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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「善兵衛」銘の名号塔

2024-11-04 23:56:07 | 歴史から学ぶ

安曇野市三郷楡阿弥陀堂跡

 

 この碑は「貞享三丙寅」年(1686)「七月十五日」に建てられた名号塔である。名号塔とは、碑面に「南無阿弥陀仏」など神仏の名号を記した石塔の総省であり、「南無阿弥陀仏」を彫ったものは六字名号塔と呼ばれている。この名号塔は、文字がしっかりと読み取れる古いもので、昨日訪れた旧三郷村楡の阿弥陀堂跡にあるもの。注目すべきは「念仏講同行拾三人」の名が刻まれていて、その末尾に「善兵衛」の名があること。6月に「楡の集落を歩く」を記したが、そこで貞享騒動のことについて触れた。いわゆる貞享3年に起きた松本藩の百姓一揆の話であるが、その首謀者が多田加助であり、参謀であった一人が小穴善兵衛だった。その善兵衛の名が、この名号塔に残るのである。小穴善兵衛は楡村の庄屋だった。何より貞享騒動は貞享3年に発生した。実行日は10月14日と言われ、翌月には関係者が捕縛され、同年11月22日に多田加助とその一族のほか、8名が磔、20名が獄門の極刑に処された。処刑された者の中には小穴善兵衛の16歳になる娘しゅんも含まれ、さらに善兵衛の妻さとが正月明けに出産した男児にも死刑宣告が下されたという(ただし、翌月にその男児が病死したため処刑とはならなかった)。

 この名号塔の建立は貞享3年の7月15日。そのちょうど3か月後に一揆が断行されたことになる。

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御鉾様と五輪塔残欠

2024-09-02 23:42:34 | 歴史から学ぶ

塩尻市北小野小野神社「御鉾様」

 

 例会翌日の見学会について先日触れた。小野神社と弥彦神社は並んで祀られていて、小名神社が北小野の氏神である。この神社の入口にいくつか掲示板が建てられていて、その一つに「鐸鉾」についてのものがある。

市有形文化財 小野神社の鐸鉾(さなぎほこ)(神代鉾)

所在地 塩尻市大字北小野一七五の一
指 定 昭和四十九年八月二十八日
所有者 小野神社

 小野神社の鐸鉾は、古くから祭事に使われたとの言い伝えがあるがどのように祭事に使われたかは不明である。諏訪神社にも同型の鉾があり、神領内を巡視する祭儀に使ったものと伝えられている。小野神社の鉾には、十二個の鉄鐸が結び付けられさらに、麻幣(あしで)がふさふさと結び付けてあり、七年目毎に行われる御柱祭に一かけずつの麻幣を結ぶ習わしである。この鐸鉾がどのような祭事に使われたかは不明であるが、麻緒が多数取り付けられており、しかもその古いものはぼろぼろに崩れるほどになっているところから、おそらく一定の祭儀に用いられたことが推定される。境内本殿に向かって左方に藤池と呼ばれる御手洗池があり、そのかたわらの玉垣内に「御鉾様(おぼこさま)」といわれる石があり、神聖の場として足を踏み入れてはならない磐座(いわくら)となっている。この石は方形で中央に孔があいているが、おそらくこの石に鉾を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろした重要な磐座であり、この祭儀に神の依り代として使用した神器ではないかと考えられている。

 この説明と鐸鉾について考察したページが諏訪大社と諏訪神社について詳細に触れている“小野神社の「御鉾様」”である。説明にあるように、境内に入って左手に「御鉾様」というものが祀られていて、立ち入り禁止になっている。「方形で中央に孔があいている」石には上に丸い石が置かれていて、その孔は露になっていないが、それらしい形は察知できる。「古代祭祀遺跡」とされているが、前述のホームページ管理者は「大胆な変遷を挙げてみました」といって、下記のように記している。

御佐口神の石棒が祀られていた。
↓ 石棒を譲渡した。
↓ 安置していた穴に、別の(折損した)石棒を差し込んだ。
↓ 記録や伝承がないので、磐座と見るようになった。
穴に鉾を立てた・丸石に鉾を置いて神事を行ったと考えた。

 さて、あくまでもここに紹介したわけであるが、実は最近五輪塔片、残欠を見て歩いていて、この御鉾様の上にある石を見て「これは五輪塔残欠では?」と思った。石の全容は、孔に隠れている部分もあって判明しないが、どうみても五輪塔の「空」あるいは「空風」の部分と思われる。向かって右隣りにある丸い石も、宝珠のように見え、これも五輪塔かそれらの塔の残欠に見える。こう見てくると、そもそも五輪塔の頂の部分だけが、なぜこれぼと世間に「転がっている」のか、と考える必要がある。いずれにしても五輪塔残欠、とりわけ「空」の部分が、「借用物」として祭祀対象にされていることは事実であり、それもかなりの事例が道祖神を中心に見られることには、注目するべきなのだろう。

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かつて高遠原にあったという「歓喜寺」へ

2024-05-23 23:01:41 | 歴史から学ぶ

 安曇野市の仕事で午前中の会議を終え、午後は同市三郷の中萱の集落内を歩いた。一緒に歩いた皆さんは気にも留めていなかったと思うが、この地域は水路、いわゆるかんがい用の水路の流れが多方向に向かう。例えば西に流れたり、東に流れたり、という具合に。ふだん目にしているエリアの水路は、おおよそ流れの向きは同じだ。それに対して正反対の方向に流れる水路の姿を頻繁に目にすると、「どういうこと?」と思ったりするのは、仕事がらでもある。例えば箕輪町の北小河内では、大堰と言われる水路が北へ向かって流れる。これを忌み嫌う向きもあって、災いを祓う意図で行われる行事の背景に、逆流する水路への災いの難を逃れるという意図があったりする。普通なら天竜川同様に北から南に流れるのが当たり前なのに、南から北へ流れるのは不吉であるという意識が生まれたりする。そういう意味では地形とは逆方向の流れに対して、同じような意識が育まれている例を、伊那谷では時おり耳にする。ところが安曇野では、当たり前に地形に対して逆流するように見える水路が存在する。その理由は、確かに地形の傾斜があるが、それほど急ではないために、地形に逆らって流れたりする区間があったりする。背景を探ってみれば不自然ではないのだが、いつも地形に沿って流れる光景ばかり目にしているわたしにとっては、違和感を抱いてしまうのである。それだけ地形の傾斜が緩やかな地域だと言えるのだろうが、そもそも安曇野で著名な拾ケ堰は奈良井川から取水すると、北アルプスの方向に向かって流れていく。山から流れてくるのなら当たり前なのだが、山へ向かって流れるような印象がある。伊那谷なら山、いわゆる中央アルプスから流れてくる天竜川支流から取水して天竜川に向かって流れる水路がほとんどだが、安曇野では山から出る渓流から用水を引く姿は多くはない。理由は扇状地のため、山からの水は浸透してしまう、という背景がある。したがって農業用水には恵まれない地域だったという。とはいえ、拾ケ堰が開削され完成したのは1817年。それにしては立派な家構えの家が多いこと。伊那谷とはくらべものにならない。たかだか200年の間で、これほど貧富の差が出たとは思えないのだが…。

