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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

長松寺の貞治仏

2024-10-08 23:05:01 | 地域から学ぶ

箕輪町長岡長松寺 延命地蔵尊

 

  8月26日の民俗の会見学会で訪れた箕輪町長岡の長松寺は、曹洞宗の寺で創建は明応元年(1492)と伝えられている。境内に入って左手本堂前に、覆屋根の下に守屋貞治作の延命地蔵尊が座している。女性的な温和な顔立ちの地蔵尊で、明確に守屋貞治の作と判明している石仏である。それは「地蔵尊建立諸入用」という書付が残されているからだ。それによると、貞治と弟子の渋谷藤兵衛によって彫られたもので、文政10年(1827)に造立されている。その書付の表紙には

文政十丁亥年十一月
地蔵建立諸入用控帳
  世話人 与一 善五衛門

と記されている。造立の経過が記されており、同年8月4日に藤兵衛一人が出て村の世話人等と作業の打合せや石の詮議をしている。以後8月11日から作業をしており、藤兵衛は村人足の石堀及び石出しの指導に当っている。9月5日からは貞治の作業が始まる。この二人の作業を地元の石屋7人、及び村中の人足が協同し11月10日に竣工した。時に貞治63歳、藤兵衛44歳であった。

 「地蔵尊建立諸入用」とは別に「地蔵雑用控簿」というものも残されていて、その表紙には

文政十亥年
地蔵雑用控簿
  世話入 善五衛門
      与市

とある。これら詳細については、『石仏師 守屋貞治』(昭和52年 高遠町誌編纂委員会)に記録されている。こうした造立に当っての詳細が記録されている資料が残されているのは、貞治仏の造立経過がわかる貴重なものである。

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ある水田地帯の光景

2024-10-06 23:14:27 | 地域から学ぶ

令和6年10月6日 PM1:30

 

 今年はアサギマダラの飛来が少ない。あちこちでアサギマダラを、という活動が盛んなせいかもしれないが、わが家のような静かな空間に来て欲しい、とは勝手な希望だ。今日出会ったアサギマダラ、最初は近くに行っただけで飛んで行ったしまっていたが、そのうちに慣れてくると近くにいても飛び立とうとしない。それどころかすぐ近くに手を差し伸べても飛び立たないので、手で触ったのに、それでも飛び立たない。よほど留まっていた花が気に入っていたかどうかは知らないが、毎年アサギマダラを捉えているのに、今日出会った個体は、ちょっと鈍感すぎる感じだった。

 来週末が地元の祭典ということで、今年は以前にも触れた道が決壊して、いまだ復旧していないため、わが家の方に祭典の際に囃子屋台が迂回するという。ということで、道沿いにある水田の畔の草を刈った。この日近くでも高齢の方が草を刈られていて、数年前まで水田を耕作されていたが、耕作放棄となっている土地の水田面の草を刈られていた。この場合「耕作放棄」は適さないかもしれない。年に何度か草を刈られている。したがって肥培管理されている水田、ということになるだろうか。隣接する我が家の水田も同じような状態だから、大きなことは言えないが、この空間にわたしがかかわるようになった30年以上前には、見渡す限り稲が植わっていた。しかし、今は稲が植わっているのはその1割くらいに減っただろうか。無理もないことで、この空間はほ場整備がされていないため、それぞれの水田に入るにも、人の土地を通らないといけない土地がいまだにある。我が家の土地から見下ろす位置にあって、今日草を刈られていた方の水田の空間は、それこそ30年以上前に車が入れるようにと農道を造られた。洞の中の細長い空間だから、道が開くことで、ほぼ関係者の土地には入られるようになったのだろうが、わが家の水田のある空間は細長い空間ではないため、道の奥にはいまだ道が繋がっていない水田もいくつかあったりする。加えてあっても道が狭いため、もし耕作できなくなったとしても、誰かが耕作してくれる、とは簡単にいかないのだ。さすがに30年で耕作地が1割まで減少するとなると、典型的な空間と言える。山の中ではよく見られる事例だが、集落の中の土地でこれほど耕作放棄が進んだ例は珍しいのではないか。高齢者が多いから、そう遠くないうちに、もしかしたら稲作をしているのは我が家だけ、になってしまうかもしれない。

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石造「蚕玉神」

2024-09-27 23:55:32 | 地域から学ぶ

「蚕玉神」辰野町沢底鎮大神社北側(令和6年8月26日撮影)

 

