うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

お大尽詣り

2025年01月28日 | ことばを巡る色色
久方ぶりのお大尽ご飯。
冬の日、長い友の車に乗せてもらってお多度さんに行く。
上げ馬神事はいろいろに言われているけれど、奥の天津彦根様も天目一箇様も浄き山水の中に変わらず坐す。
さてさて今日は参道のその昔の旅籠の大黒屋さん。
随分前にお多度さんに参った時、これはこれはいずれお邪魔したいと思った鯉料理屋さん。
お昼なら私でもいただけそうなお品書きを、あの日の私は決して見逃しはしなかった。
上り口でおたおたしていると、「初めてですか」と声をかけてくださる。
案内されて、暖房の入った部屋に通される。廊下は鯉を放っている池を囲む庭に面している。



お多度さんのあの山水の流れる池の中で鯉は清められているのだね。そんな庭を見ながら料理を待つ、なんと贅沢。
煮凝りやらうろこの天ぷらやらあらいやら煮つけやら鯉こくやら、
たっぷり鯉をいただく。
参詣帰りの数え切れぬ人の過ごした部屋の、料理の、
なに気負うことなく、
古民家だの和食の極みだの、暑苦しい講釈もなく、そこにあることの有難さよ。
ちょっと頑張れば手の届くお昼を出してくださる有難さよ。
わたしも、かくありたいものだ。
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無敵の商売

2025年01月21日 | ことばを巡る色色
dealとは取引の意であるが、早い話が、商売、商いであろう。
人民共和国を冠する国だって、国家資本主義と商いが大事よね、っと言ってしまうのだから、世界はみんなみんな、商売に奔走し、商売に熱狂する。
商いは飯を食うためであり、食わねば人は生きていけぬのだから、イデオロギーとか、倫理とかは霞であるのだから、それは仕方がないし、生きるために商うのは、もちろん、必要悪でもない。
しかし、商売が無敵になってしまっては、商売だから、食うためだからと思えない。
経済が無敵になって、自分の商売のために、難しい民を排除したり、よそのものは莫大なtaxをおさめなきゃ売り買いできなかったり、地図の上の名前を変えたり、閲覧数稼ぎっていう商いのために根拠のない発言をアップして言われなく貶めたり、選挙ポスター枠売ったり。
商売になるからいいじゃないの、ってのを無敵の人が言いつのっている。
お詫び文も決意表明もコピー&ペーストで、だってそれが効率いいじゃん、ってのも無敵な人。
無敵の人は、人生の美しさがdealの高さであるのだが、それは人生の美なのだろうかと、わたしなんかが疑問に思うことも無敵の人からは弾き飛ばされる。私にはtaxというのが美しい言葉とは思えないのだけれどな。でも、無敵の人の商売の前には、非力だ。
昔々の金銭への穢れの意識なんて、もうもう、誰も知らない。
その昔、大阪市長だった橋下氏が文楽への助成を削減したことがあったけど、助成せねば持続できない伝統文化って助成してまでして保存する意味があるんですかって言ってたことを思い出した。dealを目指す無敵の人の前では伝統も文化も美も真も風の前の塵の如しとの思いになってしまう。
ただ、私は美しいと思えるものを美しいと思って生きていきたいのだ。
ただ、自分ちを美しくするために目障りなものを公道に投げ捨てるのは嫌だなっとおもっているだけなのだけどな。
も一度言おう。無敵の商売の前に、わたしの甘っちょろい考えはとてもとても非力だ。
非力だ。
でも、でも、なのだ。
でもと思い続けねば、なのだ。
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分れてもすえに

2024年11月19日 | ことばを巡る色色
兵庫県知事選。
SNSやら、動画サイトやら、私の嫌いなおじさんの立候補やら、何が何だか、いろんな方面からの乱暴な運動やら恫喝やらを見せられながら、いろいろいろいろがあって、あのお方が当選なさった。

この結果をあれこれ言う権利は私にはない。県民でないからね。

しかし、この選挙の流れ、
これは 分断 だな と唐突に思った。

分断とは、そう分断とは、
同じものを見ているはずなのに、違う様を見ること。

本人はそれと信じているが、同じものを論じていると思っているが、見えているものは全く違っていて、誰もが他の人の見えている景色を知らぬまま、お前は間違っていると言い合うこと。
そりゃ、違っているさ、見え方が違うんだもんね。
変換間違いみたいにね。雨が見えてる人と飴が見えてる人が、真偽を競っても決着はつかない。

確かに多かれ少なかれ、人はそんなところにいるのだが、同じ国に住んで、バラバラなものを見てる時代になってるんだね。
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発信ってさ

