asa かば O君 曽山 諸氏へ
これがわが輩の娘の実態ですよ。吉原に行かれた時にはぜひ!
娘からの介護付きプレゼントで5年ぶりの上高地と3年ぶりの立山
みくりが温泉は、行った当日から改修工事で温泉には行かれなかった。
まずは穂高岳
雄立山
これでいいのでしょうか??つとむ君。
いいですね。娘さんからのプレゼント。わたしの感想はやめておきます。
皆様ご存知ですか?このブログをお気に入りに入れて置くのは必須でしょうが、yahooでも
Googleでも「筒井台中学校 ブログ」で検索でトップに出てきます。(*^^)vヤッタネ
このように皆様も写真や記事になりそうなものくださいね。
これがわが輩の娘の実態ですよ。吉原に行かれた時にはぜひ!
娘からの介護付きプレゼントで5年ぶりの上高地と3年ぶりの立山
みくりが温泉は、行った当日から改修工事で温泉には行かれなかった。
まずは穂高岳
雄立山
これでいいのでしょうか??つとむ君。
いいですね。娘さんからのプレゼント。わたしの感想はやめておきます。
皆様ご存知ですか?このブログをお気に入りに入れて置くのは必須でしょうが、yahooでも
Googleでも「筒井台中学校 ブログ」で検索でトップに出てきます。(*^^)vヤッタネ
このように皆様も写真や記事になりそうなものくださいね。
ぜったい実現するからね。あわただしくなく、ゆっくりとね。
パソコンの進化に、ついていけないでぇす。
こちらの予定はまだ未定。
お忙しい「わたしさん」のスケジュール次第なのよ。お昼のお茶になるかも、、、
もし、決まったら連絡するね。
好いねぇ、両手に花!!
花の名は…、 姥桜~~
僕の懐は、タヌキの千畳敷。木の葉が一杯詰まっています。
やっさんの会と合流しましょう!!!
やっさんの会やら、女子会やら、ご心配をおかけいたします。
女子会は、いまのところ二人だけなのでasa
君にご参加いただくと、両手に花のデートになりますが、懐は大丈夫でしょうか?
分割でお願いします。
一回、三万ウォンぐらいで!!!
パパァ~~ン
僕は、自分の額や人の心に傷をつけることはあっても、公共物には、きずをつけないしゅぎだよぉ~~ん
女子会は、どうなった!!
ん~asaに、おとうさんと呼ばれるのかぁ。
山○雄○君、連絡先を事務局までお願いします。
山○信也の方は連絡ついています。
越やん、他にも連絡付いたらお願いします。
『鉄仮面というのは私の前にいた音楽の先生のアダナです!』と、有吉先生が言われたというのは、納得します。
僕も、同級生の何人もから、「先輩から聞いた話だが、有吉先生は鉄仮面と呼ばれている」ともったいぶって言われたのを覚えている。それで、納得できないのだが、伝統にのっとって、彼女をそのように呼んだのだろう。それでも、納得がいかずに、自分なりに、解釈して、納得した。
僕らがあだ名をつけたら、もっと素敵なモノになったでしょうね。
それにしても、前任者の鉄仮面度を見てみたいですね。
この写真の女性は、君を看病に来ていた、「お父さんは、いつまでたっても、口が悪いので困っています」と、言っていた、あのスレンダーで美人の長女ですか。
そうだったら、
ツトム、いや、お父さん、お付き合いをさせてください!! 根性は悪いけど、口は悪くないのでよろしくね!!!
「やっさん」が見つかって、「やっさん」を囲む会のメンバーは、集まりましたか!?
ご心配ありがとうございます。
さあ、どうなんでしょう。
あれ、私かな?別人かな?
このところ、ちょっと時間がなくて、慌しく過ごしていたので、コメントできずに、ごめんなさい。
リサイタルのあとの食事会、あそこに来て下さっていた人たち、全員とおしゃべりしたかったです。
秋の同期会のときには、できるかぎり、色々な人に声をかけて、お話したいと思っていますが、さて、さて、どうなるでしょう・・・
でも、一番に藤本さんの元に駆けつけなくちゃ、また、「なんで、来ないのよ~」って、言われちゃいそう・・・
待っててね~~~
確かに見た目そのものズバリ!なんですが・・当時からアダナ付けの名人のおぃらが本人と言い合った時、『鉄仮面というのは私の前にいた音楽の先生のアダナです!』と、聞いたような記憶が・・・
信じるか信じないは、皆さんしだいです。
覚えておられる方コメントよろしく!!