 今年7月、竹淵三郎平作の辰野町上辰野の「霊符尊」という珍しい石造物について触れたが、竹淵三郎平は1845に生まれ、1907年に没している。『伊那路』2021年7月号へ上辰野堀上荒井の道祖神について記事を載せたところ、竹淵三郎平の末裔の方から連絡いただいた。実は本日記でこの道祖神について書いているような気がしたのだが、検索しても登場しない。道祖神では唯一、堀上荒井の近くにある堀上竹原の道祖神について触れているだけだった。8月26日の長野県民俗の会例会後の見学会では、通過地点であったこともあり、堀上荒井の道祖神近くの蚕玉様(前述の霊符尊と同じ所に祀られている者)に立ち寄ったが、竹淵三郎平作の蚕神では代表作である。この蚕玉様もここで触れているかと思ったら、検索上に現れない。ちょっと意外だった。

 さて、竹淵三郎平作の石造物は特徴的だ。碑の上部に道祖神でも蚕神でも日輪と月輪が彫られる。上辰野のものは、女神像を蚕を飼う籠の中に彫りこんでいる。蚕の籠、わたしの生家では「かごろじ」と呼んでいたが、蚕を飼う際には必ず使われたもので、この籠はたくさんあった。養蚕繁盛を願う意図が、この像から強く感じられるわけである。この見学会を終えた後、ちょっとしたトラブルがあって、見学会で午前中訪れた辰野町沢底の鎮大神社を再度午後訪れた。午前中訪れた際には気がつかなかったのだが、鎮大神社のすぐ北隣に、同じ竹淵三郎平作の蚕玉様が祀られていたことに気づいた。そもそも鎮大神社の隣に小さめの石の鳥居がある。ここに「何が祀られているのだろう」と気を留められなかったのは、予定時間を気にしていたせいもある。石の蚕玉様の本尊の手前に、そのために鳥居が設けられているケースは珍しい。おそらく蚕玉様の正面に、蚕玉様へ誘導するように据えられたと思われる。

 ここの蚕玉様は、上辰野の物より一まわり大きい。上部の月輪は正面を向いているが、石の方に合わせて日輪は斜め上を向いて彫られている。上辰野のものと違って女神は桑を左手に持つ。そして右手には繭を持っているようだ。上辰野のものと同じように女神はかごろじの中に掘られていて、その周囲に縁起物がいろいろ彫りこんである。上辰野のものは南向きの日当たりの良い場所に祀られているが、ここのものは、木々に覆われていて、あまりひと目にはつかない(だからこそ午前中気づかなかったわけだが)。なお、背面に「明治十四年 六月吉日」と刻まれている。

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旧三郷村を訪ねて

2024-09-24 23:22:32 | 地域から学ぶ

安曇野市三郷二木地蔵堂横「大乗妙典納経塔」

 

三柱神社、白山社 風神祭

 

安曇野市三郷南小倉「カスミザクラ」

 

安曇野市三郷南小倉(室山西側)

 

 今日、安曇野市の旧三郷村の明盛と小倉を訪ねた。その中でわたし的に印象に強く残ったものを取り上げておく。

 まず二木の地蔵堂の横にあった石碑群のうち、写真の雨よけの屋根をいただいている大乗妙典納経塔である。何に効果があるのかは定かではないが、台となっている竿の上におそらく地蔵尊が安置されているものと思う。そのお顔を拝顔しようと試みたが、不可能だった。よくお地蔵さんに前垂れが掛けられていれば、それを外して撮影することはよくあるのだが、この尊像には前垂れどころか頭から布が被せられていて、全く様子がうかがえない。さらにその布が1枚や2枚ではない。10枚以上かもっとたくさんかもしれないが、尊像を隠すように巻かれている。とてもこれらを1枚ずつ剥がしていくつもりにはなれなかった。ようは元通りに戻せない可能性がある。顔だけ出していればともかく、完全に前進覆われてしまっていて、触るとボコボコのパンパンなのである。なかなかこのような尊像に出会ったことはない。

 次は同じ二木にある三柱神社と北小倉にある白山社の、いずれも風神祭の祈願札である。安曇野市内でこれまで何人かに聞いてきて思ったのは、このあたりではどこの神社でも風神祭(ふうじんさい)を行っている。『三郷村誌』の神社の項の説明では、三柱神社の風神祭は8月29日、白山社の風神祭は8月9日とあるが、おそらく両社とも現在は同じころに実施されていると思われる。宮司印が同じことから、お札を刷ったのは同じ人かもしれない。そして飾り方もほぼ同じである。やはり宮司によるところが大きいという印象だ。