 さて、中萱はその拾ケ堰より高い位置にある集落。ようはこの地域へのかんがい用水は奈良井川ではなく、梓川から引かれる。その中萱の北よりに歓喜寺という寺がある。四方道路に囲まれた15アールほどの寺域があるが、ちょっと不思議な空間が目に入った。歓喜寺の寺域なのかどうかははっきりしないが、その空間に石の垣根が張り巡らされた異空間がある。「何だろう」、そう思ったのは言うまでもない。また寺から少し離れたところには土塀ではないが、石垣の塀のようなものが築かれた個人宅があった。お城のような存在で、同様に「何だろう」と思った。いずれの光景も伊那谷で見たことはない。

 

安曇野市三郷明盛中萱「歓喜寺」

 

 歓喜寺の歴史を知って驚いた。明治初年まで中萱にあった法国寺という寺が廃寺になって、飯島町七久保からこの寺が移転したという。七久保と言えばわたしの家のすぐそば。こんなに遠くから寺が移転するものなのだと、明治維新後の世の中の激しさを覚える。『三郷の社寺』(平成18年 三郷村文化財保護審議会)によれば歓喜寺の開創は万治元年(1658)という。そして明治5年(1872)に廃寺になったと『三郷の社寺』には記されている。ようは七久保の歓喜寺も廃仏毀釈の中で廃寺となったと思われるのだが、「歓喜寺」という名にまったく記憶がなかったため、『飯島町誌』(平成8年 飯島町誌編纂刊行委員会)で調べてみると、確かに歓喜寺のことが記されていた。それによると瑞応寺八世梅嶺寿元和尚によって開山という。ようは現松川町上片桐瑞応寺の末寺だったという。「明治三一年七月まで現存していた」というから、廃寺年が明治5年かは定かではない。『飯島町誌』にはあまり多くは記されていないが、『三郷の社寺』にはその寺があった場所の地番が記載されている。調べてみると現在の高遠原集会施設の場所。旧三州街道沿いである。『飯島町誌』に「なにぶんにも信徒些少にして、加うるに永続財産等更にこれ無く、維持上甚だ困難を極め、到底当所にては永続の見込みこれ無く候間、信徒一同熟談の上」移転した記されている。ちょうど法国寺が廃寺になっていた中萱にとってみれば、受け入れやすかったとも言える。もちろん中萱は三郷の中でも大きな集落。高遠原とは比較にならない。当初「歓喜寺」と聞いてピンとこなかったのは、飯島町エリアには本郷にある西岸寺という大きな寺があって、歓喜寺が臨済宗妙心寺派と聞いて西岸寺の末寺だったのではないか、と思ったほど。七久保には西岸寺の末寺があったこともあり、歓喜寺がどこにあったのか、と想像したものだが、高遠原と聞いて納得した。高遠原は七久保でも南の端にあり、瑞応寺のある上片桐はすぐそこである。

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出征兵士への祈祷願い 後編

2023-05-27 23:26:19 | 歴史から学ぶ

出征兵士への祈祷願い 前編より

 

拝啓
今回日支事変に出征致したる左の軍人の御祈祷をお願い致します
住所姓名 下伊那郡河野村
       □□□□□三十三才のものに
尚御祈祷料として金伍拾銭お送り致します故お受取願いたます
                □□□□□
                  妻□□□

 封筒の裏書には11月11日とあり、消印は昭和12年である。前編の依頼主が母なら、これは妻である。

拝啓
今回日支事変に出征したる左の軍人の御祈祷をお願い致します
住所姓名 下伊那郡河野村□□□□□(A)
三十六才のものに 尚御祈祷料として金伍拾銭お送り致します故何卒お受取下さいませ
               下伊那郡河野村
                 □□□□□妻
                   □□

 1通目の依頼と、文面がほぼ同一である。まるでひな形があったかのように。これは昭和12年10月23日と裏書にあり、1通目のものより20日ほど前のもの。実は依頼文は妻の自筆のようだが、封書の裏書の差出人には「母」とあり、妻の名とは違った名が書かれている。実はこの2通目の差出人は、もう1通依頼文を送っている。同じ10月23日と裏書にあるから、同日に2通投函したことになる。3通目は明らかに2通目とは異なる書体であり、書いているのはおそらく父なのだろうか。内容は次のようなもの。

拝啓
今回日支事変に出征したる左の軍人の御祈祷をお願い致します
住所姓名 下伊那郡河野村□□□□□(B) 二十七才男のものに
尚御祈祷料として金伍拾銭お送り致します故何卒お願します
                河野村
                 □□□□□(B)

 依頼文の文中の名前(B)と依頼者の名前(B)は同一である。おそらく2通目の(A)の弟にあたるのだろう(B)は。ようは兄弟2人が同時に出征したという例である。したがって差出人が両者の「母」となったわけである。母の思いの深さが伝わってくる。

 このほかにも「河野村」から送られてきた依頼文がいくつも残されている。いずれも昭和12年10月から11月にかけてのものである。未婚であれば「母」が、結婚していれば「妻」が依頼している。ちなみにそれらの祈祷料はすべて50銭である。

 

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出征兵士への祈祷願い 前編

2023-05-26 23:58:49 | 歴史から学ぶ

 “「おみくじ」のこと”で触れたように、親戚の修験行者だった方の資料を調べに行っているわけだが、半世紀以上前のままになっているという印象を覚えたのは、祭壇手前にあった机の引き出しを開いたところ、戦前の手紙がごく当たり前に入っていて、その後の時代のものが一つも入っていなかったことによって受けたもの。ようはその空間に限れば、戦前で止まっているような状況なのだ。

 そんな引き出しの中に納められていた手紙に祈祷を願うものがいくつもあった。次のようなものである。

謹而御依願申上候
時局は盈々進展國家百年の大計を成すに當り陛下の御召しに欲し聖戦参加の光栄を負い出郷去る二十三日松本隊より暴支膺懲の為め勇躍征途に上りし左記の者武運長久の祈願を御高院様の御力にて御高配賜り度く偏に本懇願し候
 長野県下伊那郡市田村
 陸軍歩兵上等兵 □□□ 二十八才
             願人 長野県下伊那郡神稲村□□□□
                          □□□□

