈ってない草を刈ることになる。厄介でしょうがないのだが、以前は上の人は草を寄せていたが、今は寄せる雰囲気はなく、最近はいつも上の水田で刈った草とともに下の草を刈払い機で刈っていくという感じなのだ。

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畔草管理の世界

2024-08-09 23:02:02 | 農村環境

 午前9時からの打ち合わせまで少し時間があったので、飯島町内の畔草刈の状況を撮影してみた。月末の長野県民俗の会第242回例会でこの畔草管理に関して簡単な発表を予定している。その際に紹介する写真を撮ろうとしていたが、過去のものはあっても最近のものはあまり撮りためてなかった。

 以前から触れているように、飯島町の水田の畔草は綺麗だ。もちろん全ての耕作地が綺麗というわけではないが、見苦しいと思うような光景は少ない。例えば箕輪町の西天竜エリアや、伊那市山寺の伊那中央病院南側の水田地帯のような草丈を見ることはほとんどない。その上で、よく短く刈り払いされている姿が目立つ。自然保護にうるさい人たちには、こういう管理は喜ばれないのだが、「草ボウボウ」に比べたら見事なまでに美しい。ここにいくつか事例をあげているが、とりわけ大きな畦畔が町の中に何カ所かある。それら畦畔を見事に管理されているのには驚く。我が家も「草刈三昧」だが、これほど大きな面積を有す畦畔はない。

 

①本郷第一 この畦畔はいつも注目している

 

②本郷第一 ①の上から北方を撮ったもの

 

③本郷第六 法尻に草を寄せて焼いた跡がある

 

④飯島鳥居原 遠方の山は陣馬形山

 

⑤飯島石曽根 ここは刈った後に綺麗に草を寄せている

 

⑥飯島岩間 見える範囲、ほぼ綺麗な畦畔ばかり

 

 見ての通り、そもそも耕作地がきれいだ。耕作放棄地が見えない。

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ある道の事実

2024-07-30 23:29:58 | 農村環境

 キスゲを残して草を刈ったを記したのは10日前のことだった。洞の上にあるため池のことで、今日はそのため池に続くようにある洞の下のため池の草を刈った。今週末に共同作業があるなか、いつも通り事前に我が家の作業分を刈っておくという恒例の草刈である。もちろん当日出られないから、というものだから、わたし一人で刈る。週末にはいろいろあるから、平日に夏休みをとっての草刈である。夏休みを何日か取得することができるが、わたしの場合、ほぼすべて夏休みには別の仕事がある。したがって純然たる「休み」ではない。

 ため池尻にある我が家の荒廃地の草も刈るから、今日の草刈面積もずいぶん広い。プラス今回はため池に通じる道の車の回転場の草もそれほど伸びてはいなかったが、一緒に刈った。こんな時に刈らないと、ふだん刈ることがないからだ。週末の共同作業では、参加者はほぼみんなこの道をやってくる。他人が見ても「ため池の管理道路」と思うかもしれないが、この道は周辺の水田耕作者のために造られた道。実は昭和60年代に、この道を拡げることにかかわった。農道である。それまでなかった道だから、水田を潰して造った。耕作者のための道だから、耕作者は土地を無償で提供し、さらに造成工事費の何割かを負担したはずだ。道はため池でどん詰まりとなっていて、当然それまでため池なに行く人たちも道はなく、ため池から導水される水路の管理道路、といっても歩く程度の幅だが、それを利用してため池の管理をしていた。結果的にこの水田内の現在の道が開削されることで、ため池利用者もこの道を利用することになったが、前述したようにため池の利用者はこの道を開けることに際して負担をしていない。ようはこの道を通る資格がないとも言えるが、こうした農道、完成すると村の所有となるから「村道」になる。したがって公の道だから誰でも通れる、というわけだ。こういう道は、農村にはたくさんある。開削時、あるいは拡幅時には、周囲の人が負担しているのに、その後は負担していない人が大手を振って通れる、というわけだ。とりわけ今回の道は、ため池で行き止まりだから、利用する人は水田の耕作者ぐらいで、あとはため池を管理する際に利用する。ため池の利用者も負担すべき道だったともいえる。あるいはこの道がなければ、水路沿いの管理道を拡げて自分たちで管理用の道を造成する必要があったのだろう。

