安田よしひろ 駅立ちブログ!

日本の安寧。未来への責任。次世代の幸せを憂い、創る。

未来へ夢と文化をつなぐ責任

2014年03月22日 | 政治
 昭和43年、新幹線や首都高・東名高速の整備が一段落し、国民総生産が世界第2位となった頃、私は所沢医療センターの地にあった国立所沢病院で生まれました。その頃は、一度は東京タワーの展望台に登ってみたいとか、メキシコオリンピックや大阪万博ではどんなことが起きるのだろう。きっとそんな明るい話題で溢れかえっていた時代だったのでしょう。

 第二次ベビーブームより少し前に生まれた私たちですが、オイルショックは幼くて全く覚えていませんし、小学校の頃にインベーダーゲームに出会いましたが、毎日夕方暗くなるまで外で遊んでいました。王貞治のホームランに歓喜し、仮面ライダーの真似をして、巨人の星やアタックナンバーワンが教科書でした。
 中学の頃に金八先生が現れ、竹の子族になっちゃった友人もいましたが、学校では先生から「あったかいゲンコツ」の思い出をたくさん頂ける時代でした。学生時代にバブルは弾けましたが、それでもおそらく俺たち花のバブル組の一員でしょう。振り返ってみれば、本当に幸せな時代に生まれてきた気がします。昭和の一番良い時期に育てて頂いた世代だとつくづく思います。

 しかし、これからの日本はどうなるのでしょう。20年間続く高齢化社会を誰が支えるのか、若者の迷いや子供たちの不安を誰が取り除くのか。そうですよね。私たちの世代が、長寿社会を支える4番バッターとなり、後輩たちに頼りにされるエースにならなければなりませんよね。私たちには「未来への責任」がありますよ。仏壇の上にある戦争で死んだ若すぎるじいさんの写真は、そう語りかけています。

 ですから私は県議会議員を目指します。市内はもとより近隣地域の県市議とも組んで「埼玉西部に活気」を創出し、「“ところざわ暮らし”の質・魅力を高める」活動をしたいのです。所沢市の計画を後押しして「ふるさとの夢と文化をつなぐ」役割を担っていきたいからです。



1.現代社会と病理 ④

2011年01月27日 | 政治
 現代の消費・情報社会は人類史のなかで一つの到達点であり,かつ転換期です。人が生きるために必要最小限の実質経済は食料であるにもかかわらず、化石燃料が姿を変えた商品情報はメディアから暴力的に溢れてきます。人が生きるための必要最小限の実質経済をロビンフッドのような暮らしとするならば、それと比較にならない程、為替や株、先物取引などに代表される物理的にはお腹を満たすことのない理論経済が日本人のライフスタイルを決定する権力を手に入れた。マーケティングによる企業の刷り込み戦略は社会的要請となって,動物である自分を超えたシステムへの依存を強制する。健康であれば動物として自然の中で十分生きていける能力を人間誰もが持っているはずなのに、また日本は「豊かな」生活が熟しているかのように映し出しているのに、いじめや幼児・高齢者への虐待、 引きこもりやうつ病・自殺の数もなかなか減る様子がない。受験のための塾、就職のための大学、給料のための競争、老後のための貯蓄は、結局自分が何者であるか分からぬまま成長させ死なせていく。そうして孤独な群衆は機械仕掛けの難民となり、昼も夜も街を徘徊する。動物的な感性、自然への畏敬の念、古より刻み込まれた記憶を日本人はもう二度と思い出せないのであろうか。


