K.Oka
「岡 潔」のことばより考えた
「ものづくりに必要なこと」
心の世界
花を見れば花が笑みかけていると思い、
小鳥を聞けば小鳥の声が呼びかけていると思う。
他が喜んでいれば嬉しく、
他が悲しんでいれば悲しく、
みんなのために働くことに無上の幸福を感じる。
何の疑いも無い。これが心である。
・・・・・
人には心が二つある。
そして二つしかない。
一つは心理学の対象となっている心であって、
この心は、私を入れなければ動かないし、わかり方は必ず意識を通す。
これを第一の心ということにする。
欧米人は太古以来、この心しか知らないのである。
第二の心は頭頂葉に宿っている。
これは無私の心である。
わかり方は意識を通さない。
第一の心は、心理学者は知らないだろうが、
本当は物質的自然界全体に及んでいる。
自然科学者の暗黙の自然の説明が、
初めに時間・空間があると思うのはそのためである。
人は本当は
第二の心の中の
物質的自然界の中に住んでいるのである。
私たちは無量の情緒に包まれた
物質的自然界の中に住んでいるのである。
コメント
正しいとか正しくない以前に自分の思考について、
アイデンティティをしっかり持つことの重要性と、
考える深さを教えられるように思います
人が何かを考えることはどういうことなのでしょうか
アイデアは第一の心では発明でしょうが
第二の心では発見(あるいは 無)でしょう
心の自覚を自分の場所にしっかり落ち着かせることで
安心した状態で、物事に取り組めると考えています
毎日の積み重ねを続けていきたいとおもいます
ものづくりの背景には
ここまでの思考が必要だと考えています
そこで次の言葉(鈴木大拙の警告)を
大切に考えられます
鈴木大拙の警告
『
北条先生は理学士で数学専攻であった。立派な教育家で、学習院院長を最後に教育界から退かれた。先生が専門学校へ来られてから、学校の数学教育は面目を改めた。自分らは大いに勉強した、そうしてまた勉強するように教えられた。数学の予習に夢中になるようになった。そのとき、こんな話があった。何でも西田は夕方薄昏くなっても、ランプなしに、紙上に書きつけた数字を能く見て、問題を解決するまで勉強した、と。一所懸命にやると、暗がりでも見えるそうだ、一心の力もえらいものだなどという評判があった。
このどこどこまでもその底に徹しなければ已まぬというのが西田の性格であった。吾等の多数は何かの疑問があっても、しかしてそれを解決しようと努力はするが、どうも好加減のところで腰を折る。意志が強くないというよりも、寧ろ知力の徹底性が欠けているというべきではなかろうか。東洋的教養では意力に偏して、知力を軽視する傾きがある。それでやたらに道徳的綱目を並べて、これを記憶し、またこれを履修する方面に教育の力点をおいている。そうして数学や科学のようなものは、実用になればそれでよいとしている。東洋人が一般に-特に日本人が- 感傷性に富んで、知力・理知力に乏しいところへ、理論の研究を実用面にのみ見ようとするから、教育は一方向きになっていく。批判が許されぬ、研討が苟且(こうしょ)(おざなり 上野注)にされる、知力の徹底性が疎んじられる。従って物事に対しても主観的見方が重んじられて、客観的に事実を直視し、その真相を看破しようという努力が弛んでくる。今度の敗戦の如きも、その根本原因は日本人の理知性に欠けたところに存するのである。今更科学科学と言って大騒ぎするが、科学なるものは、そんなに浅はかに考えてはならぬのである。手取り早く間に合うようにと、いくら科学を団子のように捏ね上げようとしても、捏ね上げられるものではない。まず、物を客観的に見ることを学ばねばならぬ、そこからこれに対して徹底した分析が加えられなければならぬ。これが日本人の性格の中に這入ってこないと、偉大な科学の殿堂は築き上げられぬ。科学や数学の学修を、単なる実用面にのみ見んとする浅薄な考え方をやめて、学問の根底に徹する、甚深で強大な知性の涵養を心懸くべきである。これが出来ると自から人格の上にも反映してくるにきまっている。こうすべきだ、ああすべきだ、「謹しむ」べきだ、「畏まる」べきだとのみ、朝から晩まで、晩から朝まで、吾等の頭に叩き込まんとする官僚は、余程結構に出来て居る頭脳の持ち主だ。これでは世界性を持った考え方は日本人の中からはどうしても出て来ない。又戦いくさして、又負ける位が関の山であろう。
』 (鈴木大拙全集)1945年8月26日記