2024年10月16日 | ことばを巡る色色
食べ物とペットと花と。
それが年を重ねた人たちのお楽しみ。
私もおいしい店があると知ると行きたいし、おいしいレシピは作りたいし、
季節の花は愛でたいし、ペットはかわいいし。
それは個人的なお楽しみ。
たぶん、他人にはそのおいしさ、かわいらしさ、美しさは、
ちょっと曖昧なちょっと遠いお楽しみであり、「他人事」であろう。
「いいですね」とコメントがついたとしても、ね。
そんな、私事を日々お写真を撮って更新するのもお楽しみ。
他人様に、素敵でしょ、とするお楽しみ。
確かに、投資でこんなに勝っているとか、外国語どんどんマスターしましたってのも、
他人事としては、息苦しいものではあるが、
自分と意見の合わぬ団体や思想を弾劾するのも暑苦しいが。
これまで働いて、何やらにつとめてきたのだから、
ゆるゆるお楽しみに浸るのは、非難されることではないのだけれど。
年を重ねた発信がそればっかりというのは、どうですか。
色々見たくないこと聞きたくないことやりたくないことをやってきたのだから、
そこから、粛々と一つ二つを考えて、思いを言うのはどうでしょう。
いえいえ、熱く現状を非難せよという訳ではありません。
ましてや、昔ながらの枠組みの中で考えたり
自分の生活の不遇のみから恨み言をいうのではなく、
肩書も何もなくなって、何者でもない、そんな立場から、考え、発信するのはどうでしょう。
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平和を冠する

2024年10月11日 | ことばを巡る色色
物理でも医学でなく化学でもなく、日本被団協にノーベル賞。
日本国はといえば核兵器禁止条約を批准していない。
世界は日本被団協のある国として、日本を見ているのだ、ということを考えねばならない。
個の力に頼るばかりの国である。
日本国政府はこの受賞を讃えているのだろうか。素直に国の誉と思う政府であれば良いのだが。
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Good Night

2024年09月03日 | ことばを巡る色色
やっぱり、井上尚弥が勝って、
ぷっつり中断のようなTKOだったけど、
ラウンドなはじめはパンチのラッシュも見られたし、
彼はやっぱり勝ったし、
今日は新月だし
LeminoのスポットCMで聞いたasobiのHurts So Goodは
ほのさびしくていい曲で、
そうか、なんだか林檎の丸の内サディスティックに似てて
聴いてて気分がいいし、
いい夜だな、いい夜だね、
いい夜よ 
巷に、夜に、私に、みなさまに
Good Night


追記メモ
丸の内サディスティックはJust the Two of Us進行、
俗にマルサ進行というコード進行、で、おしゃれなのね
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ワタシの問題

2024年09月03日 | ことばを巡る色色
「虎に翼」を見ている。
夫婦別姓、LGBT、原爆裁判、そして認知症に、更年期障害。
これに対して、政治的だとか、左だと評する人がいるのに、ちょっと驚く。
確かにそれらは、憲法や法律の問題となるが、
始まりは個人の問題であり、終わりも個人の問題である。
困っているのはワタシであり、何とかしたいと思っているのはワタシである。問題の奥には、ご飯を食べ、眠り、怒り、笑う、たくさんのワタシがいるのだ。それは大きな課題の前に見えづらくなってしまうけれど。
法は個人の問題への対策であり、個人に還元されなくては法の法としての意味はないと思う。
それを、主義の問題、主張の問題としてひとくくりにしてしまうことは、危ないことだ。
人は主調のために生きているのではない。
初めに個人の問題があり、そのために主義のカテゴリー分けで便利になることはある。
しかし、本来は個人が生活者として尊重されるための法であり、主義であろう。
あっち寄りだからどうの、こっち方面の話だからどうの、と言っているうちに
個人の問題は、個人の声の意味合いを薄めてしまう。
姓が変わって困る人、異性婚では困る人、原爆の後遺症に困っている人、それらの人がそうでない人と変わらず生活する人として尊重されるためのものが法であり、国であろう。
自分の考えと方向性の異なる人の声を、自分の考えと方向性が違うという理由で、意味のないものとしてはいけない、と私は私を戒めたい。
くくったところから、個人は見えなくなってしまうことを自戒したい。
自分が個人として生きるには、他者も個人として生きている世でなければいけないのだ。
くくって、グループ分けをして考えるのは、効率的で楽な方法だ。だからこそ、その中で個人の声をこの方向の声として聞いてはいけない。そうしてしまうのは、個人を考え、個人の問題の解決へと還元していくことの面倒さ、コスパ、タイパを厭う気持ちである、ということをいつも考えたい。
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してもらう人 してあげる人

