「あらゆる善い業を行なって実を結び、神をますます深く知るように」というのは、前回お話した「福音が実を結んで成長する」ということの人間側の対応になります。実を結ぶとは何かというと、善い業を行うということになります。善い業を行うとはパウロの手紙の中では、倫理的なことではなく、神に従うことであり、キリストの十字架の前にひざまずくことです。
十字架にひざまずくことにより、神の子が従順になって十字架でいのちを捨てたことに預かることができます。これが罪の赦しです。14節に「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」とあります。
私たちの罪とは何でしょうか。シラ書10章に次のようにあります。「高慢は、主にも人にも嫌われ、不正は、そのいずれからも非難される。高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。高慢の初めは罪である。高慢であり続ける者は、忌まわしい悪事を雨のように降らす。それゆえ主は想像を絶する罰を下し、彼らを滅ぼし尽くされた。人間は、高慢であってはならず、女から生まれた者は、激しい憤りを抱いてはならないのだ。」このようにあるのです。
聖書の言う人間の罪とは、「高慢」です。その罪は、十字架の死に至るまで謙虚であった神の子イエス・キリストによって、赦しを得ているのです。そこに赦しの意味があります。コロサイ書はそれを大事にしています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます