毎朝起きて学校に行く。
毎日繰り返される日常。
当たり前の日常。
飽き飽きしている日常。
何度変えようと思ったことか。
小学生のときは中学に行けば変わると思い、
中学生のときは高校に行けば変わると思い、
高校生のときは大学に行けば変わると思い、
大学生の今は社会に出れば変わると思っている。
しかしなんとなく気づいている。
所詮自分は変われない。
自分が変わらないと日常は変わらない。
日常が変わらないと自分は変わらない。
堂々巡り。
何とか一歩を踏み出して抜け出したい。
しかし腑抜けな私はその一歩が踏み出せない。
数日前の名言を思う。
「時流」ではなく「自流」で生きたい。
しかし、具体的にどうすればいいのかわからない。
一年間休学して放浪する?
死ぬ気で勉強して大学院を目指す?
思い切って好きな人に告白する?
どんな些細なことでも、人生を変えるきっかけになりうる。
年中家でごろごろしていても何かが起こるかもしれない。
しかし、受身ではダメだ。
受身の自流は児流(まだ世の中に出たがらない子供の考え)だ。
今までなーなーで来た。
いや、なーなーでしかこれなかったというほうが正しい。
肝心なときにすら本気で物事に取り組めない。
ああ、こんな情けない人間はそうそういない。
おまけに私は精神年齢が幼い。
ほかの友達に比べて5歳は幼い。
それゆえいつも自分勝手で我侭全開だ。
私を育ててくれた親に申し訳ない。
いつも迷惑ばかりかけている友達に申し訳ない。
いつまでこんなくだらない生活を続けるのだろうか。
まだ若いというが、平均寿命の4分の1は過ぎている。
焦っているわけではない。
むしろ、この年で人生悟っているほうがおかしい。
そもそもの根源はこのダークな考え方にある。
常に後ろ向きな考えしか出来ないとどんどん堕ちていく。
しかも私はいらない事に限って考えすぎるので尚更効果は大きい。
また数日前の名言を思う。
賢明な判断よりも慎重な行動が大事だ。
いくら考えがまとまったところで行動しなければ意味がない。
知って行わないのは知らないに等しい。
行動の一つ一つが明日へ結びつく。
そもそもブログにこんな泣き言を書いても意味がない。
見ている人間を不快にするだけだ。
ここでも自分勝手さが伺える。
ブログとは本来そういうものなのだろうが、他人を不快にはしたくない。
中傷などは一切書く気はないが、つまらない記事もあまり書きたくはない。
今回はここまで書いてしまったので最後まで行く。
反応を期待しているわけではない。
自分の書いたことで、誰かがいい影響を受けてくれればうれしい。
それだけだ。
文字として個々の感情、考え、思いが表される。
その先に、人間の感情、考え、思いがある。
両者が一致することはほとんどない。
人間は自分の考えをより正確に文字に表そうと悩む。
器用な人間は作家として短く正確に書き表す。
不器用な人間は長々といらないことも書く。
しかし、蛇足は時として人に影響を与える。
それは作家には出来ない技巧である。
本人は本気で書いているので、プロには駄作に見える文章も影響力は持つ。
数ある言葉の中から本人の意思に近い言葉を抜き出す。
簡単そうで難しい。
行き違いはここから生じる。
文字で書き表されたものは確かに結論にたどり着ける。
個人差はあるが、確固としたものを感じることはできるはずである。
文字から感じられるオーラは生身の人間から感じるオーラよりもはるかにしっかりとしている。
それは、形として確かな存在があるからだ。
人間の感情は形を持たない。
昔から形を持たないからこそさまざまな人間がそれを具体的に形にしようとしてきた。
文学の発達であり、同時に人間の感性も刺激してきた。
それは一日のうちになることではなく、長い時間をかけてゆっくりとしかし確実に進化するものである。
当然のように繰り返される毎日。
だらだら生きる人間は数知れず。
一日一日を噛み締めて生きる人間は少ない。
そこまで頭に余裕がないといういいわけが聞こえる。
自分なりに生きることは必ずしも充実した毎日を送ることではない。
たとえ退屈だったり嫌でもそれがその人なりの生き方なのだ。
自流は自分で開拓、形成するものである。
一事が万事、今ある姿は自流として見られる。
だから人は変わる。
本来の自分とはこうあるべきであると決められているわけではない。
どんな時もそのときの自分が本来の自分であり、過去の自分も未来の自分も存在しない以上幻でしかない。
変わりゆく自分を受け入れることが自流を見つけることである。
日常をもてあましている自分もひとつの自分として受け入れ、そこから全てを考えてはじめて先が見えてくる。
~本日の名言~
楽しまずして何の人生ぞや(吉川英治)