3.生物的限界と動物的感性 ③

2010年05月25日 | 政治
  先のコメントなどで理論展開してきたように,社会的信念と動物的感性とには健康と深い関わりがあるように思われる。そのような関係を私の大学院時代の恩師、池田克紀教授より「快・不快」,「報酬・罰」の2次元の図でわかりやすくご指導頂いた。以下、説明をさせて頂く。
  人間は動物であるから,生命の維持や健康に関して基本的には,生得的な「快-不快」信号に依存しているはずであり,依存しなければうまく生きていけないはずである。このことから,「快・不快」は動物軸と定義できる。また,人間はその他に,他の動物にはない心理的・社会的な行動の側面を持っている。社会生活を営むためには,地位,名誉,お金,物質などの「報酬」といわれる人間が自ら作り出したものや,安全や平和のための法律,規則,道徳,宗教など違反すると「罰」を与えられるものにも従わなければならない。そのような「報酬・罰」の軸は人間特有のものであるから人間軸と定義できる。そしてこの社会的信念と動物的感性は,個人と社会の関係であるから,生物でありながら社会の中で同時に生きていかなければならないというジレンマが生じている関係でもある。
  図でいうところの理想社会へ多くの人々を導くことが文明社会共通の命題であるにもかかわらず、政治や経済は必ずしもその命題に立ち向かおうとはしていない。どうしてだろう…
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3.生物的限界と動物的感性 ②

2010年05月14日 | 政治
  先に述べたように、快と不快の二重構造原理は,有機体の種や個を長く存続させ得る可能性を高めるために機能する。さらに健康が種や個の生死に直接かかわる指標であるとすれば,進化を通じて,健康を促進する行為は生物学的に確かな快感覚と結びつけられたに違いない。このような進化を通じて培われた人間の感覚には生物学的な観点からみて,動物的な感性とでも呼び得る普遍的な快‐不快回路が遺伝的に受け継がれていると考えられ、以下これを動物的感性と称する。この感受性に基づいた判断能力は現代社会の中で失われつつある。以前に述べた「刷り込まれた社会的信念」によってである。
  健康と快感覚についてもう少し触れてみる。快を欲するということで人間は自らの存続をより強固なものにするように進化してきたのである。健康的に生命を救うような習慣を確実に行わせるようにするには,それらを心地よいことにしてしまう以上に良い方法があるであろうか?食事から子孫繁栄まで,環境に注目することから他人の世話をすることまで,快は我々をより健康に導くのである。 正しいと感じることを行なったり,心地良いと感じることをすることは健康や種の保存に有益である。近代社会には例外はあるが,快(食事を楽しむこと,セックス,友人,仕事,家族など)は普遍的に生得している健康への案内であるに違いない。これらの感覚は我々が正しい路線にいて,そしてそれを続けるべきであると我々の脳に合図しているのである。我々はいつから、この合図を無視し始めたのであろうか。



3.生物的限界と動物的感性 ①

2010年04月26日 | 政治
  我々人間は,現代社会で経験するおびただしい変化に対応できるようには,もともとつくられていない。人間はここ2万年ほどのあいだ生物学的にはほとんど変わっていないが,生活環境は急変しており,その変化に適応することができないために脳神経系や健康などの社会問題が顕在化してきているのだとも推測できる。つまり現代社会は多くの人にとってその生物学的限界を超えているとも考えることができるのであり、そこで生物的限界とそれを告知する動物的感性との関係は一体どういうものなのかを注目すべきと訴える。もう少し詳しく説明しよう。
 先ずは、私たちが近代生活の中で手放したもともと備わっていた感性は、実はその限界を察知するための重要な機能だったと考える。そのような動物的な生き方を理解するには動物行動学者のローレンツの著書を参考にすることをお勧めする。彼は以下のように進化の過程において感性がいかに重要かを説いている。動物の進化の過程は機能的な淘汰によって獲得してきた。交尾や採餌を開発するといった刺激状況のように,極めて特殊な刺激状況を求めるように動物を強化することが重要である場合には,進化は常に下記のような問題解決の道を歩んできた。極めて特殊な行動様式が強化されることが動物にとって重要であって,そしてそれがあるまったく特定の,ごく限定された場所を求めることであるのならば,負の反応をおこす刺激のみによって動物をそこへ追い込むことは困難だと思われる。報酬を与える刺激の作用によって動物を望ましい場所に引き寄せる方がずっと容易であろう。快によって導くか、不快によって追い込むか、報酬と罰は自然界に君臨する基本原理なのである。その原理を自らに変換する機能が感性なのである、と言う。
 効率を追求するために、本能的な感性を理性で潰していく社会には、いつしか限界がやって来るに決まっている。もう既に来ていると判断しなければならないと思う。果たして我々の社会は、いつその限界に気付くのであろうか。



