うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

神なき時代の神仏習合その4

2009年11月18日 | お出かけ
何度か検索を繰り返し、HPやらブログやらを読み、ネットの森の中にさまよいながら、数日かけてやっと少しわかってきた。
どうやら、ご夫婦の語った二つの地を往復することを勧めているブログがあるらしい。
そのブログは人気ブログであるらしい。
ブログ主は本も出していて、心酔者がいる。
心酔者は二つの地に参ることを実践しているらしい。
二つの地を往復することでDNAが活性化し、不老効果があるらしい。
 
そう言えば、はじめの神社でも、なんだか似つかわしくない、いわゆるアラフォーの女性二人がお参りしていた

恐る恐る、そのブログを覗いてみた。
コメント欄は毎日何百とカウントされている。ブログ更新のお礼やら、夫婦の不仲やら、婚家との不仲やら、実家との折り合いやら、腰痛やら、鬱病やら、子の引き子守やら、ペットの死やら、頭痛やら 世の中のありとあらゆる悩みと体の不調についての独白と、お祀りの仕方と サプリメント等の使用のあり方などなどが 隣の男性が唱えていた言葉と共に書き込まれている。

そうか、わたしはその真っ只中に、何にも考えずに入っていってしまったのだな。
悩みも、解決すべき問題も持たずに、お気楽に。
多分、拒絶感はそのせいだったのだろう。私はそこのコメンターでもないし、二つの道の実践者でもないのに、立ち入ってしまったのだな。
図らずも、わたしはその御山ゆかりの仏様を先月に拝観しているし、図らずも春にもう一つの地にも行っている。今年に入って二つの間を何度ももちろん何も知らずに往復した。
が、不老となるどころか、このことを知ってしまって、気持ちはあまりよくない。
私の神様仏様は イノセントな明るい無邪気な神様仏様だからだ。
私は寺社がいつも拒むことなく無言でそこにあっていただければ、それでいいのだ。
ちょいと失礼してお邪魔させていただきます という私を受け入れてくださればいいのだ。そこにあると思えるだけでしあわせなのだ。
有史來、多くの拝む人の心が、私の拝む対象であるのかもしれない。

世の中にはなんと悩みの多いことか。なんと悩みを抱く人の多いことか。
私にだって、悩み事や気がかりなことがないわけではない。けりをつけたいこともある。しかし、それを神仏に願うことはしたくない。イッパツ解決なんてものを私は信じない。それは大抵マガマガシイ物だ。イッパツの解決を願う自分もどこか汚らわしい。世の中のことはほとんどがイッパツでは解決しない複雑に絡み合ったものだ。すっきりした解答なんて高校受験の数学までで終わっている。その先は即座に解決しないものであり、人はその解決困難さを受け入れるべきだ。
人は古来、神仏にイッパツ解決を願い、裏切られたと感じてきた。それは神仏のせいでなく、絡み合ったものを絡み合わぬものとしてみたかったがゆえの逆恨みではないか。自らの咎を棚上げしたがゆえの失敗ではないのか。「神仏」というのを「他者」と言い換えなければならないかもしれない。他者にイッパツ解決を願い、かなえられぬと裏切られたと思うことは、人を幸せにしない。
解決しない世の中の前では、祈る。そうして解決していくのは自分でしかない。


