うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

それは優しい白黒の夜

2007年01月29日 | ことばを巡る色色
週末、岐阜の夜の片隅にてあたたかい会合が密かに催された。初めてお会いしたお方々であるのに、笑いが途切れることはない。

年齢がこうやって煮詰まってくると、会うべき人に会い、そうでない人とはすれ違っていくだけ、というようになっている、ようだ。そうして、その夜に私は会うべき人に会い、話すべき人と話し、微笑みあったのだよ。

ネットのラインの網の中、多くの人がそれに乗っかっているけれど、「会う」ことができるのはその一部だ。会ってみるとそれが必然であるように思えた。こうやって会うために全てが用意されていて、随分前のいろいろなことが会うことへと一直線につながっていたのかと思えた。それまでのいろいろは複雑に絡み合っているけれど、振り返ってみれば、この夜へとまっすぐに用意されていたのだと思えた。偶然と奇遇とが必然であったのだと、ね。

きのうのNHKの「インドの衝撃」ジャーナリストは「現代において物理的なものである距離、インフラは意味を持たない。最も重視されるべきは頭脳である。」と語っていた。ネットの世界で頭脳(心)は距離を越え、彼の頭脳と結びつくのだ。そんな広く高度な情報網の時代において、用意すべきは「心」であるのだ。
そうして思った。さびしいのだな、と。距離を越え、ネットの網をくぐり、私は寄り添える心を求めているのだね。
そうして辿り着いた人は、やさしい人たちだった。優しい夜だったよ。
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歯磨きチューブ

2007年01月24日 | ことばを巡る色色
内緒だけれど、秋あたりから3日に一度、できれば2日に一度エントリーを書こうと思っている。これはかなりつらい課題。日々の出来事を曝してしまったり、シリーズで書いていくということのない私にとって、まず、「お題」を決めるというのが辛い。落ち着いて書こうと思うと、やはり1時間は自由になる余裕が欲しい。それを作り出すのが辛い。30分だと何とかなるのだけれど、1時間の、予定の入っていない時間の空き地を作るのが辛い。ちびたチューブを絞るような所業だ。しかし、苦しい思いをしてもこの課題をこなしたいと思う。
辛い思いはいつか、くるりと快感に逆転する。自分を追い詰めるということが快感であるということを体が記憶すると、安易なラクチンなことでうる楽しさなど、本当に薄っぺらなものだと思えてしまうから、厄介だ。
高価なものはお金を出せば買える。そうやって手に入れることは全くつまらない。私のような人間が大金持ちになったとしても、かえって物を手に入れることに飽きてしまうだろう。物であれ、目に見えぬものであれ、手に入れるということは、それを「知る」ということであろう。より知るために手元に置いておきたい、何故こんなにもひかれて仕様がないのかを知りたいということ、その奥にあるものを丸ごと飲み尽くしたいということであろう。それが容易であってはならないのだ。ばかばか植民地を増やすようなまねをしては駄目なのだ、と、私には思えてしまうのだ。

いいものはいい。それは素直な心だ。そうして、よくないと思えるものが、ある日いいと思えてしまう。それも真実だ。なぜか、とても嫌っていた物への評価が変わると、大きく振り子が揺れてとても好きになってしまう。それもまた、気になっていたという心の現われなのだろう。そのどちらも受け入れる心を持っているのがいい。

先週末、強行軍で上京。↑のように書いてるけど、東京疲れで更新できなかった。東京のとある下町のとある店の前、宵闇迫り、店は閉店時間を過ぎてかたく閉まっていた。人気のないショーウィンドウをぼんやり見ていると、たくさんの紙袋を持ったおばちゃんが近寄ってきて、「探しものなの?」と聞く。「ええ」と答えると、知り合いに聞いてあげようと言ってくれ、私は携帯番号をメモしてお願いした。身なりはきれいでこざっぱりとしたおばちゃんだったけど、たくさんの紙袋の中身は海苔の缶だったり、新聞紙だったり。不思議なこともあるものだ。半信半疑だったのだけれど、おばちゃんの知り合いから連絡があり、私の探し物に手を貸してくれえることになった。探し物の神様がわたしを見捨てなかったのか、それともこれは私の醸す「人徳」か。
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次号のお楽しみ

2007年01月18日 | ことばを巡る色色
最近、本を読んでいない。もう何年も読んでいない。全く申し訳ないことながら、読んでいない。読みたいと思えるものが本当に少なくなってしまった。「言葉」という媒体がかえって耽溺することを阻んでいるのかもしれない。瑣末な言い回しや、言語観の違いが気になってその世界になかなか入ることができない。気になりだすと、そのお話の世界までが「嘘っぽく」感じられてしまい、本の世界から遠ざかってしまった。かわりに読んでいるのは、ネットのエントリーとか、週刊誌のエッセイとかコミックとか。これらは確かに手ごろな読み物であり、読書離れの理由を「安易な物への移行」と言われても仕方がない。しかし、「本」に浸ることができなくなってしまったことは、ある意味、時代の不幸でもある。本の世界にわくわくできる世の中ではなくなってしまったよ、ということだからである。

