いのちの煌めき

誰にだって唯一無二の物語がある。私の心に残る人々と猫の覚え書き。

とめさん

2023-03-20 10:35:04 | 日記
とめさんは80代。骨太のガッシリとした体型。立位保持は可能。手引き介助で歩行も少しは出来る。認知症は中程度から、やや重度のほうに傾いている。黙って座っている時は一見、気難しそうなおばあさんに見える。ところが、話し掛けると印象は一変する。活発な発言が続き、表情も豊かになる。

とめさんは誰かが一緒に座ってさえいれば、自分の話したいことを語り続ける。相手が聞いていてもいなくても、それは関係ない。だだ話しの内容は断片的で、わかりにくい。
先日、入浴介助の機会があったので、試しに少し簡単な質問をしながら聞き出してみた。いつも「お父さんが、お父さんが、、」という言葉をよく使っているが、お父さんとはとめさんの実のお父さんのことで、亡くなった旦那さんのことではなかった。とめさんも先に記したきょう子さんと同じく、最後まで記憶に残っているのは子供時代の事のようだ。とめさんの産みの母はとめさんが5歳の頃、病気で亡くなった。お母さんは死の間際「お母ちゃんはマンマンちゃんの所へ行くけど、お父ちゃんの言うことよう聞いて、お父ちゃんに可愛がってもらうんやで」と言われたという話しを繰り返す。5歳だった自分には、マンマンちゃんの所に行くが、もうすぐ死ぬという事だとはわからずに、母親は病気が治れば帰ってくるんだと思っていたと寂しそうに話してくれた。とめさんの心の中の小さな5歳のとめさんは、まだお母さんとお別れを出来ていないのかな?と思った。とめさんの下には、妹さんがいたそうだ。他に私が確認出来たとめさんの記憶に残っている兄弟は、お兄さんが二人、お姉さんが一人だった。お父さんは山陰地方で製紙工場を営んでいて、お父さんの存命中はそこそこ裕福だった。ただ、とめさんのお母さんが亡くなった後、程なくして継母がやってくる。二人の連れ子を伴ったこの女性は、とても意地悪だった。商談のため、遠方まで出掛けることもあったお父さんがいない時には、とめさんと妹はご飯を食べさせてもらえなかったという。家の裏で妹と寄り添い、ひもじい思いを噛みしめた時のことは忘れられないようだった。
でも、この継母が連れて来た二人の男の子は優しかったという。自分達のお母さんの目を盗んでこっそり食べ物をくれた。「早よ食べ。うちのお母ちゃんに見つかったら、怒られるから。早よ、早よ、、」って、ご飯を届けてくれたそうだ。
程なくして、この継母の行いは、ご近所の人々から父親にも伝わり、継母と連れ子達はお里に返された。それでも一年以上は辛い思いをしたという。
とめさんの話しは、断片的にこれらの出来事の繰り返しが多い。時系列に話してくれる訳ではないので、うわの空で聞いていると、それはただの雑音と変わらない。聞く側が整理して聞かないと理解出来ない。
実母と継母、この二人の母との関係が、とめさんにとっての思い残しなのかもしれない。



私と母の物語7

2023-03-20 01:20:00 | 日記
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
作家の林芙美子氏の詩だ。

実は、この詩の額縁が子ども時代の私の寝室に飾られていた。
母はいったい何を思って、この額を私の部屋に掛けていたのだろう?
それほど、深い意味はなかったのかもしれないが…
それでも、私は日に何度となく、この額縁を見つめながら、その言葉を諳んじていた。

花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき…

幼心にも、あまり前向きでも、明るいことでもないな…ということは感じられた。
眠れない夜なんか、繰り返し、繰り返し、この言葉を諳んじる。そうすると、余計に眠れなくなる。まるで、呪いの言葉のようだ。

そういえば、、小学校3年生くらいの時、しばらく、不眠症のようになったことがあったなぁ。
眠れなくて、怖くなって、母の布団に潜り込もうとして叱られた。

この文章を書く前に、少し検索したのだか、どうやらこの詩には、続きというか、全文があるらしい。

    風も吹くなり
    雲も光るなり
    生きてゐる幸福(しあはせ)は
    波間の鴎(かもめ)のごとく
    縹渺(ひょうびょう)とたヾよい

    生きてゐる幸福(こうふく)は
    あなたも知ってゐる
    私もよく知ってゐる
    花のいのちはみじかくて
    苦しきことのみ多かれど
    風も吹くなり
    雲も光るなり

