うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

してもらう人 してあげる人

2024年08月26日 | ことばを巡る色色
「家族だから~」というドラマを見ている。

母が車いすになり、外出をしようと娘は車いすを押す。
娘は周りの人に「すみません」「すみません」と何度も言いながら道を行く。
「すみません」と言わねば、車いすではすんなり道を行けないのだ。
「すみません」は謝罪の言葉だ。自分がいけないことをしているとき、迷惑をかけた時、世の中に謝る言葉だ。

しかし、車いすに乗っていること、車いすで外出すること、車いすで道を行くことは、いけないこと、迷惑をかけていることなのだろうか。
車いすになっていることは、いけないこと迷惑なことなのだろうか。
そもそも車いすになることをその本人も望んでしているわけではないし、本人の落ち度があっての結果でもない。だのに、謝らなければ道を行けないことって、どういうことなのだろうか。
車いすで外出すること、ひいては車いすを使っていることは「すみません」ことなのか。

「してあげる」側の人がいて、「してもらう」側の人がいる。
「してもらう」側の人は「してもらい」たくて、「してもらう」側になっているわけではない。「してもらう」側になりたくはなかったと思っている人が多いだろう。
「してあげる」側の人は、自分の意志で「してあげる」かどうかを決め、「してあげる」ということをしているのだが、「してもらう」側の人は、自分の意志で「してもらう」側にいるのではない。障がいだけでなく、出自も性別も貧富も、世の中のありとあらゆる差異は、本人の望むと望まざるとにかかわらずやってくる。だから、「してあげる」側の人が、安易に「してもらう」人は「してもらう」ことに甘えていると考えるのは、「してあげる」側からしか見ていない発想かもしれない。
その不公平を、その偏りを、いつもいつも考えていなければならないということを「家族だから~」は静かに示す。

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