「花」と単にいえば種々多様なイメージがふくらむが、俳句の世界では桜をさし、春の季語だ。
平安時代以降の和歌でも、単に花と詠われているのは桜のことと昔の人が決めている。
しかし「花畑」というと夏の季語になる。
畑が付くとそんなに季節は飛行機のように飛んでいってしまうのが不思議だ。
夏に咲く、つまり5~7月に一面に咲く花が多いからなのだろうか。なんとなくわかったような、わからないような。
でも、よく考えてみると、1~4月に一面に咲くのは水仙や菜の花などはあるものの、やはり夏のほうが種類や規模が大きいのかもしれないな。北海道へ行くと、疑問がストップしてしまい納得せざるをえない。
それなら秋はどうなのだろう。
図書館で調べてみたら「花野」であった。
春は桜·梅·桃·コブシなどの樹の花が目立つが、反面秋となると七草を代表する草花が主役の座におさまる。
野原や丘に咲く色とりどりの花々は、緑の季節の終りを告げるのにふさわしいなと思う。
大花野、花野原、花野道という別の呼び方もある。やっぱり日本語っていいなと瞬間思う。あんまり使いはしないのに、その時ばかりにかぎって。
やがてくる季節に華やかに咲く春の花とは違い、秋の花野はどことなくしんみりとし、静かな装いで冬を迎えようとする花野原である。 月も虫も風も、野の花にはよく似合う。
冬は帰り花ではあるが、花全体を意味することばが見つからない。
木の葉、落葉、冬木、枯木、冬藁などはすべて冬の季語であるが、寒冷地では大地が固く凍り始める「冬ざれ」の時。
草木や山川など、すべてが凋落のさまをみせ、荒れて寂しい様子を「冬ざるる」という。
花もさすがに寒冷地ではのびのびとは咲きにくいのだろうななどと思ってしまう。
わが家も寂しい。ガザニア·ベゴニア·水仙など、庭には9種類の花がこの前の冬には咲いてはいたが、他の季節のような勢いがみあたらない。
花には四季がある
四季には花がある
「つれづれ(63) 花の四季」