物語にもならない

へたくそな物語を書く主の部屋

カサンドラの子供 4

2021-01-12 10:21:59 | 物語

 幼少時代は、独りぼっちでいることが多く引っ込み思案で無口でいつもぼーっとしていたので、見る人によっては私のことを「発達障害ではないか?」と感じる人がいたかもしれません。

実際に、私自身も「なぜ周りの子のように友達を作れないのか?なぜこんなにあがり症なのか?なぜ他の子に意地悪されるのか?」など分からない事が多く、「自分は自閉症ではないか?(小6だったので自閉症の意味を正しく理解していませんでした)」などと思ったものです。

大人になってから、ネットが進みあらゆる診断をしてきましたが、全くひっかかりません。IQもいたって普通です。時には電話で相談もしましたが、「ちゃんと話がわかりやすくできているしおかしいと思わない」と言われました。

 

 どうもうちの姉は、頭がいいことがいちばん大事と考えていた節があり、内弁慶の私が外で発散できなかったエネルギーを家の中で動くことで発散していると、それを見て「この子は頭がおかしいんじゃない?」などと聞こえるように母に言って私をバカにしていました。(ちなみに「デブ」も言われました。ぽっちゃりしていたかもしれませんがデブではありませんでした。)

姉からは、「小学校にあがるとIQテストをするんだけど、120以下はバカだよ」とよく聞かされて脅かされました。

ただし私の通っていた小学校では、IQテストの結果を教えてくれませんでしたので、私のIQがいたって普通であることは大人になってから分かりましたし、姉がIQ80であることは、姉が40歳になって発達障害の診断をもらった病院で発覚したのでした。

私は、最初から初めての社交場である保育園に溶け込めなかったことや、性格的にあがり症で内弁慶だったこと、姉とばかり遊んでいたせいで普通の子供との接し方が分からなかったこと、挨拶すらしない家庭であったこと、母親が私と普段の会話をしなかったこと、小1から鍵っ子でいつも一人だったこと(その頃は兄も姉も年が離れていたから私とは遊んでくれなかった)、母親が私の成長を深層心理では喜んではいないこと、姉や男子にバカにされ続け自信を持つことが一つもなかったこと、成長すると自分の家が恥ずかしい家であることが分かってきたこと、などが合間って友達が全くできませんでした。

母が普段の会話をしてくれなかったと書きましたが、母は私をいつまでも”意思のない赤ん坊”だと思っているので、挨拶はしませんし自ら何かをしても褒めません。

しかしその割に、私は赤ちゃん言葉を教わっていないのです。他人の赤ちゃんが車のことを「ブーブー」と言ったり、犬を「ワンワン」と言うのを初めて聞いた時、「え?この子は大丈夫なのか?」と驚いたくらいです。つまりこれは私が一切赤ちゃん言葉を使ったことがない証拠なのです。

また、小学校の時に私の言い放った言葉は同世代の子に笑われることが多かったような気がします。きっとちょっと変わっていたのでしょう。

毎年度クラスに一人は私に近づいて来てくれる女の子はいましたが、私がどう接していいか分からず何を話していいかもわからず、また、「私なんかと一緒にいたら迷惑をかけるのではないか?どうせ途中で嫌われるんじゃないか?」など色々な思いが重なって、自然と離れてゆきました。(今考えると、私の方から嫌ったように見えたかもしれません。本当に私は情けない子供でした。)

あの家庭で生まれ育った私には、とにかく他人と深く付き合う術がわかりませんでした。

 

前章で書き綴ってきたように親も兄弟もドライで非情だったので、私もまた、半生の全般では少しそういう考え方を受け継いだところもありました。

例えば、自分が怪我をしたとしても”痛くても泣いて治るわけじゃない”(つまり、怪我をした他人に対しても自然とそういう考え方になるわけです)とか、動物は人間よりも下等な生き物なので”本当に邪魔になった時には人間の都合で破棄してもよい” というような考え方です。(母は猫なんて嫌いと言っておきながら去勢をしなかったため、子猫が増えすぎて学校の近くに捨てていました。私は母からそれを聴かされていなかったため子猫を家に持って帰りました。)

この考え方は社会に出てから徐々に違うなと感じ、変わっていきました。

もちろん、今の私はそんな考えを持っていません。

このような考え方の親は、末っ子という存在を”意思を持たない人”と考え最後の子供だから親の感情で何をしてもよい(何もしなくてもよい)と考えるのでしょう。

現に、母は幼児の私に対して歯のブラッシングを殆どしなかったらしく、私が物心ついた時には、歯が半分くらい無い状態でその他の歯も虫歯で黒くなっていました。

鼻もかなり調子悪かったのに何もしてくれなかったので、臭くて水みたいな鼻水がポタっと落ちてくることがよくありました。(戦時中の話じゃないですよ!)