というもの。実は何と書いてあるか読解できないところもあって、いくつかの字は違っているかもしれない。祈祷してもらう人と、依頼人の住所も姓も異なり、両者がどのような関係かははっきりしない。封書の裏書に昭和12年9月28日とあり、市那事変への徴兵とわかる。文中にある「暴支膺懲」をWikipediaに見ると、「支那事変中、日本の陸軍省などが中華民国・蔣介石政権に一撃を加えることで排日抗日運動に歯止めをかけようという意味で使用した合言葉」だという。

 次のような依頼文もあった。

拝啓 朝夕の冷気身に沁む候と相成りました
御寺益々御清栄の段賀し奉ります。
□□此度の事変に應召致しました。本年に二十三才になる□□□□の御祈祷をお願い致し度く存じます。
当人は河野郵便局長の職に在り、逓信事業の重大性に鑑み、戦地出征はまぬがれたく、此の□合わせて御祈祷御依頼申し上げます。
尚寫眞及び御祈祷料として金伍拾銭を小為替にて、お送り致しますからよろしく御査収下さいます様お願ひ致します
先づは御依頼まで
十一月十六日  下伊那郡河野村
            □□□□母
            □□□□

これもまた昭和12年の消印がある。願い人は当人の母に当る。河野村といえば満蒙開拓の歴史でよく知られる「河野村」である。実はこの河野村から届いたものがいくつも見られる。

続く

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伊東伝兵衛生誕の地へ

2022-08-24 23:53:46 | 歴史から学ぶ

「伊東伝兵衛生誕郷」碑

 

 三峰川の杉島橋を渡ったところを「伊東」という。当たり前に「伊東」という家が多いが、その西側の集落を「田本」という。このあたりをうろうろしていて気がついたことがあった。ふだんから「伊東伝兵衛」のことは仕事柄よく耳にしていたのに、その生誕地がどこなのか記憶に残していなかった。そう言えば「長谷の奥の方」だと聞いた覚えがあった。そして偶然遭遇したのが「伊東伝兵衛生誕郷」という巨大な緑色片岩の碑だったのである。田本にも「伊東」という家が何軒もある。その集中しているところにこの碑は建っていた。背面には次のように記されている。


 伊東伝兵衛は享和元年(一八〇一)現長谷村の杉島に生まれ、聡明にして幼少より学を好み、長じては村の名主を勤め、各地の土木事業に携わった。
 天保二年(一八三一)伝兵衛は藩の許可を得るや、佐久の柳沢弥左衛門が完成できずそのまま百余年放置されていた鞠ケ鼻地籍の井筋回収に着手私費を投じて鞠ケ鼻千メートル余を掘り抜き、天保四年遂に全長一万メートルに及ぶ通水に成功した。世人この井を今尚伝兵衛井と呼んでいる。伝兵衛は終生川除け治水・開田に意を注ぎ、その事蹟は実に十数ケ所に及ぶが伝兵衛井筋のほかその主なものは次の通りである。
 天保三年から五ヶ年村内鷹岩井筋の開削に当り、未完に終わったとはいえ心血を注ぎ塗炭の苦を味わった。次は安政二年(一八五五)長谷村から河南村への上井の開削及び分久二年(一八六二)からの下井開削、上井は廃井と化したが、勝間地籍に残る改修後の下井には現在美和ダムからの水が注がれ、小原地籍を貫流している。藤沢川から美篶地籍に引水した二番井の工事、更に翌安政五年から六ケ年を要した現辰野町地籍の上伊那井筋もある。以上を後人は伝兵衛五井という。
 伝兵衛は業なかばにして文久(一八六二)その生涯を閉じた。その後大正七年(一九一八)従五位を追贈されている。昭和三十年代の綜合開発の恩恵は多大であるが、それは伝兵衛の偉業の上に附与された近代化学の力と言えよう。 平成十一年十一月吉日 元長谷中学校長 長谷村誌専門委員 宮下慶正撰書

 ここで言う伝兵衛五井、その半分くらいの距離は井に添って歩いている。鞠ケ鼻から取水した春富大井は、すでに廃井となった区間が長いが、いずれも伊那地域の主たる井筋である。それほど一般人にくらべたら「伝兵衛」のことを知っていたはずなのに、ここが生誕地とは記憶になかった。ちなみにこの碑、平成11年に建立されているから、最近よく引用している『奥三峰の歴史と民俗』(長谷村教育委員会 平成6年)に記載はない。

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徴兵と戦火のはざま 後編

2022-08-14 23:27:05 | 歴史から学ぶ

徴兵と戦火のはざま 前編より

 徴兵制は前回も述べたように20歳から40歳までだったが、末期には19歳に引き下げられている。実は我が家には太平洋戦争に出兵した者はいなかった。父は昭和3年生まれだったからその歳に達していなかった。実際は少年兵として出兵して昭和3年生まれの方でも亡くなった方はいたようだが、父は招集には至らなかった。父は長男だったから、もちろん弟さんたちが出兵することもなかったわけである。いっぽう妻の父は終戦を万里の長城で迎えたという。大正9年生まれの長男だった。このようにわたしの父の世代は、招集されたかされなかったかという境界域にあった。父が長男でなければその兄弟で出兵した者もいたかもしれないが、環境的に境界域であったことは、そうした家族構成によっても左右されたわけである。

 父は出兵していないが、祖父はそれ以前の戦争に出兵している。日露戦争である。地元の区誌に次のように記されている。

大正四年には、「十一月二十五日に、除隊兵〇〇、〇〇、〇〇、〇〇四氏の帰郷を中田切橋まで出迎う」「十二月十三日〇〇氏を中田切橋まで出迎う」翌日「十一月二十六日 入営兵〇〇、〇〇、〇〇、〇〇、〇〇五氏ヲ村境ナル中田切橋迄送ル」などと記されている。中央線の辰野駅が開通したのは明治三九年であるので、村境から辰野まで歩くか、馬車にでも乗っていったのであろうが、大変なことであったろう。

冒頭の除隊兵の〇〇に祖父の名がみえる。もちろん祖父の年齢で太平洋戦争に行くことはなかった。まさに我が家は狭間にあった家族だったと言えよう。そして祖父から戦争のことを一言も聞いたことはなかった。

