(前日からの続き)
キリスト教だろうと仏教だろうと、白光
真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。
我々は、世界人類が平和であります
ようにという、神様のひびきから出た
この大光明の言葉によって、祈りによって、
愛深くならせたまえというその祈りを、
この言葉の中に深く感じとって、そして
祈っていく訳です。
我々はこれを梯子にする訳です。
エレベーターにする訳です。
だから、統一というのはね、何も難しいこと
じゃないんです。
ありのままの自分自身をそのまま持って
来られていいんですよ。
病んでいれば病んでいるまま、疲れて
いれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、
それでいいんです。
別に守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
あなた一人だったら大変だけど、その人たちが
助けてくれるんだし、五井先生もいるんだし、
皆いるんだから。
私がしなければと思っちゃうと、私が私がの我
になっちゃうから。
その時そのまんまのありのままの、憂い辛い
そのままの気持ちでね。
ただ祈れる時には祈る。
それくらいのつもりで統一会に出て
いただけたらね、ふんわり出来ましょう。
やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。
神様とはふんわりしたもんなのよね。
愛情も深いし、受けとめる器も深く大きいし、
これはもうたいしたもんなんですねえ。
神様自体がふんわりしてらっしゃるんだから、
神様の子どもである流れであるあなた方も、
ふんわりして下さらないと、神様の流れ
というものが、いやにしゃっちょこ張って
こっちに映ってくるんですよね。
こういうふうにいきなければならない
というように映ってしまっちゃあねえ、
統一も何もないんですよ。
だから、テープにあるでしょ。
私は統一できなかったとか、いろいろ
湧いたとかね、何か変なものが見えたり
聞こえたり、雑念が湧いたりすることだけに
皆把われちゃうけれども、そういうのは
みんな通過点なんですよね。
そこを通り過ぎて、その人が意識するしないに
かかわらず、皆それぞれの本心にたどり着く
ように、統一というものはもっていくもの
なんですよ。
それは、神様の側でもっていって下さる
もんなんです。
だから、どういうものが見えても聞こえても、
雑念が浮かんでも構わないんです。
それは本質そのものじゃない。
それは贋物か本物かといわれれば、本物じゃ
ない訳ですからね。
それが神様じゃない訳ですからねえ。
贋物だとは言わないけれど、そこを通り過ぎて
行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
(つづく)
キリスト教だろうと仏教だろうと、白光
真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。
我々は、世界人類が平和であります
ようにという、神様のひびきから出た
この大光明の言葉によって、祈りによって、
愛深くならせたまえというその祈りを、
この言葉の中に深く感じとって、そして
祈っていく訳です。
我々はこれを梯子にする訳です。
エレベーターにする訳です。
だから、統一というのはね、何も難しいこと
じゃないんです。
ありのままの自分自身をそのまま持って
来られていいんですよ。
病んでいれば病んでいるまま、疲れて
いれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、
それでいいんです。
別に守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
あなた一人だったら大変だけど、その人たちが
助けてくれるんだし、五井先生もいるんだし、
皆いるんだから。
私がしなければと思っちゃうと、私が私がの我
になっちゃうから。
その時そのまんまのありのままの、憂い辛い
そのままの気持ちでね。
ただ祈れる時には祈る。
それくらいのつもりで統一会に出て
いただけたらね、ふんわり出来ましょう。
やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。
神様とはふんわりしたもんなのよね。
愛情も深いし、受けとめる器も深く大きいし、
これはもうたいしたもんなんですねえ。
神様自体がふんわりしてらっしゃるんだから、
神様の子どもである流れであるあなた方も、
ふんわりして下さらないと、神様の流れ
というものが、いやにしゃっちょこ張って
こっちに映ってくるんですよね。
こういうふうにいきなければならない
というように映ってしまっちゃあねえ、
統一も何もないんですよ。
だから、テープにあるでしょ。
私は統一できなかったとか、いろいろ
湧いたとかね、何か変なものが見えたり
聞こえたり、雑念が湧いたりすることだけに
皆把われちゃうけれども、そういうのは
みんな通過点なんですよね。
そこを通り過ぎて、その人が意識するしないに
かかわらず、皆それぞれの本心にたどり着く
ように、統一というものはもっていくもの
なんですよ。
それは、神様の側でもっていって下さる
もんなんです。
だから、どういうものが見えても聞こえても、
雑念が浮かんでも構わないんです。
それは本質そのものじゃない。
それは贋物か本物かといわれれば、本物じゃ
ない訳ですからね。
それが神様じゃない訳ですからねえ。
贋物だとは言わないけれど、そこを通り過ぎて
行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
(つづく)