 南小倉のカスミザクラは、花が咲いているわけではないのに、ずいぶん目立つ桜の木である。旧泉光寺の門前のあたりにあったと言われる桜で、目通り2.5メートルの桜の木という。この南小倉の一帯は、室山という独立した山の西側に展開していて、このあたりには珍しく広い水田地帯であった。そもそも三郷の中心である二木や長尾といったエリアには水田が多いが、その上段は江戸時代官林だったため、人々は立ち入れなかった空間だという。その官林が南北にあった、その西の山の麓に小倉の集落がある。官林が開拓されて現在は中信平左岸の水を配して果樹園地帯になっていて、これより上には水田が少ないのだが、室山の西側にはまとまって水田があった。ところが今はこの一帯に稲の姿は全くない。全て転作されていて、水田となっている田んぼが1枚も無いのだ。これほど徹底されて転作されているのは珍しいかもしれない。そもそも集落の周辺に水田がないとなると、このあたりの人たちは米を作っていないということになる。北小倉の集落の北側あたりに水田が少し見えるが、本当に水田が無いエリア。小倉の人々は、もともと水田が少なかったため、堀金のあたりに水田を持っていて、そこまで耕作に行っていたという。もちろん今でもそういう人はいるのかもしれないが、集落周辺に水田が乏しいという姿はここの特徴である。

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地図から消えた集落

2024-08-08 23:38:25 | 地域から学ぶ

 拡大図

 

 自然石道祖神の分布図を作成しようと『長野県道祖神碑一覧』から自然石らしき物件を地図に落とし込んでいくのだが、一覧に記載されている地名がどこなのか「わからない」ことは多い。こういう場合は、ネット上で地名を入れて検索しておおよそどこなのか推定していくのだが、まったくわからない物件も多い。何より国土地理院の地図上に地名が示されていないものは厄介でしかたない。こうしたネット上で検索しても不明なものもある。なぜかといえば、過去の集落、ようは廃村のような集落は国土地理院の地図に示されていない。こういう時には、古い地図が必要になるのだが、近在のものはあっても県内全域所有しているはずもない。

 旧美麻村の千見には自然石道祖神が多い。その千見の地名が前掲書にあげられているのだが、国土地理院の地図に示されていない地名が多い。例えば「美麻村千見不須」と検索すると「村影弥太郎の集落紀行」にある「不須(ぶす)」が登場する。いわゆる廃村を全国歩いておられる方で、この方のページは将来にわたって貴重な資料になるだろう。そもそも「不須」と書いて「ぶす」と読むなどということは分からない。フリガナまで振ってある。そして彼のページには小さな国土地理稲の局所図が貼ってある。「不須」は昭和24年の図を引用している。当時の地図は集落がたくさんあったから紙面を見ても賑やかだったことだろう。今の国土地理院の地図などまったく集落名が消えている。残念ながら彼のページに貼ってある図は小さいため、現在の地図から場所を推定することはできない。紹介されている文章から「不須」については「千見地区の南部にある」というので大雑把に推定するしかない。

 悩んでいると少し記憶がよみがえった。そういえば半世紀近く前に市町村地図を集めていた。旧美麻村のものもあるのでは?、と思い、倉庫の箱の中から探してみた。昭和54年12月20日付で役場から送っていただいた地図が見つかった。それがここに掲載した「美麻村全図」である。5万分の1だから詳細ははっきりしないが、あるていど場所は確定できる。「不須」は現在の地図で「竹ノ川」と表示されるすぐ北側にあった集落。そのあたりに今の地図にも家屋らしいものがいくつか表示されている。ほかにも同じような事例がいくつもあるのが、この千見の特徴でもある。この後現在示されている集落もどんどん消えていくのだろう。古い地図が貴重になってくる、そう思い知らされた。なお、拡大図の下部に「高地」が見える。「高地」については以前「挙家離村のムラ“高地”へ」を8回に分けて触れている。

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安山岩地帯の安山岩の十王

2024-08-05 23:02:18 | 地域から学ぶ

小諸市菱平後平福正院十王

 

 小諸市菱平後平は、小諸インター東にある飯縄山北麓にある傾斜地の集落で、その最も高いところに曹洞宗福正院という無住の寺がある。もう半世紀は無住と言われる寺であるが、荒れているわけでも
なくよく管理されているよう。その寺の入口に石造の十王が安置されているというより雑然と置かれているという感じ。数体は頭部を欠損しているが、ほぼ10体現存し、奪衣婆も残っている。伊那谷では禅宗の寺では十王が粗末にされたという例を聞くが、この地域ではどうだったのか。雑然と露天に転がっているところを見ると、大切にされてきたという風ではない。石質を見ると白っぽいものもあって全て同じ石では無いようだが、安山岩であることに変わりはないよう。

 

