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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

平成の合併後の今

2025-02-02 20:33:48 | 地域から学ぶ

遠山谷の〝今〟より

 遠山谷の人口減少について触れたが、わたしは平成の合併で、山間の村は明らかに「損をした」と思っている。人に言わせれば「いずれ人口は減る」かもしれないが、これほど人口減少が著しいのは、遠山谷に「何があったのか」と問われても良いと思う。特別何があったわけでもない、結果的には合併が大きな事象であることに間違いはない。吸収合併だから飯田市のスタンスも問われるが、それを口にすることはご法度なのかもしれない、この地域にとって。繰り返すが合併しなくても同じ道を歩んだこと、と言われればそれまでだ…。

 長野県住民と自治研究所の2019年12月23日発行「研究所だより」(155号)によれば、「町村をひとくくりにすると、合併・非合併での違いはほとんど見られない。ところが、町と村と区別すると、合併を選択した村での人口減少が大きいことがわかる。これは、旧市町村でみた人口増の上位15位の中に6町が含まれていた(表2)ことが影響しているものと思われる」という。ようは合併した旧町に人口増のところが目立つことから、村が際立って減少が目立つということだ。また、「表5は、旧町村(旧市部を除く)の人口動向を、「対等」と「吸収」とで合計して比較したものである。その差は大きくは現れなかったが、吸収合併であった旧町村の方で人口減の傾向が見られた。対等合併の形式をとったところでも、実質的には吸収された周縁部の町村も少なくない。そのため、数字上は大きな差をなさなかったものと思われる」と述べている。合併したか、あるいは合併しなかったか、そして吸収か対等か、といった視点ではいずれもそれほど違いが表れていないと言っている。これらは単純にそれらに括って比較したからのことであって、現実的にその背景まで理解した上で考えれば、明らかに違いがあるというのがわたしの考えである。

 

 

 

 合併、非合併という観点で見れば表1の編み掛け(色塗り)した町村を見て欲しい(「研究所だより」155号をわたしが少し加工したもの)。例えば前回触れた遠山谷である。下伊那地域は遠山谷が突出して山間であるというわけではない。大鹿村や天竜村、あるいは県境地域は、同じような環境にあるといっても差し支えない。下伊那郡内の非合併の町村の編み掛け部分を見て欲しい。最も減少率の高い天竜村でも61.0パーセントであり、ほかの村々も70パーセント近辺である。その上で遠山谷の2村がどうかと見れば、あまりにも違いがはっきりしている。同じような環境といえば長野市に合併した西山地域である。最も低いところが鬼無里村の59.7パーセント。大岡村62.2パーセント、中条村66.4パーセントとなっているが、合併しなかった小川村は73.6パーセントと、西山の合併したどの町村よりも人口減少は少ない。もちろん遠山谷ほどではないが、傾向としてみれば合併したところの方が人口は減っている。同じようなことは環境が近い松本市に合併した奈川村や安曇村にも言えそうだ。そのいっぽうで、合併で人口が増えたところもある。したがって増えたところと減少したところを同じどんぶりに入れてしまうと見えるものも見えなくなるというもの。ピンクで示した梓川村、あるいは安曇野市になった町村は人口が増えている。これらは、合併したことにより、イメージが変わった地域とも言える。例えば三郷村や堀金村は、単独で村を維持しているよりも「安曇野市」というそもそも安曇野というブランドイメージが形成されていた空間に身を置いた方が地域イメージが違うというわけだ。ようはもともとり立地条件によって合併非合併は影響したわけで、山間のそもそも人口が減少していくのが見えていた地域にとっては合併が人口減少を加速させてしまったというわけである。

 さらに吸収か対等かという比較も、少なからず影響があるとわたしは考えている。事例としてはもちろん遠山と伊那市に合併した2町村である。後者は対等合併である。確かに旧伊那市に比較すると人口減少率が高いが、とはいえ、遠山と同じ中央構造線の谷にある地域にしては、その数値にはあまりにも格差が表れている。もちろん高遠や長谷と遠山を単純に比較するのが正しいとは言えないかもしれないが、ふだんそれらの地域に足を運んでいる者としてみても、遠山谷とは違うと見える。数値的に見ても80パーセント程度の高遠や長谷に比べれば、それらに何十パーセントも差をつけている遠山谷は異常である。

 なお、前回の表2にもあげられている旧木曽福島町の減少も特別かもしれない。これは国勢調査の値であるというあたりが影響しているのではないか。国勢調査と住民基本台帳の人口の違いはご存知の通りである。木曽福島は木曽谷の中心ということもあって、国勢調査上は基本台帳よりも多くなりがちなのではないだろうか。そのあたりがこの15年で特別な変化があったと思われる。住民基本台帳だけで比較するとこんなに減っていないのではないか、とはわたしの想像に過ぎないが、そこまで今回のデータでは解析していない。

