月風のプロフィール・・・気高く、強く、美しく生きる

思い出を交えて!

徒然なるも未来に希望を託し随筆を嗜む

俳句、音楽を添えて

明治の世から(2)

2010年07月03日 09時10分10秒 | 日記
本日は教育勅語についての感想等を書きます。

若い世代の人々に伝えたい事があります。前書きが今度も長くなりますが、

是非心に留めて下さい。


幼い時は未だ明治生まれの方々が多くいました。

この歳で思いますのは、明治生まれの方々、戦争を経験なされた方々の精神的な強さに脱

帽し敬意を表したい事は勿論ですが、悲惨な戦中、戦後を生き抜いて来られた方々に対し

て、「戦争をしない、悲劇を繰り返さない世の中を創って行く」事こそ大事と思いまし

た。

大事な命が華々しくも戦場に散って行った事を真摯に受け止めています。






 戦前は大日本帝国憲法と共に教育勅語、軍人勅諭があった事を知りました。

この憲法は少しずつ内容が明らかになりますと民主的であり、学校で教えられたように天

皇の絶対的権力を認めた“帝国主義的”かつ“軍国主義的”な憲法ではないことが解りま

す。

このことは以前書きました。(下記 ※1~※4を参照)

※1 例えば「告文」である。現憲法の「前文」に当たるこの「告文」では、「朕及朕カ

子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循(シタガ)ヒ之を行フコトヲ愆(アヤマ)ラサルヘシ」と

し、天皇もその子孫も、将来、憲法の定める条項に従って統治することを誤ってはならな

いと規定している。

※2 また第四条は「天皇ハ帝国議会ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ

之ヲ行フ」と定めた。天皇はすべての統治権を司ると規定する一方で、あくまでも統治の

仕方は、憲法の定めるところに従って執り行わなければならないとした。

※3 議会についても、第五条で「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と、議会

の賛同と支持がなければ天皇といえども立法権を行使できない、天皇単独で立法などはで

きないと定めている。

※4 さらに第八条では、帝国議会が閉会している時は天皇が勅令を出すとしているが、

同条二項は、次の会期で議会が承諾しなければ、その勅令は将来にわたって効力を失うと

定めた。天皇の勅令であっても、議会の承認なしには取り消されてしまうことを、しっか

りと明文化しているのだ。




十九世紀から二十世紀にかけての、国際社会の変化の大潮流の中、西洋や米国列強の弱

肉強食植民地化時代を生きる日本に、進むべき道はいくつもあったとは言えないのではな

いでしょうか?

侵略戦争とかA級戦犯と言う言葉を耳にしたことがありますが、本当に、

日本人の指導者がそのような不名誉な行為をしたとは私は思えません。1972年に日中

国交樹立以来ずっと、日本は中国を侵略をしかけたと言われ続けて来た。

日本非難の論は多くが1931年の満州事変から説き起こされる。これを「侵略戦争」の

出発点と見放す主張だ。

が、国際連盟によって任命されたリットン調査団はどう分析しただろうか?

また、「A級戦犯」にしても、(こう言う言葉は日本語に無いが良い)・・・なぜこれら

の指導者達が戦争をしなければならなかったか?

を考えなければならない。


一休みして次に行きましょう。
私の若い頃、アラン・ドロンの映画の最盛期でした。この「太陽がいっぱい」は
彼の代表作と言ってもいいでしょう。
この曲を通して、作曲家ニーノ・ロータを知りました。
燦々と輝く明るい太陽と青い海に清々しさ・・・。
【太陽がいっぱい ピアノ】Plein Soleil /ニーノ・ロータ 1960年



歴史はいきなり、ある時点から始まるものではない。日本の行動はそのずっと前から多く

の要素の延長線上にある。そのことを見ずして、真っ当な判断は下せない。現在の問題や

紛争を理解するには、歴史をはるか以前まで遡り、全体像を見なければならないからだ。

戦争は一国だけが、或る日突然、一方的に思いついて開始するものではない。

昭和十年代、多くの不穏な動きがあったとはいえ、日本国がいかに戦争を回避しようとし

たか?