 ちなみにすぐ脇の水田に積まれていた石積の石は安山岩であった。地質図で確認すると、このあたりは安山岩の産出される地域。ようは当たり前のことだろうが、石積のような石材は地元の石が使われている。そして十王も同じ安山岩ということで、伊那谷と同じように安山岩の十王ではあるものの、近在に産出されない安山岩の十王を、あえて伊那谷では多く祀っているというわけである。このことを前置きしたうえで、次項では後平の自然石道祖神を見てみることとする。

続く

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稲核風穴へ

2024-07-27 23:49:53 | 地域から学ぶ

見学用風穴内

 

諏訪神社周辺風穴群

 

 お世話になっている大学の先生と例会の件でメールのやり取りをしていると、たまたま風穴を院生とともに訪れるという話を聞いた。とくに案内者はいないということなので、風穴に関わっていたこともあり案内を申し出た。ということで、今日久しぶりに稲核の風穴を訪れた。実は風穴に関しては、位置を確認するための測量が中途で途絶えていて、宿題となっている。どこかでまとめておかなければと思いながら経過してしまっていて、「まずいなー」と思っている物件。かつて風穴の利用状況について聞き取りをして、もう5年ほど経過している。当時聞き取りをさせていただいた方たちも、ずいぶん高齢になっていて、再度聞き取ることも難しい状況。

 さて、家庭用のいわゆる諏訪神社周辺や明ケ平の風穴は何度も訪れていたが、道の駅近くの見学用風穴を訪れたのは初めてだった。内部には日本酒が貯蔵されていて、いくつかの銘柄が見えたが、大信州の風穴貯蔵酒が最も多く貯蔵されていた。なにより見学用とはいえちゃんと利用されていて、さらに驚いたのはその温度である。とりわけこのごろ35度にまで気温が上がる中だから、余計に感じたのだろうが、風穴の中は8度を示し、ずっといると寒くなってくる。本当に冷蔵庫の中にいるような感じ。暑い時だからこそ、なのだろうが、諏訪神社周辺の小さな風穴の崩れかけた石積の隙間に手をかざすと冷たい風が流れてくる。この季節にもってこいの「風穴」である。

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掘りだされた石碑

2024-07-23 23:47:16 | 地域から学ぶ

伊那市東春近田原上新田「庚申」と「道祖神」

 

 伊那市東春近の大沢川沿い、地籍では田原になるが大沢川左岸側を上新田という。今は上新田と下新田が一緒になって新田というらしいが、集落と大沢川の間に水田地帯があり、5年以上前からこのエリアで砂利取りがされている。ようは建設資材となる砂利を、水田の下から採取して、そのあとには別のところから土を搬入して戻している。田原一帯の水田地帯を広く行っており、まだ何年もこの作業は続く。土を戻したあとは、元の区画に戻すのではなく、区画を大きくしたほ場整備を行っている。

 写真1枚目は、大沢川の堤防の上から撮影したもので、水田の向こうハウスとハウスの間に舗装された道が見えている。この道が砂利取りする前はそのまま堤防まで繋がっていたのだが、区画を大きくした際にその道はなくなった。ちょうどかつての道が堤防の上に乗りあげるようにつながっていたもので、そのかつての道の上に大小石碑が2基並んでいる。写真は石碑の背面から写している。今までにも何度かこのあたりに来ていたのに、ここに石碑があることに気づかなかった。かつての道の上に安置されているから、もちろんほ場整備された後にここに移転されたとわかる。集落内ではなく、なぜか大沢川の端に建っていることから、「流されてきたものか」とも思ったわけだが、とりあえず『伊那市石造文化財』(伊那市教育委員会 昭和57年)の一覧で確認してみた。大きな碑は「庚申」であり、「寛政十二天 三月」とある。ちょうど1800年に当り、庚申年である。いっぽう小さな碑は「道祖神」であり、向かって左側側面に「文化十四丑年 上新田中」とある。両者ともに前掲書に記載がなく、やはり流された、あるいは埋まっていたものと想像された。「上新田中」とあるから上流から流されたものではない。明らかにこの地で建てられたもの。ということでその謂れを仕事でお世話になっている方に聞いてみた。

 やはり今回の砂利取りの際に掘ったところ土の中から出てきたもので、「庚申」の方は前述したハウスとハウスの間にある道の突き当り、県道の端に上新田の大地主の田んぼがあって、そこに柿の木があったという。その水田から出てきたもので、処分するわけにもいかず、道の延長上の現在地に建てたのだという。「道祖神」の方は同じ場所ではなく、そこから南へいったところのやはり砂利取りした水田から出てきたものという。かつては水害の常襲地帯で、大きな水害は昭和26年にあったという。天竜川の水による水害といわれ、この下流にある伊那峡で川が狭まっているために田原では淡水することが度々ある。伊那市内では美篶のあたりでも掘りだされた石碑と言われるものがあちこちにある。水害の常襲地域では、土の中からこうして発掘される石碑があるわけで、前掲書に掲載されていないのも納得する。ちなみに道祖神は砂岩系かと思われ、庚申は緑色片岩と思われ、三峰川に流れてきた巨石と考えられる。、

