うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

ワーキング・プア

2006年07月24日 | ことばを巡る色色
NHKの特集で、ワーキング・プアが増えているという問題をやっていた。働いても、生活保護水準よりも下の所得しかない層が問題になっているというのである。その中に数名の若者が出ていた。一人は、たった一人の保護者である母親が家に帰らず、高校時代は生活費を稼ぐためにバイトをしていて就職活動が出来ないという過去を持つ人。35歳の彼は家を持たず、棄てられたマンガ雑誌を古本屋に売って食べ物を得ていた。
偉い人達が出てきて、社会の問題だと語っていた。日本の構造が崩壊していると言っていた。番組の中で繰り返されていたのは、貧しい親が、貧しい子を育て、下層格差が家系伝承されるというであった。5年前にリストラにあい、2人の小中生を育てる父は、子を大学にやれるかを考えると恐ろしいといっていた。20万弱の所得では、大学進学資金を出すことはとても不可能に思えるといっていた。中学生の子は、弁護士になりたいけれど、お父さんも大変そうだし、お父さんがいいといえば大学に行きたいと思うけれど、無理だと思うといっていた。
わたしは、たぶん、あの子達とそうかわらぬ状況の中で育った。「下」にいたといえるかもしれない。わたしや親を支えてくれる人はいたし、あの子達ほどの苦境ではなかったのかもしれないけれど、「普通」ではなかった。学校は公立に通っていたが、高校、大学と育英会の奨学金を受けていた。わたしの頃の育英会は、今の「ローン」のような形でなく、「貸与」であったし、「特別奨学生」という制度があり、奨学金の一部は返済無要であったし、特定の職業に就けば、返済免除となった。また、大学の4年間のうち授業料を払ったのは1年に満たない。1年生の冬に授業料免除を申請したのだ。そういえば、大学の授業料も安かった。公立は私立の4分の1(現行は2分の1)ほどだった。あの頃の日本で、小額で高等教育を受けた者のベスト100くらいに入れたかもしれない。
だからわたしは信じている。絶対信じている。家がどうであれ、きっと、学びたい者は学べる。
番組の中のことと違っているのは、私が小学生のときから思っていた、ということだ。状況を変えなければならないと。それは自分が変えるしかないということを。
幼い人であろうと、覚悟はいつだって必要だ。そうでなければ何もかわらない。自分に降りかかった「人生」の思うようにはさせないという矜持は必要だ。そんな時、「愚かであること」「無知であること」は妨げである。
その子達に、心ある大人は語ってやらねばならない。「人生は変えられる」「今が辛いのだからこそ、君は人生を変えなければならない」「そのためには、覚悟を持って、賢くなることだ」と。
番組の中の人に「そこから抜け出せ」と言ってくれる教師はいなかったのだろうか。そうすれば、人生は違った物になっていたのではないのか。
残念ながら、求めぬ者に何が人生を変えてくれる物かを教えてくれるものは少ない。しかし、探せば、必ず方法はある。抜け出せない沼地は無い。幸せでないなら、望まれていないなら、社会に求めさせてやる自分になればいい。
子どもの近くにいる人は、どうか言ってやってほしい。「方法はある」と。そうして、公的援助を受ける方法やらを一緒に探してやってほしい。たった一人でも、いいからね。
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場末のここは

2006年07月20日 | ことばを巡る色色
それはもう、ティーネイジャーだった頃、私には密かに憧れていたことがあった。大学も出て、福利厚生も社会保険もしっかりしているところに就職して、そうして、場末に出奔する、こと。
人並みの、もしくは人並み以上のキャリアを持って、人並みの、もしくは人並み以上の財を成して、そうして、場末に逃げること。
例えば、手に手をとって、場末のパチンコ屋の二階の、隣のネオンがちかちか映る窓の狭い部屋の、たった一つだけある扇風機の、へりのすれた畳の、廊下でにゃーと鳴く猫の、どこらかから聞こえる赤ん坊の夜鳴きの声の、そんな、世の中から棄てられた部屋に逃げて行きたいと。
もしくは、コタツしかない凍るような部屋の、梅雨時には部屋のどこもがじっとり重い狭い部屋の、その日暮しの仕事から帰ってつけるぼんやりした電灯の、その下で、ああ今日もこうやって、世界に自分しかいないような、空っぽな夜の、そんな中で、誰からも忘れられて生きていきたいと。
その誘惑は甘く、ちょっと苦く、ずっと私を捉えている。
実をいえば、私は今も、そう思っているのだ。誰も私を知らないところに行き、来し方の全てを、見える物も見えない物も、紙に書かれた物も、書けぬ物も全てを棄ててしまいたいと。寂しくて、寂しくて、そうして、くすんと甘い。
たぶん、人より功名心やら、射幸心やらを持っていたのに、私は成功の夢の先に、それとは裏腹の場末の一部屋を消せずに持っているのだ。
そうか、それは、生まれる前の母の中に似ているのかもしれないと、今、思い当たった。そこに戻っていきたいのか、それともそこからもう一度世に出て行きたいと思っているのか、自分でもそれはわからないのだけれど。