反対に、いかに米国と中国が日本に悪意を抱き、挑発し、戦争へと追い込もうとしたか?

私たち、戦後に生まれた者は特に学んでおかなければならない。

また、戦後すぐにGHQ(連合国軍総司令部)は憲法の起草をしたが、他に日本のキリス

ト教化も画策していた事は知っておいた方が良い。





あやめ咲く橋の袂の一葉舟



それでは教育勅語から何かを学ぼう。


教育勅語現代解説(訳文)


『聖訓ノ述義二関スル協議会報告』(1940年、文部省刊)の中の「教育に関する勅語

の全文通釈」を現代仮名遣いにあらため、解説したもの。



朕(明治天皇)がおもうに、我が御先祖の方々が国をお肇(はじ)めになったことは極め

て広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよ

く忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげ

て来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。


汝(なんじ)臣民は、父母に孝をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合

い、朋友互に信義を以て交り、ヘりくだって気随(きずい-自分の思うまま)気侭(きま

ま-他人に気がねなく自分の思い通り)の振舞をせず、人々に対して慈愛を及ぼすように

し、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益

を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵

守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧(ささ)け

て皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮(かぎ)りなき宝祚(あ

つまひつぎ)の御栄(天皇陛下の御運勢)をたすけ奉(たてまつ)れ。


かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもな

おさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫

たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。

この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正

しい道である。

朕は汝臣民と一緒にこの道を太切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。




有明の片割れ月や白菖蒲



ここで教育勅語の教える十二の徳目を記す


 1. 孝行(こうこう)⇒子は親に孝養を尽くしましょう。

 2. 友愛(ゆうあい)⇒兄弟姉妹は仲良くしましょう。

 3. 夫婦の和(ふうふのわ)⇒夫婦はいつも仲睦(むつ)まじくしましょう。

 4. 朋友(ほうゆう)の信(しん)⇒友達はお互い信じ合ってつき合いましょう。

 5. 謙遜(けんそん)⇒自分の言動を慎みましょう。

 6. 博愛(はくあい)⇒広くすべての人に愛の手をさしのべましょう。

 7. 修学習業(しゅうがくしゅうぎょう)⇒勉学に励み職業を身につけましょう。

 8. 智能啓発(ちのうけいはつ)⇒知徳を養い才能を伸ばしましょう。

 9. 徳器成就(とっきじょうじゅ)⇒人格の向上につとめましょう。

10. 公益世務(こうえきせいむ)⇒広く世の中の人々や社会の為になる仕事に励みま

   しょう。

11. 遵法(じゅんぽう)⇒法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう。

12. 義勇(ぎゆう)⇒正しい勇気をもってお国の為に真心をつくしましょう。



潮来市のあやめ園より



教育勅語は根本的理念が主権在君並びに神話的国体観(伝統的な権威を持つ天皇陛下を

国の頂点に戴き、その下で為政者が実権を握って政治を行う国の仕組み)に基いていると

され、基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなるものとして排除さ

れました。

しかし、この国会決議は、GHQ(連合国軍総司令部)の強要により「教育勅語を指導理念

とすること」を否認したのであり「教育勅語の内容自体を否定」したのではありません。

 現に教育勅語は名望ある教育者によって「純然たる道徳訓」として大切にされていま

す。

 私たちの先輩は道徳訓に恵まれましたが、戦後教育の是非に大変な苦労をされたことが

窺えます。戦後生まれの私は内容そのものを全く知らなかったのでした。

 今、私はこの勅語を把握していない人があったら不幸な人だと考えます。


戦前は家族関係を含め、こうした心の部分を教える教訓があったことを

有り難く思う者です。

人間の暮らしのなかで、何が本当に大事であるのか?