 ということで、ふだんこの回転場は、隣接する水田を耕作する方が草を刈っている。にもかかわらず、大勢やってきてため池だけの草を刈って帰る、というのも身勝手な話だと思い、今回刈った次第だ。当時拡げた際はすべて耕作されていた田んぼだが、今は奥の数枚を耕作しているお一人のみ。そこまでの道沿いは耕作放棄されていて、ここ10年ほどでずいぶん変わった。それでも耕作していなくても草刈りなどはまだされていて、道の管理を奥の方一人でしているわけではないが、いずれはすべて耕作放棄地になってしまうのかもしれない。せっかく半世紀近く前に開削された道からの光景も、様代わりしたものである。もちろんここだけのことではないが…。それにしてもそうした経緯があった、ということもみんな知らなくなるのだろう。

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キスゲを残して草を刈った

2024-07-20 23:28:15 | 農村環境

7月20日 PM7:20撮影

 夏至を過ぎてもう1か月。どことなく日が暮れるのが早くなり、少し前にくらべるとこの時間は既にだいぶ暗い。午後7時半前。ため池の土手にキスゲが咲いていた。というより、今日はため池周囲の草を刈った。そして土手に咲いていたキスゲだけ刈らずに残した。来週一斉のため池の草刈があるというが、あえて残したキスゲが刈られてしまわないか心配だ。おそらく草の中にあれば刈られてしまうため、キスゲの周りだけ草を刈った。わたしの意図的な草刈である。

 家の近くの「花いっぱい運動」で植えられた花が咲いている。毎年同じ畑を借りて運動が実施されているが、もうじき草取り作業がある。そのせいだろうか、きっと少し前に撒かれた除草剤が効き始めたのだろう、花の周囲の雑草が少し茶色くなりつつある。昨年はこの時期の草取りは大変だった。そのこともあって除草剤が撒かれたのだろうが、今年の草の伸び具合から察すると、除草剤も何度目かの対応に見られる。「花いっぱい運動」は各地で行われているが、除草管理は保補助金を出している自治体のお約束だ。もちろん自治体によってその対応は異なるが、除草剤による除草対応はどうだろう。あちこち補助金を出している自治体の交付要綱のようなものを調べてみたが、さすがに「除草剤はつかわないこと」などという約束はない。したがってけして悪くは無いのだが、果たして除草剤による除草は適当なのか。例えば公園管理の基本事項として除草剤は使用しない、というのが一般的だ。なぜかといえば、公園には様々な人々が集う。子どもたちにとって良好とは言えないから、学校でも使用しないところが多い。ようは「花いっぱい運動」の主旨と絡んでくるのだろうが、そもそも除草作業も、役員だけでやれば良いというものではなく、活動の主旨では賛同する者が参加して実施すること。従って子ども達だって参加可能だし、様々な方たちが参加する可能性はある。そうした主旨から捉えれば、やはり除草剤は適していない。もちろん、だからとっいって役員以外の人が加わることはない。しかし、繰り返すが、下段は公民館役員のためにあるわけでもなく、また、道を通る人たちに見せるだけのものでもない。除草剤を撒いて管理するくらいなら、そもそも「花いっぱい運動」そのものを辞めれば良いだけのこと。手が掛かるからという理由だけで、作業軽減を望むのなら、そもそもの主旨に戻り、廃止すれば良いだけのことではないか、とわたし的には思う。

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ため池周囲の草刈

2024-06-20 23:42:27 | 農村環境

刈り払い後の光景

 

 現場から直帰して2時間ほど休みをもらって草刈をした。前年のメモを紐解いたら17日に草刈をしていたため池下の耕作放棄地。例年夏場のため池の草刈作業の前にも草を刈るのだが、それまで伸ばしてしまうと丈が長くてとても苦労していたため、数年前からその前に1回草刈をすることにしている。それが前年は17日にしていたため、本当は先週末にやりたかったのだが、ほかの段取りもあって刈ることができなかった。この週末は天気がはっきりしないこともあって、平日に休んで草刈をしようと考えていた。ちょうど現場に行って、直帰すれば暗くなるまでの3時間ほどで刈り払いできるだろうと想定して、本日草刈となった。

 やはり、そろそろ限界ライン。これ以上伸びるといつも利用しているナイロンカッターの刈払い機では困難になる。凸凹していて、全面刈るとなると、やはりナイロンカッターの方が刈りやすいし「早い」。耕作放棄しているから刈り倒せば良い。が、下にある水路に落ちた草は掻き上げて耕作放棄している小さな水田に寄せる。その上で、夏場のため池の土手の草刈の際に厄介となるスイコンボウを今のうちに刈り倒した。さらにため池の取水口までの道も草「ボウボウ」だったので、とりあえず歩く分だけは刈り払った。