K山くん そう気にしないで、自由なのがここのブログだと思っていただけますか??沈黙なんてしないでくださいよぉ。広がりがあったのですね。情報ありがとうございます。みんなが集まれるように、頑張っていますのでもう少しお待ちくださいね。
相模原の関西人O君 「のぞきたくなる・・がポイント」この言葉いいですね。このブログがそうなっていくことように、ご協力くださいね。春日部のパパは、わたしのパパです。わたしの転勤で春日部で2世帯住宅を建てたのですが、わたしだけ関西に・・。だから時々関東に帰ります。はい、可愛い娘ですよ。(*^_^*)カナ? 主人の両親はもう亡くなりました。
みんなで歌いましょう。Oさん音頭よろしくお願いいたします。
娘さんと仲良しお父さんなのですね。
asaさん 傷は癒えましたか?もう検査されたのでしょうか??無理はあきませんよ。
藤本さん (^○^)アハハ。ブログのためにだけに写真をしているのではないのですよ。もっとエロティックにとれないか・・・それもお勉強です。少しカメラの設定変えるだけで、かわるのが、今面白くって・・。そうなんだよね、カメラむけている時のわが姿~~絶対スカートはけない!です。藤本さんの目の付け所、座布団10枚!!
椛山君 息絶え絶えにならないように、みんなで笑って遊びましょう。
健気な子や。大事にしぃ~や。
うちの息子、上は25になるけど、このままだと結婚するまで、後10年かかる。下の息子はまだ学生だけど、この調子だとやはり10年以上かかる。
その頃、私は息も絶え絶えではないだろうか。
話の流れがわからないので、男性陣の説明を待っていましたが、だれも教えてくれないので、待ちきれません。
でも、これで、アクセス増えるだろうなと思っていたら、案の定↑していました。みんな見ているな。。。。
「葺合高校24」のブログもみているのですが、「わたしさん」のサービスショットにもびっくりしました。
なにが面白いって、この脚に、あの大きなカメラを向けて、ピントを合わして、シャッターを切ったのかと思うと、その状況を思いえがくと、苦笑を禁じえません。いや、ブログのためにカメラマンとして、頑張ったのですよね。
Jさん、お元気ですか?書き込みがないので、心配しております。ひょっとして、「葺合24」のJunkoさんと同一人物ですか?
それならば、心配いらないと思いまして?
Re;asa
今回は人物像もはっきりしたので、とっても長いけど、面白かったです。その記憶力に脱帽です。
ところで、音楽室の机の上に{鉄仮面」という彫刻刀で彫った彫り物を見た記憶があるのですが、ひょっとして、あなたの仕業だったのですか?
想いださるる(Ⅴ)その2
今回、ツトムとアキラと三人で先生を囲むと、
「委員長の田君は、どうしているの。クラスを代えてください、と泣きついてきたわよ。あなたたち、田君をいじめたでしょう。私は田君を慰めたわよ。でも、こんなクラスでは勉強ができないから、出て行きたい、と言ってきかないのよ。あなたたちどんな意地悪をしたの」
「学級崩壊していたからなぁ」アキラは真面目に答えた。
「俺は、二年生の時も三年も、田が生徒会長に立候補するので、応援弁士をしたぞ」つとむは言い訳をした。これでは、僕一人が悪者になる。
「俺も二年生の時に櫻まで用意して応援弁士をしたぞ。三学期には授業中に大声で喧嘩したな。でも、アイツから君たちのような生き方が羨ましい、と言って、友だちになって欲しい、といってきたぞ」
僕はあの頃を思い出していたが、文章にするかどうかは迷っていた…。
平成二十三年五月十五日に話しを戻そう。
木下先生が「福井大学卒業だ」と言っていたのを思い出しながら、福井訛りと思われる言葉の端々に、昔の棘はなく、心優しいバーサン、いや、おば様になられて、昔は相当無理をして強気でいたんだなと、懲りない僕は「あの頃、チョット手加減をしておけばよかったな」と反省しきり。
戦前生まれのお二人は、僕たちより一回り程うえで、当時は、三十歳前後で、いま考えるとまだまだ若い。それなのに、僕たちは「いかず後家」と、よく言ったもんだ。でも、中学生から見たら立派なオバサンだ。そうでしょ!?