この21世紀の中に、もう場末などなくなってしまった。パチンコ屋に住み込む夫婦ものなんてのは遠い過去のものだ。鄙びた温泉場の訳ありの仲居とか、身を寄せ合うとか、なくなってしまった。どこに逃げても、明るくて乾いたところしかないんだろうなあ。

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解剖学的ジェーン・フォンダ

2006年07月08日 | コレクション
「バーバレラのジェーン・フォンダ」先回の記事のシルクスクリーン全体像です。詳しくはRICHARD DUARDO の、「Anatomical Jane(解剖学的ジェーン)」
数年前、内職の受け渡しの帰りの私は、地元のJR 駅ビルを歩いていた。そのラボの1つでアメリカ人画家が、せっせとシルクスクリーンの色打ちをしていた。そのシルクスクリーンは、スモウレスラーがポケモンテイストで描かれたものだったんだけれど、壁にはでかいでかい「ジェーン・フォンダ」が、それこそ、「なんだバカヤロー!」「しけたツラしてんじゃねーよ!」と私を見ていたのだ。
「買う!」と私は思ってしまったんだよね。値段を聞くと、さっき貰ってきたばかりの内職の報酬(まだ手をつけてもいなくて報酬振込みは2ヵ月後なのに、もう貰っちゃった気になってるだけなんだけど)とほぼ同額。しかも、帰りにお役所に行くつもりで持っていた金額とも近い。-きっとこれは運命なのだわ。ジェーンは私が内職持って、いくばくかの現金を持ってここにやってくるのを待っていたのだわ。「これだけ大きいと普通のおうちでは架けられませんよ」というラボのおねーさんの言葉もものともせず、バス代を除いた額までプライスダウンしてもらい、くるくると巻いてもらい、バス代の小銭だけを手に、このでっかい、ほぼ等身大のジェーンを私は家に連れ帰ったのだ。RICHARD DUARDOオジサンは優しい人で、スモウレスラーのシルクスクリーンにサインをしておまけにくれたし、数日後、彼のアメリカの工房から、ジェーンのID(エディションNOと私の名前を入れてくれて)も送られてきた。
さすがの「しけたツラしてんじゃねーよ!」のジェーン。額装を見積もったら、10万してしまう。何とかつてを探して安く額装し、この畳一畳分よりでっかいジェーンは今もうちの客間でガン飛ばしながら掛かっている。

バブルの浮かれた気分の時から、何枚か絵(リトグラフ、シルクスクリーン、油絵、など)を買った。最初に買ったのは、カシニョールだったけど、今はもううちには無い。たいていはブランドバッグ一個くらいの値段だ。わが身を飾るより、「見る」ことを私は選んだということだ。それは、より享楽的で、わがままなことだ。他人が自分を何らかのもの(美しいとか、金持ちとか、センスがいいとか)と思い見てくれることより、私は、「私が見る悦楽」を選んだということだからだ。わたしにとって、「わたし」は、「見られる私」ではなく、「見る私」なのだ。その意味で、私の宇宙は、私の眼から始まっている。私の宇宙は全て「私が見る」ものとして意味づけられ、私は宇宙の中心で、「見る」のだ。それはワガママでステキでしょ?
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笑い飛ばそう