 いずれにしても遠山谷の人口減少は、県内の中で異常な値を示しているということを知ってもらいたい。矢筈トンネルを越えてしばらく南下すると旧上村の中心である上町に至る。そのすぐ南は旧南信濃村である。そこに知人の家があるが、並んで比較的新しい家が数軒あるが、知人の家以外は、新しい家なのにしばらく前から無住である。かつて何度も泊りで仕事に行って、お客さんと町へ飲みに出たあの南信濃村ですら間もなく人口千人を切ろうとしている。

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遠山谷の〝今〟

2025-02-01 23:02:44 | 地域から学ぶ

〝須沢の記憶〟より

 年明け前の年末に、遠山谷の和田まで走った。目的は〝かたくり〟まで「ふじ姫まんじゅう」を買いに行ったのだが、まだ開店前の午前7時30分には用意できると聞いていて、その時間に合わせて向かって、購入するとすぐに引き返すという、「行った」とはいってもほんのわずかな滞在に過ぎなかったわけであるが、年に1,2回こうして〝かたくり〟まで走る。何年も繰り返していると、その時間帯だけのわずかな滞在での印象しか語れないが、その短時間で捉えてきた印象がある。ちなみにちゃんと遠山の谷に身をおいたのは、下和田の庚申堂を訪れた2015年までさかのぼるのかもしれない。同じころ此田にも足を運んでいる。ちなみに2019年に「損をしたムラ」を記している。この時もまんじゅうを買いに行っており、まだ〝かたくり〟が町の中のお寺の近くにあった。そこに「饅頭屋さんは盛況なのに、この日矢筈トンネルの裾野にある喬木村小川から遠山の和田まで向かう車に、わたしの他には2台しか姿を見なかった」と書いており、「和田に近づくと地元の方と思われる車に追いついたが、その1台だけ。快適に走ることができたことは確かだが、こんなに車の走っていない遠山は、今までになかった光景」と記し、最後に日記のタイトルにもなった「平成の合併で、損をしたムラ、とわたしは思う」とわたし的な感想を漏らして終えている。わずかな滞在時間だけで足を運ぶたびに変化を少しずつ感じていたわたしには、そう思えたわけである。

 2019年の際は午前10時ころ走った印象だったが、最近は開店前に行っている。平日だから遠山へ仕事に行く車と出会うし、対向車も仕事へ遠山から飯田方面へ出る人と出会う。ようは車の往来が比較的多い時間帯に走っていると言えるのだろうが、とはいえそれほど多くの車に出会うわけではない。快適な道であることに変わりはないのだが、現在伊那谷側で盛んに造られている三遠南信道は、専用道路で設置される予定だったが、矢筈トンネルから八重河内までの遠山の谷の間は国道との併用になった。したがって快適とはいえ、ふつうの道を走るから高速道路のようなわけにはいかない。同じ下伊那郡だが、わが家からはかなりスピードを出して走っても1時間かかる。ゆっくり走るととても1時間では無理だ。

 いずれにしても昔の遠山を知っていて、さらに度々足を運んできた者にとっては、今の遠山の谷は静かで、人の気配が感じられない谷になってしまった。とくに旧南信濃より旧上だろうか、かつて人が住んでいた家々から人気を感じなくなっているのは…。長野県住民と自治研究所というところが2019年12月23日に「研究所だより」(155号)を発行しており、タイトルは「旧市町村単位でみた長野県内の人口動向」というもの。そこを見ると、平成の合併前と後の人口変動について詳細を述べている。

 

 「旧市町村でみた人口増・人口減の上位」一覧を見ると、1位は旧南信濃村で40.2パーセント、2位は旧上村で49.3パーセントとなっている。これは2000年と2015年の国勢調査での人口を比較したもので、半減以上というのはこの2村のみである。旧上村の方が人口が減少しているのでは、と思っていたところこの報告では逆転していた。そこでもう少し詳しく見てみようと、飯田市が発表している住民基本台帳に登録された人口データで比較してみた。グラフを二つ示す(市のデータを一覧化してグラフにしてみた)が、一つ目は「人口」、二つ目は「世帯数」である。平成7年(1995)と平成12年(2000)の数値は国勢調査のもの、それ以外は住民基本台帳のものである。2000年と住民基本台帳の数値で比較すると、旧南信濃村は44パーセント、旧上村は39パーセントとなっており、やはり旧上村の方が減少率は高いように思う。1995年値に比較すれば、41パーセントと37パーセントということで、この20年で人口が3分の1近くに減っているということになる。そして県内では突出している数値なのである。

 

飯田市内の地区別人口比較

 ちなみに飯田市内の地区ごとについて合併した平成17年10月末日と、令和6年の10月末日(合併19年後)の人口とその比率を示してみたのが表である。市全体が平成17年を100として88パーセント。各地区を見ると松尾のみ増加していて102パーセント。あとは全て減少しているが、遠山以外では66パーセントの上久堅や68パーセントの千代が目立つが、上村はその半分に近い数値である。いかに遠山だけ極端に人口が減っているかわかるだろう。あながちわたしが感じ取っている印象は間違いではない、ということになる。