僕たちが小学校二、三年のころからテレビで、「戦後、靴下と女性が強くなった」と言われ始めた時、彼女たちは、社会人になっていたのだ。戦前の家父長制度が、借り物の民主主義によって壊されていく過程で、自立した女性像をそれぞれが胸に描いて、持ち前の負けん気で、職業婦人(ちと、古い表現だな)として女性の社会進出の先兵として、歯ぎしりをしながら頑張られたに違いない。そこで、中学生のガキである懲りない僕らとバトルを繰り返したのだ。歯ぎしりした奥歯は大丈夫かな? でも、今となっては懐かしい。
まだ懐かしい先生がいた。三年生の時のユミコさんの担任である北村先生である。八十歳になられる。
「まあーよく生きてましたね。僕を覚えていますか?」と、憎まれ口をつくと、
「覚えている。英語の授業には食いつかなかったけど、世間話にはよく食いついてきたな、君は」と、返された。
三年生になって突然転勤してきて馴染みのないうえに、担任でもないのに、覚えていた。
「我利勉の僕になんてことをいうのですか。いまも、授業内容を覚えていますよ。
to be to be tombi ten made agare
この意味を言え、といったのをおぼえていますか? 僕はすぐ答えたでしょ!」
「とべとべとんび、てんまであがれ、やな。あれ、英語できへん奴はローマ字読みするからすぐできるねん。ところで、一番長い単語、知ってるか?」
ジィー様は、僕が英語ができないことまで思いだした。
「SMILESや。恩恵や。SとSの間が数マイルもある長い単語や。こんな感じの授業やったかな」
「そうでしたね。でも、二人で掛け合い漫才みたいなことしましたね。」
「した、した。君は前の席で、面白いほど食いついてくるし」
「二人でペチャクチャやっていると、ブーイングがでて、授業が始まるというパターンでしたね」
「面白かったな」
「ところで、腹話術師のように唇を薄く開けて喋るのが、薄情そうで皮肉っぽくて生意気でしたね」と、僕がぶしつけにいうと、
「そう言う態度こそ生意気や。君は変わらんねー」
「先生こそいつまでも若い。八十には見えませんよ。紺ブレにグレーのシャツの組み合わせはお洒落ですよ。ブレザーがいいなぁ」
「分かる? ピエールカルダンや。肩がしっかりして着心地が良い。君も僕の真似をして買って着なさい。お願いされても、やらんからね」と、ピエールカルダンの小物をいくつも見せた。僕の理想とする老けかただ。言葉に説教じみたところがなく、自分自身を笑えるし、ユーモアーも陳腐ではない。素晴らしい。さすがユミコさんの敬愛する恩師だ。
お茶を誘うと、
「ここまで来たから、僕は、海が見たいので失礼するよ」と、スタスタスタと自動ドアーに向かった。
「早まったことをしないで! まだ海の水は冷たいですよ」と僕が言うと、
「まだ死なん! こんなに元気や!」と、ダンサーのようにつま先を挙げて見せた。非常に元気だ。
「また会いましょう」と、みんなで声をかけて、元気な背中を見送った。
憎まれ口をつきながらも、懐かしい人とは、逢うものだとつくづく思った。
今回、北村先生に会うと、
「ロング顎の東伸吉君に、逢いたい。彼は、英語の弁論大会に出るために、教えを請いにきた。英語に熱心なヤツで、教え甲斐があって、懐かしいよ。ぜひ逢わせて欲しいな」
皆さん、逢わせてあげたいですね。
まだまだ逢いたい人が一杯いますね。みんなで頑張って探しましょう。
葉書が届いているのに、黙りのあなた、みんなが返事を待っていますよ。
五月二十六日(日)の有吉先生のリサイタルと同期会準備会が大盛況であったことを、皆さんに感謝します。ここまでたどり着けたのは、2年前、葺高の筒井台中組で、恩師のコンサートに参加したことが大きな要因だと考えます。
少しの間、2年前と中学という過去に戻りたいと思います。
平成二十三年、二月十日、友だちの経営していた「天」で、ユミコさんとアキラ君と飲みながら、中学時代(2の2)の愉快な仲間達と繰り広げた空騒ぎを思い出していた。その席で、音楽の有吉先生の話題に触れたときだった。
「有吉先生のリサイタルがあるから皆で行きましょう。ジュンコさんのお誘いがあったの」「ぜひ、行こう」
酔った勢いで、ためらえず、返事をしてしまった。が、瞬間、ロクでもない話を思い出し、「しまった!」と思ったが、武士に二言はない。
