いのちの煌めき

誰にだって唯一無二の物語がある。私の心に残る人々と猫の覚え書き。

私と母の物語1

2023-03-19 23:59:00 | 日記
テレビ等でも時々お見かけする、女医のおおたわ史絵さんの著書「母を捨てるということ」を読んでみた。

いびつな母親と、その母親に物心両面で侵略され壊されそうになる娘の話し。
様々な依存症についての入門書のような一面もあった。
長らく続いたコロナ禍の期間、時々、否応なしに訪れる空白の時間の中で、ふと…思い出すのは、昔々の出来事たち。

暑い夏の日差し、長雨の匂い、夕焼けの空、、そういう景色が私の心の中に、小さな私を呼び覚ましてしまう。

私の母も、おおたわ先生のお母さんと同じように、いつも不機嫌な人だったな…と思った。

小学校から帰宅して、真っ先にすることは、母の顔色を見ること。母の気分は、予測不能にコロコロ変わるから。
その後は、たいてい、母の機嫌を損ねないように、大人しく過ごすことに終始していた。

また、母の思い込みや刷り込みも凄かったと思う。
子どもの頃の私は体格も良く、元来、運動神経も悪くはなかった。でも、母は私のことを誰にでも、必ず「この娘は、本当に、どぐさい子なんよ〜」とあざ笑うように話すのだ。本当にもう、いつもいつも、どんな時でも毎回そう言う。
そして、そう言われ続けると、私の無意識は、母の期待通り、本当にドジなことばかりする。母は様々、失敗を繰り返し、オロオロする私を見て、イライラして怒鳴ったり、馬鹿にしたりする。母はこういうコミュニケーションの方法しか、出来なかったのかもしれない。
その時、母にとって必要だったのは、自分の手中に収まらない自立した賢い娘ではなく、ドジで馬鹿な手の掛かる娘のほうだったのだろう。
これが、私と母の共依存の始まりだったと思う。

家族ゲーム

2023-03-19 23:39:00 | 日記
子どもの頃から、ずっと私に支配的だった母は今、私とのパワーバランスが逆転しつつある。すると、今度は、ひどく依存的になってくる。
ギリギリまで、老親夫婦2人での生活に、手出しをしないように距離をとっていたが、ついに、その生活にも限界が見えてきた。

あちらこちらに奔走し、公的な介護サービスも受けられるよう手配もしたが、母はそれでは満足しない。
今度は自分の弱さを武器にして、何としてでも、娘を取り込み、自分の支配下に置こうとする。
自分の思い通りに娘を動かしたいという、元来持っているコントロール欲求があらわになってくる。
そういう家族ゲームを母から仕掛けられるたびに、私はえも言われぬ虚無感に苛まれる。
「ああ、この人はまだ、こういうことをするんだ」と思うとゲンナリする。
そしてまた、情けないことだけど、どんなに気を付けていても、そういうゲームに巻き込まれそうになることがある。ただ、救いになっているのは、私の今の家族だ。夫と子ども達が、私の立ち位置がブレないように、しっかりと支えてくれている。
母の無理なわがままに、私の心が揺れることがあっても、娘は「そこまでは、したらあかん」とブレーキをかけてくれる。その言葉に、ハッとして助けられたことが何度もある。

母の常套句には「私がそう思うのは、あんたの為を思うからや」というものがある。
自分が不幸なのは父のせいで、自分がしたいことは、娘のため。母の言い分は、たいていそうだが、客観的にみれば、ほとんど自己中心的で自分勝手なことが多い。

ここで大事なのは、優先順位の付け方だ。
一番、大事なのは、私自身の心と体。それを損なうほど、母に尽くさねばならない理由は何一つない。私は私自身が何よりも健全に暮らせることを最優先にする。次に、私の夫と子ども達。それから、他の家族、親戚、友達…と優先順位の同心円は広がってゆく。
そのさじ加減を間違えると、私の人間関係は、たちまち混乱してくる。