2.社会構造と健康 ③

2010年04月07日 | 政治
 つい最近までの日本の道徳や社会的価値はおよそこのように理解している。戦後の日本では官許の価値基準として,忠君愛国とその補強材として孝行があり,人々の心の中の事実は別として,表向きの価値観は一応統一されていた。そしてその社会道徳的価値感は戦後の経済成長には都合よく会社や仕事に対する価値観へと摩り替えられ,産業的・物質的価値観へと転換していった。そのように培われた経済資本を軸とした価値観は現代の日本では未だに大きな影響力を持っているに違いない。資本主義と同調した急激な進展が,システムへの依存を強制し,現代人に何の疑問も抱かせぬまま,社会の文化・風景として定着させ,心や体を蝕み,快を求めるようにとかきたてる自然の衝動を産業社会の要請に服従させるようにしたのである。
 そのように社会を見てみると,我々は現代社会の道徳や労働倫理の奴隷になったとも解釈できる。「身も心も会社に囲い込まれていて,自立心のない人間を「家畜」ならぬ「社蓄」という。そんな著書があります。会社にエサを与えられて飼われているうちに野生を失ったサラリーマンのことである。企業における徹底した効率化・合理化(生産性の向上)の追求は,人員削減と労働の管理強化へつながってきており,厚労省が行った「労働者健康状況調査」でも,自分の健康状態につい何らかの自覚症状のある労働者の割合は8割を越え、自分の仕事や職業生活に関して強い不安、悩み、ストレスが「ある」とする労働者の割合はおよそ6割となっている。痛みや不快感はあきらかに身体の異常の信号であるはずであるのにそれを我慢しているのは,身体の要請よりも社会の要請に従っているからである。生身の人間が耐え得るあらゆる許容範囲を、社会はどのように織り込んでいくのであろうか。



2.社会構造と健康 ②

2010年03月10日 | 政治
 先に述べたように一度作り上げた社会は構造的に再生産されるために個人の思い通りの変化は容易に望めない。それが例え心身の生物的限界に関わらず,強制的に依存させてしまう構造が存立していると分っていてもである。無理なダイエットが原因とみられる拒食症や過食症,いじめや自殺,滋養強壮剤で働き続けることが正義とされている社会での過労死などはその例として挙げられる。このような現代社会の価値観の押しつけは,社会や教育の“オブセッシブ・コンパルシブな”態度であり,シェフという学者が言う所の“嗜癖システム”そのものである。嗜癖システムとは,オブセッション(脅迫観念)を知らず知らずのうちに染み込ませ,ある種の考えに取り憑かせてしまうシステムのことである。このように,人間本性に関する信条体系がある人々の集団に支持され,それが人々の生き方にまでなっている場合,それは普通「イデオロギー」と呼ばれ,個人的・社会的にわれわれが何をすべきかを考える上で影響を与えているのである。このような社会的に培われる道徳や倫理は信念となって個人の価値基準になっているのである。以下これを社会的信念と呼ぶことにする。社会から刷り込まれる信念は、人間の生物的限界をも凌駕し、健康を蝕む。


