戦国武将たちは、明日をも知れぬ、極限状態で、茶の湯と向き合っていた~
のではないでしょうか~
また一方、彼らは武士としての教養も茶の湯にから得ていました。
それは、細川幽斎の歌からもわかります。
武士の知らぬは恥ぞ馬、茶の湯、
はじよりほかに恥はなきもの
教養として、社交儀礼として茶の湯を身につけるのも、文武両道の武士の
心得だったのも頷けます。
そして茶の湯は、禅という精神的な裏づけによってより、武士たちに支持されていたのです。
それは、茶禅一味という言葉で表されています。
侘び茶の開祖、村田珠光は、一休宗純(そうあの一休さんです)から
禅を学び、それを弟子の武野紹鴎に伝え、利休も紹鴎から茶の湯を
禅のスピリットと共に学びます。
禅はご存知のように座禅を組みます。
ひとり自分自身に向かい合う時間。
日ごろの喧騒から離れて、さまざまな想念、妄想、憶測や思考を一旦脇に置き
自分自身とさしで向き合う時間は、現代人の私たちにとっても大切な時間です。
天の時、地の利、人の和を最大限に生かしながら、
己自身も生かすことを考慮し、日々を送っていた武将たちにとって、
自分自身と向き合う時間は、何物にも代えがたかったでしょう。
また禅はぶれない自分自身を築くため、心の成長を導いてくれるマスターでも
あったのです。
自立的な精神を尊ぶ武士にとって、禅は歓迎されたに違いありません。
そしてその精神を実践する場として茶の湯も彼らに受け入れられます。
無心でお茶を点てる行為は、私たちを日常の喧騒から切り離してくれます。
鈴木大拙老師(禅の大家で戦前に禅を欧米に英語で紹介した方です)は、
禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところにあると
説いています。【禅と日本文化】
それは、一切の無駄なもの、覆いものを剥ぎ取り、知性や、生命までも
排除し、そしてただただ、純粋意識の存在に帰る~ことであると。
そして茶の湯はそれらの精神を作法を通して、日常生活の中で実践しようと
しているとも述べています。
草庵の茶は無駄なものを極限にまでそぎ落とし、簡素で清浄な中で行われます。
そんな茶室で武将たちは、自己と対面し、
そして、それはまさしく 変性意識状態で 無限の広がりを持つ無意識と
対話していたんだ。
きっとそうに違いない。と私は想像し、ひとりわくわくしてしまうのです。
『変性意識状態』とは、
通常とは違った意識の状態をいう。
リラックスしているのに集中していたり、内面に意識が向いていて
無意識への接触が容易になる状態。
老師は言います。四畳半の茶室という静かな無意識の一隅に暫時身を退け、
そこから出た後は心身爽快であると・・・。
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