 このため池に水源を求めて水田を耕作する人もずいぶん減った。ようは耕作せずに荒れている農地が目立つようになったということ。この後どれだけ耕作が続けられるか、土地利用はもちろん、農業の先々は目立って残念な光景を描き出している。

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ある谷あいの光景

2024-05-26 23:20:55 | 農村環境

 

 確認したいことがあって、ある市に平成の合併で併合された村を訪れた。長野県内のほとんどの行政区域をおおかた知っているが、この村は一部分を頻繁に通行することはあったが、この村へ行くことを目的で訪れたことは一度もなかった。ようはわたしにとってはあまり詳しくない地域。その最も奥の集落から川を下りながら集落の様子をうかがった。明らかに無住の家が多いエリアから、川を下ることにより次第に人影はもちろん、家々の息遣いが感じられるようになったが、とても気になる光景をあちこちで捉えた。それを捉えたものが写真である。

 まず1枚目は、耕作地の向こうに河原が見える。河川沿いであるから、かつてはこの空間全てが水田だったのではないかと想像するが、今、この空間に水稲が植えられた水田は1枚もない。そもそも数枚は畑作が行われているが、あとは耕作放棄状態である。

 2枚目はずいぶん緑が濃いが、稲が植わっているわけではない。草が生えているのてある。手前から4枚目の水田には人影があって、水が漬いている。田植の準備をされているようで、この空間内ではその方の水田のみ、今年は稲作が行われそうである。

 3枚目は2枚目の写真から少し下って行ったところの水田地帯である。何枚か水が漬いていて、田植が行われるようだが、あとは耕作はされないようだ。

 4枚目はさらに下って行った県道端から1枚通り奥に入ったところの水田地帯の光景だ。そもそもの空間に導くかんがい用の用水路には、水が導水されていない。その理由はこの一帯は全て稲作は行われないようなのだ。集団転作のような空間であるが、たまたま遥か向こうで耕起されている方が見えた。この方だけなのかもしれない、この空間で耕作を試みておられるのは。

 5枚目の写真は4枚目の隣接地。県道端の水田地帯である。用水路に水が導水されているが、水が漬いている水田2枚はともかくとして、その下からは耕作の準備がされていない。少し下ると水田は見えたが、ここまでの印象で捉えると、水田の内水稲が植えられているのは3割から4割程度かと想像する。稲作の植栽率はもちろんだが、耕作率も低いエリアだ。

 6枚目の写真はさらに下って行ったら田植えをされている姿が見えた。が、周囲はみな稲作をされているのかと見渡すと、やはり耕作放棄地が目につく。

 県道が谷の真ん中を通っており、その両側に展開される水田地帯は、耕作されていない耕地が際立って多い。実はこれら多くの水田はほ場整備が実施されている。整備されてから2、30年は経過しているかもしれないが、それにしても耕作されていない水田が多い。空き家が多いのだから当然の姿なのかもしれないが、この傾向は徐々に下流へと下っていく。ところがこの谷あい、人の姿を見ることは、田植の季節なのに少ないが、騒々しい。そもそも県道脇に車を停めていると、車の往来が意外に多いことに驚く。皆がみな、この谷あいに用事があって来るのではない。その先にある高原地帯に用事がある様子。地元のナンバーもたまに見かけるが、ほとんどが県外車。東京近郊のナンバーが中心で、名古屋の方のナンバーも見られる。これだけ他県の観光目的の車が多いと、住んでいる人たちが出て行ってしまうのもわかるような気がする。この暇な往来者が通行する中で、せっせと農業するのも馬鹿げて見えてくる。加えて県道を走る車はけっこうスピードを出して走る。危なくてしょうがない。

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今年の畔塗り

2024-05-11 23:53:19 | 農村環境

 このところ毎年田植えが6月にずれ込んでいた。我が家には田植え機がないため、委託している。ところがわずかな田んぼのため後回しにされ、6月にずれ込むを繰り返していた。もっと早く田植にしたいところなのだが、相手のある話なので思うようにいかなかった。6月だからといってこちらも準備が遅くなっていたのだが、準備だけでも早くして、5月中にやってもらえるように段取りだけはしておきたいと、今年は連休に水田の準備をした。2010年には「田ごしらえ」を記しており、当時も連休に今年と同じような準備をしているが、畔塗りまではしていなかった。近年は連休に忙しかったのも段取りが遅くなった理由だった。近ごろは水田耕作をする人が減って、連休でも暇な人が多くなって、当たり前に連休に行事が入ったりする。この後も一層そうなっていくのだろう。

