本日記では「盃状穴」について何度となく記してきた。とりわけ「盃状穴再び」において、ウェブ上に掲載されている盃状穴の取り扱いについてもまとめてある。Wikipediaでの扱い方も紹介したが、現在もなお「謎」として取り上げられている印象だ。加藤幸一氏は、越谷市郷土研究会のページに「石造物にみられる謎の「盃状穴」」を掲載しており、その中で次のように報告している。
この「盃状穴」の信仰は、江戸時代には盛んであったようであるが、明治以降の石造物には盃状穴があまり見られないことから、明治以降になると何故か衰退したと推定されている。この信仰に関してはまだ解明されておらず謎の習俗としてとらえられているようである。埼玉県の東京に近い蕨市では、蕨市史調査報告書第八集「蕨の石造物」(平成4年刊)によると「凹の残されている石造物はすべて江戸時代のものであり、(調査の時点で)明治以降のものは一基も見えないことから、明治以降この風習は廃れてしまったため、このような風習があったということが伝わらなかったのであろう。」としている。全く同感である。
昔は「盃状穴」という名称はなかった。単に「穴」と呼ばれていたようだ。この「穴」は、子供たちのままごと遊びに利用され、特に、ヨモギなどの草を穴に入れ、棒で搗いてすりつぶして遊んでいたという。
としながらも文中では「結局は「盃状穴」がどうしてできたのか、本来の盃状穴の習俗については、今となってはよくわかっていないのが現状である」と述べており、やはり「謎」という印象を与える。しかし、「女児が数人でままごと遊びに凹み穴へドングリを盛ったり、草の葉を叩き擦ったりもしていました」と言う例も紹介しており、こうした伝承が少なからず存在することには触れている。ようは伝承からたどれば、信仰の対象ではなく、子どもたちの遊びの中で語られていたものと推察可能だと思うのだが、それらは江戸期の石造物に見られるもので、近現代では忘れられてしまったものという捉え方もされている。
さて、「盃状穴再び」で触れた通り、伊那谷南部では「石屋さこまんば」にみられるように子どもたちの遊びによって造られた「穴」だと触れた。先日飯田市誌のアンケートを紐解いていて、当時の調査報告書にもわたしが「石屋さこまんば」について記していたことに気がついた。飯田市誌編纂委員会民俗部会が2001年に発行した『山本久米の民俗』の中に次のように報告した。
家の周りでの遊び 石屋さ駒場は、石の窪みをよもぎでつついた遊びをいう。「石屋さ駒場穴掘って通れ」という歌もあり、こうして長年突かれた石には、窪みがいくつもできて残っている。どういう意味かわからずに遊んでいたという。つつく際には主にヨモギを使った。子どもたちが家に集まって男も女も混じってやったもので、よそにそういう石はそれほどなかった。
というもの。これは飯田市久米北平の昭和3年生まれの男性に聞いた話をまとめたもので、その男性に書いていただいた「子どものころ遊んだ場所」の図には、家の庭に「石屋さこまば」と記入されている。そして実際に家の庭にある石に盃状穴があることも確認している。
飯田市久米北平の個人の庭にあった盃状穴(2001年2月17日撮影)
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