僕には音楽の授業は楽しくなくて、無駄な時間と思っていた。
小学校の頃、音楽の授業で鼓笛隊のために縦笛の練習があった。僕はおちょけて、皆に交じって分らないように夜泣きそばのチャルメラのメロディーを吹いていた。
「おかしい。違うメロディーが聞こえる。だれなの、いたずらをするのは」
それが見つかって、笛を取り上げられた。運動会の鼓笛隊には、僕と笛の買えない二人が参加させてもらえなくて、三人は取り残されたままだった。ガラガラの観覧席でボーッとしていたら、村上君が指揮する六年生全体の鼓笛隊より目立ってしまった。
こんな僕だから中学でも音楽の時間は、消化試合のようなモノだった。だから、もめ事が起きるのか。その相手である音楽の先生は、後年、女優の松雪泰子に似ているなと思ったから、美人には違いなかったが、無表情で全体の比率が悪かった。
彼女は御洒落だった。あの時代は、ミニが流行り始め、シンプルな装いに変わろうとしていた。しかし、彼女が着ているスーツの生地は、フランネルだったり、大劇場の緞帳を隠す幕のようなしっかりしたビロードの、紫やベージュの色であったりして、大袈裟な衣装のようでもあった。中世から迷い込んだ魔女みたいだったからと云うわけではないが、伝統あるあだ名が中世を象徴した「鉄仮面」である。想像してみてくれたまえ、胸を張った小柄な負けん気の強い女性が、西洋の鎧のデカイ兜の部分だけをかぶったような無表情で廊下を歩いている姿を、失礼だが誰でも笑うはずにちがいない(不覚にも、書いてしまった)。兎に角、彼女がしゃべれば、プライドが顔を出す。歯に衣着せない物言いは、子供の僕らには、ちと痛い。悔しいから、御呼びでないのに、僕たちはしゃしゃり出て、からかう。結局は、口げんかに男の勝利はない事を痛いほど思い知らされるのだが…。
…授業の最後に手作りのプリントが配られた。授業も終わるとあって、緊張感も薄れ騒がしくなっていた。僕は廊下側の後ろから2番目で、後ろにケイコ(ツトムは馬とあだ名をつけてからかっていた)、その横にミチコがいた。先ほどから、よくもまあーどうでもよい話しを、ピーチクパーチクと喋り続けていられるものだと感心していた。前席から送られてきたプリントを、肩越しに手渡そうとしたがケイコは話しに夢中で受け取らない。あきれ果てて、ポイと手を離すとヒラヒラと舞って床に落ちた。待ってましたとばかりにお喋りを止めて、指先で僕の肩を小突く。僕の背中はキツツキの洞穴か。
「拾え」ケイコは高飛車に出る。
「お前が拾え」
同じ言葉のドッジボールをエンドレスでしていると、
「あんたら、何イチャツイテルの。二人は、できているんか」と、鉄仮面が茶化す。
純真な中学生の僕は、憤慨した。
「こんな馬面と僕が、何で、できなあかんのですか? ハハーン、センセイ、年増のやきもちですか。みっともない」と、鼻で笑った。
「誰が馬面やの」後ろから、ケイコ。
「鏡を見てこい」
「誰が年増や」前から、鉄仮面。
僕は、前門の鉄仮面と後門の馬面と戦うことになったのであります。三つ巴のにらみ合いが続き、気まずい雰囲気で、教室中が静まりかえった。
「やーい、年増の、やきもち焼き」遠くから、ツトムの助太刀の声が聞こえた。
「誰や、今ゆうたのは」鉄仮面が声の主を探すと、あちらこちらから笑い声が漏れた。
笑い声の間から、我が友が「年増」「年増」と囃し立てた。
その時授業の終わりを告げるラッキーチャイムが鳴ったのだ。休み時間まで相手してられないと、みんな立ち上がって、「はい、終わり、終わり」と、席を離れ始めた。僕は勝ち誇ったように、憎々しげな表情をして見せた。
言い負かすことのできぬ悔しさから苦々しい面差しで、先生は教室を後にした。僕ら数人は、先生が引き返せない距離を見取って、
「やーい、いけず後家の、やきもち焼きの、年増の、鉄仮面!」と囃したてた。
キッと振り返って睨むと、フンと顎を振って顔を戻し、大きく腕を振って足を忙しく動かしながら職員室に帰って行った。今日は僕たち弱者の武器である「捨て台詞」の勝ちであるが、明日はわからない。その日から、僕たちと先生のバトルが始まった。
ここで同時進行中のケイコとのバトルは長くなるので割愛するが、この年に杉山先生とケイコの涙を身近に見てしまった。大人と子供の違いはあるが、女性の涙は大粒の真珠だった…。(ケイコとは学年末までに握手をして仲直りしたが…。逢ってみたいものだ)