2.社会構造と健康 ①

2010年03月06日 | 政治
 現代社会において社会と個人というテーマが確立したことは先に述べたが,その関係をもう少し詳しく考えていきたい。社会と個人の関係を十分な客観性を持って明確に言い表したのはことは社会構築主義の功績である。社会構築主義に見られるように社会的動物としての人間の研究において,人間世界についての知識(社会の理解の仕方やアイデンティティ)は社会生活における人々の間の日常的相互作用を通じて構築されるという考えに基づいている。
 フランスの社会学者,ブルデューはライフスタイルの考察でよく知られている。彼の名著,ディスタンクシオンではハビトゥスという概念を用いてそれを説明している。「ハビトゥスとは(各個人が社会を)構造化する構造,つまり慣習行動および慣習行動の知覚を組織する構造であると同時に,(社会の中で個人を知覚させる)構造化された構造でもある」と述べている。つまり,社会の道理にかなった慣習行動を必然的に身体化していく一方で,その作られた慣習行動は他人の行動に対する検閲の基準にもなり得るというもので,文化継承の構造を端的に説明しているものの一つである。
 つまり、社会と個人は別なようで同じものでもある。複数の個人がおこす犯罪や病気も社会の問題として捉えるべきであり、個人の責任は社会の責任であるという視点の重要性を示唆している。



1.現代社会と病理 ③

2010年03月02日 | 政治
 わずか数百年の間に、人間はどう変わっていったのであろうか。今日の生活は,20世紀前半の生活に比べて著しい変化を遂げた。その一方では,人々の価値体系の大きな変化も原因している。かつては精神文化的な次元に重点がおかれていた人生価値が,今日ではどちらかというと物質文化に重点がおかれて来た。また自已満足にのみ志向しており,それを妨げられた場合に大きな精神抵抗を生む。出社拒否や不登校はその例として捉えられるが,果たしてその責任はその個人にのみ帰属させて解決してしまってよいのだろうか。社会の反省として認識するべきかという問いにも解答が求められている。
 現代の癒されるべき個人の病いは現代生活の問題とかかわっていることが多く,医療においてもその役割は単に体を治す(Cure)だけではなく,社会での生活復帰までも考慮した介護(Care)までの幅広い転換が求められ“医療の質”が検討されているのである。こうして今,あらためて本当に豊かな生活とはどのようでなければならないのかという点が問われている。哺乳類の縄張り争いなどで、壮絶な死闘を繰り返しても相手を死に至らしめるほどには攻撃しない。後進国と呼ばれる文明化されていない国々や、南の島でのんびり暮らしている人々などは、自殺をする確率はとても低い。我が国の自殺者数は史上最多を更新し、国内の混乱が続いている国を除けば、世界1の自殺率となっている。特に経済と密接に結びついた自殺はまさしく社会病理と言えよう。動物が自ら命を閉ざす社会が正しいあろうはずがないし、そもそもそんな動物であったはずがない。日本では生まれた瞬間に社会に蔓延した病理に蝕まれていくという表現は過大表現であろうか。



1.現代社会と病理 ②

2010年02月16日 | 政治
 現代病理に対して今日,「治療」を越えて「癒し」が多く語られるようになったのは,現代医学が構造的に抱え込んでいた矛盾に起因しているとも言われている。疾病構造の変化,つまり現代病理が多くのリスクファクターが原因となり,病気の原因を特定できないものが多くなってきたことにその原因の一端があると言われる。心身医学や行動医学もしくは行動療法などが既に注目を浴びてきているのも一つの証拠である。例えば,死因をみても明治から昭和の初期では「国民病」といわれていた肺炎,気管支炎,結核,赤痢,胃腸炎などの感染症疾患が主な死因であったが,昭和30年頃からは慢性疾患,成人病,生活習慣病といわれる悪性新生物,脳血管疾患,心疾患などの生活様式の現代化が原因とされる死因の増加が目立つ。平成21年の3大死因死亡数は、第1位が悪性新生物34万4000人、第2位心疾患17万9000人、第3位脳血管疾患12万1000人と推計されている(厚生省平成21年人口動態統計参照)。また,厚生統計資料の平成19年度の国民医療費は34兆1360億円、人口一人当たりの国民医療費は26万7200円となり、年々増加しているのは言うまでもない。一般診療医療費を主傷病による傷病分類別にみると、「循環器系の疾患」5兆4 3 5 3億円(21.2% ) が最も多く、次いで「新生物」3兆716億円( 12.0% )、「腎尿路生殖器系の疾患」2兆138 9億円(8.3%)、「呼吸器系の疾患」2兆11 91億円(8. 3%)、「精神及び行動の障害」1兆9 3 7 8億円(7.6%)となっている。これらライフスタイルが原因で起こる疾患は,従来の心理療法や近代科学思想に基づいた西洋医学の技術としての対症療法的な医療・治療モデルよりも、行動療法の方が費用対効果及び治療後の持続性についても優れているとも言われている。このような問題も含め,医療に関連した制度においても従来の医療モデルのその行き詰まりが二十年前より指摘されてはいるが、未だに抜本的な化解決策を見いだせずにいる。それはまた、医学で対処すべきものかは誰も知らない。



