聖書を信じるあなたへ
もし本当に聖書で言うところの信じる人に惠を施す全智全能の神が
おられたら、金銭を人から求める行為はしない。と言う事を覚えて下さい。
金銭は人が生きる為に自分の命のように生きている間、必要な物であるから。
全能者は金銭を求める必要はない。
全財産を要求するなどと言う、とてつもないものの要求に応じない事。
もし、信仰上の理由により金銭を捧げた場合、自分が金銭的に困っても、今の日本
の法律では取り戻すことが、極めて難しい、と言うより出来ないと考えたほうが良い、
と言う事を深く認識して頂きたいのです。
私は自分の体験から、本文で示す出来事のように無責任な
対応をとられた経験があります。
だから、その危険性から少しでも身を守る事が出来るように働きかけることは、
私の責任だと感じています。失った時、時間は戻りません。
私の蹉跌から何かを悟って下されば本望です。
本文の前に「自殺について」の所見
もし、あなたに自殺を考えるほどの事があったら次の事をよく考えて下さい。
人はひとりでは生きては行けず、誰でも、誰かの恩恵を蒙って、今という時を生き
ていると言う事。それらの人々は決してあなたが死ぬ事を望んではいないと言う事。
大人になれば解りますが、自分をとりまく社会は非常に大勢の人の恩恵の下に
あります。自分の命は自分ひとりだけのものではありません。
ひとりで生きている人などありえません。
自殺は自分が苦しむだけでなくそれらの人々も苦しめる行為で、その恩恵をも無に
してしまう行為なのです。
少し休憩しましょう。
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私は48歳位まで聖書を座右の銘にしていました。
しかし、本当は詳しく読んで見ると信者だと自分で思い込んでいた事に
気が付いたのでした。
2,009年10月29日(木)は生涯で忘れられない出来事があった日なので、この日記を
後世に残すために、(自分自身のためにも)、書き残す事にしました。
聖書で言っている神とは全智全能の唯一ただひとりと書いてあります。
(イエス・キリストと父なる神と聖霊はひとつ=三位一体)
その神を信じていた昔・・・今、思えば自分はめくらだった。
なにから話したらいいのか?
解らなくなりそうです。が、その神とは実際は無い、いないと言うこと、おられるとした
ら別の神様、あるいは仏様だと言うことです。
こう言うと信じられないのが、聖書を真っ直ぐに理解した人なのだと思います。
表面上、聖書の概要は正しく見えるのです。
しかし、伝道をする度に、福音(神からの良い知らせ)を伝えているのに、なぜ
不都合な事が起こるのか?疑問でした。
本日は、1997年度にその神を信じて、ある伝道者二人に持っていた全現金
を預けましたが、そのお金は戻ってこないものとあきらめた日です。
警察官にも弁護士の方々にも話ましたが、現在の法律では
取り戻すのは難しいとの見解で一致しました。
キリスト教の場合はいわゆる教会(エクレシア(=霊的なキリストの体)では無く教会堂
の意)での献金のほかに弟子になろうとする人は、
全財産を捧げなければなりません。
しかも、この時のお金の捧げ方は、神のみぞ知る方法(=右の手のしている事
を左の手に知られてはいけないと言う事)で無いと報いは無い
と書かれています。
第三者に知られない方法によって・・・全財産を捧げる・・・とでも言えるでしょうか?
これらの事はキリスト教を知らない人にとっては何かおかしいと
解ることでしょう。
(もっとも、私の場合は弟子になると言う事よりも、金銭的に兄弟姉妹と言われる人
を少しでも助けて上げたいという目的で預けた金銭でした。本当ならこういう場合に
は預けた金銭は勿論戻ってくる事が新約を読むと書いてあります。)
聖書は悪を行う人にも都合の良いように書かれている事が解りました。
(信仰に走っていた時、)これが解らなかったのが私でした。
めくらになっていたのです。
普通の人は20代や遅くても30代には結婚します。懸命になって
生活のために金銭を蓄えます。
その極極当たり前の事が自分には出来なかった。
自分は40歳になって再洗礼を受けました。この時、「一生をこの神に託してみよう」
と心に希望と平安を求めていました。
新約は数え切れないほど読みました。その頃は解りませんでしたが、聖書を読むこ
とを離れてから次のことが解りました。
① イエスは譬え話で教えを説いた・・・常識が通用しない事
② 聖書は時代や場所によって、聖句の意味が異なる事
①は聖書を読んだことのある人は知っています。が、「たとえ話」だからといって
笑い話にすることはできません。実際、それぞれの「たとえ話」について、どれほどの
信憑性があると言えるのでしょうか?