ちなみに、兄が中学になって よく鼻血が出るようになったとき、母は心配して病院へ連れて行きました。私は病院に付き合わされたので、母が兄に親身になって悩み病院へ連れて行ったのをよく覚えています。

 

姉とばかり遊んでいる時は、なんとんなく”こんな事をしていていいのかな?”という思いや、姉の奇行で心が暗くなることが多くありました。だからか分からないけど、よく肩が凝ったものです。私が4歳とかの話ですよ。

今思うと、私が いたずらっ子の姉を子守してくれていたので、母親からしたら楽だったのでしょう。しかしそのことは、母にも本当に自覚がないのです。多分、深層心理ではそのような(自分が楽したいという)考えがあったとは思われますが、本人には自覚がないのです。この世に自覚がないこと程、厄介なものはないのです。

 

母は鼻の悪かった私に、「学校で堂々と鼻をかめばいいじゃないか」と言ってよく私にティッシュを持たせてくれましたが、私は母と違って生まれてこの方女性としての感覚を持っていたので、人前で鼻をかめず、トイレにいって水を流しながらこっそりかんだのを覚えています。

一度だけ母の言うとおりに遠足のお弁当の時間に人前で鼻をかんだら、案の定人に嫌な顔をされました。母があまりにも、それが普通のことのように言ったからやったのに「やっぱりね…」の結果でした。

小6になって生理がはじまったとき、あぁ嫌だな~これさえなければいいのに!と思ったことを素直に母に言ってみたら、「お前は男みたいだね」と言われました。いや、そういう意味で言ってないですよねw。どう考えても面倒くさいだけで言っただけしょ? だってプールも入れないし、一週間もナプキンを付けるなんて小6には面倒極まりないでしょう。まさか小6で排卵がどうのとか、妊娠がどうのなんて考えませんよ!(笑)

でも母には”小6がそれを言っている” ということが分からないみたいで、排卵しなくてもいいのに 将来妊娠なんてしなくてもいいのに という意味で言ったように捉えたみたいです。

このように、相手の年齢に見合った会話ができないのも母の特徴でした。今考えると、母の口からは 話している相手の立場に立った言葉を一度も聞いたことがないように思えるのです。

 

こんなエピソードもあります。

幼稚園の年長のときには、みんなが白いピアニカを持ってきているのに、私だけ母が買った”緑色に鍵盤全色が違う色”というカラフル過ぎて恥ずかしいピアニカだったことも覚えています。

保育園最後の運動会で使うそのピアニカは小学校上がっても使うだろうと思って買うはずです。普通、永く使えるようなクラスで浮かないような 白いのを買いませんか?(もしかしたら嫌がらせだったのでしょうかね…?いえ嫌がらせではないんです。だからこそ母は発達障害ではないか?と思うのです。)

どんなのがいいか分からないなら、一緒に買いに行けばいいのにそれもしてくれません。

いつもいつの間にか買いに行ってしまうし、いつの間にか大事なモノを捨てられていて、末っ子の私が知るのは事後でした。とにかく、私の意思や気持ちを聴くということを一切してくれませんでした。

割愛しますが、他にもこういったことが多々あります。母が私を一人の人間だと思っていないことがよく伺えます。母は自分がこれでいいだろうと思ったモノを買い与えるだけで、「その時私がクラスでどんな思いをするか?将来も使えるのか?」ということを一切考えない人でした。

こういう子供がクラスメイトからいじめられるのは必至でしょう。

私はその都度、我慢しました。普段からお金がないと言われているので、買ってしまったものは仕方がありません。

 