皆が幸福に過ごせる社会を創るのに必要なことはなにか?

それは特別なことではなく「当たり前のこと」つまり常識や良識である。

と諭されます。

人間として家族にどう振る舞うのか?

友人関係はどうすればいいのか?

夫婦関係はどうすればいいのか?

年長者にはどう接していけばいいのか?

幼い者をどう守ってやればいいのか?

社会の中でして良いことと悪いことをどう判断すればいいのか?

それら、全て、長い日本の歴史の中で洗われ、選択され、是として確立されてきた常識や

思いやりを基に考えれば自ずと答えは出てくる。


平凡な当たり前の価値観かもしれないが、この価値観無しには社会運営は決してうまくい

かない。

この価値観がちりばめられているのが教育勅語と言ってよいでしょう。

日本の伝統であり、普遍性が込められています。

私は長い間、キリスト教に縁があったものでしたが、

あの分厚い聖書と比較すると何の為に聖書を読んできたのか?

実に過去の私が愚かであったと残念でなりません。

「虚しいものに使えてはならない。」との聖書の言葉が心に反復し響いています。

・・・皮肉ですね。

虚偽はあくまで虚偽です。信用出来ないものです。

そんなものに大事な時間さえ掛けたくもありません。

皆さんは私の蹉跌から何かを学んで頂きたい。私の轍を踏まないようにして下さい。

これについては「私の体験から思う事」を参照して下さい。


最後にニーノ・ロータの「ロミオとジュリエット」を聴いて下さい。
この曲を聴くと紅顔無垢な17歳位に戻れそうな感じがします。
恋の炎が情熱をおびて熱くそして悲恋がせつなく・・・。

Romeo and Juliet what is a youth




参考資料

櫻井よしこ  気高く、強く、美しくあれ   小学館  2006年8月





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明治の世から(1)

2010年05月08日 20時41分34秒 | 日記
本日は明治時代の「五箇条の御誓文」について書きます。

本文の前にここで申し上げたいのですが、

私は決して「軍国主義」を肯定するものではありません。

私は昭和28年の生まれであり戦後の教育を受けて育ったものです。

諸先輩方の政治に関する本を見ますと、私は自国の歴史や文化に偏見を抱いて育って来たと思うのであります。

偏見と申しますのは「日本は戦争に負けたのだから西洋やアメリカの方が上位の国だ」

とずーっと思いこんで育って来てしまったことです。

(実際には日本は本当に負けたのではなかった、敵が戦争違反の虐殺、つまり原子爆弾を使用して

一般人の子供や婦女子まで巻き添えにしたので天皇陛下が痛むこころを押さえる事が出来なかったのが実情だ。)