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神なき時代の神仏習合その3

2009年11月15日 | お出かけ
古代の神が住まう杉木立の前の拝殿に私は招かれざる人であるように座っていた。
10人あまりの車座の人は三々五々散って話をしている。関西からのご夫婦は雨で濡れた上着を脱ぎ、持参の風呂敷に丁寧に包んでお参りをしている。なんとご丁寧なことと、作法も知らぬ自らが恥ずかしくなってしまった。
違和感は神官さんから発せられたものではない。ということはこの見えぬ被拒絶感は、参列の人からのものなのだろうか。杉木立の神の拒絶でなければよいのだけれど、と思った。わたしが今まで参った神様はそんなことはなかった。どの神様もそこにすっくと居られ、動かれることなくご挨拶を聞いてくださる。唯一、夕方の上鴨神社で感じたピリピリした感じに少し似ているけれど。
雨で濡れた足を気にしながらお参りする。私は招かれぬ者でしょうか。来てはいけないところにお邪魔してしまったのでしょうか とね。もちろん、神は沈黙している。神はいつも何も語らない。
が、私の隣で参っていた人品卑しからぬ温厚そうな男性は沈黙してはいなかった。
それは神への感謝の言葉だったのだけれど、呪文のように3度繰り返された言葉がはっきりと私の耳に響いた。むしろ誇らしげに私に聞かせようとするかのように唱えていたのだ。
下座に戻ると他の人々の話が途切れ途切れに聞こえる。皆楽しく談笑しているが、漏れ聞こえる地名から、村の人の他に数人が遠方から訪ねてきた一家であることがわかった。高速を使わねば4時間はかかるところだ。
先ほど隣で唱えていた男性と他の人が話をしている。この人たちも時間をかけてここまできたようだ。「ブログ」とか「霊感」とかいう言葉が聞こえる。
私は、混乱の極みとなった。
新興の宗教のようなものか?でも神職さんはこの長い歴史を持つ神社の方のようであるし。わからぬ。とにかく私の理解を超えている。
先ほどのご夫婦と再び話をした。「滝は紅葉が素晴らしかったですよ」と言ってもあまり興味のない様子で、ここには2度目だということだ。
え?関西からこの奥の神社に2度もおまいりか?
話が弾まないかと、私も寺社巡りをしていることを話してみたが、このご夫婦からも拒絶感があることに気づいた。
どうしてこちらをお参りですか と聞いてみた。
ご夫婦は古くからの信仰の地であるこのお山と、別の参拝の地をつなげておっしゃったのだけれど、私は「熊野古道」やら「中山道」やらのような古道を巡っておられるのだなと思って聞いた。
なんだか、割り切れぬ気持ちのまま、来た山道をくねくねと走って里へと帰る。「あっ」と気づいて思わず声が出そうになった。二つの参拝の地は遠く遠く離れている。二つを繋ぐ古道も新しい道もない。この二つを繋ぐ話などきいたことがない。
どういうことだ。どういうことだ。どういうことだ。

家に帰ってネット検索をした。
まずは神社の名で。 寺社の紹介とか釣り人のブログとか。なにも らしい ことはない。
次は ご夫婦の語った二つの参拝の地
そして、隣の男性が唱えていた言葉。
わらわらと hit
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神なき時代の神仏習合その2

2009年11月12日 | お出かけ
前記事(神なき時代の神仏習合その1)のように私は最近寺社を巡っている。

心の中では、神なき時代の★明るい★神仏習合
もしくは ★イノセントな 無邪気な 他意なき ★神仏習合 って思って私は寺社巡りをしている。
国宝指定って、やっぱすごい。きっと国宝鑑定人(?)も、最後にはオーラみたいので、これは重文これは国宝って決めているんじゃないかなって程、国宝のオーラはすごい。最近新たに拝観した竹生島本殿も高月町の十一面観音像も、もう近くによるだけで、体内のDNA螺旋が活性化され沸き立ち、龍のように天に昇っていくほどだ!平伏し、へへぇーと言いたくなってしまう。こんなにも素晴らしいものを見せていただいてありがとうございます、なのだし、生きていれば出かけていって見せていただける、あそこにずっといてくださると思えるだけで、生きていることが嬉しくなる。
以前に拝観した、法隆寺百済観音像も広隆寺半跏思惟像、興福寺阿修羅像 
漢字ばっかしだけれど、そりゃあ美しかった。