ペーストさせて頂いたブログの解説にも記されていましたが「多かりき」ではなく、「多かれど」なら、まだいささか希望が感じられるかと。

私もこの辺りで、「花の命は…」についての私自身の情報をアップデートしようと思う。

生きている幸福は、あなたも知っている。
私もよく知っている。
ときに苦しいことは多くても、
後の日には、風も吹けば、雲も光る。

人生って、それほど、悪いもんでもなさそうだ。

私と母の物語6

2023-03-20 01:09:00 | 日記
私が「親捨て」の作業に、本格的に向き合ったのは、自分も子どもをもうけて、子育てを始めた頃からだ。
とにかく、上手くいかなかった、子育てが。
小さな事から、大きな事まで、ことごとく壁にぶち当たって、前に進めなくなった。
子どもが泣けば、自分も泣き出し、一緒になって、ワンワン泣くような日々の連続だった。
特に、最初の子どもは、私自身の神経質さが伝わるのか、過敏で病弱だった。加えて、同居の義父母からの干渉もあいまって、私の心身は限界に達していた。
ある日、我が子に対する虐待スレスレ…の感情が、湧き上がってくるのを感じた。咄嗟に、「これは、マズイことになる…」と急ブレーキをかけた日のことを覚えている。
何とかしなければ、、これは、私の心の問題だ。助けて、と誰かに言おう。そうだ、そして、助けてもらうのだ。それは、決して悪い事ではない。私の中の小さな私が、外側で悪戦苦闘している大人の私に向かって、小さな、でも力いっぱいのシグナルを発信していた。
ここがいわゆる「底つき」という状態だったのだと思う。ターニングポイントだった。

それから、少しずつ、あらゆる方面から、有形無形のサポートを受けて、私は自分の心と向き合い、自分の心を回復させつつ、同時に子育ても平行して行った。振り返れば、ギリギリ綱渡りのような日々もあったけど、幸い、子ども達は健全に成長してくれたと思う。

先日、娘に「私達はママに自力で生きる力を育ててもらったと思うし、自分と他人との距離感とか、自尊心とか、そういうことも身に付けさせてもらったから、すごく感謝してる」と言われた。嬉しかったし、安心もした。

私自身の対人関係は、境界線が無茶苦茶だった。優先順位も間違っていた。必要な自尊感情も持っていなかった。ただ、子育てをしながら、同時に自分育てもし直した。必死だった。自分育ての最中に、気付いたことや、わかったことは、子ども達にもシェアしていたので、それが、単なる感覚に留まらず、知識としても身に付いたというのなら、全てのことが、相働いて、益となったということだろう。
私の人生は、一見、遠回りのように見えて、実は全部が繋がっていて、必要なことだったと思う。
私の母は、今では、私にとっては、完全な反面教師になっている。それはそれで、私にとって、重要な意味を持っている。

私と母の物語5

2023-03-20 00:57:00 | 日記
昔、火事があった。

これも、小学生の時のこと。
ある日、ご近所に住んでいた友達の家が、火事になった。
その家は、小さな川と道路を隔てた所にあり、私の家にまで類焼してくるほどの大火事でもなかったけれど、それでも、消防車はたくさん駆け付けて、周辺は騒然としていた。
たぶん、土曜日だか、日曜日だったのだと思う。私達家族は、揃って何処かに出掛けようとしていた。
私は、友達の家が火事になっているという現実にショックを受けていた。
母に「○○ちゃんの家、火事やで!」って、息急き切って伝えた。そして、その後の母の言葉が、今も忘れられない。
「なんやのこの子、真っ青な顔して、唇震わせて、気い、小さいなぁ。ほんまに、情け無い子やで…」と。

友達の家が火事だと知れば、誰だって、心配するだろう。友達は無事かと、心が揺さぶられれば、血の気も失せるだろう。
あの時の私の様子は、至って、真っ当な反応だったと、今ならわかる。
でも、母に先のように評価され、嘲笑われると当時の私は、自分の心持ちに全く自信がなくなった。これくらいの事で、慌てたりしてはいけないのか?また、正直な気持ちを露わにすることは、はしたないことなのか? 悪いことなのか?と。