 さて、終戦記念日が近づくたびに戦争にまつわる報道や、催しが盛んとなる。父が生きていたとしたらすでに90歳をとっくに越えている。ようは戦争体験のある人は限りなく少なくなっている。『伊那路』最新号である8月号において、矢澤静二氏が「満州開拓青少年義勇軍とはなんだったのか〈上〉-鉄驪義勇隊小池中隊 橋爪五郎氏の体験から考える-」を寄稿されている。副題にもある橋爪五郎さんは父と同じ昭和3年生まれである。16歳で青少年義勇軍に行った。反対する親もいれば、親に無断ではんこをついてまで行った人もいたというが、とはいえ行き手は少なく、数合わせに学校の先生は苦労したようだ。「今でももう一度満州に行きたい」と記した橋爪さんに、盛んになぜ行ったのか、そしてなぜ今も行きたいと思うかという疑問を繰り返し矢澤氏は聞く。例えば「橋爪氏は、もう満州は懲りたとか、満州はもうこりごりという感じじゃあないですね」とか「満州が良かったっていう人はあんまり聞いたことないもんで」という具合に問う。質問する側に先入観があって、満州は大変なところで、苦労ばかりで、…という言葉を繰り返し質問に織り交ぜる。橋爪さんの場合戦争体験というよりは、開拓の体験である。もちろん引き上げ時の苦労は想像もできないが、体験者がいなくなるにつれ、固定観念とか先入観のようなものが後世への語りの根底に根付いてしまうのはどうかと思うわけである。既に「あのころ」を語ることはできる人がいても、実際の戦争のことを語れる人は少ない。「あのころ」のことを語ってもらうのも必要かもしれないが、そのまま戦争体験と同質のものとして、聞く側が捉えてしまってはいけない。そのあたりがずいぶん曖昧になってきている、そう思わせる記事が目立つようになった。

 信濃毎日新聞の12日文化欄に「日記に見る満州と敗戦」という記事が掲載されている。 7月に満州から引き揚げた人の当時の日記を翻刻刊行された「崩壊と復興の時代 戦後満州日本人日記」に触れ、日記の筆者は国策企業の幹部らであったという。都市生活者が中心で開拓団員ではないということから、その内容は開拓団員とは「立場の隔たりを感じた」という本島和人さんの意見を導いて記事の主旨をうかがわせる。こうした誘導的意図とも捉えられるものは、近ごろ新聞報道に目立つ。満州には開拓団員のみ渡ったわけではない。さまざまな人々の思いがあったであろうことを、裏を返せばこの記事は提供している。しかし、読み手がどのように受け取るのか、そこに時代の変わりようを覚えるとともに、気になるところでもある。

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徴兵と戦火のはざま 前編

2022-08-12 23:18:57 | 歴史から学ぶ

 先日の長野県民俗の会例会は豊科郷土博物館で開催された。発表の合間に、同館で現在行われている企画展「安曇野の戦争 ―郷土から戦場へ―」の案内を原館長からいただいた。徴兵令が交付されたのは、明治6年と近代国家を目指した日本において、つい先ごろまで江戸時代であったことを思えば、意外に早かった。「戦争」という流れは、ここから第二次世界大戦まで駆け上る。徴兵検査は男性20才に達すると受ける。この徴兵事務は市町村の兵事係が関わった。ただ、当時の資料は敗戦時の焼却処理命令によって処分され、具体的な流れはわからないという。『明科町史下巻』旧東川手村の昭和4年から11年までの徴兵検査関係の表が掲載されていて、その一部がわかるという。昭和6年には検査人員49名、身長1.55m以上で身体強健の29名が合格した。優秀とされる甲種11名、次いで乙種第一種が5名、第二種が13名だった。不合格は17名で、その内訳は身長が足りない体が弱い者が国民兵に適する丙種14名、疾病等のある者は丁種、兵役免除が3名だった。東川手村に翌年割り当てられた現役兵は7名であったというから、甲種11名の中からくじ引きで選ばれたという。日中戦争の始まる直前の昭和11年には現役兵の割り当ては13名あり、甲種合格の11名では足りず、第一乙種から2名抽選された。ようはこのころは徴兵検査に合格した、優秀な者から選ばれていた、ということになる。

 現役以外の合格者は、第一補充兵役、第二補充兵役に振り分けられ、そのほかは第二国民兵役となった。その兵役義務は40才まで続いた。そして昭和16年に太平洋戦争に突入すると、アジア全域に軍隊が展開するようになり、戦死者も増え、人員不足となる。昭和19年10月には徴兵年齢が19才に下げられ、昭和20年になると「根こそぎ動員」に向かった。第二国民兵に編入された者も教育訓練をを受けないまま招集されて兵士となり、戦死者をさらに増加させた。安曇野市域から兵士や軍の命令に基づいて動員された戦病死者数は、『南安曇郡誌第三巻上』と『明科町史下巻』の記載から、明治時代以来1836名に及ぶという。そのうち1681名は日中戦争以降に亡くなった方たちで、末期の昭和19・20年の2年間だけで1200名を越えたといい、その多くは20代の若者だった。

 さて、今回の企画展では、戦死者を郷里はどのように扱ったのか、という点にも注視している。そのひとつはノモンハン事件で戦死した佐々木武陸軍航空兵のこと。19歳で陸軍航空兵に志願し、翌年1月に現役兵として入隊している。昭和12年7月7日盧溝橋事件の8日後、95式戦闘機を12機装備した新編成の独立第9飛行中隊に加わり、華北全域の戦闘にに参加する。後に飛行第64戦隊第3中隊に名称が変わるが、24才で航空兵曹長に上がり、翌年1月5日に南京飛行場で最新鋭の第97式戦闘機の引き渡しを受け、2年間に渡り中国大陸で航空戦を続けた。その活躍は新聞でも取り上げられた。そして昭和14年のノモンハン事件である。この事件での日本とソ連両軍の戦傷者は3万人にも及んだという。しかしながら当時の新聞は華々しい戦果を強調する軍の発表が飾り、楽勝ムードの紙面が溢れていたという。その年の8月21日の攻撃で佐々木武航空兵は戦死した。26才だった。当日の飛行時間は一機当たり8時間にも及んだという。遺族には遺骨は奥地のため回収できないが、遺品として軍隊手帳が届けられた。満州国主催の慰霊祭のか、大連港出航の際にも大連市主催の慰霊祭、そして神戸に上陸した際にも大日本国防婦人会神戸本部主催の慰霊祭が行われた。もちろん地元に着いた際にも葬儀、慰霊祭が行われている。殊勲甲の論功行賞を受け、英雄扱いであったとも。まだ戦死者への扱いが篤かった中での帰還だったといえる。

 いっぽう2枚の寄せ書きがされた日章旗も展示されている。「OBON SOCIETY」といわれる先の大戦で連合軍兵が持ち帰った旧日本兵の「寄せ書き日の丸」をはじめとした遺留品を遺族へ変換することを目的として、アメリカに本拠地を置く活動組織が中心となって帰ってきた日章旗。「祈武運長久 為本田卓郎君」という日章旗はニューギニアの戦場から持ち帰られたものという。痛みが激しいもので、近年帰ってきたものだが遺族には納めてもらえなかったもののよう。戦況が悪化した末期と、前述した航空兵の例とは扱い方がまったく異なることに気づく。

続く

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農業用水路の登録文化財答申報道

2022-08-03 23:00:47 | 歴史から学ぶ

旧黒川堰追平隧道

 

