さやけき生命というのは、何ものにも
こだわりのないいのち。こだわるも
こだわらないも、光っている生命。それは
どこから来るかというと、神様から来る。
それを我々はいただいている。その
頂いているものがと切れない為には、
祈りの生活をしてゆかなくてはいけない。
いけないというよりも、祈って
ゆかないと生きてゆけないように我々の
身体というものはなってるわけです。
だから、祈ってゆく時に、我々は息を
する事が出来るし、魂も呼吸することが
出来る。霊も輝く事が出来る。世界平和の
祈りというのは、我々の肉体にも霊体にも
神体にも、すべての世界、三界にいる我々
自身に対して光を与えてゆくことが出来る。
そういうことを言っている訳ですね。
清(さや)けき生命というものは、
神より来ると言いましたけれども、神様と
我々は、昔は目に見えるかたちで耳に聞こ
えるかたちで、感じるかたちで、手に
触れるかたちで、縦にも横にもつながって
いたのですが、この世というものが出来て、
それで我々が地上に降りて来た時に、肉体
という衣をまとった時に、だんだんと
その粗い波動の中に入って行って、
そのことによって我々は、神というものを、
なんかひとつスリガラスを隔てたような、
そういうかたちで見るように
なってしまった。
最初そんな遠いものではなかったのが、
だんだんと神様が雲上人になって、神様
なんて居るのかしらと。人間世界の科学
技術が発展し、哲学もすすみ、肉体を
まとった自分が自分だと思ってしまった。
そこから神と自分は容易につながらなく
なった。
19世紀の末なんか、世紀末というような
思想が起こって来て、神は死んだなんていう
ことになって来たんですが、皆んなが
それぞれに、今また神様を求めることを、
ブームみたいになっていますけれども、
自分がどこから来たのか、どうなるのか、
こんなに今不安になっている時代は
ありません。なぜ不安になっているか
というと、神様のことを皆んな聞いたり
求めたりするけれども、自分が神様に守ら
れているということを実感出来ることが、
とても少なくなっている。だから不安に
なるわけです。
神様の守りを実感するにはどうすれば
いいかといいますと、これはもう祈ること
です。それしかないんですね。祈って祈って
祈り抜いてゆくと、光しか残らなくなる。
これは真実なんです。
(翌日に続く)
こだわりのないいのち。こだわるも
こだわらないも、光っている生命。それは
どこから来るかというと、神様から来る。
それを我々はいただいている。その
頂いているものがと切れない為には、
祈りの生活をしてゆかなくてはいけない。
いけないというよりも、祈って
ゆかないと生きてゆけないように我々の
身体というものはなってるわけです。
だから、祈ってゆく時に、我々は息を
する事が出来るし、魂も呼吸することが
出来る。霊も輝く事が出来る。世界平和の
祈りというのは、我々の肉体にも霊体にも
神体にも、すべての世界、三界にいる我々
自身に対して光を与えてゆくことが出来る。
そういうことを言っている訳ですね。
清(さや)けき生命というものは、
神より来ると言いましたけれども、神様と
我々は、昔は目に見えるかたちで耳に聞こ
えるかたちで、感じるかたちで、手に
触れるかたちで、縦にも横にもつながって
いたのですが、この世というものが出来て、
それで我々が地上に降りて来た時に、肉体
という衣をまとった時に、だんだんと
その粗い波動の中に入って行って、
そのことによって我々は、神というものを、
なんかひとつスリガラスを隔てたような、
そういうかたちで見るように
なってしまった。
最初そんな遠いものではなかったのが、
だんだんと神様が雲上人になって、神様
なんて居るのかしらと。人間世界の科学
技術が発展し、哲学もすすみ、肉体を
まとった自分が自分だと思ってしまった。
そこから神と自分は容易につながらなく
なった。
19世紀の末なんか、世紀末というような
思想が起こって来て、神は死んだなんていう
ことになって来たんですが、皆んなが
それぞれに、今また神様を求めることを、
ブームみたいになっていますけれども、
自分がどこから来たのか、どうなるのか、
こんなに今不安になっている時代は
ありません。なぜ不安になっているか
というと、神様のことを皆んな聞いたり
求めたりするけれども、自分が神様に守ら
れているということを実感出来ることが、
とても少なくなっている。だから不安に
なるわけです。
神様の守りを実感するにはどうすれば
いいかといいますと、これはもう祈ること
です。それしかないんですね。祈って祈って
祈り抜いてゆくと、光しか残らなくなる。
これは真実なんです。
(翌日に続く)