で、先日の休日、ある寺社に出かけた。
山岳信仰とあいまって中近世には多くの民が講を組んで出かけ賑わったところだ。お山は田に水を恵む。故に田の民はそのお山に巡礼したのだ。お山までの道すがらには点々とお山を祀る寺社がある。お山への道は講の人々でさんざめいたことであろうが、今は静かに寺社が眠るばかりである。お山の口の村に向かう途中の寺社は川沿いにある。船を使って参拝したのだろうか、川に向かって参道が続く。大きな奉納絵馬がかかっているが、月日の中で字はかすれてはっきり読めない。ここはまだ田の民の住むところだ。そこからどんどんとお山に向かって走る。
お山参りの入り口の村の寺社は文化財指定の仏像が宝物殿で拝観できる。端正な仏様だが、訪れる人はほとんどいない。大銀杏は小山の中ほどまで黄色く色づき、紅葉はほんのり赤く染まっているのに。
町の観光パンフレットを見るとお山への参拝道には滝があり、その先にも寺社があるとのことなので車を走らせる。雨の中、カメラ人が二人いるだけの滝は錦秋の中にあり、赤やら黄色の葉が舞い散っている美しい滝だ。雨の中なのに、かすかな虹が見えた気がした。
つづら折の道を登る。そこは山の世界だ。こちらに向かって流れていた川の流れが気づくと進む方向に変わっている。分水嶺を越えたのだ。そして村があった。山を越えた中にあるとは思えぬほどの戸数がある。参拝宿であったろうと思われる民宿もある。かつてはお山に行く人がこの道を通ったのであろう。

山道の右と左の木を使って注連縄が張られている。ここからは神の域。その先の神社。抱えられぬほどの杉が林立し、杉の巨木の間に3人が並べばいっぱいなほどの参道がある。参道は石の階段となって川へと下り、橋を渡るとまた上る。そこがこの神のお住まいだ。苔むす磐境。神は長いことここに坐しますのだ。
拝殿では、人が車座になっていた。神官さんがいらっしゃる。偶然にも参拝の日にお邪魔したようだ。
ふと、この村の人ばかりでないような気がした。
私の住まう郷の鎮守さまには「お宮当番」というものが数年ごとに順繰りである。だから氏子の新嘗祭のようなお祭は見知っているのだけれど、どうも雰囲気が違うのだ。何がとは言えぬけれど、違うのだ。
今時は 地方の観光協会がうたう名の知れた寺社も、お祭りの日でもなければ、参拝している人はそんなに多くない。大概はお年寄りの一人二人にすれ違うくらいである。こんなに山深い神社に他所の人が参りに来ているのだとしたら、どういうことなのだろう。
そういえば、参道を来る時に一緒になった品のよいご夫婦は関西からだとおっしゃっていた。高速道路休日料金はこの山の奥にも人を運ぶかと思ったけれど、一言二言交わした中に、妙な違和感があった。車座の人たちを見て、この村の人でない人がいるかもしれない、と思った時に感じたものと同じ感じだ。
それは、私の ★明るい イノセントな 無邪気な 他意のない★参拝を、どこか非難しているような気がしてならぬものだった。
それは、この杉木立の中に坐します神の拒否なのか、参拝者の拒否なのか、わからなかったのだけれど。
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神なき時代の神仏習合その1