それから、母はその家のことを気にすることもなく、身支度を整えて、外出することを選んだ。
私はずっと、友達のことが心配で仕方なかったけれど、それ以上、何も言うことが出来なくなった。
友達はそれから暫くして、引っ越して行った。
今も、どこかで、元気に過ごしていてくれれば嬉しい。
理不尽な思い出と一緒に、時々、思い出す友達のこと… 

私と母の物語4

2023-03-20 00:47:00 | 日記
私が小学生の時、校庭の片隅に、回扇塔というクルクル回る遊具があった。ぶら下がった友達を、回す担当の子どもが人力で回して遊ぶ遊具。
そんな遊具は、今はもうどこにもないと思う。
なぜなら、とても、危ない遊具だったから。

私は放課後の少しの時間、友達とゆるゆる、それを回しながら遊んでいた。そこに、同じクラスの男の子達が数人加わって、事故は起こった。
その時、私一人が、その遊具にぶら下がっていて、男の子達が力任せに、ブンブン回し始めた。「やめて、やめて、、」と必死で止めているのに、その回転は速度を増し、止まらなくて、遂に私の小さな手は握力を失った。
遠心力で大きく弧を描き、遠くまで飛ばされた私の体は、宙を舞い、次に激しく地面に叩き付けられた。
しばらく、痙攣して、気を失っていたようだ。
側にいた男の子達も友達も、言葉を失ってただ、茫然としていた。また一瞬のうちに、そんな事態を招いたことを後悔もしただろうし、先生に叱られることも、恐かっただろう、苦しんでいる私の姿を見ても、誰も先生に知らせてくれる子はいなかった。
ただ、「大丈夫?大丈夫?…」と私の周りで、オロオロしているばかり。
時間にしてどれほどだったのかは、定かではない、幸い、意識を取り戻した私は、自力で立ち上がり、ノロノロ家路を辿って帰った。ショックだった。誰にも、助けられなかったことが。漠然と、私は誰にも心配されない子どもなんだと思って、悲しかった。身体も痛かった。でも、泣いてはいけない。苦しい気持ちを押し殺して、帰宅した。
家にいた母は、私の異変に気付いたようだった。「どうしたん?服、汚れてるやんか」「顔、青いで」とも言った。私は、その言葉と情景を今でも憶えている。でも私は「何でもないよ」と答えた。それ以上、母は何も聞かなかった。
私はなぜ、何もないと母に言ったのだろう。
本当は、恐かったのに、辛かったのに、、なぜ、何も、言えなかったのだろう。
感情を抑えて、気持ちを押し殺すことを先に覚えてしまうと、子どもは助けて…という言葉も言えなくなる。本当に、大切なことも伝えなくなるのだ。

私の娘が小学生の時、学校のある備品が整備不良が原因で、娘の足の上に落ちてきたことがある。幸い、たいした怪我にはならなかったが、学校からの連絡があり、知らされた病院へ駆けつけた。保健の先生と校長先生が、付き添っていてくれて安心した。先生方は、私からの怒りクレームが噴出するのではないか?と戦々恐々としておられたが、私は敢えて、そういうことはしなかった。学校側に何か問題があるのなら、この事態を通して、先生方が考えればいいことだし、私はそんなことには、感知しない。余計なエネルギーは使いたくない、という気持ちのほうが強かった。
とにかく、私にとって大事なことは、娘のことだけだ。私が到着した時には、一通りの診察が終わっていて、娘は待合室に座っていた。私は、そっと娘の側に寄り添って、ただ、黙って抱きしめた。「痛かったやろ?、大丈夫か?」と声をかけたら、娘は安心した顔を見せ、それから、ポロポロと泣き出した。いろいろ、こらえていた気持ちが、溢れ出したのだろう。しばらく、黙って抱き合っている私達親子の姿を先生達が、ポカンと見つめていたことを覚えている。
あの時、私は娘と一緒に、私の中の小さな私も抱きしめていた。
私も、あの時、黙って母に、抱きしめて欲しかった。「大丈夫やで、もう大丈夫やで、何も心配せんでもええんやで、」って、言ってもらいたかった。そして、心の底から安心したかった。