去年の話。
育児しない男性が主流であったため男性における育児「参加」が有徴化され育児標示語『イクメン』が生じた。看護の仕事に男性が増え女性標示語『看護婦』が『看護師』に変わった。女性はキャリアと縁薄かったので、『キャリアウーマン』がある。家庭や地域社会の仕事はキャリアと見なさない概念の顕現。 https://t.co/cIJL9RTrdJ
— 山田あすか (@yamada__asuka) August 21, 2020
この間,こんな話題があって,
「無徴(前提として認識しているデフォルト状態)」ですね。色指定を除けば形状は男性と同じ、スカートのような特徴(有徴)を与えられていないマークを[人間]と認識する状態かと。 pic.twitter.com/TSWwutoms6
— 山田あすか (@yamada__asuka) May 19, 2021
改めて,世の中にあるサイン(ピクトグラム)の「基本の人間」は,つくづく男性系なんですね。
そこに違和感はありません,すり込まれていますから。
ですからちょっとした思考実験。
この強烈な違和感。判別できない,しにくいよ「こんなの」,という感覚。
この違和感こそが「刷り込み」,社会常識,ですね。
トイレのマークの赤=女性,も,限定的条件下での刷り込みに過ぎないんです。
日本以外の国では,赤=女性,青または黒=男性,という「常識」は,ありません。
ランドセルは女児の場合,戦後永らく赤が選ばれてきましたが,
戦隊モノのリーダーは「赤」です。あの役割はいつも男性で,女性であったことはシ(おっとネタバレになるからダメだぜこれ以上は
でも,違和感はありません。そういうものだと刷り込まれているから。
人間社会における,特に公共空間における基本的な人間manは男性manなので,そこから女性を切り分けて表示する,有徴化が必要であったということがわかります。
もしもその社会の前提条件が「女性」であったなら,有徴化され切り分けられていたのは男性でした。
いま,サイン・ピクトグラムにおいて「大人」が基本なので,「こども」は,小さく子供らしい体型に描かれるなど有徴化されています。それと同じです。
常識というのは不思議です。どんどん移り変わっていくものであるし場所により母集団により異なるものであるはずなのに,あたり前という顔をしている。
時代と場所と集団(属性ないし属性の割合等々)で,あるいは視点によって,それらは異なるものなんだと。良いとか悪いとかではなく。
違う視点から,自分の「常識」と疑いもしなかった思想に気づく,そのように社会化された自分に気づく,違う可能性に気づく,そういう毎日を自分は人間らしいと思います。
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