「平成の合併後の今」

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あまりひと目につかない印刷物 後編

2025-01-06 23:13:11 | 地域から学ぶ

あまりひと目につかない印刷物 前編より

 この雑誌、図書館で検索してみると蔵書として存在しているのは飯田中央図書館と高森町図書館のみ。後者は2010年から2011年までのものだけのようだが、貸出可能だ。いっぽう飯田中央図書館の方は、閲覧可能な書棚には71号以降だけで70号までは書庫のようだ。さらに館内閲覧鑿と言うことで貸し出しは不可である。まだえつらんできる図書館があるだけましなのかもしれないが、いかにひと目につかないかよくわかる。こうした印刷物、現在は長野県内を拠点としている八十二銀行が発行している『地域文化』に似ている。こちらも昭和62年3月から発行されていて年4回の発行。実は県内を網羅している銀行だが雑誌はあまり眼にしない。銀行の待合室に置いてあるという代物ではなく、とくに南信地域では認知度が低いのではないか。

 さて、なぜ妻の実家に取材があったかというと、記事の「土蔵のある光景喬木村富田 味噌蔵」のためだった。2006年と2007年の目次を見ると「土蔵のある光景」という記事が毎号掲載されている。ようはその一つとして妻の実家の「味噌蔵」が紹介されている。もちろん土蔵もあるが、併設して「味噌蔵」も設けられている。味噌蔵というくらいだから味噌を貯蔵するために造られたのだろうが、主に飲食物の貯蔵用にあると言っても良い。味噌蔵を専用に設けている家がどの程度あるかはわからないが、記事には次のように記されている。

 味噌蔵には、二年物、三年物の味噌や漬物の桶や樽、漬け込んだ年が記された積年ものの梅干やラッキョウの瓶、果実酒やマムシ酒も並んでいる。自給自足の時代から続く自家製自家用の味噌や漬物は、誰にも真似できない味に育てられ、〇〇家独特の風味を醸し出している。味噌蔵は、毎日の暮らしの味を貯蔵し、熟成した品々が眠るところでもある。

と。義理の母は記事にもあるように漬け込んだ年を、あるいは瓶詰した日を記したシールを貼ったものをここに貯蔵していた。そのせいで妻も同じようなシールを貼って貯蔵するが、義理の母はたくさんこうしたものを味噌蔵に納めていたものだ。妻の実家にはこうした味噌蔵があったが、祖父の代に別家した我が家には、土蔵はあったが味噌蔵は無かった。ただ、やはり併設して蔵風に造った「味噌部屋」というものがあって、妻の実家と同じような利用法をしていたものだ。やはり土蔵の中には置けない、あるいは置きたくない飲食物用の貯蔵庫は、かつては欲しかったわけである。

『飯田・下伊那 生活と文化』2006年秋号(飯田信用金庫)より引用

 

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あまりひと目につかない印刷物 前編

2025-01-05 23:47:40 | 地域から学ぶ

 世間にはあまりひと目につかない印刷物が出回っている。そうした印刷物にけっこう良いものがあったりする。もちろん世間にあまり出回っていないので、引用されることもあまり無いわけであるが、研究誌でなければますます研究に利用されることもない。したがって文献一覧にそうした印刷物が取り上げられることもなく、残念だが埋もれてしまっている資料でもある。

 そういえば昔、妻の実家に取材があったという話は聞いていて、取り上げられた雑誌を見たことがあったのかもしれないが、すっかり記憶からは消えていた。年を越した正月に妻が戸棚の整理をしていて見つけ出したのがその雑誌。雑誌というよりは広報誌のようなものだが、前述したように内容はなかなかのもの。発行していたのは飯田信用金庫で、タイトルは『飯田・下伊那 生活と文化』というもの。その昔、どこかで眼にしてその際にも気にはなったものだったが、わたしには飯田信金との接点が無かったため、読むことも無かった。あらためて調べてみると飯田信金のホームページで紹介されているが、残念ながらバックナンバーを閲覧することはできない。2003年から2011年までのものについて表紙と目次一覧だけ紹介されているが、中身は見ることができない。2011年の夏号を最後に廃刊となっていて、紹介ページには「93号をもちまして終わります」と記されている。年間4冊春夏秋冬に発行されていた本雑誌は、1988年から2011年までの間発行されていた。

 前述したように取材を受けたのでもちろんその掲載号はいただいたものだったのだろう。その1冊だけ我が家に残されていた。2006年秋号である。毎号表紙絵は飯田下伊那でよく知られた場所が描かれている。同号は飯田松川の妙琴橋の紅葉の絵が描かれていて永井郁さんという方が描かれている。ずっとこの方が描かれていたようで、2010年の夏号から平岩洋彦さんという方に変わった。雑誌はA4版縦の幅だが、高さが数センチ短い変形版である。手元にあるものは表紙も含めて16ページ立てで、全面モノクロのページは1ページもない。何部発行されていたか不明だが、そこそこお金がかかっていたに違いない。編集制作が新葉社であるから、当時盛んに地域文化を伝えようとしていた風潮に乗った雑誌だったとも言える。なお、新葉社は平成23年に事業停止し、その後倒産している。ようは本雑誌が廃刊になったのは、新葉社が事業停止した時期と整合しているから、新葉社の倒産と関係しているようだ。