しかし、このように気が付いたのはつい最近のことです。

たとえば、日本の美術品が海外に大量に流出していたことを知って驚きました。

が、かつてそのような美術品が存在することも未知のことでした。

想えば、大英博物館、ナショナルギャラリーなど世界中には有名な博物館が沢山あるけれど、

戦利品と称し云わば盗んで来た美術品などを飾っている所も多いのです。

戦後教育の問題点が浮き彫りになって表れた想いでした。

それというのも櫻井よしこ様のこの本に触れて感じたことでした。

読んで行く途中で、ああそうだったのか!!と気付きました。

「もっと若い時期に気が付いていれば・・・」と悔やまれます。

しかし、若かった時はこの種の本は無かったと思います。

ですので、若い人たちよ、明日を担う人達よ、“温故知新”です。

以下、「気高く、強く、美しくあれ」より。 

高校生の現状、村上ファンド、堀江氏、日本外交。

日本を構成する全く別々の部分をこうして取り出してみると、全てに共通するのが、志の欠如である。

人間としての志。日本人としての志。経済人としての志。政治家としての志。

全ての面で、最も大切な志が欠落している。

言いかえれば、日本人が日本人らしさがなくなってきたということでもある。

ここで、しかし、日本人らしさとか、日本の真髄とか、日本的なるものを規定するのは容易ではない。

言葉による定義よりも身近な事例で考えるほうが早いだろう。

たとえば以前の日本人には明らかに節度と慎ましさがあった。

恥を不名誉とし、自らを律することで品格を保った。

そのような価値観は、「卑怯なことはしない」「嘘はつかない」「悪いことはしない」

「誰が見ていなくても、神様がみている」という素朴な言葉で国民全員に認識され、

慎ましくも好ましい国柄を作りあげてきた。人間を超える神の存在を意識し畏(おそ)れ、

正しく身を保ち、勇気を持つことの大切さを日々の生活のなかで教えられた。

だからこそ、「強きを挫き、弱きを助ける」こと、

責任ある立場であるほど私益よりも公益の優先を忘れてはならないことなどを心に刻んだ。

良心に恥じることや卑怯な振る舞いはしないこと、両親や祖父母、年長者を敬うこと、

幼い者を慈しみ守ってやることに加えて、自然の恵みに感謝することなど、

美徳とされた価値観は多くあった。 

しかし、現代の日本人、否、戦後の日本人はこうした価値観を旧(ふる)いものとして捨て去ってきた。

国のかたちの根本である現行憲法にも、こうした価値観への言及は全くない。

あるのは、日本人が幾十世紀にもわたって育て、

日本人の生き方や死に方に刻み込んできた日本の価値観、

私はそれを日本文明と呼ぶのだが、その日本文明の全否定のみである。

敗戦と占領以降、日本を日本たらしめてきた

これらの価値観がどれほど素晴らしいものであるかを徹底して忘れ去ってきたのが私たち戦後人だ。


休憩しましょう。私は古賀メロディーが大好きです。音楽とは不思議な物です。
淋しさの中に凛として勇気を感じ慈しみも感じるのです。

影を慕いて/美空ひばり










「影を慕いて」・・・ギターで聴いて見ましょう。
影を慕いて/ギター独奏









日本文明の素晴らしさに最も気付いていないのは、恐らく私たち日本人であろう。

日本人の秀逸性に驚き、感嘆したのは、実は外国から日本にやってきた人々だった。

彼らは皆一様にこの国とこの国の人々の姿に感動し、

この国をあるがままに礼賛した。

ハリスが感動した日本の「人民の本当の幸

福の姿」


1856年(安政3年)初代米国総領事として来航したタウンゼント・ハリスは

「日本滞在記」(坂田精一訳、岩波文庫)のなかで日本人についてこう記した。

「見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。

一見したところ、富者も貧者もない・・・これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。

私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、