2009年11月11日 | お出かけ
現代は神なき時代であるっ!この日本においてどれだけの人が真剣に神なり、仏なりの存在を信じているのであろうか。いや、確かにおられるのだろうけれど、例えば聖典仏典に書いてあるようなことを真実だと思っている奇特なお方がどれだけおられるだろうか。少なくとも私は、畏れ多くも持ち合わせておらぬのである。
が、寺社巡りをしております。
多分、この遍歴は
オールドノリタケ→洋館→近代建築→歴史的建造物→寺社仏閣 古街道 宿場 城下町
って過程を辿ってきたのだけれど。だもんだから、巡る神仏はほとんど文化財指定されてるとこだったりする、罰当たりのものだったりするのだけれど、休みのたんびに巡る巡るという状態ですよ。
そうなのだ。きっとこういうのって本当に罰当たりなんだろうなあって思う時もあるのだけれど、お寺もお社も、本当に素敵だ。建物って無機物なのに、もうそこにあるだけで拝みたくなる。もちろん、仏像さまも、飛び切りのお方は「神々しい」という言葉は、神様の存在を信じるとか信じないなんてちっぽけなことはひょいと越えてしまったところにちゃんと存在しているのだと思う。
思えば、学校で習った日本の歴史は宗教についてなんてちゃんと教えてくれなかった。それだから、神社では二拍手だけれど、お寺ではそうしては駄目とかっていうしきたりがあって、寺社は分離した信仰だと思い込んでいた。
でも、古い寺社に行けば、神社と寺院が同じ敷地に隣り合って建っていて、本当は仲がよかったのだとわかる。神仏分離というのが明治政府の「政策」でしかなかったことがわかる。
私は今の今まで、そんなことさえちゃんと知らなかったよ。日本人が1000年も前から神様も仏様も一緒に拝んじゃってるってことを知識としては知ってた気がするけど、本当には知らなかった。
ちょっと、いいな、って思った。
区別差別なしに、信じちゃうよ、拝んじゃうよって昔の日本がしてきたことって、ちょっといいんじゃない?
ありがたい、と思えば、それ勧進、ってちょっといいよね。

そんなんで、文化財指定と聞けば出かけ、御開帳だと聞けば出かけ、出かける途中で案内板が出ていれば拝み、の日々なのだ。
古い寺社は名水にちなむところが多いので、湧き水も汲む。故に車には水汲み容器と石段を登るための携帯ステッキは常備なのだ。
秋に巡ったのは 長命寺 竹生島宝厳寺 白山長滝神社 津島神社 国府宮神社 曼荼羅寺 日吉大社 渡岸寺十一面観音様 御朱印もいただいちゃう。

何にも知らなかったのだ。日本の宗教に関するいろいろ。教科書は本当のところを教えてくれていなかった。わずかに残った私の知識欲は、刺激されまくっている。宗派とか、歴史的な事象との関わりとか、もう知らなかったことだらけで、謀られていたのか、私は、と思わんばかりだ。
寺社を巡るたびに、人っていいな、おもしろいな、って思う。
誰だかわからぬ人が、名もない人が この荘厳な建物を建て、神々しくも勿体なくもありがたい仏様を造り、数知れぬ人が拝んで、寺社をお守りしたのだなあ、って思う。そういう、人の心はかわいらしくありがたいなあと思う。
私ごときのちっぽけなものに、神仏を信じてないからけしからんなんてぇ器の小さいことは、全く気にもかけぬように、寺社や仏像は気高く佇む。そこにあるというだけで、拝みたくなる。神仏の区別をつけず拝んできた歴史の中の人々は、そういうこともわかっていたのではないかと思う。
空一面の夕焼けや開き始めの蕾が美しく拝みたくなるのと同じなのではないかと思う。
拝みながらも、ほとんどの場合願い事はしない。寺社を見せてもらいに来ているだけの私なのだから、訪問の名乗りとお礼を言う。それぞれの寺社にはそこをお守りし信仰している氏子さんや檀家さんがいらっしゃり、よそ者の私が願掛けなどせずと、この時まで、ここにあり続けていることと、私の訪問を拒まずにそこにあることをありがたく思うばかりだ。寺社の空気の中にあるだけでよいと思えるものがある。その上願い事など、欲張りなまねはしなくていいのではないかな。
きっと、こういう大きな大きな寺社を造り、人の技とも思えぬような仏像を作る人の行為の中に神仏があり、それを長い時間守ってきた人たちの気持ちの中にありがたきものがあり、その神様仏様を、私は拝みに行くのだな。 
コメント (2)
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