 本号の掲載記事は、次のようなものだった。

切り絵の四季花の情景
切り絵・文/藤野在崇
ふるさとの四季と自然松川町片桐ダム上(写真/佐藤信一)
21世紀の道標 子どもたちが健全に成長できる環境づくり
清内路の手作り花火(文・写真/松島信雄)
生命の誕生朱色は血の色に通じる生命源の色(投稿/清水秀人)
子ども風土記白っ栗(文・画/熊谷元一 ナナカマド画/熊谷忠夫)
土蔵のある光景喬木村富田 味噌蔵(文・写真/山本宏務)
風の地名風吹(文・写真/今村理則)
もう昔の話
鍬不取の老桑樹 (写真/宮下徹)

 

『飯田・下伊那 生活と文化』2006年秋号(飯田信用金庫)より引用

 

 この中でとくに興味深い記事は今村理則氏の「風の地名風吹」である。「風吹」は「かぜふき」とふり仮名がある。今村氏によると「カゼフキは全国の地図には一カ所も載っていない」という。しかし飯田下伊那の小字にはそのカゼフキが4箇所もあるという。「その一つ、天龍村神原の向方にはカゼフキ小字が三筆ある。いずれも村松春男さん宅の宅地とその周辺で、村松さんのお宅の屋号にもなっている。南西の風が強いという。風地名の多くは、避けたいもの、退散させなければならないものとして名付けられている。なぜカゼフキとしたか。焼畑と関連があると思われるが、それを証明するものはない。」という。風が吹くから単純にカゼフキと称されただけではないよう。今村氏は焼畑とのかかわりを指摘する。

続く

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地方研究誌の現在

2024-12-29 23:17:28 | 地域から学ぶ

 昨年末のことだと思う。いつも通り、会費を郵便振替で納入した。ところが年が明けてから納入先が違うということで、返金された。受け取るにも再度送信するのにも面倒が発生し、さらに最初の送信料は無駄となった。もう何十年も会員となっている会だったので、「何故」と思ったわけだが、送金先が変わっていたわけだ。全国に3誌しかないという地方研究会の月刊誌のうちの一つ、『伊那』のことである。ようは伊那史学会の会費を納入したわけだが、伊那史学会は長年事務局であった原田氏が担えなくなって印刷元の南信州新聞社に事務局が変わっていた。本日届いた来年1月号の封書の表書きは「伊那史学会」と表示されていたが、数か月前は一時「南信州新聞社」と印刷されていたように記憶する。その際に「伊那史学会はなくなったのか」と思ったのだが、すぐに「伊那史学会」に印刷表示が変わった。さすがにこれでは南信州新聞社が発行しているように見えたから、苦情があったのかどうか…。編集は現在も伊那史学会の役員がされているようだが、発送は伊那史学会ではなく新聞社の方で行っているのかどうか。いずれにしても「発行人」が南信州新聞社社長だから、もはや伊那史学会発行ではないのである『伊那』は…。かつては何千部と発行されていた『伊那』も危ういのだろうと想像する。

 先日も『信濃』の編集をされている方から大変な状況だということを耳にした。そもそも毎月の12冊発行して、会員に送付するという手間はもちろんだが、会費だけでそれを賄っていくのは大変な事だ。とりわけこういった会は会員数が減っている。高齢の方が亡くなっていくばかりで、新しい会員は少ないだろう。『伊那』では会員を紹介した方には1000円分のギフト券をプレゼントすると広告を掲載している。それでも新たな会員が入るかどうか…。結局伊那史学会は新聞社に委ねてしまったから、会員が自ら印刷発行している月刊誌は二つだけになったということになる。

 かつてに比べるとこうした研究誌も内容が希薄になっているものが少なくない。あるいは発行数が減っている。『あしなか』も財政的には大変だということが、数年前から編集後記でよく目にする。年間の発行数も減ったし、ページ数も減った。内容が希薄になったと思うのは『日本の石仏』だ。入会したころの雑誌に比べたら情報量は少ないし、内容も今一つだ。その割に紙質が厚く、こんなところにお金をかけなくても良いのに、と思うがわたし的には終活で真っ先に整理させてもらうことになりそうな雑誌である。『まつり』や『まつり通信』も年間発行数がすっかり減ったし、同じような傾向はどこの会にも見られる。当面注目されるのは、月刊誌3誌のどこが最初に月刊誌から撤退するか、だろうか。残念ではあるが、印刷物が売れないこと、そして若者が本を読まないこと、などなど、もはや研究雑誌は風前の灯火ということ、である。