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五輪塔残欠と道祖神

2024-07-14 23:47:28 | 地域から学ぶ

 「旧丸子町西内の自然石道祖神④」において旧丸子町西内平井公民館の庭にあった石碑群について触れた。その中に道祖神とはほんの少し離れていたが、お地蔵さんの前に五輪塔の残欠のようなものがいくさも並べられていたことについて記した。五輪塔の残欠といえば、上水内郡内で集中的に五輪塔残欠を道祖神と称している例があること、そして本日記でも何度となく道祖神と五輪塔残欠が同居している写真を紹介してきた(例えば「道祖神と五輪塔」「虫倉山の麓へ繭玉型道祖神を訪ねて 後編 その1」など)。東信エリアである西内や東内で同様の光景を見て、五輪塔残欠が道祖神と同居する事例の広がりを知った。しかし、自然石道祖神が多数現存する伊那市周辺地域で五輪塔残欠を見た覚えはない。そもそも五輪塔というものそのものが、それほど多くはないとともに、よそで五輪塔残欠と言っているような小さな五輪塔は、伊那谷は少ない。道祖神空間に五輪塔残欠が見られる地域には、それほど五輪塔が多く存在するのか、と最初見た時には思ったわけであるが、わたしとしては五輪塔が道端にころがっているという光景が当たり前でないため、違和感を抱いたわけである。

 実は同じような光景、いわゆる道祖神と五輪塔が同居している、あるいは道祖神と呼ばれているのではないか、と思われる地域が神奈川県で見られる。それに気がついたのは、今回あらためて書棚に入れたままになっていた『相模の石仏』(松村雄介 木耳社 昭和56年)を開いて写真を見ていてのこと。双体道祖神と五輪塔が並んでいる写真がいくつか見られたためだ。気がつくとともに同じ書棚にあった『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』(秦野市立南公民館道祖神調査会 平成元年)を開いて見ると、悉皆的に写真が掲載されていて、自然石はほとんど見られなかったが、そもそもそれしか道祖神の対象となっていない事例がいくつか掲載されていた。それらには五輪塔残欠が道祖神とされている例があり、上水内と同じ例があることを知った。そこでウェブ上で検索してみたわけだが、やはり神奈川県の道祖神は五輪塔との関係性が高いことを知った。下記に松田町の例を取り上げてみた(クリックするとグーグルストリートビューで確認できる)。とりあえず松田町の例だけだが、おそらく神奈川県内にはよく見られる光景なのかもしれない。

 なお、松田町のこれら情報は「神奈川県内の道祖神と寺社の散策散歩」からのもので、そのうちの「松田町」を今回検索してみた。

中沢道祖神(松田惣領1932付近)

沢尻道祖神/石仏群(松田惣領1526付近)

寄弥勒寺道祖神(寄弥勒寺2189付近)

寄田代道祖神(寄田代5326付近)

神山北村氏道祖神(個人所有)


 また、松田町の道祖神を検索してみると、まさに自然石を道祖神と称している例も掲載されていた。下記の例である。

稲郷道祖神(寄稲郷4337付近)

寄中山道祖神(寄中山3252付近)

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田んぼの脇の大日如来

2024-07-12 23:52:58 | 地域から学ぶ

5月26日撮影

 

 旧武石村上武石の市野瀬の路傍、道ではなく田んぼ側を向いて建っている仏像があった。なんの変哲もない路傍の、それも田んぼに向かって建つ、それも仏像である。よく見てみると智拳印を結んだ大日如来である。なぜ大日如来がここに、という印象であった。ちょうど田植えを終え、水の管理に来られていたお婆さんに謂れを聞いたのだが、「昔からここに」と言われるだけで、その背景は分からなかった。

 大日如来といえば、地域によっては牛の供養で祀るところがあり、その関係なのかとも思うが、大日如来の立派な像の例は珍しく、あくまでも想像の域である。先日来参考にしている『武石村誌 民俗』にも像のことはもちろん、牛供養に関する記述も無い。