2024年08月26日 | ことばを巡る色色
「家族だから~」というドラマを見ている。

母が車いすになり、外出をしようと娘は車いすを押す。
娘は周りの人に「すみません」「すみません」と何度も言いながら道を行く。
「すみません」と言わねば、車いすではすんなり道を行けないのだ。
「すみません」は謝罪の言葉だ。自分がいけないことをしているとき、迷惑をかけた時、世の中に謝る言葉だ。

しかし、車いすに乗っていること、車いすで外出すること、車いすで道を行くことは、いけないこと、迷惑をかけていることなのだろうか。
車いすになっていることは、いけないこと迷惑なことなのだろうか。
そもそも車いすになることをその本人も望んでしているわけではないし、本人の落ち度があっての結果でもない。だのに、謝らなければ道を行けないことって、どういうことなのだろうか。
車いすで外出すること、ひいては車いすを使っていることは「すみません」ことなのか。

「してあげる」側の人がいて、「してもらう」側の人がいる。
「してもらう」側の人は「してもらい」たくて、「してもらう」側になっているわけではない。「してもらう」側になりたくはなかったと思っている人が多いだろう。
「してあげる」側の人は、自分の意志で「してあげる」かどうかを決め、「してあげる」ということをしているのだが、「してもらう」側の人は、自分の意志で「してもらう」側にいるのではない。障がいだけでなく、出自も性別も貧富も、世の中のありとあらゆる差異は、本人の望むと望まざるとにかかわらずやってくる。だから、「してあげる」側の人が、安易に「してもらう」人は「してもらう」ことに甘えていると考えるのは、「してあげる」側からしか見ていない発想かもしれない。
その不公平を、その偏りを、いつもいつも考えていなければならないということを「家族だから~」は静かに示す。
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女の詩

2024年08月21日 | ことばを巡る色色
私は小中学校と委員長だった。委員長として、責務をstrictに実行した。
そして、カシコイオナゴであった私は、高校以降は委員長にならぬように過ごしてきた。

多くのカシコイオナゴは知っている。そうして賢明である故に計算をする。委員長などやる女子が男子からどのようにみられるかを。同じ仕事をしていても男子は責任感があり前向きに取り組んでいるとされるが、女子は出しゃばりだと後ろ指をさされ陰口を言われ疎まれることを、賢明である故にちゃんと想像してしまう。
よほどの覚悟か、事情を持たねば人の上にむやみに立つものではないとの算術をする。
賢ければ賢いほどそれがわかってしまう。自分を押し込め、にこにこと笑って身を潜め、誹謗中傷と徒労のリスクを避けようとする。

そんな私に、あの言葉は胸元に刃を突き付けるように迫ってきた。
 私を束ねないで 私を止めないで 私を注がないで 私を名付けないで

私は社会に 束ねられ止められ注がれ名付けられ、
私は自分を 束ね止め注ぎ名付けていた。

自分の住む所には 自分の手で表札をかけるに限る。 精神の在り場所もハタから表札をかけられてはならない

オナゴというのは、居ながらにして、自分で束ねられないようにし、名付けられないようにし、自分の手で表札をかけねばならない存在である、のだ。

 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
と叱咤せねばならぬ存在である。

何もしなければ、束ねられ名付けられ他人に表札をかけられ感受性を守れない、のだ、残念ながら。
彼女らが謳った時から何十年もったったのに、残念ながら今もそれは続いている。そしてそれは男子をもである。男子も男子として束ねられ、名付けられ、表札をかけさせられ、感受性を守っていかねばならない。なんというめんどくさい社会であろう。

本当は誰もが
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきたーー
そんな存在であるはずなのに。だから、そんな存在に戻り生きていく、私は。

そして、
 立ち戻った健康の上
 消え失せた危険の上
 思い出のない希望の上に
 君の名を書く

 一つの言葉の力によって
 僕の人生は再び始まる
 僕の生まれたのは 君と知り合うため
 君を名ざすためだった
 リベルテ と


私を束ねないで/新川和江 表札/石垣りん 自分の感受性くらい/茨木のり子 あいたくて/工藤直子 自由/エリュアール
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復活の時(ちょっとだけだけど)

2024年08月10日 | ことばを巡る色色
ちょっとだけ、自分で生きることを取り戻しかけている。
詮ないことは考えないこととし、
暑くなりすぎない時間に家仕事をし、
ちょっとだけ、下界に出てみる。
恐る恐るだけどね。

って、こんなときは
なぜか、スピッツの歌がくるくる思い出されて、
スピッツの歌が聴きたくなる。

遠い昔に聴いたことがあったような、
今初めて聴くような、
塗りつぶした傷にそっとスピッツを捧げ
君も大変だったからさ、と自分に言ってみる
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