真実を語るものが、コミックになってしまっているのかな。
最近は、山田芳裕の「へうげもの」を読んでいる。古田織部(織部!・・・織部のことはまたいずれ)の話だ。この中で織部は物狂いと、国盗りの狭間にある。彼の物狂いは擬態語で表される。「はにゃあ」だのというような。そうだ、物狂いは、そうやってやってくる。それが欲しいという気持ちは、強烈な擬態語となって、脳の中に槌をふりおとす、んだよね。

去年、最もわくわくして読んだのは岡野玲子の「陰陽師」 日本中の神社がその中から大きく柱を立て、渦巻く銀河系のイメージと共に祝詞が身の回りで私を取り巻いているような陶酔感を味わった。 
そうして、浦沢直樹 「MONSTER」から始まり、「20世紀少年」「PLUTO」 浦沢直樹を読むのは村上龍を読む代わりのような物になってるのかもしれない。

その時代の才能のある人があるカテゴリーに集中するということがある。ある時期においてそれは芝居であり、その後にはバンドとなった。それと同じように、今の世の中で才能がある人は、本ではなくコミックを書いているのかも知れないなあと思う。それが何故なのか、小説の世界に人生が書き辛くなっている、読みづらくなっているのは何故か、それを考えてみるのもおもしろいなあと思う。

そんなわけで、今や私は、「働きマン」「チェーザレ」「プライド」「大奥」そして、「20世紀少年」「PLUTO」の連載が連続ドラマとかより楽しみ(あ、楽しみと言えば一つだけ連載小説もあり。東野圭吾「流星の絆」はなかなか) 画像:made in japan テンプルちゃん(?)人形
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一人でお茶を

2007年01月17日 | 最後の晩餐
人生の中で、何度お店でお茶を飲んだだろう。多分、他の人よりは多いんだろうな。
どこかに出かけると、その辺りの店にぷらっと入ってしまう。お出かけは茶店の休憩を必ず伴っている。出かけた先でパンフレットやらチラシやらを貰い、お茶が出てくるのを待ちながらそれらを広げるのは、外出の楽しみの一部だ。何もないときはかばんに入れてある文庫本を読む。それもまた楽しい。
大学のときはよく2番館に行った。映画2本立てとか3本立てという映画館。たいてい一人で出かけた。見終わり、ぐったり疲れて映画館を出る。長い塀の寺を過ぎ少し行くといつもの喫茶店がある。古い振り子時計がいくつかかかり、木の床で、段差が作ってあった。寒い日もそこのガラスは湯気で曇っていた。年配のご夫婦の店だ。そのコーヒーの味は忘れてしまったけれど、「自由」という言葉を聞くと、あの喫茶店を思い出す。今もあるのだろうか。あの辺りはどんどん開けてしまい、繁華街の一部になってしまったけど。

私はシケタ喫茶店が好きだ。人も疎ら、マスターも知らぬ間にバックヤードに姿を消し、コンロにかけられた湯の沸く音だけが静かに鳴っている。そんな場所だ。

とっておきのお茶の場所。
ちょっと遠いけれど、ウフィツィのテラス。朝から美術館に入り、ゆっくりゆっくり、一枚一枚絵を見る。それから2階奥のテラスに行く。昔のオフィスの屋上は街が一望できる場所だ。近くの家のかわいいプランターが見える。街を囲む低い山も見える。ドゥオモも見える。花の教会も見える。日曜には山々の教会が一斉に鐘を鳴らし、それがまた、山で反響し、街を祝福と祈りで満たす。

一人がすき、なのかな。       画像:加納街角
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それは昔、の鶯

