今日は生命の流れということについてお話し
したいと思います。
よく私たちは、何か悩んだりすると、一体
自分は何だろう、どっから来て、どこへ
行くんだろうと考える時があるんです。
よく言うじゃあありませんか、行方定めぬ
旅がらすって。
つまり、自分という者は何者なんだろう
ということです。
それは、自分が誰と誰を両親に持って、
どこの家に生まれてきたかということは
わかっている。
けれど、私たちが考え込む時は、もっと
根本的なことでしょ。
自分という、この一つの存在の確かな
在り場所、行き場所を求めているわけです。
で、そういうことを考えている時の人間
というのは、実は、「肉の私」を離れて
いるんです。
我知らず魂の私、霊の私に呼びかけている。
離れるったって、完全に、たましいの中、
霊の中に入り込んでるんじゃありません。
丁度、そういう自分にあこがれて、
呼びかけてる状態なのね。
でも、人間がそういう問いかけをする
というのは、ただ落ち込んだばかりではなくて、
実は、そういう生命の流れの在り所、行き所を
つねに確認し、明るい方へ明るい方へと
すすんでゆくのが、元々の性質だからです。
(つづく)
したいと思います。
よく私たちは、何か悩んだりすると、一体
自分は何だろう、どっから来て、どこへ
行くんだろうと考える時があるんです。
よく言うじゃあありませんか、行方定めぬ
旅がらすって。
つまり、自分という者は何者なんだろう
ということです。
それは、自分が誰と誰を両親に持って、
どこの家に生まれてきたかということは
わかっている。
けれど、私たちが考え込む時は、もっと
根本的なことでしょ。
自分という、この一つの存在の確かな
在り場所、行き場所を求めているわけです。
で、そういうことを考えている時の人間
というのは、実は、「肉の私」を離れて
いるんです。
我知らず魂の私、霊の私に呼びかけている。
離れるったって、完全に、たましいの中、
霊の中に入り込んでるんじゃありません。
丁度、そういう自分にあこがれて、
呼びかけてる状態なのね。
でも、人間がそういう問いかけをする
というのは、ただ落ち込んだばかりではなくて、
実は、そういう生命の流れの在り所、行き所を
つねに確認し、明るい方へ明るい方へと
すすんでゆくのが、元々の性質だからです。
(つづく)