「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節)
アドベントの第一主日と第二主日の礼拝説教では、ガラテヤの信徒への手紙より、パウロがイエス=キリストの待降に関することを書いている聖書箇所より語らせていただきました。第一主日に3章15~20節よりお話しいたしましたことは、「神様がアブラハムとその子孫に対してなされた約束」ということの、「子孫」とはイエス=キリストであるということでした。第二主日に3章21~24節よりお話しいたしましたことは、このイエス=キリストが来られるまでは「律法」が養育係となっていたということです。養育係というのは、ローマ帝国における奴隷で、主人の子供たちの養育にあたっていた人たちです。イエス=キリストという、アブラハムへの約束の子孫が来られるまでは、モーセの律法という養育係によって育てられていた、「未成年である間(4章1節)」であったのです。それがガラテヤの信徒への手紙における、「イエス=キリスト待降」でありましょう。ここでの「未成年である間」の「間」は、ギリシャ語では「クロノス」という言葉です。
さて、そのガラテヤの信徒への手紙における「イエス=キリスト待降」の成就である「クリスマス」は、冒頭に挙げた聖句、4章4~5節であると思います。「しかし、時が満ちると」の「時」も、ギリシャ語では「クロノス」です。クロノスとは、一定の長さのある時のことです。「未成年であった間・時」は、今や満ち尽くされたのです。そして神様は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになったのです。イエス=キリストが、人として律法の中に生き十字架に架かられるために地上に来られたので、私たちは律法という養育係から解き放たれたのです。そして私たちに必要なことは、イエス=キリストを信ずる信仰となったのです。しかし、イエス=キリストを信ずる信仰生活において、律法が必要で無くなったということではありません。子供が成長したら「親の元に、親と共に、親無しで生きる」のと同じように、「律法の元に、律法と共に、律法無しで生きる」のです。
そのように、私たちが律法の支配下から贖い出され、神の子とされるために、アブラハムへの神様の約束である、彼の子孫として、イエス=キリストはこの世に来られたのです。Merry Xmas!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます