うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

お休みは隠れに行く

2009年03月25日 | お出かけ
長良川鉄道を検索していて見つけた場所に、お休みの今日は行ってきた。
1ヶ月ほど前から、時間を作って行ってみようと思っていた。今日は隠れ家日和だったわけだ。
美濃の県道をどんどん山の中に入っていくと、6軒だけの集落があり、その一つがドミトリーとカフェをやっているそうだ。


北側には裏山の斜面の草。



南向きの窓からは隣の山のてっぺんが見える。何にも言わずに木が揺れている。


隠れ家のメニューはケーキとコーヒーのセットのみ。プリンケーキとバナナシフォンケーキがあるそうなんだけど、プリンケーキをお願いした。


大阪からやってきたおにいさんがやっている。カヤックをする人だそうな。薪ストーブが燃えていて、私はすっかりもう、隠れた気分になっている。
「隠れ家」という言葉も、「癒し」という言葉同様、人の口で手垢のついたものになってしまって、なんだか恥ずかしいものになってしまったね。世の中に本当に隠れたい人、隠れ家が必要な人はどれほどいるだろう。好き勝手に生きている私はもちろん、本当に隠れたい人でも、本当に隠れ家を必要としている人でもない。ただの隠れ家好き、なだけだ。だから、本当に必要としているような、過酷な日常を過ごしている人には全く申し訳ないのだけれど、今日、私は隠れ家に行ってきました。隠れ家をいっぱい呼吸してきました。
隠れ家は隠れるとこなので、そっと自分のものにしておきたいけれど、もう1.2回行ってみたら、皆にも教えてあげるね。ごめんね、そして、ありがとうね、隠れ家
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Priusなひとびと

2009年03月10日 | 語る!
ホンダからインサイトっていうハイブリット車が売り出された。販売店の前を通るたびに、試乗したくてたまらない。ちらりと見ただけだけど、ハイブリットカーってのは、ああいう形じゃないといろんなもんがおさまらないのか、プリウスそっくりのフォルム。試乗したいといっても、プリウスに乗ったことないので、比べようもないけれど、運転してみたいよー。
私は今、ノートってのに乗っていて、コンパクトカーの範疇に入る車を選択したのだけれど、決めるときはプリウスもちょっと考えてみた。ちょうどそのときは、ガソリン1リッター180円台って時だったからだ。
確かにリッター30キロ超の燃費は魅力的だった。しかし、このプリウスは250万程度は出さねばならぬ車だ。コンパクトカーに比べたら、100万も高額であり、3ナンバーゆえ、諸税も高い(不勉強なので、エコ減税やらがどれくらいあるのかは知らないので、ごめんなさい)100万のプラス諸税という差額を、10年ほどで回収するには一体1年間にどれだけ走らなければならないのか、1万5千キロではきかないだろう。仮にガソリン1リッター100円、燃費をエコカー15キロ:プリウス30キロとしてY÷15×100-1000000=Y÷30×100 年間3万キロ走らねばならぬ計算か?ガソリンが200円近くになって1.5万キロ10年でもとが取れるという計算になるのか?プリウス保有者の方々は本当にそのような計算をされたのだろうか。それとも、純粋に地球のために地下資源をなるべく使わない、CO2 を出さぬという高邁な思想の持ち主か。なんとご立派なことだろう。しかし、年金生活者の大部分には贅沢な車だ。加減乗除を知ってしている人にとっても?な車ではないのかな。
簡単な計算をしてプリウスを買わないことにした。エコには賛同するが、エコノミー的にはあまりに合わないと思ったからだ。
私は毎日運転をするが、最近は本当に多くのプリウスを見るようになった。
そして、その運転がどうも、うーん、である。
年配の男性の方が運転している。助手席には妻らしき方が同乗されている。上場企業の中間管理職をリタイア、この不況下にあっても、奮発したら世界一周船の旅なんてのに出かける余裕はある、今までクラウンとかワーゲンとか乗ってたけれどガソリンも上がったしね、なんて層を勝手に想像してしまう。
なんだか、私はこの人々が不愉快だ。
エコをするなら、ちゃんと計算をして欲しい。余裕があるのかないのかわかんないところで、節約をどんぶりでしてしまう感覚が嫌だ。安いものが欲しいといって、ジャパネットで買い物をしてしまうようなものだ。それならば、幾つか大型電気店で価格調査をするなりネットで調べるなりしてからにして欲しいものだ。こういう大雑把な無理矢理感がこの層の人たちに多いように思う。故に(?)この層のプリウスの運転がゴーマンでたるい。追い越し車線でトロトロ走ったり、ウインカー出さずに車線変更したり。
うん、確かに他人の買い物であるのだから、大きなお世話であるのだけれど、許せないのだ、私は。そういう層を当て込んで売ってきたトヨタももっと考えるべきだよね、と思う。エコロジーはゆとりある層でなければできないってのは間違ったあり方だ。だから、インサイトはもう、200万以下というところで、立派だ。エコカーも庶民の物にしてくれようとしている。
エコロジーだってエコノミーだって、簡単な計算の中でも無理が出てしまえば、お題目のようなものになってしまう。だから、ホンダ、よくやってくれた、と思っちゃう。
この不況下、安いものばかりを求めていれば、経済活動を促進しないとは思うし、そこのところのジレンマは近代以降の自由経済にとって大きな問題だとは思う。でも、私は竹中平蔵氏が、小泉氏と同じくらい大っ嫌いなので、持てる者のみが持ち続ける世の中はよくないよって思う。それは格差の継承であり、停滞だもんね。


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ひかりはとどかない

2009年03月07日 | ことばを巡る色色
日本中にビルが建ち、一般のお方のおうちの隅から隅までにも、煌々と明かりがつき、私達は、明るい日々を生きている。
はて、そんなにも明るいことは不可欠か。そう、お仕事にはそれがよかろう。一つの部屋で多くの人が、隅っこの人だって夜だってお仕事ができる。おうちでだって、夜だってお仕事、お勉強だ。
昔のお家に、建物に行って御覧なさい。
明るいのは部屋の真ん中のほんの少しの場所しかない。隅っこにはぼんやりとしか明かりが届かない。
庭の木立や草叢にも小暗い場所がある。
家の中や、庭やらの光の届かぬ場所には、人間がまだ見つけていない色々が隠れている。誰にも言えずに隠した秘密かもしれないし、発見されることを待っている真理かもしれない。
かつてのお家や庭には、明るくないところを見るための仕掛けがあった。狭間も欄間も全てのものが証明で照らされていては見えないものを見るための物である。
光を通して見る。
光にかざして見る。
光を浴びて見る。
それでも、どこかが陰になっている。
私達は、隅の隅まで照明を当てることに適するような生き物なのだろうか。エネルギーを燃やし続けながら、全てに明かりが当たっているうそ臭さの中で暮らす必要があるのだろうか、それに耐えられるのだろうか、明るいことはそんなに嬉しいのか。
私は、もう、明るいばかりの無音のうるささの中に出て行くのが嫌だ。
家の隅、寺の隅で、ひっそりと息を潜める何か。それは一人一人は全能的でも無用でもないことを教えている。誰もが心細く、でも、生きていくことが生きていることの意味であるということを教えている。生には死が、死には生が不可分のものであるように、光には暗がりがなければならぬ。
光だけの、物語無用の時代は不可分の生死を片側からしか見ない。
年を重ねても老いることが認められない時代、傷つく心を許せない時代でありはしないかと思う。ことさら元気であろうとしたり、大きな希望なんて持たなくていいと思い込もうとしたり。
薄暗くって湿っていてぼんやりとしか見えない場所って怖いような嬉しいようなで、とびきり魅惑的なんじゃないのか?
コメント (2)
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