(前日からの続き)
法然も親鸞も時期相応ということを考えて
おりまして、その時期相応の祈り言である南無
阿弥陀仏に出会うまでに、彼等は随分学問も
致しました、悩みました。
あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を
六年致しました。
その苦しみというものは無駄では
ありませんでした。
苦しみを通して、ただ一部の人だけが
救われるもの、魂が救われて自分が救われて
いくものであれば、これは小乗なのであります。
大乗の祈りではない。
人類の祈りではないのであります。
人類の宗教ではないのであります。
愛ではないのであります。
人類の、我々共通の、なる程と想えるもの
というものは、誰もが納得できるもので
なくてはならない。
しかも、優しいものでなくてはならない。
そして、誰もが出来るものでなくてはならない。
そして、任せられるものでなくてはならない。
この三つ四つの条件が、全部今の状勢の中で
出来るといったら、これは、世界人類が平和で
ありますようにというこの祈り言をすすめていく、
目にふれさせていく、それしかないのであります。
(つづく)