果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。

私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。

生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」



「質素と正直の黄金時代」とハリスは書いた。

ハリスは米国の国益を双肩に担い、

日本を米国の利益に資するように巧みに使い、

不平等条約に見られるように搾取するためにやってきた人物だ。

心中には白色人種が黄色人種に対して抱く人種偏見も蔑視の想いもあったはずだ。

そのハリスさえ、日本人の「皆、幸福そうな姿」、「富者も貧者もない」、

「恐らく人民の本当の幸福の姿」に感動したのである。


そして彼は自らの立場を忘れて思わず書いた。

「日本を開国して外国の影響をうけさせることが、

果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしい」と。

・・・このように先達は教えていますので、私は今一度、

歴史、文化、政治を見直さなければいけないと感じました。

再出発の切符を渡された想いです。

前書きが長くなりました。






【五箇条の御誓文】


    から何かを学びたく思います。
             

明治天皇の【五箇条の御誓文】明治政府の基本的な政策を示した5つの条文。

明治維新の際,京都御所内の紫宸殿(ししんでん)で、

明治天皇が新政の根本方針を神にちかう形で示(しめ)したもの。

初め越前藩福井県の由利公正(ゆりきみまさ)と土佐藩、

高知県の福岡孝弟(ふくおかたかちか)が原案をつくり,

それに木戸孝允(きどたかよし)が修正をくわえ,1868年3月14日に発表したもの。

時代背景慶応3年(1867)10月、大政奉還が行われ12月9日には王政復古が宣言された。

まさに時は明治維新、時は大きく変わろうとしていた。

翌年の3月この「五箇条の御誓文」が発表された。同じ年に明治元年となった。

明治維新とは何であったか、と考える時忘れてはならないのは、

それが「維新」であると同時に「復古」でもあったということである。

内容はは伝統の上に根ざしたものとなっている。明治時代を象徴するものであった。



【五箇条の御誓文の内容】




一.広ク会議(かいぎ)ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ。
  
  (広く議論の場を興して、すべてのことを議論して決めなさい)




二.上下心ヲ一ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フ(う)ベシ。
 
 [(身分制度をなくし)これまで身分が上だった者も下だった者も、

  心を一つにして国家運営に当たりなさい]  

  ※経綸とは国策のこと




三.官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)ニ至(いた)ル

  迄各其志(までおのおのそのこころざし)ヲ遂(と)ゲ

  人心(じんしん)ヲシテ倦(う)マザラシメンコトヲ要(よう)ス。

  (官僚や武士から庶民に至るまで、皆それぞれが自らの志を達成し、

   生きることが嫌だと思うことがないようにしなければならない)



四.旧来(きゅうらい)ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破(やぶ)リ天地ノ公道ニ基(もとづ)クベシ。

  (旧来の悪い風習をやめ、天地の公道に基づいて行いなさい) 
 
  「天地の公道」は「国際法」のことと解釈されているが、より広く、
  普遍的な価値観、或いは真理と言った意味



五.智識(ちしき)ヲ世界ニ求(もと)メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ

  振起(しんき)スベシ。 
 
 (知識を世界に求め、国家の基盤を大いに奮い立たせなさい)