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ある「常会」の記録より㊱

2024-11-29 22:16:08 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より㉟より

 平成26年1月27日の集金常会でも常会預金の件が議題となっている。そして「1年間様子を見て出費を抑えていく」と記録されている。

 2月18日には緊急常会が開かれている。緊急の常会という記録はめったにないこと。内容は雪かきにかんすることである。この常会には1軒だけ遠く離れたところに家がある。集落から距離にして350メートルほど離れている。ほかの家々は遠くても隣まで100メートルほどであるから、この家だけ離れている。その間は水田地帯で、さらにその離れた家は行き止まりにあるため、この燗の道を通行する他人はほぼありえない。ようはどん詰まりにある家だから雪が降っても関係者はその1軒しかないというわけである。その離れたところにある家から村に雪かきをして欲しいと言う依頼があった。もちろん村道ではあるが、そもそもこの常会内の村道で村が雪かきをしてくれる道はない。ようは村からするとその常会内の人たちしか利用しないから、公共性が低いということなのだろう。しかし、この家にとっては集落から自分の家までずっと雪を一人で掻くのは大変だということで、村に掻いてほしい、ということになった。もちろん村は常会内で対応するようにと常会に伝えたわけである。ところがこの緊急常会に、当の該当者が欠席した。したがって常会では「対応しない」という冷たい結論に至っている。このことについて常会長から欠席された当事者に伝えたようで、2月27日の集金常会で報告されている。

 この当事者は集金常会にも欠席がちの方のようで、このいきさつについての記録を見る限り、少しばかり「ムラハチブ」状態のようにも見える。

 5月27日及び8月27日の集金常会において常会を抜ける方が相次いだ。いずれの報告のところにも「常会預金を精算する」と記録があり、脱会者への清算金を払っているようだ。

 9月27日の集金常会では脱会者の相次いだ隣組長より、二つある隣組の合併の話が擬態にあげられている。そして10月27日の集金常会で議論され、合併について賛成することで了解を得たようである。また合併後の組合の細部については、「今後検討する」とされている。その上で常会を欠席されている雪掻きで問題になった方について、休会扱いにしたらどうかという意見が出、「休会届」を出してもらうことで了解されている。ところが隣組長が「休会届」提出をお願いに行くと、当人は「脱会したい」と申し出たようで、記録簿には「脱会届」が添付されている。

続く

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ある「常会」の記録より㉟

2024-11-28 23:28:06 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より㉞より

 平成25年度に入る。いつも通り元旦はお日待ちである。「お日待ち」と呼んでいるが、新年会もあるし新年の総会も行われる。もちろんここでは「総会」という名の会議はなく、お日待ちのあとに併せて前年度の事業報告や会計報告が行われ、そのまま新年会に続いていく。隣組で新年会を行うところでは、こんな流れだ。お日待ちがあるかないかの違いであって、ここでは「お日待ち」が前段にあることから、通称このように言っている。ちなみにお日待ちには神官を呼びお祓いをしてもらう。1戸当たり千円出すが、それはお札代のようなもの。それ以外に神官にはお礼を出す。この年の新年会は2時間で終了している。

 1月は14日にどんど焼きを行い、さらにいつも通り27日に集金常会を行っている。月に3回皆が顔を合わせる。下伊那地域では松飾りを焼く行事を「ほんやり」というところが多いが、ここでは、記録簿を見る限り「どんど焼き」と記す人が多い。ときおり「ほんやり」の字も見えるが…。集金常会の記録には次のような文字が見える。

常会長より常会預金が現在16万円くらいとの話があり、2月より千円上げて月2千円とするよう決定

月2千円となれば年間1戸当たり1万2千円。18戸あるから21万6千円となる。おそらくそのほとんどは飲食代に消える。

 2月と3月は27日に集金常会が行われ、いずれの常会も区会報告にとどまっているが、加えてお花見のことが両月とも日程が報告されている。そして4月、14日に道作りが行われ、何度となく告知されたお花見が20日、いつも通りの集金常会が27日に行われている。

 5月は19日ゴミゼロ活動、27日に集金常会、そして6月は27日の集金常会のみだった。繰り返すがいずれの集金常会も区会報告が主なものになっており、それらも行事の告知が多い。

 7月は14日に常会対抗ソフトボール大会で慰労会を実施。20日に河川清掃があり、同日の夜集金常会を開いている。なぜいつも通り27日に集金常会を開かなかったかと言うと、27日は区の夏祭りが開催されたからで、夏祭りには常会ごと出し物が演じられた。もちろん飲食を伴う集まりである。

 8月は15日、16日と盆野球が行われ、両日ともに慰労会が実施されている。そしていつも通り27日に集金常会である。9月1日は防災訓練、27日は集金常会である。10月と11月は、いずれも27日に集金常会のみ行われている。

 12月は14日に忘年会が行われているが、午後6時に開宴しお開きは10時だったと記録されている。19日に年末の常会が開かれ、次年度の役員が決められている。

 このよように月に1回の集金常会だけ顔を合わせる時もあるが、行事が多いため、年間にすると20回以上全戸が顔を合わせる機会がある。

続く

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ある「常会」の記録より㉞

2024-11-24 23:44:47 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より㉝より

 なぜか平成23年の記録が見当たらない。ということで、平成24年の記録簿を紐解く。

 元旦のお日待ちでは前年の事業報告と会計報告、そして会計監査報告が行われた。会計報告の中で「常会預金の支出が収入を上回っている状況が続き、現時点で赤字決算となっている、今後考慮願うとの報告あり」と記されている。ところがこの書き込みのうち、「現時点で赤字決算となっている」が見え消しで削除されている。報告したところ異論があって消されたのか、それともほかの理由かは定かではない。