 母は、姉が小さなころには縫物をよくしていたそうなのですが、私が物心ついた時には、家のローンのために働きに出ていたのでそんな余裕はなかったのでしょう。私の記憶には殆どありません。お菓子作りなども全くしませんでした。私が小3くらいになって編み物をしていたので、どうやるの?と聞きましたが、教えてくれることはありませんでした。”末っ子”には何もできないと思ったのでしょう。知りたいことを質問してもいつも、「大きくなったら(自然に)分かるよ」と言うだけでした。(私なら、一緒にネットしたり図書館に行って調べるか、忙しくて時間がなくても調べる術を教えます。)

大きくなって初めて「化粧をしたい」と母に言った時も、デパートではなくその辺のプレハブ小屋みたいなその場限りの化粧品店に連れて行かされたので、デパートの1階で売っているのを知ったのは、二十歳を過ぎて街に働きに出るようになってからです。

また、家に帰ってからも”化粧のしかた”を教えてくれるかと思いきや、笑ってごまかすだけで教えてくれませんでした。

昔から母は、デパートに行く時には着る物を選ぶのに時間がかかって大変だったため殆ど行きませんでしたし、化粧に興味のない子供時代には化粧品売り場は目につきませんので、知らなかったのです。

今考えるととにかく、母は女としてかなり変わった女性でした。

一度、姉がお風呂に入っている時に家の脱衣所が覗かれたという事件(りっぱな事件です)があったのにかかわらず、その後もずっと脱衣所の窓もお風呂場の窓も開けられていました。湯気を逃がしたいからだそうです。理屈は分かりますが、普通女の子を持つ母親なら締めます。ちなみに家には塀もなかったのです。

 

 

 昭和の時代には世の中にも、ろくな大人がいませんでした。

新幹線みたいな窓も開かない電車の中で、どんなに小さな子供がいても大人たちは平気な顔をしてぷかぷかタバコを吸いましたし、道はゴミだらけでした。(私たちが二十歳になったくらいから私たちの世代の意思によって道にゴミを捨てなくなりましたが。)


学校の先生は当たり前のように子供を叩いて怒りましたし、性被害にあった子もいたようです。なんらかの事情で不登校になった子供に対して「登校拒否をしている」と言い、TVに出ているちょっと有名な男性は女性と不倫をしてなんぼだと思っている時代です。

真夜中になれば、平気でHな番組もやっていました。もちろんなんの保護もないので、未成年だって見られます。

そしてそんな中で私は小4のとき、おばあさんに近い年齢の女性教師にいじめられていました。被害妄想ではなく、明らかにいじめでした。その根拠はエピソードを上げればいくらでもありますが、この物語には直接関係ないので割愛します。

時代背景だけ書かせていただきました。

 

他にも、母のおかしなところを抽象的にかつ時系列なしで上げてみます。

父が再婚した後、母は弁護士の無料相談会に出向き私も付き添ったのですが父の再婚を「養子に入った」と表現するので弁護士さんが少々意味不で困っっていたこと(私が修正しました)や、相手が何歳で誰であろうとも思ったことをなんでも口にするので子供の立場である私を混乱させたことや、ガンとして自分の言い分が間違っていないと言い張るので、子供の私がいつも折れるしかなかったことなどなど…

 

とにかく、私がどのような状態だったかを感じ取っていただければそれでよいのです。下の妹や弟が発達障害なのとはちょっと違うんですよね。

ずっと年上に逆らってはならない、それが普通だと思って生きてきました。

そして家庭の基準で学校生活や社会生活を送るため、外へでると恥ずかしい思いばかりするわけです。それがおかしなことだと分かると、恥ずかしい思いをし、友達がいなくなるのではないか?という不安といつも隣り合わせでした。

そんな私は”自分が悪いのだ”と思うことで心が慰められていました。そういうものなのです。人のせいにしたら私は既に生きてなかったでしょう。

”全てが自分のせい”そう思わないと生きていけないのです。

ちなみに私は、小6の時に毎日ように自殺を考えていました。母が帰ってくるまで、兄も姉も自室に居て誰も居間にはいなかったので、誰もいない時間を見計らって泣いていました。もしも誰かがトイレなどに1階に降りてきたらいけないので、コタツに潜って鳴き声を殺して泣いていました。

そして勿論、母が帰ってきたら普通にしていました。

ここではとにかく、カサンドラの子供がどんな状況なのを分かってくださればそれでよいのです。

 

 

続きます。