何度か検索を繰り返し、HPやらブログやらを読み、ネットの森の中にさまよいながら、数日かけてやっと少しわかってきた。
どうやら、ご夫婦の語った二つの地を往復することを勧めているブログがあるらしい。
そのブログは人気ブログであるらしい。
ブログ主は本も出していて、心酔者がいる。
心酔者は二つの地に参ることを実践しているらしい。
二つの地を往復することでDNAが活性化し、不老効果があるらしい。
そう言えば、はじめの神社でも、なんだか似つかわしくない、いわゆるアラフォーの女性二人がお参りしていた
恐る恐る、そのブログを覗いてみた。
コメント欄は毎日何百とカウントされている。ブログ更新のお礼やら、夫婦の不仲やら、婚家との不仲やら、実家との折り合いやら、腰痛やら、鬱病やら、子の引き子守やら、ペットの死やら、頭痛やら 世の中のありとあらゆる悩みと体の不調についての独白と、お祀りの仕方と サプリメント等の使用のあり方などなどが 隣の男性が唱えていた言葉と共に書き込まれている。
そうか、わたしはその真っ只中に、何にも考えずに入っていってしまったのだな。
悩みも、解決すべき問題も持たずに、お気楽に。
多分、拒絶感はそのせいだったのだろう。私はそこのコメンターでもないし、二つの道の実践者でもないのに、立ち入ってしまったのだな。
図らずも、わたしはその御山ゆかりの仏様を先月に拝観しているし、図らずも春にもう一つの地にも行っている。今年に入って二つの間を何度ももちろん何も知らずに往復した。
が、不老となるどころか、このことを知ってしまって、気持ちはあまりよくない。
私の神様仏様は イノセントな明るい無邪気な神様仏様だからだ。
私は寺社がいつも拒むことなく無言でそこにあっていただければ、それでいいのだ。
ちょいと失礼してお邪魔させていただきます という私を受け入れてくださればいいのだ。そこにあると思えるだけでしあわせなのだ。
有史來、多くの拝む人の心が、私の拝む対象であるのかもしれない。
世の中にはなんと悩みの多いことか。なんと悩みを抱く人の多いことか。
私にだって、悩み事や気がかりなことがないわけではない。けりをつけたいこともある。しかし、それを神仏に願うことはしたくない。イッパツ解決なんてものを私は信じない。それは大抵マガマガシイ物だ。イッパツの解決を願う自分もどこか汚らわしい。世の中のことはほとんどがイッパツでは解決しない複雑に絡み合ったものだ。すっきりした解答なんて高校受験の数学までで終わっている。その先は即座に解決しないものであり、人はその解決困難さを受け入れるべきだ。
人は古来、神仏にイッパツ解決を願い、裏切られたと感じてきた。それは神仏のせいでなく、絡み合ったものを絡み合わぬものとしてみたかったがゆえの逆恨みではないか。自らの咎を棚上げしたがゆえの失敗ではないのか。「神仏」というのを「他者」と言い換えなければならないかもしれない。他者にイッパツ解決を願い、かなえられぬと裏切られたと思うことは、人を幸せにしない。
解決しない世の中の前では、祈る。そうして解決していくのは自分でしかない。
どうやら、ご夫婦の語った二つの地を往復することを勧めているブログがあるらしい。
そのブログは人気ブログであるらしい。
ブログ主は本も出していて、心酔者がいる。
心酔者は二つの地に参ることを実践しているらしい。
二つの地を往復することでDNAが活性化し、不老効果があるらしい。
そう言えば、はじめの神社でも、なんだか似つかわしくない、いわゆるアラフォーの女性二人がお参りしていた
恐る恐る、そのブログを覗いてみた。
コメント欄は毎日何百とカウントされている。ブログ更新のお礼やら、夫婦の不仲やら、婚家との不仲やら、実家との折り合いやら、腰痛やら、鬱病やら、子の引き子守やら、ペットの死やら、頭痛やら 世の中のありとあらゆる悩みと体の不調についての独白と、お祀りの仕方と サプリメント等の使用のあり方などなどが 隣の男性が唱えていた言葉と共に書き込まれている。
そうか、わたしはその真っ只中に、何にも考えずに入っていってしまったのだな。
悩みも、解決すべき問題も持たずに、お気楽に。
多分、拒絶感はそのせいだったのだろう。私はそこのコメンターでもないし、二つの道の実践者でもないのに、立ち入ってしまったのだな。
図らずも、わたしはその御山ゆかりの仏様を先月に拝観しているし、図らずも春にもう一つの地にも行っている。今年に入って二つの間を何度ももちろん何も知らずに往復した。
が、不老となるどころか、このことを知ってしまって、気持ちはあまりよくない。
私の神様仏様は イノセントな明るい無邪気な神様仏様だからだ。
私は寺社がいつも拒むことなく無言でそこにあっていただければ、それでいいのだ。
ちょいと失礼してお邪魔させていただきます という私を受け入れてくださればいいのだ。そこにあると思えるだけでしあわせなのだ。
有史來、多くの拝む人の心が、私の拝む対象であるのかもしれない。
世の中にはなんと悩みの多いことか。なんと悩みを抱く人の多いことか。
私にだって、悩み事や気がかりなことがないわけではない。けりをつけたいこともある。しかし、それを神仏に願うことはしたくない。イッパツ解決なんてものを私は信じない。それは大抵マガマガシイ物だ。イッパツの解決を願う自分もどこか汚らわしい。世の中のことはほとんどがイッパツでは解決しない複雑に絡み合ったものだ。すっきりした解答なんて高校受験の数学までで終わっている。その先は即座に解決しないものであり、人はその解決困難さを受け入れるべきだ。
人は古来、神仏にイッパツ解決を願い、裏切られたと感じてきた。それは神仏のせいでなく、絡み合ったものを絡み合わぬものとしてみたかったがゆえの逆恨みではないか。自らの咎を棚上げしたがゆえの失敗ではないのか。「神仏」というのを「他者」と言い換えなければならないかもしれない。他者にイッパツ解決を願い、かなえられぬと裏切られたと思うことは、人を幸せにしない。
解決しない世の中の前では、祈る。そうして解決していくのは自分でしかない。