 加えて当日の書き込みの中にお日待ち後の新年会について、「折詰については23年度より常会長、副常会長の奥様出席分も含む」とある。裏を返せばそれまでは奥様の分は無かったということになる。この常会では、新年会のお手伝いとして、正副常会長の奥さんが燗づけの手伝いで参加していた。言ってみれば折詰で宴会をする程度のものだから、参加している者が自らすれば良いことを、わざわざ奥さんを手伝いに出させている、いわゆる封建社会と言っても差し支えない慣例だったわけである。この意識はとりわけ地方の地域社会では今もって残る意識でもある。

 7月22日の集金常会において、再び会計より「常会預金目減りの件、ご一考を願う」という提案が記録されているが、とくに詳細はない。この年の会計担当は、支出が多いことへの危機感を持っているようで、度々このことについて検討するようにと問いかけているが、常会内には赤字になっても懇親会を、という意識があったようだ。盆野球では8月15日、16日と2日がかりの慰労会を実施している。

 8月27日の集金常会では秋季祭典についての報告が区会よりあり、氏子青年減少により神輿の担ぎ手がいないので、友人や親戚関係へ呼びかけるよう促している。

 9月27日の集金常会では常会所東側のカーテンを婦人部で洗濯したものの、使用不可能だという報告があり、検討した結果無くても良いとして取り付けないと決定している。常会所のためにしている預金ではあるが、前述したように支出が収入を上回っているという。慰労会などの懇親会を減らす術はないいっぽう、常会所には金銭を使いたくない、という意識があるのではないか、という印象を受ける。

続く

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ある「常会」の記録より㉝

2024-11-22 23:37:31 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より㉜より

 平成22年の新年を迎える。いつもどおり元旦は「お日待ち」である。記録簿には「お日待祭」と記されたり、「日待祭」と記されたりする。お日待ちの後は新年会となるが、ほかの懇親会では1戸当り1人の出欠ではないのに、なぜか新年会は1人である。したがってこのころは折詰を戸数分と、お日待ちでお祓いをしてもらう神官の分を足して19個注文される。

 いっぽう花見は4月17日に飲み屋で行われ、23名が参加したと記録簿にある。このころの懇親会の参加者は、23名前後の参加者数が度々記録される。18戸あるものの、全戸参加するわけではなく欠席される方もいて、毎回1戸当り2名参加される家が半数近いくあると推定する。ようは出席する家はいつも複数名というように。もちろん常会費を当てているから、多く参加したからと言って参加費を多く支払うということはないようだ。

 7月18日には常会対抗ソフトボール大会が開催されている。午後4時から慰労会が行われ、終了は「午後7時40分頃」と記録されている。4時間近い慰労会は常会所で行われた。このころになると、懇親会の時間が4時間は当たり前となってくる。盆の15日、16日と盆野球が行われ、いずれの日も午前11時から慰労会が行われている。何かあれば「慰労会」、それも毎日である。

 12月23日に年末の常会が開かれ、翌年度の役員が決められている。このころの役員は、常会長、副常会長、会計、道路委員、林野委員、保健衛生、交通安全、公民館、納税、祭典委員、会計監査、農協総代、区会議員、通報委員、防災委員である。記録簿で報告がある際に登場するのは区会議員くらいで、ほかの役員から報告事項があることは稀である。

 続く

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ある「常会」の記録より㉜

2024-11-21 23:47:07 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より㉛より

 すっかり「続き」を記すことを忘れていた〝ある「常会」の記録より〟を4年ぶりに再会する。平成20年度で終了していたが、そこからあと10年をここから再開して、記録として残すことにする。

 5冊目は「自 平成二十一年一月 常会記録簿と表紙に書かれている。始まりはもちろん1月1日、元旦である。この常会はずっと元旦に「お日待ち」行事が行われている。午後12時30分から行われたお日待ちには16名が参加。2名が欠席とあり、記録簿が残されている最初の昭和43年時の18戸と変わりはない。この年の常会長は女性である。理由は独り暮らしだからだ。どのような家庭環境であっても、常会長は回されていたということになる。

 この日区長候補の推薦が区会議員より報告され、了承を得ている。ただし、「投票は1月25日7時から20時迄」とあり、投票による信認を受けることになる。さらに記録簿には「今選挙より1戸1票に変更する」とある。これまでは1戸1票ではなかったと捉えられるが、その詳細は不明だ。この後二つある組合ごとに分かれ、組合会を行い、午後2時に神官が訪れ、神事が行われる。

 このころの集金常会は、その度に区会の報告が多く記録されている。2月27日の集金常会の席で花見の日が決められ、区内の飲食店への予約をすることが確認されている。その花見は4月18日に実施され、24名が参加したと記録にはある。複数名参加する家が必ずある。