  我国未曽有(わがくにみぞう)ノ変革ヲ為(な)サントシ,

 朕躬(ちんみ)ヲ以(もっ)テ衆ニ先ンジ,

  天地神明(しんめい)ニ誓ヒ(ちかい),

 大(おおい)ニ斯国是(このこくぜ)ヲ定メ

  万民保全(ばんみんほぜん)ノ道ヲ立(たて)ントス。

 衆亦此旨趣(しゅうまたこのししゅ)ニ基(もとづ)キ協力努力セヨ。
 






※ 参考 五つの立て札(五榜の掲示) 3月15日、
 

進歩的な五箇条の御誓文が出された翌日、


     国民には、五榜の掲示を公布して、


旧幕府の民衆統制政策を受け継ぐ基本方針を表明しました。



(1)「人たるもの、五倫の道を正しくすへき事」。
 
  五倫(五は5、倫は人の道)とは5つの人の道で、

  君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の儒教的道徳のこと。




(2)「宜しからざる事に大勢申合せ候を徒党」・
  
  「徒党して強て願ひ事企るを強訴」・「申合せ居町居村を立退き候を逃散」・

  「右類の儀これあらば、申出すべし。 御褒美下さるべき事」。
  
  江戸時代と同じように、民衆運動を禁じています。




(3)「切支丹邪宗門の儀は、堅く御制禁たり」
  
  「若し不審なる者これ有るは…申出すべし。御褒美下さるべき事」。
  
   キリスト教を禁止しています。


(4)「外国人に対して暴行を為すを禁す」。




(5)「逋逃を禁す」。
  
逋(税金や借金を払わず、にげる)逃(にげる)とは、
  
罪をおかして逃亡することをいいます。













読者の皆さんは気が付くでしょう。

「五箇条の御誓文」が聖徳太子の十七条憲法と

その精神において極めて共通点が多いことに。


物事について広く意見を聞き、

上下の別なく心をひとつにしてこの国を盛り立て、

全国民が価値ある人生だと思える一生をすごすことが

出来るような国造りをせよと言っている。

広く世界に目を向けよとも言っている。


この五箇条の御誓文を基本として明治の国造りが始まったのだ。

なかでも最大の仕事は明治憲法の制定だった。



 憲法制定に向けた国民のエネルギーは、

頼もしく力強く、国民各層から実に65種類もの起草提案があった。

日本国民は文字通り上下心を一つにして、

国のあり方を真剣に考え、熱く論じたのだ。

明治憲法は天皇の絶対的権力を認めた“帝国主義的”かつ“軍国主義的”な

憲法だと私達は学校で教えられて育って来ました。

だが、きちんと中身を読むと決してそうではないことが理解出来る。
(下記の※1~※4を参照)
(ここでは明治憲法を取り上げません。しかし機会がありましたら、
先達の志を取り上げてみたいと考えています。)


※1 例えば「告文」である。現憲法の「前文」に当たるこの「告文」では、
「朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循(シタガ)ヒ
之を行フコトヲ愆(アヤマ)ラサルヘシ」とし、
天皇もその子孫も、将来、憲法の定める条項に従って
統治することを誤ってはならないと規定している。

※2 また第四条は「天皇ハ帝国議会ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ
此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定めた。
天皇はすべての統治権を司ると規定する一方で、
あくまでも統治の仕方は、
憲法の定めるところに従って執り行わなければならないとした。

※3 議会についても、第五条で「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と、
議会の賛同と支持がなければ天皇といえども立法権を行使できない、
天皇単独で立法などはできないと定めている。

※4 さらに第八条では、帝国議会が閉会している時は天皇が勅令を出すとしているが、
同条二項は、次の会期で議会が承諾しなければ、
その勅令は将来にわたって効力を失うと定めた。
天皇の勅令であっても、議会の承認なしには取り消されてしまうことを、
しっかりと明文化しているのだ。




こう見てくると、先達が残していった「五箇条の御誓文」「明治憲法」、ともに民主的であり、

日本の歴史と文明に根ざした憲法だと解る。

また、日本に押し寄せる列強にどう対処していくか、

欧米諸国の力に翻弄されそうな急激な変化のなかで、

いかに日本を守っていくかを必死に考えながら気迫のこもった、

また極めてバランスのとれた憲法だったことが解る。



休みましょう。古賀メロディから「緑の地平線」をどうぞ。

緑の地平線 美空ひばりさん




 現行憲法は日本を日本となしてきたあらかたの価値観の否定の上に成り立っており、

日本人の社会や日本国の基盤としては異形異質のものである。

敗戦の結果として与えられた憲法は木についだ竹のように、

幾世紀がすぎても美しい花をつけ果実を実らせる樹木には成り得ない。



それは、日本人が日本人であることを止め、

日本国が国家であることを止めるという結果をもたらすのみである。

未来に希望を託すことができるとき、人は安堵を得る。

子供のなかに未来を切り拓く力を見出すことができるとき、親は安心を得る。

人は皆、愛する者の未来の確かさを願い、ふるさとや祖国の基盤の堅固なることを願う。



 だからこそ、私たちはいま、真剣に現行憲法をその根本の理念から考え直さなければならない。

憲法改正は条文毎の見直しでは不十分で、

国の形としての憲法をどのような精神と価値観で作りあげていくかをこそ、考えなければならない。


・・・私は近い将来、日本の歴史、文化、伝統を反映した日本人の魂や

気迫のこもった新しい憲法の制定に大いに期待する者であります。


木漏れ日の水面にゆるる神やしろ







最期に一曲聞いてください。三橋美智也さんで「古城」です。
三橋美智也 - 古城



参考資料    

櫻井よしこ 「気高く、強く、美しくあれ」 小学館 2006年







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鹿島神宮(3)