 恒例の小型畔塗機での畔塗りである。毎年この時期には「1年でたった1時間だけ使う小型畦塗機」のアクセスが多くなる。また3年前には「1年でたった1時間だけ使う小型畦塗機は動かなかった」を記した。故障して畦が塗れず、その年は昔のように手で畔を塗った。故障した畔塗機を製造元に送って見てもらったが、結局また中古品を送ってもらって翌年から畔塗機での畔塗りを再開した。やはり「1時間」程度で畔塗りは終わる。容易ではあるが、鷹岡工業所のホームページにあるYouTube動画のようなわけにはいかない。うっかりしていると機械が逸れて行ってしまうため、畔側(操作側から見て右側)へ意識としては機械を向けながら前進していく感じに押さえるように操作する感じだ。YouTubeの動画ではすらっと立った姿で機械を操作しているが、とてもこうは行かない。とはいえ、たった1時間ほどで畔が塗れるから、ありがたい機械であることも事実。

 連休中に近くの水田では、近所の年寄りが息子2人に畔を繕う作業を指導していた。ずいぶん大声も挙げていたので何事かとも思ったが、年寄りは漏水しないように丁寧な畦繕いを目論んでいるようだったが、息子さんたちにはその丁寧さがどう映っていたか。我が家では100メートルほどの畦が漏水対象になる畦で、畔塗りをする長さになる。古い畔を削り取って槌で叩く作業を畔塗り前にする。この畔塗り作業前の作業と同じような作業をその息子さんたちはやっていたが、その家では畔塗りはしない。したがって漏水しないように時間をかけて畔を繕っていたということなのだろう。年寄りの言うとおりには次世代にはできないだろう、そんなことを思って遠くから見ていた。

 

 

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仕事始め

2024-04-24 23:10:04 | 農村環境

令和6年4月20日撮影

 

 わたしにとって、先週は仕事始めのようなものだった。平日の木曜日に田を起こし、その続きを土曜日に行った。もう少し早く起こしたかったのだが、毎年、おおむね山菜が出始めると仕事始めである。写真のように、ちょっとセピア色っぽい世界。でも、これは秋色ではない。まぎれもなく春の色。桜が咲いているから当然ではあるが、芽吹きの前の色は、こんな感じなのである。ため池の土手から見る下流域の景色は、今や荒れ放題の田んぼばかり。ここに写る手前の数枚は、今も耕作されるが、その向こう、やはりわたし同様に、この日田を起こしているトラクターの姿までの間は、耕作しなくなってから長い。ということで、手前の田んぼは山裾で、最も山側に位置する田んぼ。したがって獣がやってくるから被害を被る。我が家の田んぼはこの洞の中から一段上がった左手にあるのだが、その田んぼも、耕作しなくなってから長い。しなくなった理由は過去の日記にも触れているが、災害によって土手が崩れて、復旧したものの石だらけ、凸凹だらけ(いずれも工事のせいで)で、さらには水を貯めるとまた土手が崩れそうだったこともあって、躊躇しているうちに時を経てしまったというところ。それ以外にも水利上、周辺関係者といろいろあって、耕作しづらい場所がさらに耕作放棄を助長している。周辺の年寄りがこの世からいなくなったら、また耕作しよう、とも考えている。

 ということで、この周辺には耕作放棄された土地が耕作されている土地より多い。山の中だから仕方ないかもしれないが、理由の最たるところは、未整備のため不正形、そして水利の問題、というわけである。ため池の利用者も減っているが、それでも草刈管理などされているだけましな方である。

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「梯子曳き」

2023-06-03 23:37:29 | 農村環境

 我が家ではようやくホンジロを搔いた。ホンジロとは代掻きの仕上げのことで、地域によって呼び方はいろいろであり、このあたりではアゲシロと呼ぶ人も多い。ホンジロを自らするのは初めてである。わたしが代掻きにかかわるようになってから、まだ10年余といったところだろうか。最初のころは慣れなかったから、アラジロ(荒代掻き)はしたが、ホンジロは委託していた。ところが昨年、委託した方が慣れていない方で、わたしのした荒代掻きより凸凹が目立ったという。そのせいかどうかはわからないが、昨年の我が家の米の出来は悪かった。そこで今年は妻から「あんたがやって」と言われ、初めてのホンジロを掻いたわけである。それほど難しいことではないので、委託する必要もなかったのだが、毎年同じ方が来られていて「慣れていた」ということもあって委託していた。ところが昨年はそれまでホンジロをしていただいた方が引退されて違う方が来られた。ということで凸凹だったようである。