 7月22日県のプレスリリースに「松本市、諏訪市、小諸市、大町市、軽井沢町、辰野町、宮田村に所在する25件の建造物が国の登録有形文化財に登録されます」が掲載された。その中に山形村に事務局を置く黒川堰土地改良区の旧黒川堰追平隧道が含まれる。実は昨年何度か足を運んでいた隧道は、この追平隧道だった。市の文化財関係者の中に、建築物の専門家はいるものの、土木構造物を専門にした方はいない。そこでこの手の施設に詳しかったわたしに、登録に向けての調査依頼があった。農業用施設の隧道には、あまた潜ってきたという経験があったので、引き受けたわけだが、登録文化財ともなるとその造成年がはっきりしなくてはならない。それらしい造成年を記した黒川堰の歴史を綴った書物はあったものの、はっきりと対象物を指した造成年の明記はなかった。

 そこで土地改良区に問い合わせしてもらい、その資料を探してもらったわけであるが、驚くことに当時の予算書のようなものがたくさん保存されているようで、それら予算書の中から対象物件を探したわけである。土地改良区というと、長い年月同じ事務所に籍を置いているところは少ない。なぜかというと、公的施設に同居されていることが多く、とくに小さな土地改良区はそうした例がほとんどだ。黒川堰土地改良区も山形村役場内に籍を置いており、おそらく役場が改築されるような際には、書類の処分がされても不思議ではなかったわけだ。書類を処分してしまって「今はない」という話をたくさん耳にしてきた。ところが黒川堰土地改良区には、かこのたくさんの資料が保存されていたよう。そうした資料が保存されていたことも、貴重ともいえる。

 さてこの隧道は黒川新堰工業組合によって明治31年から同34年にかけて造成されたもので、当初は素掘の隧道だった。それ以前から黒川堰は存在していたものの、この工事によって用水量の確保が確立されたようだ。実は登録文化財には素掘では登録とならない。ようは建造物ではない、ということになるらしい。したがって隧道全体は246メートルあるものの、素掘ではない出口側37メートル、ちょうど20間部分が今回答申となった。この部分は石積(当時は「石巻」と表現していた)となっており、その石はおおよそ長さ36センチ、幅25センチ、厚さ22センチという切り石を組み合わせたもので、さすがにたくさん隧道に潜ってきたが、このような構造の隧道は記憶にない。石積で上側に蓋をするように石を載せたものはあっても、追平隧道は上部をアーチ状にしており、脆弱部に応急的に施したという例ではない。それはこの工事を行った大正3年ころ、隧道に限らず大々的に「石巻」工事を行ったからで、もちろん隧道の一部分を改修した理由には脆弱部に対する防護があったのだろうが、しっかりした工事が行われた背景には、大々的改修を目論んだことがあったからだろう。実は現在も底部にコンクリートを施した痕跡が見られるが、当初は、それは石積化したあとに摩耗した底部をコンクリートで補修したと考えたが、当時の予算書に底部をコンクリート基礎を施したらしい材料が計上されていて、当初から施工されたものだったことがわかった。まだコンクリートが汎用化していなかった時代だからこそ石積で施工されたのだろうが、にもかかわらず基礎にコンクリートが施工されていたことは意外なことだった。

 農業用水路の登録文化財は、例として少ない。その数少ない例に関われたことはもしかしたら最初で最後だろうが、貴重な経験であった(まだ答申された段階で、登録までにはもうしばらく時を要す)。

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昭和三十六年梅雨前線集中豪雨伊那谷水害と地形地質との関係-『伊那路』を読み返して㊺

2022-05-15 23:43:49 | 歴史から学ぶ

伊那市福島の綿打唄-『伊那路』を読み返して㊹より

 『伊那路』昭和38年5月号巻頭には百瀬善水、村上徳太郎、橋爪利喜蔵の3氏による「昭和三十六年梅雨前線集中豪雨伊那谷水害と地形地質との関係」という論文が掲載されている。「『伊那路』を読み返して」では何度となく三六災害について取り上げてきたが、本稿は実地調査の上に記された三六災害による被災の要因をまとめたものとして興味深いものである。文責は当時西箕輪小学校の教諭であった橋爪氏である。

 最初に地形地質の面から三六災害の発生要因について四つに分類している。

1.花崗岩の風化堆積の崩れによるもの。
2.中央構造線をはさむ破砕帯の崩れによるもの。
3.三波川御荷鉾系破砕帯の崩れおよび風化粘土による地すべり等。
4.洪水による段丘の掘り返し、上流からの土砂礫の堆積及び水没によるもの。

その上で

1・2・3の原因によって崩れ出した礫や土砂が、洪水によって運ばれ、砂礫を含んだ洪水は、地形によって或る地域では、古い堆積段丘を掘り返して押し流し(中沢の新宮川、その支流百々目木川、中川村四徳川等)、他の地域では砂礫を堆積し、そのためな耕地・家屋・道路等を埋没している(伊那里の戸草、中沢の李平から落合にかけて、同じく新宮川岸一帯、中川村大草の谷々、高森町大島川下流地域、竜東生田地域の伊那山脈からの押し出し、飯田市野底川下流地域等)。更に天竜川沿岸に於ける水没地(飯田市松尾・川路等の低地等)である。

と述べている。そして2と3の型の災害に注目し、調査結果をまとめている。

 大鹿村大西山の崩れは、三六災害の最たるものであったことはよく知られている。崩壊の原因について「もともと鹿塩片麻岩は、圧砕はされていても硬く、風化には強い岩石である。しかし大西山の東山麓においては、小渋川が東からぶつかって北へ直角に曲がりし、鹿塩片麻岩の山裾をえぐる形に浸蝕を進めていた。(中略)それが豪雨の水を含んで重くなり、東へ倒れたものであろう。」と述べている。対策として崩壊礫を取り除くのではなく、川筋を東寄りに送り、川による山裾の浸蝕を防ぐ策を講じたことに対して「賢明であると思う」と述べている。

 大西山から北東1キロにある中尾集落の山崩れについては、「片麻岩の構造線に接する部分は、上伊那でも下伊那でも、黒色片岩でひどくもめていて、黒い崩れを方々に見かける。構造線に添って歩いていると、西側には鹿塩片麻岩の崩れが赤っぽく見えるし、東側には片岩の崩れが黒く見えて、はっきれ対比される。」という。

 また青木川の谷について触れ、「青木谷の殆んどの村落は、すべり出した土砂の上に出来た小平地に立地している。西側は硬い鹿塩片麻岩や花崗片麻岩であるが、急傾斜をなしていて、青木川の支谷が次第に深く浸蝕し、一昨年の豪雨の際も大量の砂礫を流し出して青木川へ崖錐状に堆積しているところが多い。」という。以上は中央構造線をはさむ破砕帯の崩れによって発生した災害である。