2010年01月31日 21時45分33秒 | 日記
本日は鹿島神宮(その3)です。




要石(かなめいし)、さざれ石、鹿園、境内の樹叢について書きます。

大鯰の碑

     奥宮から要石に至る途中、路が五つに分かれた処に碑があります。

     「大鯰の碑」と呼ばれている碑が在ります。この碑には記されて

     いませんが写真中央の人物が鹿島神宮の大神=武甕槌大神

     (たけみかずちのみこと)と考えられます。
        





要石・・・奥宮から南におよそ300m行くと在ります。鹿島神宮の大神が降臨した御座と

     も、地震を起こす大鯰の頭をおさえている鎮石ともいわれる。

     徳川光圀の『水戸黄門仁徳録』には、家来に掘らせてみたがあまりに巨大で

     「七日七夜掘っても掘りきれず」との記述がある。

     『万葉集』に記述があり、「ゆるげども、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあら

     ん限りは」と詠まれています。

     「鹿島の神さえいれば、要石は緩むことはあっても抜けてしまって、大鯰が暴れ

     る(大地震が起こる)ことはないだろう」という意味です。

     過去において「神無月」(旧暦十月)に起きた大地震の幾つかは、

     鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと言い伝えられています。









中を覗いて見ましょう。幣(ぬさ)の下に丸く見える石があるでしょう。









この中央にある中心が少し凹んだ石が要石です。




この要石の近くに

      芭蕉の句碑「枯枝に鴉(あ)(=カラス)のとまれけり穐(秋)の暮」

      が在ります。




芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)
松尾 芭蕉,萩原 恭男
岩波書店

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さざれ石



『君が代』は受け止め方により「あなたの世、国民ひとりひとりの世」とも取れます。

ここで「君が代」を聴いて下さい。

日本国国歌 君が代 Japanese National Anthem Kimigayo (HD)


君が代
渡辺暁雄,日本フィルハーモニー交響楽団,コロムビア吹奏楽団,鵜飼敏夫
コロムビアミュージックエンタテインメント

このアイテムの詳細を見る



鹿園・・・昔、鹿島神宮周辺の森には多くの鹿が棲息していた。その歴史を伝える

     ニホンジカが飼育されています。

     神の使いとしての日本鹿が飼われている。

     鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大神の命令を
     
     武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使

     いとされている。

     藤原氏による春日大社の創建に際して、767年に、白い神鹿の背に

     分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行ったと案内

     板に記されている。









鹿の枝角を英語でアントラー (antler) と言い、鹿島アントラーズの

チーム名の由来になっています。



















境内の樹叢・・・20万坪におよぶ神宮の森は植物の宝庫。

          800種を越える草木が繁茂し、

          照葉樹林(主に常緑広葉樹林)の北限としても貴重です。

































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鹿島神宮(2)

2010年01月02日 12時15分27秒 | 日記
本日は鹿島神宮(その2)です。




久しぶりに元朝参りをして来ました。

まず、鹿島鳥居(神明鳥居の一)の中に入りました。

時間は大晦日の23時40分頃、中天に望月が懸かっていました。しばらく、

この周りの露店を見物していました。やがて、新年を迎える時になりました。

年迎ふ 月天心の 鳥居かな    年迎ふ=としむかう


楼門・・・寛永11年(1634)、水戸藩主徳川頼房公が奉納したこの門は「日本三大楼
     門」の一つ。


大勢の初詣の人達が楼門の方に歩いて進む頃、

私は裏に廻って、稲荷様の前に出て夜の楼門を撮りました。

お正月なので露店が出ていました。




本殿・・・この本殿はその昔、伊勢の神宮のように20年ごとに造営が行われていたが、現
     在の本殿は元和5年(1619)二代将軍徳川秀忠公により奉納された。
     朱塗りに極彩色の鮮やかな意匠である。