 10月27日の集金常会の区会報告に区会構成の変更に関するものがある。次年度から副区長は区会議員からの選出ではなく別途選出するということ。また、「常会長会」を新設するとある。さらに12月23日の年末常会での区会報告によると、区会議員を選出するにあたり、45歳から68歳と年齢を制限するとともに、氏子青年については、これまで30歳までだったものを35歳までに延長するとある。

続く

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鞍掛の道祖神

2024-11-16 23:05:22 | 地域から学ぶ

辰野町伊那富北大出鞍掛の道祖神

 

 辰野町北大出鞍掛の道祖神は、これまでにも触れている。先日北大出にある西天竜の隧道に潜ったのだが、現場はこの道祖神から近かったので、ついでにこの道祖神を撮ろうと立ち寄った。三叉路に祀られているのは廿三夜と青面金剛、そしてこの道祖神である。道祖神には年銘はなく、背面に「鞍掛中」「帯代七両」とある。また、青面金剛には、「宝永二乙酉□」「三月二十六日」とある。宝永2年は1705年にあたる。「廿三夜」のほかに馬頭観音も1基並んでいる。馬頭観音に「安政五午天」とあるが、ほかは年号は刻まれていない。なお、北大出の中で1705年銘は最も古い。

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富士山日米神社の盃状穴

2024-11-01 23:45:21 | 地域から学ぶ

上田市塩田富士山日米神社の盃状穴

 

 昨日日米神社境内にある道祖神について触れたが、道祖神のある日米神社、1685年に社殿を再建しており、12世紀末期の建立というが定かではない、と紹介されている。天照皇大神と豊受皇大神を祀る神社といい、拝殿正面はオープンなスタイル。その拝殿の中に入ってみると、寄付者の掲示板があり、「日米神社拝殿屋根瓦葺替え工事」のもの。下段にある「寄付者芳名」を見ると、ちょうど70名の名前が記されている。全て「壱万壱阡円」だから71万円となる。最後に「平成二年十月五日」とあるからもう30年以上前のもの。氏子総代として4名の名が連記されていて、もちろんその4名は芳名欄に記載されている。富士山の神社なのだろうから、冨士山には当時70戸ほどあったということなのだろう。全戸から均等に1万1千円を集めたということで、それ以外に上段の掲示板に「特別寄付御芳名」が記載されている。そこには工事を請け負った会社が13万7千円、氏子総代のトップに名前が記載されている方、おそらく総代長だったと思われる方が5万円、3万円の特別寄付は総代のお一人と、あと3名の名が記載されていて、もうお一方1万5千円を寄付されている。この特別寄付者は工事会社を除くと、全て寄付者芳名」に同じ名前があるから、均等割り以外に寄付をされた方々。合計すると103万2千円となる。

 さて本題である。拝殿へ上る階段の下、石垣の天端石に杯状穴が見えた。気がついてあちこち見てみると、拝殿の石垣のあちこちに盃状穴が見られた。屋根の雨が落ちてできたとも考えられなくもないが、おそらく今までにも触れてきたような理由でできた盃状穴に違いない。

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長松寺の貞治仏

2024-10-08 23:05:01 | 地域から学ぶ

箕輪町長岡長松寺 延命地蔵尊

 

  8月26日の民俗の会見学会で訪れた箕輪町長岡の長松寺は、曹洞宗の寺で創建は明応元年(1492)と伝えられている。境内に入って左手本堂前に、覆屋根の下に守屋貞治作の延命地蔵尊が座している。女性的な温和な顔立ちの地蔵尊で、明確に守屋貞治の作と判明している石仏である。それは「地蔵尊建立諸入用」という書付が残されているからだ。それによると、貞治と弟子の渋谷藤兵衛によって彫られたもので、文政10年(1827)に造立されている。その書付の表紙には

文政十丁亥年十一月
地蔵建立諸入用控帳
  世話人 与一 善五衛門

と記されている。造立の経過が記されており、同年8月4日に藤兵衛一人が出て村の世話人等と作業の打合せや石の詮議をしている。以後8月11日から作業をしており、藤兵衛は村人足の石堀及び石出しの指導に当っている。9月5日からは貞治の作業が始まる。この二人の作業を地元の石屋7人、及び村中の人足が協同し11月10日に竣工した。時に貞治63歳、藤兵衛44歳であった。

 「地蔵尊建立諸入用」とは別に「地蔵雑用控簿」というものも残されていて、その表紙には

文政十亥年
地蔵雑用控簿
  世話入 善五衛門
      与市

とある。これら詳細については、『石仏師 守屋貞治』(昭和52年 高遠町誌編纂委員会)に記録されている。こうした造立に当っての詳細が記録されている資料が残されているのは、貞治仏の造立経過がわかる貴重なものである。

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ある水田地帯の光景

2024-10-06 23:14:27 | 地域から学ぶ

令和6年10月6日 PM1:30

 