 次に3.三波川御荷鉾系破砕帯の崩れおよび風化粘土によるものについて「長谷村伊那里、大鹿村においては、中央構造線から東へ遠いところでは4㎞程、近いところでは2㎞程はなれて、構造線と殆ど平行して南北に古生層御荷鉾系の輝岩帯がある」と述べ、この岩石は硬く浸蝕に耐えるものの、「この輝岩帯の東に輝緑凝灰岩その他の、西に結晶片岩(三波川系)の破砕帯があって、多くの地すべり現象が生じ、一昨年豪雨の際も昨年にも大小の災害を引き起こしている」という。そして長谷村伊那里の例をあげて「東側の割芝に西側の桃ノ木に破砕風化物一部輝岩の破砕岩屑風化物も混じって青色の粘土をつくり(これを土地の人は青ハネと云い、又青ネットとよぶ向きもある)乾燥時には、こちこちに硬くなっているが、雨季にはこれが水分を含んでどろどろになって地すべりを起こす」と述べている。

続く

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中央自動車道から長野道へ 後編

2022-03-02 23:04:30 | 歴史から学ぶ

中央自動車道から長野道へ 前編より

 前編で記したように『飯島町誌』(平成5年刊行「下巻」)には、「通過地点の一部だけが犠牲にならないような協力体制を確立して、道路公団と折衝に当たった」と記述されていたが、具体的なことに触れられていない。当時は通常の「買収」という形式で土地は取得された、と覚えている。ちょっと棚を探してみたのだが、高校時代に中央自動車道開通に関するテーマで文化祭に発表したことがあった。当時アンケートを無作為に行ったのだが、その資料を所持していると記憶していたからだ。しかし、棚からは見つからなかった。終活するうちには見つかると思うのだが、その時に再度その内容については見直してみようと思う。

 さて、中央自動車道の県内全線開通は、わたしが飯山で働いていたころだ。当時記念した割引券をもらった記憶がある。まだまだ長野道は先の話だった。時代は10年ほど経過することになる、長野道の工事が盛んになるのは。直接土地を買収したのとは異なり、松本平の水田地帯を切り裂く道は、別の方法が取り入れられた。当時「高速関連」と称される県営ほ場整備事業が続出した。『松本市史現代編』(平成9年)によると、「56年度(昭和)は、三原則の「優良農地を守る」対応策として県圃場整備事業が、いわゆる「長野方式」とよばれた特別対策として実をむすび、全国に例のなかった「異種目換地」が実現のはこびとなって注目された」と記述されている。なぜ「高速関連」のほ場整備事業が続出したかといえば、この土地取得の方式「異種目換地」を行うためだった。ほ場整備をするエリアから換地という手法で非農用地を捻出するもので、それまでの換地は、農地に換地するものだったが、異種目、いわゆる従前の農地を非農用地に設定する手法であった。実はこの方法は昭和40年前後に始まっていた中央自動車道では適用できなかった。土地改良法の一部改正に伴ってこの手法が許可されたのだ。昭和48年2月8日に48構改B第192号で交付された「土地改良法の一部を改正する法律の施行について」の第2において、「従来、非農用地については、閲係権利者の権利を保護するための規定が不備であつたため、開発して農用地とすることが適当な土地等のほかは、土地改良事業の施行地域内に含めないよう指導していたが、今後は、農用地の集団化その他農業構造の改善に必要な限りにおいて、当該非農用地の関係権利者全員の同意を得れば、土地改良事業の施行地域内に含めることができることとした」ものであった。ようは土地改良法に則って行われるほ場整備事業において、非農用地を地区内に新たに設定する場合、その設定する非農用地を地区内に含めて換地できるというものであった。この改正により、現在もよく言われる非農用地が地区内に3割を限度とする、という数値が定められたわけである。公団側にしてみれば、それぞれの該当地権者に折衝する必要はなく、農地内に買収地があれば、ほ場整備によって換地手法によって買収できるため、事務的作業はかなり節約できたはずである。

 さて、前掲書には客土(ここでは「土採り場」と表現している)先について、当初は赤木山を交渉していたが、断念し、「明科町内の山」に変更したと記している。

 なお、余談であるが、『飯島町誌』には、「国土開発縦貫自動車道法案」について「国会に提出されたのは昭和30年で、成立したのは昭和32年であった」とあり、いっぽう『松本市史現代偏』には「衆議院で可決された」のは「昭和30年」と短く記されている。公布施行されたのは、昭和32年4月16日であって、後者が記している「可決」は前者の「国会に提出」とほぼ同意であって、ここで施行された日が大事なのか、それとも可決された日が大事なのか、そんなことを考えさせられる表現の相違である。

終わり

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中央自動車道から長野道へ 前編

2022-03-01 23:22:39 | 歴史から学ぶ

 先日中央自動車に関する日記を「他人事」に記した。伊那谷での高速自動車道開発は昭和40年代になって顕在化した。以前記したように、中央自動車道と冠しているように、真ん中をストレートに東と西を繋ぐ道だったようだ。日経クロステック(xTECH)の2010.12.28付け「南アルプスを越えられなかった中央自動車道」(文責 高槻 長尚氏)のことは、2017年7月に「中央自動車道初期予定ルート」と題して記した。そこに記したように、田中研究所が検討していた中央自動車道は、けして「ストレート」とは言いがたいほど曲がりくねっている。もちろんリニアとは速度が異なるから当然のことだろうが、そう考えるとリニアほどまっすぐな大型交通路は初めてと言ってもよいのだろう。このルートが持ち出されたのは、前掲の記事によると、ちょうどわたしが生まれたころのことのよう。南アルプスルートが北回りにルートに変更されたのは、1963年のことだったという。中央自動車道建設推進委員会が1963年5月17日に開催した第6回総会でのこと、長野県出身の国会議員であった委員長の青木一男(1889-1982年)が突如、ルートを北回りに変更する方針を明らかにしたという。リニアとはまったく正反対の流れだったわけだが、当時はそれだけ地方議員の声が強く、そして「通った」ということだろう。リニアではそうはいかなかった。地方より、大都市を結ぶことが優先された、ということなのだろう。世論もそうだった。前掲記事にも取り上げられているが、「身延町誌」より引用されたルート図が下図である。これを見ると解かるように、東名高速もずいぶん迂回していることがわかる。山岳道路のため、必ずしも中央自動車道が「早い」とは言えないが、最短ルートという観点では、東名より中央道ということは、この図でもわかる。北回りに迂回して60キロほど長くなったとはいえ、東名に比較してそれほど遜色はない。したがって東名が混雑していれば、中央道の方が早い、ということはあるのだろうが、恵那山トンネルが割高のため、通行料は明らかに東名が有利だ。加えて今は第2東名も開通している。

『身延町誌』より

 

 さて、中央自動車道も高速道路としては早期に手がけられていた道。とりわけ河口湖までの初期中央道は早期に開通していた。北回りに変更されたために、山梨県内が最後に開通して、全線開通となった(昭和57年)。