1.現代社会と病理 ①

2010年02月11日 | 政治
 産業革命以降、現代社会において欲望は肥大化を続け,大量生産・大量消費によって「豊かな」生活が爛熟しているように見える。しかし,実際のところは経済優先の競争社会の中で釈然としない不満足感が広まりつつあり,環境問題,犯罪の凶悪化など,漠然とした不安感に苛まされている。また,現代の日本では誰もが物質的な豊かさを手に入れ,一億総中流階級とも言われていた時代から構造的な不況が続き、物質的には豊かであるが極めて精神的に空虚なライフスタイルが蔓延しているようにも見うけられる。また,経済が悪化したために以前の中流階級はその階級からの転落という危機感を感じ,ますます仕事に必至になるという社会現象を起こしており、就職難も加わって所得への執着はますます強くなっていく気配を感じられる。見かけの豊かさの中で溺れていく人々の様子が浮かび上がる。  我が国の豊かさの追求,それは戦中・戦後の耐乏と欠乏の時代を潜り抜けてきた大多数の日本人にとって共通の目標であった。1955年頃に始動し,60年以降本格化する経済の高度成長は,他の先進国と呼ばれる国家と同様に「社会と個人」というテーマを大衆的規模で現実のものとさせた。そして近年,経済的に支えられた「豊かさ」の裏側には,社会がもたらすといわれる様々な問題が顕在化している。文明病とも呼ばれる成人病,躁鬱病や自律神経失調症の心因性慢性疾患などの様々な現代病理と称される問題がその例といえるでしょう。みなさんはいかがお考えでしょう。

0.政治家の理念

2010年02月01日 | 政治
 政治家を色々と批判する人は多いが、全国民・全市民の100%指示される政治家はいない。それは政治には正義があるが、政党・政治家に正義はない、ということからも知ることができる。それは、誰がどんな理念を唱えようと哲学で言うような絶対的真理を説くことは不可能だからだ。吉田松陰が引いた孟子の言葉がある。  「自ら反(かえり)みて、縮(なお)くんば千万人といえども吾(われ)ゆかん」  政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべて。確たる信念に裏打ちされているなら批判はもとより覚悟のうえ。とかく、政治家になることが目標の人が多く、政治家になって何をするかを考えていない議員も多いように感じる。  議員なることが目的でなく、手段でなければならない。自分の理念に従って言いたいことが言えないようでは政治家ではない。音楽家、書道家、舞踊家など家がつく稼業は、己の”道”を追求しているからこそ名乗ることが出来るはずだ。  さて、私の理念を一言で表現するなら Japanese Wellnessの確立 です。意味は、これからの国際社会の中で国や地方がどう日本人の幸福を実現させていくかを探究するということです。細かい意味は後々ご紹介させて頂くとして、ブログを開設するにあたりその名に理念を掲げさせて頂いた。最後に、やりたいことがある議員は、なっていたい議員より短命だが、この地域未来のために礎石にでもなれたらと馳せる。