 今年はアサギマダラの飛来が少ない。あちこちでアサギマダラを、という活動が盛んなせいかもしれないが、わが家のような静かな空間に来て欲しい、とは勝手な希望だ。今日出会ったアサギマダラ、最初は近くに行っただけで飛んで行ったしまっていたが、そのうちに慣れてくると近くにいても飛び立とうとしない。それどころかすぐ近くに手を差し伸べても飛び立たないので、手で触ったのに、それでも飛び立たない。よほど留まっていた花が気に入っていたかどうかは知らないが、毎年アサギマダラを捉えているのに、今日出会った個体は、ちょっと鈍感すぎる感じだった。

 来週末が地元の祭典ということで、今年は以前にも触れた道が決壊して、いまだ復旧していないため、わが家の方に祭典の際に囃子屋台が迂回するという。ということで、道沿いにある水田の畔の草を刈った。この日近くでも高齢の方が草を刈られていて、数年前まで水田を耕作されていたが、耕作放棄となっている土地の水田面の草を刈られていた。この場合「耕作放棄」は適さないかもしれない。年に何度か草を刈られている。したがって肥培管理されている水田、ということになるだろうか。隣接する我が家の水田も同じような状態だから、大きなことは言えないが、この空間にわたしがかかわるようになった30年以上前には、見渡す限り稲が植わっていた。しかし、今は稲が植わっているのはその1割くらいに減っただろうか。無理もないことで、この空間はほ場整備がされていないため、それぞれの水田に入るにも、人の土地を通らないといけない土地がいまだにある。我が家の土地から見下ろす位置にあって、今日草を刈られていた方の水田の空間は、それこそ30年以上前に車が入れるようにと農道を造られた。洞の中の細長い空間だから、道が開くことで、ほぼ関係者の土地には入られるようになったのだろうが、わが家の水田のある空間は細長い空間ではないため、道の奥にはいまだ道が繋がっていない水田もいくつかあったりする。加えてあっても道が狭いため、もし耕作できなくなったとしても、誰かが耕作してくれる、とは簡単にいかないのだ。さすがに30年で耕作地が1割まで減少するとなると、典型的な空間と言える。山の中ではよく見られる事例だが、集落の中の土地でこれほど耕作放棄が進んだ例は珍しいのではないか。高齢者が多いから、そう遠くないうちに、もしかしたら稲作をしているのは我が家だけ、になってしまうかもしれない。

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石造「蚕玉神」

2024-09-27 23:55:32 | 地域から学ぶ

「蚕玉神」辰野町沢底鎮大神社北側(令和6年8月26日撮影)

 

 今年7月、竹淵三郎平作の辰野町上辰野の「霊符尊」という珍しい石造物について触れたが、竹淵三郎平は1845に生まれ、1907年に没している。『伊那路』2021年7月号へ上辰野堀上荒井の道祖神について記事を載せたところ、竹淵三郎平の末裔の方から連絡いただいた。実は本日記でこの道祖神について書いているような気がしたのだが、検索しても登場しない。道祖神では唯一、堀上荒井の近くにある堀上竹原の道祖神について触れているだけだった。8月26日の長野県民俗の会例会後の見学会では、通過地点であったこともあり、堀上荒井の道祖神近くの蚕玉様(前述の霊符尊と同じ所に祀られている者)に立ち寄ったが、竹淵三郎平作の蚕神では代表作である。この蚕玉様もここで触れているかと思ったら、検索上に現れない。ちょっと意外だった。

 さて、竹淵三郎平作の石造物は特徴的だ。碑の上部に道祖神でも蚕神でも日輪と月輪が彫られる。上辰野のものは、女神像を蚕を飼う籠の中に彫りこんでいる。蚕の籠、わたしの生家では「かごろじ」と呼んでいたが、蚕を飼う際には必ず使われたもので、この籠はたくさんあった。養蚕繁盛を願う意図が、この像から強く感じられるわけである。この見学会を終えた後、ちょっとしたトラブルがあって、見学会で午前中訪れた辰野町沢底の鎮大神社を再度午後訪れた。午前中訪れた際には気がつかなかったのだが、鎮大神社のすぐ北隣に、同じ竹淵三郎平作の蚕玉様が祀られていたことに気づいた。そもそも鎮大神社の隣に小さめの石の鳥居がある。ここに「何が祀られているのだろう」と気を留められなかったのは、予定時間を気にしていたせいもある。石の蚕玉様の本尊の手前に、そのために鳥居が設けられているケースは珍しい。おそらく蚕玉様の正面に、蚕玉様へ誘導するように据えられたと思われる。

 ここの蚕玉様は、上辰野の物より一まわり大きい。上部の月輪は正面を向いているが、石の方に合わせて日輪は斜め上を向いて彫られている。上辰野のものと違って女神は桑を左手に持つ。そして右手には繭を持っているようだ。上辰野のものと同じように女神はかごろじの中に掘られていて、その周囲に縁起物がいろいろ彫りこんである。上辰野のものは南向きの日当たりの良い場所に祀られているが、ここのものは、木々に覆われていて、あまりひと目にはつかない(だからこそ午前中気づかなかったわけだが)。なお、背面に「明治十四年 六月吉日」と刻まれている。

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