プラムフィールズ27番地。

本・映画・美術・仙台89ers・フィギュアスケートについての四方山話。

< 光る君へ……>

2024年03月13日 | ドラマ。
第一話を15分見て脱落。

わたしは源氏物語が好きである。それゆえにドラマ化、映画化には厳しい見方をする。
なので、今回の大河もムリだろうなーと思っていた。いろいろ細かいところが気になる。
――だが源氏物語を大河ドラマ化するわけじゃなかったのね。今気づいた。


そもそも紫式部のキャスティングがね……。
吉高由里子。内向的で思索的な紫式部にはまったく見えない。
自分の賢さには自信があった。しかし賢さを自負する俗物性にも気づいていた。
でもやっぱり売りに出来るのは賢さしかなく、それなのに人は女に賢さを求めない。
その苦しさ。閉塞感。それを演じるには吉高由里子はそぐわないように見える。

――そしたら吉高由里子にたどり着くはるか前に音を上げてしまいました。
何がダメだったかというと、男女の距離感の描かれ方ですね。

他人の奥さんと男性が御簾もなしに同席するなんてあり得ないんだよなー。
兼家とその奥さんと、その息子2人とその奥さんと藤原詮子と藤原道長(少年)。
お母さんと少年道長はまあいいとしよう。詮子と兄2人も、成人しているなら
御簾くらい隔ててしかるべきだがおまけしてやろう。

だが道隆の奥さんと道兼は顔を合わせない。
兼家と道隆の奥さんも顔を合わせない。
道隆の奥さんとあの年頃の道長少年もおそらく顔を合わせない。

あの顔ぶれだったら、男たちは広いところでまあ宴会形式で顔を合わせ、
女たちは御簾の中にいるというのが妥当な風景ではないのか。

ましてや、藤原宣孝が手土産下げてふらりと立ち寄り、国仲涼子に直接手渡し談笑する
なんてあり得ない。姿を見せることすらしないだろう。

子供だとはいえ、あんな短い衣装は着せない。
下級貴族とはいえ、子供に雑巾がけなんてさせない。
貧乏だとはいえ女房だって何人かはいるだろう。


男女の距離。
ここを前提としてちゃんと見せないと、平安時代の日常や
源氏物語なんて全然わからないし、紫式部の人生なんて全然描けないんだよなあ。

(ある程度の身分の)女は邸の奥深くいて、ほんとに限られた人にしか顔を見せなかったこと。
上流貴族の女性なんて、立っていることすらはしたないと思われていたこと。
職業婦人(女房)は男に顔をさらす軽薄者であり、
婿入り婚という言い方をすれば女性の立場が強いイメージがつくが、
実際は女性の実家がよほど権力財力に恵まれた家でない限り、
男性にほいほい捨てられて感情的にも経済的にも追い詰められるしかなかったこと。

そういう社会で、親の財力も心細く、年の離れた夫にも先立たれ、
必ずしも諸手を挙げて歓迎できるわけではない(しかし実は嫌ではなかったかもしれない)
女房職について生きていかなきゃいけない紫式部はかなり閉塞感を持っていたはずだ。

その上での源氏物語であり紫式部の生涯なんだよ。
それを書かなきゃ。


たとえていえば、現代を描くのにインターネットの存在をまったく無視するようなもん。
成立しないでしょ。2024年の出来事を描くのにスマホやパソコンをまったく出さないのは。
そのくらいのあり得なさ。いや、それ以上のあり得なさ。


この辺を描けない――描く気がない脚本家の脚本を見続けられるとは思えない。
これは早々に視聴中止にした方がお互いのためだろう。

まあ予想は出来ていた。が、せめて一話は見たかった。しかし無理だった。
考証の先生を責める気はないよ。もちろん最初から相談されてたとしたら罪は重いが、
根本的には脚本家の不勉強&NHKの予算及び怠慢でしょ。

大石静はかなり昔の「おせん」(2話で離脱)と「永遠のニシパ」を見ただけだけど、
どっちも感心しなかった。特におせんはひどかった。
平安時代を書くなら、それなりに素養のある人じゃないと無理じゃないかね?
時代劇全般に言えることだけどもさ。

まあ早々に見切れて、ある意味良かった。
微妙なラインでむかむかしながら10話も見るはめにならずに済んだ。

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