 さて、我が家では昨年記したようなウイングハローはない。したがって小型のトラクターのロータリーだけで代を掻く。小型のトラクターは水田の少しの凸凹で左右に傾いてしまうため、均平度を上げることは難しい。ウイングハローを使う人たちにくらべたら神経を使う。昨年も記したとおり、今のところ「けしてなくならない作業」である「代掻き」である。したがって均平しやすいという面ではウイングハローは欲しい機械だが、我が家のような小さなトラクターで、かつ田んぼも不正形で小さいとなると、改善の余地はない。当分の間、今のトラクターで綺麗にシロが掻けるように練習するのみである。

 ということで、ホンジロを掻いたが、やはり均平度が低い。そこで久しぶりに実践したのは「梯子曳き」である。我が家の周辺では、今もって代掻きの後に梯子を曳く家は多い。繰り返すが水田が小さいから致し方ないのだろう。加えて梯子を曳くと、意外にそこそこ平らになる。そして「梯子曳き」はそれほど大変な作業ではない。その割に均平度を上げる容易な作業だということで、ウイングハローが一般的でないエリアでは、「梯子曳き」はいまもって当たり前に存在する作業なのだ。ウイングハローが一般的な地域の人たちにしてみれば、「アホラシイ」作業であるに違いないのだが、恥ずかしながら梯子を曳いたら「平らになった」。この「梯子曳き」子どものころよくやらされた作業である。もう半世紀前のこと…。

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ウツギ

2023-05-21 23:36:40 | 農村環境

 

 茨城県にある国立研究開発法人農業環境技術研究所のページに「畑地域に残る境木の多様性と地域性」というものがあり、そこに「茨城県全域でこの境木を調べたところ、ウツギが最多でその他にカマツカ、マサキ、チャノキなど50種の木本が見つかり、使用樹種に地域的な違いがあることが分かりました」とある。境に植えられる境界木としてウツギが圧倒的に多いことがわかるとともに、ウツギは境の木としてよく知られているものだということも教えられる。『ウィキペディア(Wikipedia)』にも「田畑の畔に植えられて、土地の境界の目印にされたりもする」とある。

 「ウッドチッパーを借りた」でも記した通り、ことしの水田準備が遅れている。荒らしている水田も、目立つところにあるから草刈をしなくてはならない。今年初めて草刈をした水田の畦畔は、かなり厄介な草が伸びていて、「もう少し早く刈っていれば」と後悔させるほど、刈り倒すのに手間がかかる。何度となく記している通り、我が家はそれでいて畦畔が大きいし、「長い」。周囲を見渡しても「なぜうちだけ」と思うほど草を刈らなくてはならない範囲は広く、今の世なら当たり前に草など刈らずに放置していても、致し方ないと思われるようなものなのだが、周囲といろいろある我が家は、放っておくわけにはいかない。

 その畦畔の草を刈っていて、ちょうどウツギの花が咲き始めていることに気づく。そのウツギが畦畔に点々とある。それほど「木」といえるほど成長していないが、花が咲いていればすぐにそれとわかる。裏を返せば花の時期でなければ、草とともに刈ってしまうところ。実はこのウツギの咲いている場所は、隣との境界である。ちょっと境界としては妙な場所になるのだが、昔から我が家で上畔を刈っていた境界位置にあるから、「妙」ではあるが、やはりこれが従来からの境界なのだと諭される。自然に境界にウツギが自生するねことはないだろう、とくに水田協会ともなれば。おそらく意図的に植えたものだと思う。

 なお、2008年に「サカイウツギ」について書いている。

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街灯に照らされた杉葉道

2022-11-04 23:10:50 | 農村環境

 草刈の時期を終えて、このごろは休日家にいることが多くなった。するとあまり運動しなくなるので、少しシロとの散歩の時間が長くなる。とはいえ、心臓病を患ったシロに負担がかからないよう、途中からは「抱っこ」である。いくら小型犬だとはいえ、ずっと「抱っこ」しているとけっこう「重い」。

 この春まで盛んに歩いたルートを、この秋からも復活して選択している。段丘を降りて行って、引き返してくる。ルートの半分は隣の村となる。境界域ということもあって人通りはほぼなく、車の姿もそう見ることはない。段丘を下る片側1車線の道は、田舎では国道並みに広い。車になるべく出会わないように、その広い道を歩くのはほんの100メートルほどであるが、広い道なのに車に出会うのは3度に1度くらい。脇道に逸れるが、広い道の近くを歩いているから、車が通れば音ですぐにわかる。しばらくその道に沿ってあるいていくが、それでも滅多に車は通らない。段丘の上下を結ぶ、地域にとっては幹線道路なのだが、利用者が少ないのは昔からだ。「必要なのか」と思われるかもしれないが、こうした段丘の上下を結ぶ広い道は、この隣村にはそう多くはなく、必要な道なのだが、繰り返すが境界域ということもあって、どうしても利用者は少ない。もちろんわたしが散歩する時間帯が、既に暗くなりかけたころだから、当たり前かもしれない。周囲には家は数えるくらいで、ほぼ農地ばかり。昼間であればもう少し車も通れば人影も見られるのだろう。

 実はこの段丘崖を広い車道とは別に歩く道がある。その先には飯田線の駅がある。隣村にとっては唯一の駅であるが、必ずしもこの駅が最寄りではない。したがって利用者はそれほど多くない駅。段丘下にある集落から駅に繋がる道は、歩く人のために迂回することなく、比較的直線で駅に向かう。その道は舗装がされているが、けして車が通ることはない。歩行者用だから急であること、そして道幅もそれほど広くはない。暗くなると点々と街灯があり、まさに歩行者の足元を照らすためのものである。しかし、舗装された道路の上には杉の葉が積もっていて、それも最近の物ではなく、もう何年も積もり続けている、という感じ。腐敗して土砂化しているともいえる。かろうじて道の真ん中あたりに舗装の路面が見えるが、おそらく雨水が流れてそこだけ露出している。というレベル。ようはこの道を歩いて駅へ通う人は、昔はともかく、今ではほとんどいない、と言っても差し支えない。それでも暗くなれば、煌煌と街灯は杉の葉に埋もれた道を照らしている。駅へつながる唯一の歩道であるから、おそらく村が整備したのだろうが、であるならば杉の葉の積もった道を管理するのが普通だろうが、それもされず、ただただ道は今も存在する、という感じである。わたしにとってはありがたい街灯だが、もはやこの道を歩くのは、「わたしだけ」か。

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少なくなった光景

2022-10-10 23:00:00 | 農村環境

 先日、天候が良かったその日、あちこちで脱穀をしている光景が見えた。平日だから、若い人たちがいれば、きっと仕事を休んでしているのだろう。週末の度に天気が悪くなったり、あるいはなかなか天候が続かなかったりすると、脱穀する日を選択するのに悩む。2016年に「今年の新米が不味い」を記した。天候のせいで脱穀が遅くなったその年、お米がとても美味しくなかった。「ハザ掛けした米は美味しい」、そういう言葉をよく聞くが、その際にも記したが「けしてそうではない」。いつごろか正確な妻は口にしないが、知り合いを通じて米が足らないと、と感じた時によそから米を買った。そのお米を最近食べていたが、ハザ掛けしたものだという。ところが石が混ざっていて、妻は洗米する際に時間をかけて石を取り除いている。それでも石が混じっていることがあって、妻とは「なんで?」と話をすることが度々あった。どうすればそんなに石が混ざるのか、と。そのうえでけして「美味しい」わけではない。「ハザ掛けした米は美味しい」と思い込んでいる人の中には、よその米を知らない人がけっこういるのじゃないか、そうわたしは思う。このごろの天候を見ていると、けしてハザ掛け米が美味しいかどうか、怪しいわけだ。

 美味しさはともかくとして、10年も前はハザ掛けだらけだった西天竜の水田地帯は、今やハザ掛けの光景はほんのわずか。一気に減ってきた印象だ。理由はもちろん集約化にある。担い手に耕作を委託するようになれば、ハザ掛けが減るのは当たり前。たくさん耕作している人がハザ掛けなどするはずもない。10年前は5割以上はあったのでは、と思えるハザ掛けが、今や1割もない。それに合わせるように、夏場の草丈は伸び、転作ならまだしも荒れ放題の土地も目立ってきた。この地域だけに限ったことではないだろうが、ハザ掛けの減少率はかなり高いと感じる。もちろんデータがあるわけではないから印象に過ぎないが、事実だ。

 同じ日、稲を刈ってハザ掛けしている光景も見えた。西天竜では比較的水田の渇きは良く、稲刈りに苦労するようなことは少ないが、写真のように軽トラックで田んぼに入っても、ぬかるようなことは全くない。