三年生になると創作の授業が始まった。いわゆる、作曲の時間が始まったのだ。グループサウンズを結成して、オリジナル曲を演奏したくて、密かに独学で作曲していたので、すぐに飛びついた。持ち歌作りの前には、教科書に沿った基本をしっかり学ばなくてはいけない。課題曲の楽譜を有吉先生に見せると、嫌な顔もせず、職員室で周りに気を遣いながら、あのソプラノのハミングで旋律を追っていく。僕は、高音のぎりぎりのところの声に魅せられて作曲する。彼女は芸術家独特の「才能のみ愛す」なのか、僕の悪行もまるで無かった事のように、真摯な態度で向かい合ってくださった。
「この曲の雰囲気はシューベルトに似ているわね」と、喜ばせる。
いくつか曲を評価していただいているうちに、
「シューベルトのシューまで来ている。音大に行けばシューベルトになれるかもしれない。高校に行って素敵な音楽の先生に出会うといいわね」と、夢を与えてくださった。天敵のこの僕に、である。それから移調転調を教えてくださった。長調の曲を短調に変える技術や、陰旋法陽旋法などを曲の一部に入れると面白くなるとか、どんどんレベルが高くなる。中学を卒業するころには、自作の曲にピアノ伴奏までも付けられるようになっていた。それだけではなく、作曲を通して僕はいつの間にか彼女を尊敬していた。作曲は僕にとって中学生活での心休まるひとときであったのかもしれない。いや、作曲を除いてしまうと、生きる意味合いを失ってしまうほど、僕の中の大部分になっていった。
平成二十三年五月十五日、コンサートが終わって、有吉先生と雑談をする時間があった。
「高校で理解者に恵まれなくて、夢破れ、音大にはいけませんでした」と、語りかけると、
「そう、夢破れたの」と、いつもの無表情で言葉が返ってきた。過度に感情移入しないこの表現は僕だけに分かる暗号のようなもので、優しい表現なのだ。
昔と変わらない鼻っ柱の強い雰囲気を持った彼女に懐かしさを感じた。もし、過度に同情されたなら、「およよ、およよ」と、浄瑠璃のように泣き崩れたか? そんなことはあるまい。「同情するなら、金をくれ」と、すごんだか? もっとありえない。「棟方志功は、わたばゴッホになる、といって世界の棟方志功になったが、僕はシューベルトどころか靴紐にもなれない」と、くだらないことを言って照れるぐらいだろう。交わす言葉はすくなくても、再会を楽しんだ。昔の悪行を、懺悔をしなくてはならないだろう。
この会場には、「ガン子」とあだ名されていた、一年二年とも担任だった木下先生も来ていた。二人は親友だったのだ。「木下先生を連れてきて」と、ユミコさんにに命令されたので、謙虚にも隅っこで隠れるようにしていた木下先生を一言二言、小言は言わずに声かけて、優しくエスコートいたしました。
その昔、この女性教諭には、拳骨の雨あられ、職員室前の正坐と、体罰によって生活態度を正されたが、「かかってきなさい」とガンジーの無抵抗主義で、撥ねかえす懲りない僕たちだった。
懐かしさから、その頃の懲りない面々の名前を並べた。
「ノッポのツトム、お人好しのヤスヒコ、バッテンババ、金槌頭のアキラ…」
「覚えていない。あなただけは覚えている」とおっしゃる。
「それじゃー、僕が一番懲りないヤツじゃないですか。おー、神様!」
仕切り直すことにした。
「昔、先生は僕に、付和雷同な人と言いましたよ。難しい漢字語だから褒められたと思っていたのに、人の尻について同調する者だと解ってガッカリしました。でも、考え方を変えると、悪い奴は他に居るということですね。悪い奴は、ノッポのツトムです。あいつは悪い。僕はタダの真似しいですからね。悪いノッポのツトムを思い出しましたか」
「思い出したような気がする」
「次回まで、しっかり思い出してくださいよ。」
確かに美しい景色・・・登山は楽しいですか? 何分 まったく経験がないもので・・・
まあ~~娘自慢 ということなら・・・うちも・・・
ところが、うちは、”たかり”だけでしょうね・・・誘ってくるときは、”晩飯食わせろ・・・”くらいのことで、それでも「ハイ~行きましょう!! か!?」 と 女房が 呆れ顔・・・的 展開でしょうね・・・
はやく嫁に行け・・・・!! 金婚式までに、孫 7人 の ノルマを考えろ・・・時間がないぞ・・・! という事です・・・