光というものは、あたり一杯に渦まいて
いるのだと御理解下さい。
どこかに行けば光がある、というのでは
なく、どこも光なのだということなのです。
今あなたの住んでおられるお宅も、
あなたが歩かれるところ、すべてに、光は
あるのだということであります。
人間というものは、光のいのちなのです。
私がいつも申しますように、神から
わかれた分生命(わけいのち)、分霊(わけ
みたま)、これが人間の真性、真実のすがた
なのです。
神様の本質というのも変だけれども、神
というものは、愛とゆるしの光、調和の光を
ずっと放射しているそういう方ですから、
その光を受けて生まれてきた人間は、
神の子、光の子というわけなのであります。
ですから、光というものは、あなた
自身のなかにあって、いつもあなたを導き、
肉の身そのままで、光にみたそう、明るい、
素直なおもいに満たそうと一生懸命
なのです。
生命の源である光が、今、あなた自身の
なかに活きて、働いているのだという
ことをどうぞかたくお信じになって下さい。
そうすると、先ず、自分自身が光
なのですから、光は、そこら中にみちている
ということになります。それは、
あなたの(人間の)本心の光が、かがやいて、
自然万般にみちている光(生気)と相抱き、
互いにそのかがやきを増すのであって、
決して、人間が偉いからではありません。
すべてのものが、みな、素直に大生命に
帰一する時、光となるのであります。光
そのものとなってゆくのであります。
私も、昌美も、また、この世界に生きる
心ある宗教家は、元々の大生命の
かがやきと、その大生命を源として、人が
生まれてきた事実とを、あるいはまた、
人間が本来、すなおな朗らかな、
おおらかないのちそのものであることを
伝えつづけているのであります。
光は遠くにあるのではない。光は自分の
うちにあって自分を生かし、光と光を
結んで、この地上を、宇宙を照らしてゆく
のであることを、どうぞお覚え下さい。
世界人類が平和でありますように
昌 久
いるのだと御理解下さい。
どこかに行けば光がある、というのでは
なく、どこも光なのだということなのです。
今あなたの住んでおられるお宅も、
あなたが歩かれるところ、すべてに、光は
あるのだということであります。
人間というものは、光のいのちなのです。
私がいつも申しますように、神から
わかれた分生命(わけいのち)、分霊(わけ
みたま)、これが人間の真性、真実のすがた
なのです。
神様の本質というのも変だけれども、神
というものは、愛とゆるしの光、調和の光を
ずっと放射しているそういう方ですから、
その光を受けて生まれてきた人間は、
神の子、光の子というわけなのであります。
ですから、光というものは、あなた
自身のなかにあって、いつもあなたを導き、
肉の身そのままで、光にみたそう、明るい、
素直なおもいに満たそうと一生懸命
なのです。
生命の源である光が、今、あなた自身の
なかに活きて、働いているのだという
ことをどうぞかたくお信じになって下さい。
そうすると、先ず、自分自身が光
なのですから、光は、そこら中にみちている
ということになります。それは、
あなたの(人間の)本心の光が、かがやいて、
自然万般にみちている光(生気)と相抱き、
互いにそのかがやきを増すのであって、
決して、人間が偉いからではありません。
すべてのものが、みな、素直に大生命に
帰一する時、光となるのであります。光
そのものとなってゆくのであります。
私も、昌美も、また、この世界に生きる
心ある宗教家は、元々の大生命の
かがやきと、その大生命を源として、人が
生まれてきた事実とを、あるいはまた、
人間が本来、すなおな朗らかな、
おおらかないのちそのものであることを
伝えつづけているのであります。
光は遠くにあるのではない。光は自分の
うちにあって自分を生かし、光と光を
結んで、この地上を、宇宙を照らしてゆく
のであることを、どうぞお覚え下さい。
世界人類が平和でありますように
昌 久