子供の頃から食べる事に、興味がありました。
小さい時は、今と違って、日本人の食事は、野菜と魚中心で、ご飯とお味噌汁と漬物といった今から思うと質素なものでした。
お肉と云えば、鶏肉や豚肉で、牛肉は貿易自由化前だったこともあって、滅多に食卓には上りませんでした。
牛肉のすき焼きと云ったら子供心に、テンションがあがりました。
それが、いつの頃からか?しゃぶしゃぶやステーキ、ハンバーグ、ビーフシチューと外食をはじめとして、
うちの食卓にも時々、牛肉の料理が出てくるようになりました。
それまでの日本人の庶民が、あまり口にしなかった”食の西洋化”が、我が家にも押し寄せてきました。
我が家の食事の変化は、日本全体の食の変化よりもかなりハイペースで、起こりました。
その結果、我が家に起こったことは、5人家族全員の病気と体調不良でした。
その中でも、私の病状は深刻で、当時、”病気の問屋”という言葉がはやっていましたが、
正に、当時の医学水準では、原因不明、治療法なし、という複数の病気をかかえて、
関東中の有名、無名の病院や医院、東洋医学、心霊医学、宗教と頼れるものは、片っ端から
その門をたたきました。
そこで、出会ったのが、今思い返すと、”食育”の元祖”の”石塚左玄”を起源とする”食養”の先生たちでした。
その先生方をわらをもすがる思いで、それこそまた、片っ端から訪ね歩いて、
”断食” ”玄米菜食” ”青汁” ”運動療法” ”心理療法”を教えていただき、
実践することで、ほぼ、青春の貴重な5年間を費やして、それまであった当時の医学では、
医師や親からも”匙を投げられた”病をすべて、克服することができました。
ただ、病気が治ったのは、いいのですが、当時の私には二つの問題がありました。
一つは、小さい時から医者になりたいと思い、最悪、推薦で医学部に行ける中学・高校を選んだのですが、
卒業するのが精いっぱいで、高校の内申書は最低だったと思います。
実際、高校の修学旅行や卒業式には、入退院を繰り返していて出れませんでした。
もちろん、学力は高校の一学期位で止まっているので、とても医学部や歯学部を受験することはできませんでした。
これからどうするか?が一つの問題でした。
二つ目の問題は、病気を治すのに過激な断食を繰り返したり、玄米菜食や青汁だけを一日一食か二食で、一日10キロ走るとか
5000回の縄跳び、または、朝から晩までいろんな体操などの運動療法を続けて、元々、痩せていたのにさらに痩せてしまって
180センチで48から52キロという身体になってしまっていたので、それをどうしたらいいのか?と
思っていたら、厳しい食事療法の反動からか?
いつの間にか、今でいう”大食い”世界に、入っていってしまいました。
あとで考えてみると、一種の摂食障害だったのかもしれませんが、
一週間から10日の水だけの”断食”をして、復食がおわり、退院して普通の生活に戻ると、猛烈な食欲が襲ってきました。
それでも最初は、病気が完全に治っているのかわからなかったので、当時許されていた、玄米や野菜や海藻、キノコやナッツ類を
むさぼるように食べていた程度だったのですが、ある程度、完治のめどがたって、何を食べても
だいじょうぶになると、当時若い盛りだった自分の中に、長年抑圧されていた食欲への
願望が解き放たれて、気が付けば、
ラーメン10から20杯、
牛丼大盛り10杯以上(当時特盛はありませんでした)
回転寿司は、最低が50から60皿から
ファミレスに友達4人で行って、全メニュー制覇
とまだ、世に”大食い選手権”が出る10年も前に、そんな状態になってしまいました。
今でこそ、断食や食べない”不食”もその逆の”大食い”も多くのや医学的にもその存在を否定できない世の中ですが、
私の時代には、確かに、”食べない人たち”は、歴史的に宗教家やヨギにはいたと伝えられていたのですが、
その存在を一般の人はおろか専門家である医師や栄養士のほとんどが知らなかったと思います。
(実際、今、不食で有名な”森美智代先生”も私の後で、断食の世界に入っていきました。)
その後、私の大食いは、その後も20代後半まで続き、徐々に食事の量が減り始めてきました。
そんな青春時代を過ごした私の興味は、
食は、人を健康にも病気にもする。
食は、人を幸せにも不幸にもする
食で、病気の予防も治療の補助もできる
食、、、、、、、、、
食を通して、歯科医師として、東洋医学の専門家として、飲食業として
何か人の役に立てないか?
私の知る限り、私のような経験や知識をもった医師も歯科医師も少ないと思いますので、
私の知識や経験を世の中の人に伝えていくことを私のライフワークにしようと
思っています。
また、私の今までの食にまつわるエピソードを書いていきたいと思います。