 昭和40年前後にすでにこの地域では世論の的となっていたであろう中央自動車道。伊那谷は山麓部には畑地帯が多かったため、比較的優良農地という意識はなかっのかもしれないが、とはいえ土地を手放すのには抵抗のあった時代。当時は被買収者組合と道路公団との折衝によって土地は取得された。このあたりを『飯島町誌』(平成5年刊行「下巻」)に拾うと、「昭和41年に農協と飯島町を中心とした対策委員会が結成されて、土地買収の交渉、代替地のあっせん、用水井・道路の整備、墓地・家屋の移転保証、該当者への低利資金の融通など、広範な問題が討議され、通過地点の一部だけが犠牲にならないような協力体制を確立して、道路公団と折衝に当たった」とされている。そして昭和47年に提出された「飯島町基本構想審議会」の答申案について触れ、「県立公園の千人塚と与田切渓谷を拠点とする「自然との調和のとれた広範囲の開発」「中ア南駒山麓の保健休養地的な別荘団地の造成」などをキャッチフレーズに、千人塚・市の瀬橋・うどん坂を結ぶ道路の整備、傘山と横根山を結ぶ展望道路の開設、シオジ平の開発保護、夏期林間学校や会社の寮や国民宿舎などの設置や誘致、総合グランドの造成など、将来の夢は大きく広がったものであった」と記している。もちろん刊行が平成5年であるから、その東晋案が「夢」であったことを踏まえての記述と察せられる。大きな変化を伴った事象ではあるものの、その記述がさほど多くないのは、町誌であれば仕方のないことかもしれないが、実は現代史が確実に記録されていない、ひとつの例とも言えよう。現代史は記録が詳述できる可能性があるものの、意外に実践されていないことを富に思うこのごろである。

続く

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御大典の道標

2022-01-02 23:14:32 | 歴史から学ぶ

令和3年12月28日撮影

 

 1年近く前、とりわけ飯島町の現場が主だった。その際に道標について何度か触れたが、最近も駒ヶ根市中沢を頻繁に訪れていると同じような道標に出会う。写真もそのひとつで、下割の旧県道沿いに立つ道標で「下割青年会」と見える。

 青年会の立てた道標について、『本郷区誌』に詳しく書かれている。まず明治43年に本郷青年会では、「道教え」を立てることを決めているという。「一月の例会デ定メタル道教エヲ立テルノ件ニ付キ木ハ拾本ト定メ大工ニ渡ス 此ノ代価ハ拾銭トス 本日会終了後立テルコトニ決定セリ」とある(前掲書229頁)。そしていよいよ大正天皇の御大典である。近在で同じような道標が立てられたのは、この御大典に合わせてである。同青年会でも御大典記念事業として道標を建設している。費用の捻出方は「区民の寄付」だったようである。その趣意書には次のように書かれていたという。

 国を挙げて寿ぎ奉る御即位の御大典も近ずきました。此の栄有る喜びの日を迎え奉る渡私達は、御大典を記念する為め、従来より経営し来った図書館の内容充実並びに道標の建設を行いたいと思います。(中略)今まで区内各所に建てられていた道標が朽ち果てて殆ど其の存在すら認められず、多くの道行く人が非常に不便を感じて居ることと推察せられ、是非共新しく建設すべき必要が差し迫っています。
私達は両事業共、御大典記念として最も相応しいものと思い、企画致しました。
何卒 御賛成の上多少に拘らず御援助下され度、御願い致します。
  昭和三年十一月六日              飯島村青年会第四支会

というもので、第4支会とは本郷青年会のことだった。寄付金は区内で130円集まり、道標は石柱で7本、木柱10本建てられたという。木柱はもちろん現存せず、石柱の道標も7本は残っておらず、“続・青年会が建てた「道標」”で触れたように4基の道標が『飯島町の石造文化財』(2006年 飯島町教育委員会)に掲載されている。

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赤松隧道へ

2021-11-28 23:09:23 | 歴史から学ぶ

 昨夜松本へ泊まったこともあり、せっかく足を伸ばしているので、以前から気になっていた現場に立ち寄ることにした。現在は松本市になっている旧波田町赤松。こう聞くと世間では「どこ?」となるが、松本電鉄上高地線新島々駅のあるところ、といえばメジャーな印象となる。よく耳にする新島々駅は、この赤松にある。もうひとつ、赤松には中信平を潤す農業水利施設頭首工があった。県内でも最大規模の頭首工である。現在は上流にその機能は移されており、以前「想定内と、想定外」に掲載した写真の頭首工が、赤松頭首工に代わる梓川頭首工である。その際の写真を見てもらうと解かるが、この渓谷の両岸の斜面は、とても急だ。とくに頭首工の上、突出した尾根の角度はちょうど45゜ほどの斜面を形成している。ちょうどこの斜面の下あたりが「赤松」地籍なのである。新島々駅の背後の山であり、ようは赤松地籍の背後は急斜面となっているということである。

 この急斜面の法尻に、かつての波田堰があり、90メートルほど斜面を登った山腹に旧黒川堰があった。この黒川堰の赤松隧道の存在を知りたいと思って訪れたのである。山麓に赤松集落があるということもあって、この黒川堰を造ろうとした際には、防災面から反対もあったという。この斜面を歩いてみるとわかるが、ところどころ岩盤が露頭していて、黒っぽい砂岩質の岩が目につく。混在岩と言われるもので、節理が発生していてそれほど強固というほどのものではない。この急斜面を等高線に沿って流れていたと思われる黒川堰を追ったのである。赤松集落の最上部に神社があり、ここに下ってくる沢が赤松沢という小さな沢である。水量はそれほど多くなく、旧黒川堰があるあたりまで登ると、赤松沢には一滴も水の流れは観測されなかった。この脇から林道が登っていて、それを歩いていくともうひとつ西側の栗谷俣沢の谷に至る。こちらは赤松沢と違って、そこそこの水量が認められる。この谷へ林道から逸れて登ると、そこにかつて水路があったと思われる小段が認められるのである。こういうかつての水路跡は、日ごろよく目にしているから、すぐに旧水路敷きだとわたしには解かる。その水路敷きが栗谷俣沢にぶつかるところに、かつての隧道のアーチ部だけ姿を見せている。やはりここが黒川堰の跡だったことがわかる。隧道入り口は石積みで施工されている。ちなみに山腹水路となっているこのあたりの初期水路は、江戸時代には開削されていたようだ。隧道入り口から左手に小さな歩くほどの小段が等高線沿いに沿っているが、管理道でもあるが、おそらくかつては隧道ではなく、山腹水路として利用されていた跡と思われる。この歩くほどの道を迂回して尾根を越えると、赤松沢に至る。ここにも隧道の入り口と思われるアーチ部が見えており、この隧道入り口上部には化粧された石に文字が刻まれている。この化粧石が平成8年に発行された『黒川堰』(東筑摩郡黒川堰土地改良区)に掲載されている赤松隧道の写真に見えるものと同一であることから、ここが目指していた「赤松隧道」であることが判明した。残念ながら隧道そのものは閉塞していて、全容を見ることはできなかったが、さらに等高線に沿って下ると、かつての隧道であったと思われる坑口が見られ、隧道内の様子を垣間見ることはできた。