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野放し

2022-08-31 23:45:29 | 農村環境

いずれも農道の近くのもの

 “続「草刈をする範囲」考”でも触れているように、草を刈るのにも人それぞれだ。それにしても今日訪れた現場の草は“見事なものだった”。ひごろ伊那の北の方のある地域は「草を刈らないなー」と思っていたが、今日の水田地帯はそれ以上の状態。1枚目の写真は未舗装の農道であるが、「これ道?」と思うほどの姿で、とりわけ轍が残っているから車が全く通らないわけではないのだろう。しかしながらこの道を通るには、車の底を草が擦っていく行くわけで、嫌な人は通らないだろう。その上両サイドの草は車に倒れ掛かってくるほどに伸びている。たまたま近くに水管理に来られた方に聞くと、「たくさんやっているから手が回らないのだろう」という。このあたりの田んぼの畔にはヒエが密集していて、田んぼの中にもたくさん生えている。

 そんな農道の写真の右側土手にはワレモコウがたくさん咲いている。草が伸び放題だからワレモコウも生きながらえているという感じ。どちらが良いものか、と天秤に掛けるところだが、きっと自然保護主義者は草を刈らない方を推薦するだろう。

 3枚目は近ごろ盛んに触れている、いわゆる「草刈りをする範囲」である。この田んぼの方は自分の田んぼの水平面と、下田との間にある法面だけ刈っている。道路との間は刈らずにいるわけだ。あまりに道路の草が伸び放題だから、「自分だけ刈っても仕方ない」と諦めているのかもしれない。

 

わかりづらいが、光って白っぽいのはみなヒエである

 

黄色く色づいたコメ

 上の2枚、1枚目は分かりづらいが穂が垂れて、だいぶ黄色くなっていて。間もなく「稲刈り」である。この田んぼはこのあたりでは珍しく畔草もよく刈られている。2枚目こそ写真ではわかりづらいが、ヒエだらけで、なおかつ穂が立っている。このままだと「収穫できるのだろうか」と思うほど、実のなりは危うい。この日、もう用水を止めるのだという。田んぼであまりにも成長差があるので、水を止めて良いのだろうか、と心配になる。

 

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何度でも繰り返す「ハナシ」

2022-08-28 23:23:03 | 農村環境

 この2日間も草刈だった。周囲の人たちが誰も働いていないのは、こちらとしてはむしろ「ありがたい」こと。隣近所といろいろあるからそう思う。とはいえ、こちらの草刈の様子をうかがうように、周囲でも草刈をする。1週間後に行くと、光景が変わっているのはそのせいだ。周囲の家々にも息子さんたちがいて、けしてそうした人たちが草を刈らないわけではないだろうが、高齢の親が草を刈る光景が当たり前のよう。もちろん平日のことではあるが。週末の光景しか知らないわたしには、平日のこのムラの光景は「不明」である。

 2日間、休耕している2枚の田んぼの草を刈った。先週も1日要したから、これで3日目。それほど広い田んぼではないが、伸びてトラクターで起こすには「ちょっと」と思うような草を刈るのは容易ではない。以前にも体験していたので「厄介」なことは記憶にあったが、この季節(まもなく初秋)の草は「刈りづらい」。最たるのは草が倒れ掛かっているせい。腰があってしゃきっと立っている草は刈りやすいが、腰がなく根元から地面に倒れ掛かっている草は、根元からきれいに刈れない。3日目と言ったが、実は1枚の田んぼは甥たちが「草刈デビュー」と言って手伝ってくれた。この刈りづらい草を、もくもくと刈っている姿に、ちょっと意外に思った。もう大学生とはいえ、たんたんと文句も言わずに刈っている。初めてだから良いのかもしれない。週末これでもか、というくらいに草を刈っているわたしには、この草は「なんだこりゃ」である。いわゆる畔草は、よほど強情な草でない限り、ナイロンカッターで刈る方が早い。ところがこの厄介な草はナイロンカッターでも容易ではない。どちらが良いものか、と鋸刃とナイロンカッターの2台を用意して試すのだが、どちらもどちらである。繰り返すが「初秋」を前にして、盆前には一度草を刈るか、トラクターで起こしておくのがベターのようだ。