この点で一般常識が通用しなくなると考えられます。
「常識外の事である。」と言う判断は必ずしも間違っていません。
「たとえ話」とは「夢」、「まぼろし」と同じように受け止め方は人によって異なります。
イエスの話は「たとえ話」なので、ものの標準、基準をどこにすると言う常識が通用し
ないことが問題です。
国の一般常識を適用すると彼の教える精神とは非常に高く見えます。
新約の聖句を読むと恐れを持って異性を見なくてはならない程です。
しかし、これも「たとえ話」ですが、その基準が高い事は解ります。
重要なのはマタイ伝13章44節です。「天の国は次のようにたとえられる。
畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち
物をすっかり売り払って、その畑を買う。」 ・・・新共同訳聖書より抜粋
私が聖書から学んだ精神とは「畑に宝が隠されているのを見つけたならば、
その持ち主に教えて上げる精神(心)」です。
ところが、これは「天国はぬすみをして手に入れるもの」と解釈しても異論はない
はずです。「ぬすみ」を認めていると考えられるのです。
なぜなら、これは「ぬすみ」と言う行為なのはわかるはずです。
聖書にはこう書かれているのを知りながら、彼らは沈黙を守ってこの箇所を
教えなかったのでした。
あの分厚い聖書から、この一句を見出すのは確かに難しいですが、それよりも
信仰に走っているとこの句もめくらになってしまい善悪の区別が出来なくなって
しまう事の方が恐ろしいです。
だから、聖書をあるがままに学ぶといつかその人に予期できない事が起こる事は否
定できません。私は自分がクリスチャンだと思い込んでいましたが、
この一文を今でも受けいれられません。
だからクリスチャン(キリスト信者)ではなかったのでした。
もちろん、指導者達は「どろぼうを認めていない」と言うでしょう。
でも、聖書には明らかにこう書かれているのです。
(しかし、これも、たとえ話と言う人がいましたが、そうなるとイエスは
何を言いたかったのか? が曖昧になってしまいます。)
休憩しましょう。
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②についてはマルティン・ルターの宗教改革がなぜ起こったか? を是非、文献で
読んで頂きたい。
これ以前の人は天動説を信じていた事。それは当時、そのように書かれていた聖句
があったはずだからです。
また、修道院では男女間の「性」の問題がクローズアップされていた事。
など、聖書を信じるあなたに必要な事や知識がきっと書いてあります。
私は宗教改革があった事は歴史で知っていましたが、信仰に走っていた時は、
疑いの目を向ける事無く、只、聖書を信じていたのでした。(全くめくらでした。)
千葉市、鎌ヶ谷市、水戸市などの伝道は比較的し易かったです。
しかし、鎌倉市、成田市、などの正月伝道は苦難の連続でした。
それは絶えず心が嫌がっていた為です。自分を否定して神に服従する事が
信仰だと教えられていたのです。
彼らは小学校に上がる前から48歳位までおよそ40年間もの間よくも
騙し続けられたと思います。
日本人は聖書など読みはしないので、その国民の99%は永遠の地獄に行くと
本当に信じていました。地獄の苦しみを2秒間位は経験したことがありました。
だから、どうしても、この地獄から救うためには福音を信じて貰うことしか心になかっ
た。今は、そのような永遠の地獄などと言う恐ろしい事は・・・真摯に考えて・・・
嘘だと言えます。嘘なのです。
会社を辞めなくてはならなくなった事由も、この時も、自己破産に至った経緯も、精
神的に疲れ果てた時も、「お金は使って無い」との返事を最期に、彼らはこの金銭
問題を相談しに来てくれる事はありませんでした。
愛を説く宗教と言われていますが、この二人の伝道者は、お金を受けた後、
私が金銭的に困った時には相談はおろか、電話もくれないと言う対応でした。
彼らが私に対して行った行為は金銭、それも全財産を取り上げてしまったばかりか、
勤めていた会社を辞めなくてはならなかった程、
強い宗教心を幼い頃から植えつけられたものでした。
信仰を捨ててまで、お金の方を選んだ理由は最初解りませんでした。
何としても彼らはこの金銭問題を解決しようと言う姿勢は見受けられなかった。
そもそも、全智全能の神が人から金銭を求めることなど有り得なかったのです。
必要なら無から有を生じさせるだけの事。
全能者とそのしもべが金銭を求めると言う不可思議な結論で幕が下りたのでした。
お金が必要ならば人を騙すのではなく正当な働きをして得るべきですし、働き口を探
すべきだと思います。
しかし、彼らは世に出て働いている人を罪人としているのです。
私はこの伝道師のひとりを心から尊敬し神のしもべとして応対して来ました。「福音
のために命を賭けている」と言っていた言動が夢、まぼろしのようにちらつきます。
月日が経っても、腑に落ちない厭な思い出を隠し切れません。
様々、考えさせられます。愛、宗教、お金、罪人、天国、地獄・・・。
偽善者とは?
パリサイ人やサドカイ人ばかりで無いと言う事。・・・覚えて下さい。
そうは言っても、現在において、私は宗教の必要性は理解できます。
人が行うべき道徳やモラルは宗教を通して学ぶ点が多いのは事実だと
思うからです。しかし、
私は人を騙してお金を取る人を、商売をしている人とは認める事が出来ません。
(宗教を金もうけの手段としている事、税金対策にしている事やある国の国家戦略
にしている事など)
騙されない知識を身に付けて、この人の世を如何に生きるか? を。念頭に
どうぞ、生きて下さい。
今から思えばあの時、現金を渡した時々、領収書を要求すべきだったと
考えさせられます。
先の理由により証拠らしい物(領収書など)を残さないで金銭を預けてしまった事が
後に大きく事を左右する結果になってしまいました。
ですので、今の時代、何事でも証拠を残すように、気を配って下さい。それと、
「それ事は独り断(さだ)むべからず必ず衆とともに論(あげつら)うべし」との
言葉(聖徳太子)を大事にして頂きたいです。
肝要な事は決して聖書を侮ってはいけないと言う事です。ここで上げた事はこの何
千何百句の中の異論の一例にすぎません。
歴史の上で西洋の国々は全部と言って程なにかしらこの教えに関わりが有り
ました。
西洋の近代文明は背景にこの教えがあった事を忘れてはならないと思います。
私は本日、生きている事が、感謝なのです。何かありがたいものを心に感じて
泣いているのでは無いのですが、涙もろくなる時があります。心は何かさっぱりした
ものを感じます。最期にパッへルベルのカノンを聴いて下さい。
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