私たちは もし人生の中で自分が体験したくないもの なりたくない状況などがあるなら それらを重点的に取り組めるような筋書きを選んで生まれてくるかと思われます。
なりたくないものがまだ自分の中にある間は 次の人生でそういうものと引き続き取り組むことになるかと考えます。
もし どんな人間になっても どんな人生になっても それが自分である 幸せであると感じるようになれば このゲームはおそらく卒業でしょう。
目指すは無条件の愛です。
一切の条件を付けない愛です。ただ愛しているのです。
それが本当の自分である魂の姿です。
本当の自分すなわち魂の成長レベルに戻ることがこのゲームの最終ゴールのようです。そうです。戻るのです。戻ったときにほんとうの自分がどんな自分であるのか再確認するのです。
私たちは魂レベルで言うと 「それは自分ではない」というものはないのです。すなわち全部自分であり 自分はすべて愛なのだということのようです。
そういう存在「それが自分なのだ」と。
そのために善も悪もある相対世界で人間というものになって私でないと思っていることをすべて確認体験するようです。それが人間を生きるということの意味のようです。
端的に言えば 人生の成長のためのツールには2つあるように思えます。それはあくまでツールです。
ひとつは運命とか宿命とかいう筋書きです。あらかじめ定めておいたもの。段階的に成長することを助ける設計になっているツールです。成長するにしたがって体験する内容が変化するようです。
もう一つは人間であるために誰もが経験すること つまり思考が現実化(自分が創造するのですが)そしてそれを経験するというプロセス。 これも成長するにしたがって基本的に良い方向に変化していくようです。
私たちがゲームを終えて本来の魂に戻れば それは現在の宇宙の成長の極致に達するのですから すべてが完璧で最高の幸せに戻ることは当然のことではあります。
だから「人生では」どんなことが起こっても どんな展開になっても否定せず 基本的にはいつも喜んでいる 感謝している という肯定的な「受け取り方」を目指して生きるわけです。受け取り方が肯定的ですと それがまた肯定的な結果を引き寄せる仕組みになっているので 好循環になるようです。
本来の自分である魂が すべて肯定的な存在 愛の存在だからです。そういうことを体験的に知るために生きているようです。
今はとてもそんな生き方はできない、面白くもないし第一楽しくないよと考えますか? 少なくとも今地球に生きている膨大な数の人たちは大なり小なりそう思っているからこそ ここにいるのかもしれません。
しかし・・・筋書きにもいろいろあるようです。
いい意味でも悪い意味でも「事実は小説より奇なり」とか「奇想天外の人生」とか言われるじゃないですか。魂が筋書きを書くと人間の頭では想像できないような発想が出来るのかと思います。
なにせ神の発想ですから・・・。
嫌なことは少なく 痛快な楽しい人生展開も結構あるようです。
それは当然ながら成長すれば増えるようです。神の(魂の)贈り物?なのでしょう。
ひとつの人生のうちにも禍福があるように 何百ともいわれる人生ともなれば 表と裏すべてを含む広大な冒険になるのでしょう。
なんのための筋書きなのか? 自分はなにを知りたいというのか?
私たちが人生の途上でそのことを考えてみることはいいことだと思います。
何かの出来事が起こり こりゃたいへんだ!なんとかしなきゃー!このままで放置できない すぐなにか行動しなきゃ! という態度で生きるのであればほんとに大変です。私は多くの場合その大変な方を生きていました。何も知らずに・・・!
別の生き方があるのでは と考えるようになったのは家内が亡くなってからずっと後 最近のことです。
(続く)
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