2007年01月14日 | ことばを巡る色色
私がその昔、選挙のウグイス嬢をやっていたことは前にも書いたのだけれど、それはなかなかおもしろいバイトだった。県内の各地を選挙カーで回り、町村の議員さんの先導で、遊説するのである。「町議○○さんの御先導の下、ご挨拶に参りました。△△でございます。ご支援よろしくお願いいたします。」とアナウンスし、白手袋を振るのである。休憩は公民館やら、町役場やら。地元のおばちゃんの漬けた赤蕪などをいただき、温かいお茶を飲み、休む。その横では顔役の人たちが、この機を逃すなとばかりに、あの道を作ってくれだの、と言うような陳情やら、ちょっとちょっとこちらへと陰に候補者を連れて行って秘密のお話やら、なぜ御酒の入ってらっしゃるおじさんもある。
なにやらに似ているなあ、と考え、思いついた。これは「祭り」なのだなあ。わっしょいと神輿を担ぎ、酒を飲み、持ち寄りの食べ物を頂き、世話話をする。選挙前日には、「桃太郎行列」というのがある。候補者の名入りの旗を持ち、繁華街を支援者を連れて歩く。「選挙は一度やったらやめられぬ」というのは、このような祭り的要素の故なんだろう。
多分、人は祭りなしでは生きていけぬものであり、祭りは祀りであり、政(マツリゴト)であるのであろう。
それに比べ、今の選挙は様変わりしているようだ。昔私が関わった物とは違っている。何に似ていると言えば、対戦ゲームかな。
人は自らの体験した興奮の記憶から逃れられない。他の場所にそれを焼き写してしまう。最も興奮した物のスタイルを、興奮の場のスタイルとして形成していくのだろう。昔の人の興奮のスタイルが「祭」であり、それを選挙のスタイルとしたように、今の人はゲームをそこに写して、そのスタイルとしている。その中で行われるのは、叩き続けて勝つことであり、吊るし上げることであり、平板な勧善懲悪であり、その奥にある、隠微な情報戦であるのだろう。

興奮のスタイルはなぞられ、模倣され、本歌取りとなり、本歌を隠していく。「吊るし上げる」スタイル。「叩き続ける」スタイル。世の中にそれは低く重く広がっている。ガッコーという場に、カイシャという場に、カテイという場に。
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祭りの風景

2007年01月10日 | ことばを巡る色色
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眺めのいいお茶

2007年01月10日 | 最後の晩餐
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夢がない

2007年01月10日 | ことばを巡る色色
新年早々身辺あわただしく、先日は本当に嫌なことがあり、「もう、言い訳ばっかりたくさんだぁ。聞き飽きた」と思ったり、ほろほろと泣いてしまいましたり。そうして、書きたいことが頭の中になんだかあったような気がするんだけど、書こうと思うと、なんだっけというわけで、取りとめもなく記事をアップしようとしている私があり、くどくどと前書きをしながら書いていたりして、だらだらと「序」のみが長くなったりして。
今年、一番ビクっとした言葉(まだ数日しかたってないけど)
「夢がないとなじられて」
あの事件はあまりに凄惨で、そこにはいろいろ複雑な事情があったんだろうけど、この言葉は、鋭かったなあ。「夢がない」上に、「なじられて」いるのだ。
きっと、本当に夢がなかったんだろうなあ。人が本気になって怒る言葉って、その人にとってあまりに、避けようもなく「真実」の言葉であるからだろう。少しでも否定の余地があれば、笑って済ませたり、話を変えたり出来るけれど、あまりにも本当で、自分がそこからどうやって抜け出せばいいのかわからない時は、怒るしかない。攻撃するしかない。だから、相手の顔色が変わったら、本当のことを言いすぎたのだと、お茶を濁したほうがいい。「本当」のことを追求するような権利は、通りすがりの人にはない。それでも、本当のことを言って、彼と対峙しようとするのなら、相当の覚悟が、たとえば、彼がへろへろほろほろになっても、付き合ってやる覚悟がいるのだろう。そんな覚悟を持って言える相手って、そう簡単にはいない。家族とか、唯一無二の友達とかしかね。たとえ家族唯一の友達であっても、彼の地獄まで付き合う覚悟や気力体力の充実と相談したがよかろう。あらゆる人の地獄と付き合うほど、人生は長くない。それでも「本当」のことを言わねばと思っているのなら、何年も何年もが必要だろうなあ。期待せず、あきらめず、くじけず、あせらず、力まず。何年も何年もね。
氷は一度に解けない。外から、少しずつ溶けていくんだしね。

すんません。雑談っぽい記事になっちゃいましたね。  (画像:百済寺)

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Ⅰlove

2007年01月06日 | お屋敷
お正月の色々は飛び去っていき、松の内ももう終わる。縁者が集まれば、蓋をしてきた色々もお正月のすき焼きやら重箱の前でつまびらかとなり、愛し合っているはずの者の集まりの、絡まった糸はより絡まっていき、血族親族いり乱れて、あるものは泣き、あるものは知らん振りをし、あるものはとりなし。私はといえば、その食卓をひっくりかえして啖呵をきりたい場面もあったのだけれど、それを堪えて、泣く人の肩を擦るしかなかった。一年ぶりのお正月は、こどもを大人にし、大人を老年にし、していくのだ。そして、じゃあまたと、それぞれの生活に戻っていくのだ。問題は解決してはいなくとも、また、いつもの生活は始まるのだ。