 さて、もう一度。甥たちも含めて我が家では4人も野に出て休日に働いていた(妻は別の仕事をしていたから5人、ともいえる)。周囲に誰もいないのはラッキーなのだが、裏を返せばこの近隣の家々にいる若者(とはいえもうそこそこの歳だが)は、いったい何をしているのか…。わたしも、また義弟も、きっとやらなければならないことが山とあるのに、何度でも繰り返すが週末はこの空間整備に手をかけている。先日も記したように「草刈をする範囲」は途方もなく広い。休日をふつうに「休日」している人たちと、同じ土俵にいるとは、とても思えない。

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続「草刈をする範囲」考

2022-08-26 23:54:20 | 農村環境

 現場で邪魔だと感じた草を刈った。このところ丈が伸びて目立っているオオブタクサである。ところが、伸びているとはいえ、それほど丈が高くなかったのは、今季一度か二度刈られているからだろう、邪魔な分を軽く刈り取った後に、太い茎が残っていた。しばらく前に刈られたのだろうが、おそらくかなり丈が伸びていたはず。直径数センチほどもある刈り取られた茎もそこそこ長く残っていたため、それも根元から切ろうと鎌を振ったが、びくともしなかった。同じ直径の竹よりも肉厚がある。鎌の方が傷んでしまいそうなので切るのは諦めた。オオブタクサの伸び放題の草丈は、2メートルを優に超える。おそらくそのくらい伸びていたものを最近刈った後に、再び伸びていた枝が、わたしが刈った邪魔な部分だったというわけだ。オオブタクサの強さをあらためて思い知らされた感じた。水路の法面だったから、最近まで刈られることなく伸び放題だったのかもしれない。

 昨日もある会議で「誰が草を刈るのか」で議論になっていた。ほ場整備を行うにあたり、法面が大きいと「草刈が大変だ」、とは当初から議論になっていた。法を大きく持つ人と、ほとんど無い人では、その先100年も、もしかしたら何百年と続く労力差を換算したらとてつもない費用になる。したがってその土地を持つことになる人にとって見れば死活問題を越えた先々までの問題となる。したがってその議論がいつまでも続くのは当たり前のことだ。しかし、農業をしていない人や、平らな土地に生業をしてきた人たちにとってみれば、無縁な話。理解しがたいと思う人も少なくないだろう。

 わたしのふだんの暮らしに、草刈は当たり前に存在するから、この議論は理解できるのだが、とはいえ、人それぞれいろいろな考え方があることは、そうした議論に耳を傾けているとわかる。個人の土地に法面がたくさん付帯すると、その土地の人は損益を被ると感じるだろうと思い、大きな法面を公用地に付帯するようにした方が良いだろう、そう思っていた。ところがである、道路の法面に添う田んぼを現在所有されている方が、そうした環境にある人の思いを「なかなか理解してもらえない」と意見された。ようは公道の法面(とくに道路下のケース)の下に田んぼを持つ人は、その法面の草が伸びると田んぼ側に倒れるため、自ずと田んぼの所有者が草を刈ることになる。公道の草だから刈らないでおくと、他人には「なぜ刈らないんだ」と囁かれる。それを苦にして、結果的に倒れそうな部分だけではなく、連続している法面全てを、田んぼの所有者が刈らざるをえなくなる。ようは個人の田んぼの法面なら、「なぜ刈らないんだ」と下側の田んぼの所有者が言う相手があるが、公道ではそう苦情をはく相手がいないというわけだ。もちろん公道の所有者に苦情をはくことはできるが、地域で管理してもらえないか、と言われることは普通にある。地方では公用地だからといって行政が草を刈ってくれるスペースは限られている。この会議に行く途中に走っていた県道で、ある場所は草がほとんど目につかないのに、ある場所ではかなり草丈が伸びた光景が目立ち、車に接触するのでは、と思うほどの見苦しさであった。同じ路線なのに光景が異なるのは、県道管理者が何らかの理由で刈ったのか、あるいは隣接地の方たちがふだんから刈っているのか、そのどちらかだ。

 わたしも日記で何度も触れている通り、「草刈をする範囲」は、公用地を多く隣接地に持っていると自ずと広くなる。これは、隣接地の人たちが刈るのが当たりまえだ、という意識が存在するためだ。もちろん個人としての法面は少ないにこしたことはないが、公用地の法面が大きければ、結局隣接者の負担は大きくなるということ。もちろんその意識はだいぶ変化してきていて、公用地の草など「刈る必要ない」と考えている耕作者は増えてきている。すでに草が伸びているからといって、「あの家は…」などと陰口をされる時代は過去になりつつあることも事実。

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