 それにしてもこの赤松隧道のあるあたりの山腹は、前述したようにかなりの急斜面。落葉した枯葉が獣道ほどの幅に堆積していて、その下は45゜ほどの斜面が続く。なにより滑りそうな獣道を踏み外せばかなり下のほうまで転がり落ちそうだ。さすがに慣れているとはいえ、注意しての前進であった。この斜面に水を通したというのだから恐れ入る。加えて粘質ではない。水路を造っても漏水したことだろう。そのため明治34年に親堰を完成させた。さらに大正時代に入ったころ、素掘りだった水路を石巻(石積)施工して、強固なものへと補強した。今は使われなくなった水路であるが、石積みされたかつての水路の痕跡を、この急斜面に延々と見ることができた。

栗谷俣沢側隧道坑口

 

赤松隧道赤松沢側坑口

 

赤松隧道下流隧道坑口

 

赤松隧道を迂回するかつての水路敷

 

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『信濃不二』という月刊誌・後編

2021-11-09 23:27:43 | 歴史から学ぶ

『信濃不二』という月刊誌・前編より

『信濃不二』271表紙

「信濃不二」とは有明山のことをいう

 

 前回触れた明治45年6月に発行された第7号の奥付には南安曇郡明治45年の蚕種家数が記載されている。

有明村 117
温村   96
東穂高  89
南穂高  63
明盛村  38
豊科村  34
西穂高  32
倭村   20
北穂高  14
梓村   12
高家村  10
烏川村   7
三田村   2

とあり、合計534名を数えている。

 この『信濃不二』の編集主幹いわゆる信濃不二社の社長にあたるのは会田血涙であり本名を会田貢といった。そのあらましは、「安曇野市ゆかりの先人たち」にゆずるとして、本誌にも毎号記事を掲載している。その内容を50号までの拾うと、次のようなものである。

明治44・12・10 発行の辞
明治45・1・10 新年の辞
明治45・4・10 奥様嬢様方へ
明治45・5・10 消防衛生隊の組織を望む
明治45・6・10 蚕種家は蚕種を売るべし
明治45・7・10 吾が安曇の地は天与の原蚕地たるか
大正元・8・10 大行天皇御崩御を悼み奉る
大正元・9・10 男と女とは共持ちの世なり
大正元・10・10 職業信仰論
大正元・11・10 回顧一周年
大正元・12・10 大正元年を送る
大正2・1・10 大正二年に望む『信濃不二』主幹
大正2・2・10 天理教を論ず
大正2・3・10 武装せる信濃不二
大正2・4・10 穂高人士は死せるか眠れるか
大正2・5・10 五つたび穂高町のために泣く
大正2・6・10 南安仏教会に望む
大正2・7・10 蚕業界の大激戦
大正2・8・10 暑中休暇の廃すべきを論す
大正2・9・10 官製青年会の非を論ず/小倉官林払下問題
大正2・10・10 出兵すべし/安曇村大野川区の大飢饉嗚呼五百の生霊飢に泣く
大正2・11・20 本誌二週年
大正2・12・10 仕事ぎらいな青年に告ぐ
大正3・1・10 大正三年を迎う/噫残念‼噫不快‼誠に申訳ない
大正3・2・10 人誠意なくして神怒る
大正3・3・10 来年の事を言えば鬼が笑う
大正3・4・10 護国の神
大正・6・10 必ず当たる養蚕法/灌漑反別三千八百町歩の井掛農民を泣かしむべきか
大正3・7・10 悪商人等の奸策に陥る勿れ
大正3・8・10 松本平の人士に訴う
大正3・9・10 吾人は皆軍人なり
大正3・10・10 戦時に於ける国民の覚悟
大正3・11・10 信濃不二第三週年
大正3・12・10 祝豊科電話開通
大正4・1・10 自から禁酒を告白す
大正4・2・10 候補者が候補者ならば選挙民も選挙民果して何れのHにか立憲政治の実を挙げん
大正4・3・10 忠君愛国は戦時の専用物に非す
大正4・4・10 豊科町民諸君に訴う
大正4・5・10 県会議員選挙に就て
大正4・6・10 白骨温泉紀行を叙して安曇の耶馬溪を天下に紹介せん事を望む/遙かに波濤八百里外暴政に苦しむ吾が同胞の為に慟哭す
大正4・7・10 日本アルプスと秋蚕種
大正4・8・10 再び県会議員選挙に就て
大正4・9・10 所謂不景気なるものを歓迎す
大正4・10・10 日蓮上人論
大正4・11・10 嗚呼南安同志倶楽部
大正4・12・10 天杯を賜りし御老人諸君に御祝を申上ます/伊豆少将―武井主事―井上課長と語る
大正5・1・10 我々青年の責任は重且大なり

 『信濃不二』が会田主幹の強い思いで発行されていたことがうかがえる。とはいえ、前回「個人情報満載」と記したが、今とは事情が明らかに異なる。連載「人」では個人名とその動向が記されている。例えば「○○ 妻は炬燵に寝せつけて居た三男鶴吉に大火傷を負はす」とか「○○ 金銭の問題から肉身の長男金を嫌って殺さんとして爆薬を仕掛く」といった具合。

 広告が時世を表していて興味深いが、実は現在も広告がまったくないわけではないが、前述の郷土誌も『信濃不二』に似ているといえば似ている。例えば『伊那路』(上伊那郷土研究会)の草創期の号を見てみると、背表紙一面に毎号異なった広告が掲載されている。『信濃不二』との大きな違いは、会費で運営しているかそうでなてかの違い。とはいえ購読料前納を会費と捉え、購読料を支払っていないと投稿できないということから考えると、会費と購読料は同様なものとも捉えられる。いわゆる新聞や現在の週刊誌とは異なり、誰でも投稿できるというあたりは、現在の郷土誌と変わりない。そして今はほとんどみかけなくなったが、かつてのそうした郷土誌には、短歌・俳句・漢詩といったものが毎号掲載されていた。ようは『信濃不二』は、後の長野県内における郷土史誌繁栄に繋がったとも言えそうだ。そう捉えると、『伊那』(伊那史学会)はまさに原田島村(初代)という地方ジャーナリストによって生まれた郷土誌だったといえ、会田血涙同様に、自ら「金人を兼ね」ていた。偉大な人だった。

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