伊那市福島の綿打唄-『伊那路』を読み返して㊹より
『伊那路』昭和38年5月号巻頭には百瀬善水、村上徳太郎、橋爪利喜蔵の3氏による「昭和三十六年梅雨前線集中豪雨伊那谷水害と地形地質との関係」という論文が掲載されている。「『伊那路』を読み返して」では何度となく三六災害について取り上げてきたが、本稿は実地調査の上に記された三六災害による被災の要因をまとめたものとして興味深いものである。文責は当時西箕輪小学校の教諭であった橋爪氏である。
最初に地形地質の面から三六災害の発生要因について四つに分類している。
1.花崗岩の風化堆積の崩れによるもの。
2.中央構造線をはさむ破砕帯の崩れによるもの。
3.三波川御荷鉾系破砕帯の崩れおよび風化粘土による地すべり等。
4.洪水による段丘の掘り返し、上流からの土砂礫の堆積及び水没によるもの。
その上で
1・2・3の原因によって崩れ出した礫や土砂が、洪水によって運ばれ、砂礫を含んだ洪水は、地形によって或る地域では、古い堆積段丘を掘り返して押し流し(中沢の新宮川、その支流百々目木川、中川村四徳川等)、他の地域では砂礫を堆積し、そのためな耕地・家屋・道路等を埋没している(伊那里の戸草、中沢の李平から落合にかけて、同じく新宮川岸一帯、中川村大草の谷々、高森町大島川下流地域、竜東生田地域の伊那山脈からの押し出し、飯田市野底川下流地域等)。更に天竜川沿岸に於ける水没地(飯田市松尾・川路等の低地等)である。
と述べている。そして2と3の型の災害に注目し、調査結果をまとめている。
大鹿村大西山の崩れは、三六災害の最たるものであったことはよく知られている。崩壊の原因について「もともと鹿塩片麻岩は、圧砕はされていても硬く、風化には強い岩石である。しかし大西山の東山麓においては、小渋川が東からぶつかって北へ直角に曲がりし、鹿塩片麻岩の山裾をえぐる形に浸蝕を進めていた。(中略)それが豪雨の水を含んで重くなり、東へ倒れたものであろう。」と述べている。対策として崩壊礫を取り除くのではなく、川筋を東寄りに送り、川による山裾の浸蝕を防ぐ策を講じたことに対して「賢明であると思う」と述べている。
大西山から北東1キロにある中尾集落の山崩れについては、「片麻岩の構造線に接する部分は、上伊那でも下伊那でも、黒色片岩でひどくもめていて、黒い崩れを方々に見かける。構造線に添って歩いていると、西側には鹿塩片麻岩の崩れが赤っぽく見えるし、東側には片岩の崩れが黒く見えて、はっきれ対比される。」という。
また青木川の谷について触れ、「青木谷の殆んどの村落は、すべり出した土砂の上に出来た小平地に立地している。西側は硬い鹿塩片麻岩や花崗片麻岩であるが、急傾斜をなしていて、青木川の支谷が次第に深く浸蝕し、一昨年の豪雨の際も大量の砂礫を流し出して青木川へ崖錐状に堆積しているところが多い。」という。以上は中央構造線をはさむ破砕帯の崩れによって発生した災害である。
次に3.三波川御荷鉾系破砕帯の崩れおよび風化粘土によるものについて「長谷村伊那里、大鹿村においては、中央構造線から東へ遠いところでは4㎞程、近いところでは2㎞程はなれて、構造線と殆ど平行して南北に古生層御荷鉾系の輝岩帯がある」と述べ、この岩石は硬く浸蝕に耐えるものの、「この輝岩帯の東に輝緑凝灰岩その他の、西に結晶片岩(三波川系)の破砕帯があって、多くの地すべり現象が生じ、一昨年豪雨の際も昨年にも大小の災害を引き起こしている」という。そして長谷村伊那里の例をあげて「東側の割芝に西側の桃ノ木に破砕風化物一部輝岩の破砕岩屑風化物も混じって青色の粘土をつくり(これを土地の人は青ハネと云い、又青ネットとよぶ向きもある)乾燥時には、こちこちに硬くなっているが、雨季にはこれが水分を含んでどろどろになって地すべりを起こす」と述べている。
続く