流石に寒いと実感。

元旦の夜は更けて・・・本殿の南から。









本殿を右に見て、奥宮(おくのみや)に向かう。









元旦の夜の奥宮

ここで御神籤を引きました・・・吉と出ました。





奥宮・・・慶長10年(1605)、将軍徳川家康公が本殿として奉納されたものを元和の
     造営の際に引き移したもの。総白木作りの意匠である。

普段の奥宮

御手洗池(みたらしのいけ)の方から登って来ると、

曲がりくねった急な坂道を登り終えた処に奥宮が佇んでいます。

途中の山肌は歯朶でいっぱいです。


奥宮の 歯朶の山肌 つづら折り









夜の奥宮から引き返し、本殿を左に見て楼門を出た所です。

露店が楼門南側の石畳の両側をびっしり鳥居の向こう側まで・・・



久しぶりの元朝参りでした。家に帰ってぐっすり休みました。







元日の夕方、また出かけました。元朝の所と同じ場所(本殿の南)から。









元日の奥宮の夕方







御手洗池・・・古くからの禊の場、一日400kl以上の清水が湧き出しています。
        周辺は神宮の園地になっています。


御手洗池(みたらしのいけ)にて。

御手洗池は初めて鹿島神宮に詣でた人は奥宮からの

路を北に向かう坂道を下りた処に二軒の茶店が有り、

そこから見える池です。禊の場所です。清水が滾々と涌き出ています。

一方の茶店に、赤い毛氈を敷いた縁台を見かけました。

初手水 緋毛氈敷く 茶店かな

 (初手水=はつちょうず) (非毛氈=ひもうせん)


ここで詩吟を聴いて見ましょう。今は聴く機会が少なくなってしまいましたが、
こう言う伝統的なものは後世にはっきりと残して欲しいと思います。
寒梅/桂林荘雑詠 木村岳尚さんです。







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鹿島神宮(1)

2009年11月26日 13時32分09秒 | 日記
本日は鹿島神宮(その1)です。



鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にあり常陸の国の一之宮です。

常陸国一宮で、旧神社の格式は官幣大社 {古くは神祇官(大宝令に制定された官庁)から幣

帛(へいはく=神前の供物)を捧げた神社であったが、明治以後は宮内省から幣帛を供進

(=捧げる)した神社}です。

日本全国にある鹿島神社の総本社です。

神栖市にある息栖神社、千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれています。


概要

武甕槌神(たけみかずちのみこと)を祭神とする。武甕槌神神が、香取神宮に祀られている

経津主神(ふつぬしのみこと)と共に武芸の神とされています。

武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた掛軸が対になって掲げられている

ことが多い。時代劇を見るとよく出てきます。


また、鹿島神宮の祭神は、かつて地震は「地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすもの」と

考えられていて、その大鯰を押さえつける「要石」を、鎮護する地震の守り神としても現在

伝わっている。

平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、記録によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神

宮の3社だけでした。


国宝の刀があります。

直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ)で

「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」と呼ばれる。

柄(つか)・鞘(さや)を含めた全長2.71m、刃長2.24mの直刀。

奈良時代末期から平安時代初期の制作と伝えられています。


祭神は武甕槌命(たけみかずちのみこと)で、武勇の神と尊崇されています。

とても静かで境内の中はひっそりとした佇まいです。


鳥居前です。




休憩しましょう。「六段の調べ」をどうぞ
筝曲 六段の調  増渕任一朗  (rokudan)  1998年




少し歩くと楼門前に来ます。

祝い邦楽~琴~
山登松和,富山清隆,沢井忠夫,米川敏子,野坂恵子,絹の会,川上弓子,萩岡松韻,椎木清女,米川裕枝
コロムビアミュージックエンタテインメント

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ベスト・オブ・日本の詩情/和楽器の調べ

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本殿の前は厳かな気分になります。

この日は晴れて、朝の露に紅葉もしっとり。

ちょうど、この場所から二月頃の夕さりに、南西の方角を見上げると

杉の梢にお月様が懸かり、ちょうどお舟を浮かべたように輝いていたので

楼門や 杉の梢(こずえ) の月の舟






本殿を正面から

本殿の後ろ中央にある杉の木が御神木です。

御神木が朝日に照らされていました。








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