(前日から続く)
ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済という
ものがあり雑事があって、又、肉体を持って
いるから、食べたり飲んだりしゃべったり
しなくちゃならなくて、雑事を片付けてる
ひまに、祈りというのがどこかへ行って
しまう。本体は祈ってるんですが、肉体の
方は雑事を優先してしまう。本体は、肉体の
我々がどんなに雑事にまぎれていようが
何していようが、祈って祈って祈り抜いて
いるんです。見えていないけれども、ずっと
祈り抜いているわけですね。だからその
祈り抜いているいのちというものが、常に
神様と出会っているし、神様と話を
しているし、神様といろんなことを
語り合っている、呼び合っている。
そうでないと人間は生きてゆけないん
ですね。我々のもとのもとは、神様の愛
によって生かされているわけで、その
清(さや)けきいのちというのは、自分の
中にあるんです。自分の中というのは、
肉体の中という意味じゃなくて、自分の
本体、神様から分けられて来た光の中に
あるわけですね。
そのことを知っている人は少なかったん
ですが、今はもうそんなことを言ってる場合
じゃなくて、いろんな人が印を降ろしたり、
光を降ろしたりして、実際に我々が神様の
もとにある生命なんだとわかってきた。
我々のいのちの親というものが神様
であって、その神様の大宇宙神の目指して
おられるところは大調和であり大愛であって、
我々は大愛の子なんですよね。大愛の子
というのは敵も味方もない。大愛の子の
みんなが、世界人類が手を取り合った時には、
真実の平和が築かれて行かないとうそになる。
そこで争いなんか起こって来たらこれはもう
うそになるんですね。
それでも起こって来ることがある。つまり
それは、平和の祈りが足りないからだと。
足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。ところが、
そこに想いを向ける自分が足りない。肉体が
悪いわけではないけれども、何が足りないのか
というと、自分が肉体だけの生命ではない、
自分は神様の愛によって生かされていて、神様
から来たものであって、その神様というのは、
我々の大きな器を与え光を満たして下さって
いる。そういう時間が非常に少ない。だから
足りなくなって来る。
こんなんでいいのかと思う。こんなんで
やっていけんのかと思う。月給が入って来ない
いろいろとどうしようかなと思う。これ全部
消えてゆく姿ですよね。たとえお金が無くても、
光が入っていることに気が付けば、お金なんて
ものはあとからついて来るんだけど、人間
というのは、やっぱり生活してゆかなくちゃ
いけないから、お金が無かったらやって
いけるのかと思うことが先にあって、光が
入っていることには気が付かない。光を
糧(かて)にしてゆくとお金が逆に入って来る。
生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。逆なのね。
皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。
(翌日へ続く)
ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済という
ものがあり雑事があって、又、肉体を持って
いるから、食べたり飲んだりしゃべったり
しなくちゃならなくて、雑事を片付けてる
ひまに、祈りというのがどこかへ行って
しまう。本体は祈ってるんですが、肉体の
方は雑事を優先してしまう。本体は、肉体の
我々がどんなに雑事にまぎれていようが
何していようが、祈って祈って祈り抜いて
いるんです。見えていないけれども、ずっと
祈り抜いているわけですね。だからその
祈り抜いているいのちというものが、常に
神様と出会っているし、神様と話を
しているし、神様といろんなことを
語り合っている、呼び合っている。
そうでないと人間は生きてゆけないん
ですね。我々のもとのもとは、神様の愛
によって生かされているわけで、その
清(さや)けきいのちというのは、自分の
中にあるんです。自分の中というのは、
肉体の中という意味じゃなくて、自分の
本体、神様から分けられて来た光の中に
あるわけですね。
そのことを知っている人は少なかったん
ですが、今はもうそんなことを言ってる場合
じゃなくて、いろんな人が印を降ろしたり、
光を降ろしたりして、実際に我々が神様の
もとにある生命なんだとわかってきた。
我々のいのちの親というものが神様
であって、その神様の大宇宙神の目指して
おられるところは大調和であり大愛であって、
我々は大愛の子なんですよね。大愛の子
というのは敵も味方もない。大愛の子の
みんなが、世界人類が手を取り合った時には、
真実の平和が築かれて行かないとうそになる。
そこで争いなんか起こって来たらこれはもう
うそになるんですね。
それでも起こって来ることがある。つまり
それは、平和の祈りが足りないからだと。
足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。ところが、
そこに想いを向ける自分が足りない。肉体が
悪いわけではないけれども、何が足りないのか
というと、自分が肉体だけの生命ではない、
自分は神様の愛によって生かされていて、神様
から来たものであって、その神様というのは、
我々の大きな器を与え光を満たして下さって
いる。そういう時間が非常に少ない。だから
足りなくなって来る。
こんなんでいいのかと思う。こんなんで
やっていけんのかと思う。月給が入って来ない
いろいろとどうしようかなと思う。これ全部
消えてゆく姿ですよね。たとえお金が無くても、
光が入っていることに気が付けば、お金なんて
ものはあとからついて来るんだけど、人間
というのは、やっぱり生活してゆかなくちゃ
いけないから、お金が無かったらやって
いけるのかと思うことが先にあって、光が
入っていることには気が付かない。光を
糧(かて)にしてゆくとお金が逆に入って来る。
生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。逆なのね。
皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。
(翌日へ続く)