 ところで、武石では修験の影響を強く抱く。例えば小寺尾の一心祭である。この祭典行事は上田市の無形文化財に指定されている。一心は小寺尾に生まれた御嶽行者で、この一心行者を偲ふ祭が一心祭である。一心講の信者は関東方面に多く、その数は20万人にも及ぶと、小寺尾にある公民館前の説明板にある。祭りでは上、下小寺尾地区が中心となって行者の火渡りや、剣梯子の刃渡りを見せる。一名を一心霊神祭ともいう。祭りには関東各地から御嶽行者十数名が集まり、民家から集めた薪を井の字形十段に積み、講社長の行孝が火をつけた薪の上で祈靖を行うという。行者による火渡りが済むと一般の人たちも渡るというもので、地域で支えられてきた行事のよう。したがってこの地域が修験者とのかかわりが強い地域と捉える。故にそうした背景が、自然石道祖神に影響しているようにも思え、この大日如来もそうした背景と関わっているのではないかと想像する。

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人災

2024-06-29 23:36:40 | 地域から学ぶ

 先週18日だっただろうか、妻が家に帰ってきて、「帰りがけにお宮の坂を下りてきたら、洞の中が湖のようになっていた」と言ったのは。その洞はそれほど大きなわけではないが、村道の暗渠の上流側に幅15メートルほど、高さで4メートルほど、奥行きは30メートル以上あるだろうか、ポケットがある。そこが湖のようになっていたということは、1000トン以上の水が溜まっていたということになるだろうか。先週末、草刈に出かけたついでにその洞を確認してみると、村道の暗渠であるヒューム管が、口元は半分ほどだが、中を覗くと下流側の明かりは見えず、途中でほぼまんぱいに土砂が溜まっているようだった。口元は勾配が緩いが、下流側はけっこう急にヒューム管が布せられている。したがって緩い区間の土砂を、下流側へ流してしまえば溜まっている土はなくなると思うのだが、これを地元の人たちでするのは無理で、消防のポンプなど利用して水撃で流さない限り、容易に土砂を除くことは困難と見た。我が家には区の役員がいるので、そのように伝えたのだが、区を通して村にそのことが伝わっていたのかどうかは不明である。

 ところでこの土砂がなぜ溜まったのか、推測すると、この洞の村道側の法面は近年何度となく崩落していて、そのたびに土建業者によって直されていた。もちろん推定であるが、法面が崩落したから、その土砂がヒューム管の中に溜まっていたと推測するのはふつうの推測。法面を直した際に詰まっている土砂を取り除いたという可能性も否定できないが、それほど流域が広いわけではなく、経年で溜まった土と、崩落した土とが相まってヒューム管を塞いでしまった、とはわたしの推察である。もちろん何度となく法面の工事をしているというのだから、竣工後の検査時にこの中を村の関係者が覗いて、その状況を認識していたかは、これもまたわからないことであるが、いずれにしても、一気に詰まったものではない。加えて、法面の工事をした業者が中を覗かなかったとは思いたくない。ようは暗渠の中を覗いて、状況を確認する機会が何度となくあったのに、「放置された」のかどうか。これは一つの問題点であることは、とりあえず置いておくとして、実は、28日の雨でこの村道の法面が見ての通り、「決壊」したのである。申し訳ないが、つい1週間前のことである、わたしが暗渠の中を覗いたのは。そしてこのまま放置すれば、当然このようなことになると推測されたのに、「なぜ放置されたのか」。聞くところによると、この村は災害が発生すると「区を通せ」という。妻が以前直接村に連絡したら、みごとに周囲から批判された。「なぜ区を通さないのか」と。加えて「嫁に行ったよそ者が」と口撃を受けた。そもそも村道なのだから、異変があれば(気がつけば)通行した人が村に連絡する、が当たり前だと思うが…。

 この時代に「よそ者」がまかりとおる村だ。村の人間だけが村には「住んでいる」、あるいは「村の権利者」と勘違いしているムラ。さて、今回何が大問題かといえば、事前に察知して、連絡していたのに、このザマなのである。地域も、行政も、勘違いしている「ムラ」であることは間違いない。

 なお、28日の日雨量は現場で98ミリ程度であったという。これは災害発生雨量を越えているが、繰り返すが、事前に対応していれば発生しなかった「人災」である。さらに妻が「湖になっていた」という日の日雨量は72ミリほどであった。

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楡の集落を歩く

2024-06-24 23:59:52 | 地域から学ぶ

 安曇野市三郷楡の集落を歩いた。知らない土地ではなかったが、今まで特別意識することも無かった「楡」でもある。記憶が定かではなかったが、この集落にあった同僚(先輩)の家を遥か昔に訪れたことがあった。何かの研修の後に、「ちょっと寄れや」と言われて立ち寄ったことがあった。40年と近く前のことだ。したがってその家が「楡」であったのかどうかも定かではなかったが、歩いていると同一姓の家が多かったこともあり、「もしかしてこの集落だったのかも」と思ったわけだ。そこで地元の方にかつて同僚だった方の名を口にすると、「この家」と示されたのは、直前に説明を受けた家だった。歴史上に名が刻まれた家とは、これまで全く知らなかった次第。