2006年07月04日 | ことばを巡る色色
今日の君に辛い辛いことがあっても。笑い飛ばしてしまえ。
かえってきたテストの点が、「え、50ってん満点?」であっても、
「君のせいで、新入社員がいつまでたっても一人前の仕事ができん」と言われても、
老後資金をつぎ込んだ株が、3分の2に値下がりしても、
大学生の娘が午前様続きでも、
脱サラして始めた店が、「うちで食べたほうがましじゃねえ?」と言われても、
親が毎日ケンカばかりで離婚の危機でも、
成績が下がって親に殴られても、
結婚した途端に、相手が多重債務者だと聞かされても、
あんたは所詮、他人だと義理の父母に言われても、
大事なわが子に、人と違うところがあっても、
私が重い病にかかっていても、

刺したり、火をつけたり、殴ったり、泣き喚いたり、自分の殻に閉じこもったりする前に、
笑い飛ばしてしまえ。
そうして、ぐるりと右も左も北も南も西も東も上も下も、見回してごらん。
EXITと緑の電気がかすかに灯っているところが、必ずあるよ。
だから、泣かないで。
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穢ない絵

2006年07月03日 | ことばを巡る色色
林真理子の「着物をめぐる物語」を読んでいる。私はこの短編集のほとんどを数年前、「藝術新潮」の連載で読んでいる。その時も一つ一つの物語の深い流れに足をとられたような気持ちがした。衣替えの時期のたびに、しばし箪笥から出され、また同じ場所に戻された色とりどりの着物の、樟脳と、古い紙埃と、おしろいと、の匂い。暗い夜に口の端だけで笑われているような、甘く汚らわしい匂い。一つ一つの物語に、しまわれた着物が背負っているにおいが立ち込めている。
過去に読んだ物語を改めて読みたくなり、古本屋で文庫を買い求めた。それは、先週のテレビで甲斐庄楠音を取り上げていたからだ。
甲斐庄楠音は画家である。大正の京都で、胡乱な女を描いた画家だ。岩井志麻子「ぼっけえぎょうてえ」の表紙になっている絵を描いた人だ。私が知っているのは、彼が「穢ない絵」と言われ、それ以降画壇から、消えたことである。先日の番組によると、絵を描いている間も、女装をしてみたりとかなり変わった人のようである。 彼はその後、溝口監督の衣装考証をすることとなり、「着物をめぐる物語」でもその時のことが題材とされている。
甲斐庄の絵は、「怖い」絵だ。好きか嫌いかと問われれば、即座に好きだとはいえない。もちろん家に飾ったりしたら、夜お手洗いに行けない類の絵である。岸田劉生が「デロリの美」といったそうだが、劉生の絵同様、人の奥の「よからぬもの」の絵なのである。
しかし、「人」にとって、「美しい」という価値基準が真っ直ぐなものではないように、きれいはきたなく、きたないはきれいなのかもしれないと思わせる。先日、京都に行った時に、歩きつかれて休むために立ち寄ったのが、瑞泉寺だった。楠音はそこに祀られる処刑された女人をモチーフにして「畜生塚」という絵を描いているということだ。偶然に立ち寄った寺と楠音。甲斐庄の絵は、京都近代美術館に多く収蔵されている。そういえば、6月のはじめ、京都近代美術館に、藤田嗣治を見に行った。なんだか因縁めいたものを感じてしまった。
楠音は、「穢ない絵で綺麗な絵に打ち勝たねばならぬと胸中深く刻み込んだ」自分の「綺麗」と思うものが、人にとって「穢ない」物であったらどうであろうか。しかし、自分はその中でしか生きていけないとわかっていたらどうであろうか。やはり、それは「戦う」以外ないのではないのだろうか。己一人の戦いを続ければ、綺麗に打ち勝つ穢ないものがいつか作れるのではないのか。たとえそれが、数少なくとも、それは、「綺麗」が唯一だと思っているものに、一打を与えることが出来るのではないのか、と私は思う。

それにしても、林真理子という人は、昨今の「タイピングされた小説」が多い中で、数少ない「物語」の書ける人だと思う。少なからぬ男性が彼女の言動、容姿等から誤解している気がしてならない。また、中村うさぎもその私生活のありようから誤解されている人だ。書いたものだけを読めば、彼女たちの視線が、男とは違って、肩書きから離れ、物の真実を見ようとしていることに気づくはずなのに、である。ここらあたりが女流作家の不遇であるかな、と思う。
(「きたない」を変換すると「穢い」と振られますが、あえて「穢ない」と振っています)
コメント (2)
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