戦国武将たちの荒んだ心を支えてくれた茶の湯ですが、
一方まったく違った側面も持ち合わせていました。
それは新たな権威の象徴、ブランドとしての茶の湯です。
混沌とした戦国の渦から鮮やかに躍り出た武将といえば信長です。
既成概念にとらわれず、時代の流れを逸早くキャッチしたその胸の透くような
行動力と発想は融通無碍、稀有壮大です。
彼は幼少時にご指南役であった平手の爺、
実は、文化人で立派な数寄屋敷を持っていた中務丞政秀より養育されます。
後に「茶湯政道」といわれる信長には、そんな背景があったのですね。
子供のころ読んだ信長伝には、あまりのうつけぶりに、養育係の平手の爺が、
責任を感じて切腹するのですが、その後、ことあるごとに信長が、
「平手の爺がいたら。」とつぶやくシーンが印象的でした。
茶はご承知のように栄西禅師が宋より持ち帰り、薬用として服用しますが、
禅林(禅宗の寺)で、心静かにお茶をいただくことも行われました。その後、喫茶は、将軍や当時のハイソサエティに好まれ、多くの茶道具が輸入され、唐物として珍重されました。いつの時代も舶来品は、憧れの的のようで、今でもこれらの茶器は、唐物(からもの)と呼ばれています。
そして、京都の東山で開花した五山文化は、振興勢力の武家の憧れと権威の象徴となります。その新しい力に歩み寄ったのが堺の町衆商人たちでした。
彼らもいわば新たな勢力、共に時代の流れを作ってゆきます。
『五山文化』
鎌倉末期から江戸初期にかけて、京都五山・鎌倉五山の禅僧たちにより
書かれた漢詩文・日記・語録の総称。中国の宋・元文化の影響で栄えた。
その中で信長は「茶湯政道」を行います。
信長が認めた者には、茶の湯を嗜んでもよい~という許可を出し、
また論功行賞として茶道具を与えたのです。
すなわち茶器、主にお茶を入れる茶入れですが、一国一城の価値に匹敵していたのですから驚きです。
もちろん信長によって付加価値が与えられたのでしょうが、
もともと信長に大名物といわれる茶器を献上したのは堺の商人でした。
当時も茶の湯にはそれだけの魅力があったのでしょう。
『大名物』
とは、茶道具類で美的歴史的価値に優れたものをいいます。
利休以前のものを大名物、
利休時代のものを名物。
それ以降、小堀遠州が選定したものを中興名物という。
利休以前のものを大名物、
利休時代のものを名物。
それ以降、小堀遠州が選定したものを中興名物という。
大名物茶入 唐物肩衝茶入れ 銘 初花
徳川記念財団 蔵
「天猫姥口釜」信長が、柴田勝家に贈った茶釜~ 天描
「信長公御所持 柴田修亮拝領姥口釜」と三沢寿軒記す
信長の後を引き継いだのは秀吉ですが、
天下人として利休とともに茶の湯を展開させてゆきます。
秀吉は、禁中茶会(宮中で史上初の献茶)や、大規模な北野大茶会(市民参加茶会)で天皇から庶民までに茶の湯を奨励しました。
一方利休は、茶室を極限の一畳半にまで縮小します。
これは茶の湯がもつ二つの側面をあらわしているように思います。
1つは、その時その場の人々とつながる 横のコミュニケーション。
もう1つは、自分自身と深くつながる 縦のコミュニケーションです。
極小の茶室では、亭主と客の親密なつながりを通して、他ではできない
密談を行っていたのではないでしょうか?
最初に極小の茶室(二畳)を作るように命じたのは秀吉のようですから。
しかしながら、相手は自分の鏡、
人は自分自身の心の状態や思考を人やモノに映し出す、投影を起こします。
相手を通して自分自身と向き合うのです。
ましてや一畳半の小間です。(最終的には一畳半の茶室を造ります)
相手と間近で対峙し退くことはできません。
客を通して自分自身と対面するそのための茶室だったとしたら…。
そういった環境であってもなお自分自身であり続けようとしたのでしょうか…。
投影(とうえい)
自分の感情や素質を認めたくないときに、それらを他人のものだと
考えてしまうこと
もしかしたら、秀吉は人誑しといわれるくらい人を動かすのは上手だった
かもしれませんが自分との対話は下手くそ?だったのかも知れません。
天真爛漫、子供のような心を持った秀吉と、
高い美意識を追求した理性的な利休。
まったく違うタイプの二人が互いの持ち味を十二分に活かしたことで、
茶の湯はその価値を高め、ますます隆盛を極めます。
利休によって工夫された極小の茶室。
ここでは、それまで四畳半茶室で行われていた寄り合い
(堺などの裕福な町衆が行った商談や会合)のための茶の湯とは違い、
高い精神性が磨かれたに違いありません。
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炉の季節(11月~4月)は、練香~粉末状の香木を炭の粉などで練り固めたものを炉の中に入れます。
蘭奢待、信長が切り取っていましたね?どんな香なのでしょうか?