愛するとは、なんだろうと考える。それは持っていることと少し似ている。本当に愛するのなら、「それ」を自分のものにすることは出来ない。いとしくて、もったいなくて、愛するものと共にあること、そのことだけを「有難き」と思う。そうして、自分のものとならなくとも、なんの差し支えもない。そこにそれが在るということ、それだけが、もったいなくも、有難いことだ。美しいものが私の元に来た時も、同じような気持ちになる。美しいものは私が持っていようといまいと、ずっとずっと美しい。有難く、拝みたいような、泣きたいような気持ちになる。今、それが「在る」ということの、ただその事実の、それだけで、何も要らないと思える。私のものでなくとも、よいのだ。私は、それを見つけ、愛し、それがそこに在る。それだけでよいのだ。

愛するとは、なんだろう。
悲しかったことは、その昔、あなたが自身の悲しみでいっぱいだったということだ。私はあなたに愛されていることを知っていたから、あなたの悲しみが私から発したものかも知れぬと思った。混乱するあなたの言うがままになった。それで気が済むのならよいと思った。東に走り西に走りした。でも、あなたはあなたの悲しみでいっぱいで、それを無くすことにいっぱいで、私の悲しみは見えていなかったんだね。愛すことは、愛するものの悲しみを無くすことだけを考えることだよ、って今の私なら言える。可哀想な人。それがわからないんだね。だから私は、いま、こうやって、あなたとは違う形の愛を、胸の内に抱いて歩くよ。


持っているのに持っていない。
永遠にそれを持つことは出来ない。
愛する者は生き続け、
私はその前に無力だ。
愛する人は問う。あなたよ、私はあなたの物なのか。
否。
愛する人よ、あなたは自由だ。
私ごときが所有できるものではない。
私はあなたが「ある」ことを瞬時でも感じたくて、
あなたを腕に囲っているだけだ。
愛しているこの時にしばし満たされているだけだ。
だから、あなたは限りなく自由だ。

(画像:建設中大型スーパー。建ちかかっている姿が、不思議なことに廃墟に似てる。生まれつつある物と崩れていく物が同じに見える不思議が、世界には隠れているのかな)
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I have

2007年01月04日 | コレクション
持っているのに持っていない。
永遠にそれを持つことは出来ない。
物は生き続け、
人はその前に無力だ。
物は問う。人よ、私はあなたの物なのか。
否。
物よ、あなたは自由だ。
私ごときが所有できるものではない。
私はあなたの永遠を瞬時でも感じたくて、
あなたを腕に囲っているだけだ。
持っている錯覚にしばし満たされているだけだ。
だから、あなたは限りなく自由だ。

(画像:瓢池園。ノリタケがnoritakeとなる前のノリタケ。その美しさは大倉へと受け継がれたか。)あんまり別嬪に撮れておりません。上手に撮れたら差し替え予定です。
余談。今日よりお仕事。「I have」の雑感はいつかまた。 
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猪突蒙昧

2007年01月02日 | ことばを巡る色色
皆様、謹賀新年 でございます。
猪はまっすぐしか走れず、ゆえに猪突猛進と古の四字熟語は作られたようですが、「え?わたしのこと、ですか?」と思えてしまうほど、思い込んだら寝食忘れてしまってきた今まででした。故に、固くジグゾーパズルとゲーム機をわが身に禁じております。ミレーの「晩鐘」のジグゾーパズル(全部茶色のピースばっか)をした折は、もう廃人のように打ち込んでしまいましたし、小学生のとき、縦笛を練習していた時は、とにかく一度も間違えず吹くまで夜通し吹き続けてしまったし。それだけを考えそれだけをする、って麻薬のよう。邪魔するものは残月剣で斬捨てたくなっちゃう。猪なんだな、私。どぅっど どぅっど と、周りのおいしそうな赤い実がなっていようと、甘い泉が湧いていようと、まっすぐ走っていくことにとり憑かれちゃう。これは社会人としてはマズイことですよ。それがわかってるんで、危うきに近寄らずってんで、禁止。でも、本当は、猪突したくってうずうずしているんですよ。猪年の今年は何に猪突しちゃうんでしょう。
ちなみに只今の熱望事項
名建築の旅館、クラシックホテルに泊まりたい!
たとえば 長楽館 湯之島館 金具屋 ますや旅館 蒲郡プリンス よろづや 奈良ホテル 

お正月のおまけ
お正月と言えば年賀状。
今年来た年賀状、1通覚えのない方からのものがあった。
印刷のほかに「1月23日を楽しみにしております」と手書きの文言が付け加えられていた。
え? どなたさま? わたし あなたさまと1月23日にお約束申し上げているんでしょうか? 思い出せない。手帳の1月23日は空欄。仕事日でもある。
マイッタ わたし 1月23日、どちらに伺えばよろしいのでしょう? 
              画像:左岸 桑原邸
コメント (17)
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