副題が、現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記。
まあそういうこと。著者は本来は不可知論者でライターというかジャーナリスト。
ユダヤ人。宗教にこだわっていないユダヤ人。
「ユダヤ人とはユダヤ教を信じている人」という定義を読んだことがあるのだが、
宗教にこだわっていない血脈的なユダヤ人はユダヤ人なのかな。
まあいずれにせよ「やってみた」の類。
とはいえ全くのおふざけというわけではなく、
「何か宗教的回心が訪れるのだろうか」という期待というか不安交じりの行動。
この本長いので(600ページ超)、時間がかかるといえばかかるが、
内容は薄いのでそこまで大変ではない。スキマ時間にちょこちょこ読んで吉。
聖書にはいろいろわけのわからん掟がある――
食に関する決まりはわけがわからなくてもおいといて、
「二種の意図で織った衣服を身につけてはならない」という決まりは意味不明だ。
この決まりについて詳しい人に来て見てもらう。
ポリエステルと木綿の組合せはいいらしい。(これはこれで意味不明だが)
毛とリネンの組合せが問題で、これは品質表示ラベルを信じてはいけないら
けっこうでたらめが多いから。自ら顕微鏡で確かめなくてはならない。
しかし顕微鏡で見るということは繊維の一端が必要であって、
セーターくらいなら繊維の欠片をごくわずか切り取ることは可能だろうが、
高級スーツとなると、どこから繊維をとればいいやら。
しかも使ってある種類の違う布それぞれについて検査が必要。
そして毛とリネンの組合せの布が一部分でも使ってあることがわかったら、
その服は着られない。
わたしは不合理な決まりでも、出来た当時は何らかの合理的な理由が
あったのだろうと思っていたのだが、この理由は不明。
しかも来た「詳しい人」に訊いても不明。
ただ聖書に書いてあるから守るべき決まりになっている。
説としては、
古代ヘブライ人が近親交配を避けるために物を分けていたから。
(それが援用されたにしても、毛とリネンに近親交配の懸念ってなくない?)
カインとアベルの捧げものを暗示している。
かつて異教徒が二つの繊維を使った布を着ていたので、違いを強調するために。
どの説も全く納得出来ない。謎。
まあこういう訳の分からない決まりと訳の分かる(お祈りをするとか
嘘をつかない、収入の1割を寄付するなど)決まりを1年守り、
何かをしようとするたびにそれは聖書の教えてに反してないかを神経症的に確認し、
アーミッシュを訪ね、聖書原理主義者を訪ね、エルサレムへ巡礼に行き――
で、何が変わったかというと。
自分の中に「小さなヤコブ」が住むようになった。
ヤコブというのは、この場合には著者が自分の分身(というか一部)につけた名前。
宗教的な人格を持つ自分だ。
1年間、ひたすらユダヤ教、あるいはキリスト教について考えて来たのだから
当然のことではあるのだが、具体的には祈るのが苦じゃなくなったとか
小さなことにも感謝の気持ちが湧くようになった、とか。
しかしこの小さなヤコブがこのままずっと自分の中に住み続けるかどうかは
本人にも不明。結局本人的に最大の出来事って、1年間伸ばし続けた髭を
剃り落とす時の感情の動揺だったみたいだから。
「やってみた」以上でもない以下でもなく、最後になっても何も達成しないが、
一日毎の記録として面白いし、ユダヤ教、キリスト教について知らなかったことも
多々あって、その辺も面白かった。
期待しすぎないで読んで吉。
まあそういうこと。著者は本来は不可知論者でライターというかジャーナリスト。
ユダヤ人。宗教にこだわっていないユダヤ人。
「ユダヤ人とはユダヤ教を信じている人」という定義を読んだことがあるのだが、
宗教にこだわっていない血脈的なユダヤ人はユダヤ人なのかな。
まあいずれにせよ「やってみた」の類。
とはいえ全くのおふざけというわけではなく、
「何か宗教的回心が訪れるのだろうか」という期待というか不安交じりの行動。
この本長いので(600ページ超)、時間がかかるといえばかかるが、
内容は薄いのでそこまで大変ではない。スキマ時間にちょこちょこ読んで吉。
聖書にはいろいろわけのわからん掟がある――
食に関する決まりはわけがわからなくてもおいといて、
「二種の意図で織った衣服を身につけてはならない」という決まりは意味不明だ。
この決まりについて詳しい人に来て見てもらう。
ポリエステルと木綿の組合せはいいらしい。(これはこれで意味不明だが)
毛とリネンの組合せが問題で、これは品質表示ラベルを信じてはいけないら
けっこうでたらめが多いから。自ら顕微鏡で確かめなくてはならない。
しかし顕微鏡で見るということは繊維の一端が必要であって、
セーターくらいなら繊維の欠片をごくわずか切り取ることは可能だろうが、
高級スーツとなると、どこから繊維をとればいいやら。
しかも使ってある種類の違う布それぞれについて検査が必要。
そして毛とリネンの組合せの布が一部分でも使ってあることがわかったら、
その服は着られない。
わたしは不合理な決まりでも、出来た当時は何らかの合理的な理由が
あったのだろうと思っていたのだが、この理由は不明。
しかも来た「詳しい人」に訊いても不明。
ただ聖書に書いてあるから守るべき決まりになっている。
説としては、
古代ヘブライ人が近親交配を避けるために物を分けていたから。
(それが援用されたにしても、毛とリネンに近親交配の懸念ってなくない?)
カインとアベルの捧げものを暗示している。
かつて異教徒が二つの繊維を使った布を着ていたので、違いを強調するために。
どの説も全く納得出来ない。謎。
まあこういう訳の分からない決まりと訳の分かる(お祈りをするとか
嘘をつかない、収入の1割を寄付するなど)決まりを1年守り、
何かをしようとするたびにそれは聖書の教えてに反してないかを神経症的に確認し、
アーミッシュを訪ね、聖書原理主義者を訪ね、エルサレムへ巡礼に行き――
で、何が変わったかというと。
自分の中に「小さなヤコブ」が住むようになった。
ヤコブというのは、この場合には著者が自分の分身(というか一部)につけた名前。
宗教的な人格を持つ自分だ。
1年間、ひたすらユダヤ教、あるいはキリスト教について考えて来たのだから
当然のことではあるのだが、具体的には祈るのが苦じゃなくなったとか
小さなことにも感謝の気持ちが湧くようになった、とか。
しかしこの小さなヤコブがこのままずっと自分の中に住み続けるかどうかは
本人にも不明。結局本人的に最大の出来事って、1年間伸ばし続けた髭を
剃り落とす時の感情の動揺だったみたいだから。
「やってみた」以上でもない以下でもなく、最後になっても何も達成しないが、
一日毎の記録として面白いし、ユダヤ教、キリスト教について知らなかったことも
多々あって、その辺も面白かった。
期待しすぎないで読んで吉。
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