 安曇の三郷といえば「貞享義民」が知られる。後に「義民」として祀り上げられた印象はあるが、原点は江戸時代貞享3(1686)年に松本藩に起こった百姓一揆である。かつて明治維新後松本城は存続される道を歩んだが、当時の松本城は傾いていたと言われる。その傾きは貞享騒動の首謀者多田加助が磔となった際に、松本城をにらんだせいで傾いたと語られるようになった。この話は明治以降につくられたものと言われているが、それほどこの地域において貞享騒動は、歴史上の大きな出来事であったと言われている。その貞享騒動の詳細は、ウィキペディアなど多くのページで記されているのでここでは触れないが、磔となった者8名、獄門となった者20名と言われ、磔となったのは多田加助のほか、小穴善兵衛、小松作兵衛、川上半之助、丸山吉兵衛、塩原惣左衛門、三浦善七、橋爪善七、以上8名だった。多田加助に次いで一揆を首謀したと言われる小穴善兵衛、その末裔がかつての同僚とはまったく知らなかったこと。ナンバー2と言われた小穴善兵衛は、16歳の娘と子、弟とその子、さらに弟、と6名が磔、獄門となっている。さらには磔となった小松作兵衛の妻は善兵衛の妹だったという。何より当時は女性が処刑される例は珍しかったと言われている。ちなみに説明するまでもないが、磔は罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑をいい、獄門は死後に首を晒しものにする刑を言う。見せしめとはいえ、非道な処刑とは今だから言えることかもしれない。

 

楡の集落と本棟造り

 

 さて、現在の楡の集落を歩いて思うのは、豊かな村であるという印象。もちろんそうした集落であっても広い屋敷が無住となっている家も少なくない。燕返しの付いた本棟造りの家も見えるが、多くは戦後の建物と思われる。こうした光景は安曇野には顕著に見られるが、背景としてなぜ本棟造りが好まれたか、興味深い点でもある。実はかつての同僚の家も本棟造りの母屋があり、そのあたりを聞いてみたいと思い、立ち寄った次第。

 

北村の道祖神と墓地

 

上手村の道祖神と墓地

 

住吉神社

 

 北村と上手村の道祖神の写真を取り上げたが、いずれも墓地の入口に建てられている。集落と墓地、そして道祖神の立地を見た時、そもそも墓地は集落において中心に当たるのかもしれない、そう見えた。その上でこれも安曇野らしい光景だが、それらと堰との立地も興味深い。それほど堰(かんがい用水路)が多い。そもそも江戸時代に一揆が発生した要因に、水が乏しかったという事実がある。堰が開発されたことにより今のような豊かな姿を作り上げたわけであるが、そのいっぽうで楡の地には不思議な光景がある。今でこそ下流側に排水路が整備されたが、かつては黒沢川が楡の集落直上で消えていた。ようは川の末流がなく集落西側にある住吉神社の直上で消滅していたのである。広大な社有地は、黒沢川の水を吸収していたとも言われ、集落を護るための住吉神社であったとも。扇状地面であるからこういうケースは他にもあるのだろうが、これほど歴然とした例は珍しいのではないだろうか。

北村の墓地内にある貞享騒動50周年忌供養塔

 

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子供組行事

2024-06-19 23:16:57 | 地域から学ぶ

 この2日間、旧長門町長久保の道祖神と祭について触れてきたが、思い起こせば、上田民俗研究会の前会長であった酒井亻玄(もとる)先生から、昭和62年と63年に訪れた長久保と和田の道祖神獅子舞についての写真を提供してほしいという話があったのは、平成元年のことであったと記憶する。子供組の行事を扱った写真として先生がかかわられている雑誌に載せたいという依頼だったのだが、掲載誌『上小教育』と具体的に聞いていたかは記憶にない。発行されてしばらくしてから送られてきた雑誌が『上小教育』の第33号だった。特にその雑誌に子供組についての記事が掲載されていたわけではなく、ただ、巻頭に子供組の行事の写真が特集されていたもの。わたしの写真のほか、酒井先生、亡くなられた小林寛二先生の写真が掲載されている。

 

 

 

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「踊念仏供養塔」

2024-06-15 23:02:57 | 地域から学ぶ

 

 旧武石村に自然石道祖神を求めて訪れた際、武石川左岸の小寺尾において珍しい石碑を見た。見た目「墓石」かと思われる石碑の正面には「踊念仏供養塔」と刻まれている。念仏供養塔の類は多数県内に見るが、頭に「踊」を刻む塔は、わたしの記憶では初めてである。集落内のメイン道路から少し水田内に外れたところに石碑群があり、その中央前面、いわゆるこの空間では中心的存在の碑と捉えられるこの塔については、横に説明板が立てられている。管理されているのは上小寺尾自治会で、由来には次のように記されている。

天明期は気候が不順で凶作がつづいた上、浅間山の大噴火があり、村人達は祖先の伝えてきた踊念仏を上州沼田に譲り渡してしまった崇りと考えた。そこで、天明3年に踊念仏供養塔を建立し、八十八夜の日を祭日とし供養するようになり今日に至っている。

というもの。「踊り念仏を上州沼田に譲り渡し」たというところの意味が今一つだが、踊り念仏の道具を譲り渡した、という意味なのか踊り念仏そのものを譲り渡したのか…。祟りと考えて復活させたというのならわかるが、そうではないよう。とすると復活できない背景のようなものがあったと思われ、例えば道具がなければできない、というのならわかりやすい。

 向かって右側面に「天明三年癸卯八月下旬」と建立年が刻まれている。

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描かれた図から見えるもの㉞

2024-06-07 23:58:28 | 地域から学ぶ

描かれた図から見えるもの㉝より

 宮田村の例は一貫して山(中央アルプス)を図上に置くレイアウトの例であったが、ここで紹介する飯島町の観光、というか告知用パンフレットは宮田村の例とは異なる。まず最近公開されているいくつかのものを見てみる。

 

「いいじまという町で」

 

 「いいじまという町で」というA5版よりは一回り大きいパンフレットは、観光用というよりは移住者向けの案内誌という感じ。表紙裏の文言の始まりは、

ここは、長野県の南部、
伊那谷の中央に位置する飯島町。

西は中央アルプス、
東は南アルプスに囲まれた
ふたつのアルプスが見えるまちです。

移住して夢を叶えた人
理想の暮らしに出会えた人
てつものアウトドアを楽しむ人
子どもと豊かな時間を過ごす人

“いいじま”には多様な暮らしを
送っている人たちがたくさんいます。

“いいじま”という町であなたは
どんな時間を過ごしますか?

というもの。多様な人の冒頭に「移住して夢を叶えた人」を持ってきているように、移住者へ視線を送っているものとすぐにわかる。そしてこれを作っている方も、きっと地元ではない人、なのかもしれない。この案内誌の最後に略図が掲載されている。上は「北」であり、その方位も記載されている。図には申し訳なく程度山が描かれているが、中央アルプスの頂までは示していない。それと天竜川の東側、図では右端にあたる部分に伊那山地の山々が描かれている。この案内誌を発行しているのは飯島町地域創造課である。

 

 

「飯田線の車窓から」


 次のパンフレットは「飯田線の車窓から」というもので、B4版1枚を三つ折りしたもので、略図を示して飯田線の撮影スポットを写真で紹介している。略図は図のとおり、本当に簡単なものであるが、これもまた配置上は図の上を「北」にしている。線ものを中心に展開する場合、わたしたちには横に配置した方が見やすいのだが、それをあえて縦版に配置しているところは注目すべき点である。このパンフレットは「まちの駅いいちゃん」であり、編集は地域おこし協力隊とされている。

 

 

「いいじま まちあるきガイドマップ」


 最後に紹介するのも現在公開されているものであるが、「いいじま まちあるきガイドマップ」というもの。B5版を縦に1/2にしたくらいの大きさの変形版である。飲食店などを案内したもので、表題通り地図が中心である。その地図はやはり略図であるが、図上を「北」にしている。当たり前かもしれないが、暮らしのエリアを案内しているから、山をアピールする必要も無く、「山」を意識する必要も無いのかもしれない。編集は「まちの駅いいちゃん」である。

 聞き取りをしていないが、これらすべて地域おこし協力隊がかかわっているのかもしれない。飯島町のパンフレットというと、以前「描かれた図から見えるもの⑧」で1回触れている。9年前に当るが、その当時のパンフレットも残念ながら頭上を「北」に配置していたようだが、その際「5年ほど前」のパンフレットとして紹介した図は、山を図上に示していた。飯島町の古いパンフレットが手元に見つからないため、これ以外に図上に山を配置した事例を示せないが、飯島町のパンフレットはここ10年以上図上を「北」にしたものしかないことがわかる。とりわれ、編集している人たちには、当たり前に「北」が図上という意識、あるいは空間認識があるのかもしれないが、古い人間には違和感があっても不思議ではない。

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