安田よしひろ 駅立ちブログ!

日本の安寧。未来への責任。次世代の幸せを憂い、創る。

3.生物的限界と動物的感性 ①

2010年04月26日 | 政治
  我々人間は,現代社会で経験するおびただしい変化に対応できるようには,もともとつくられていない。人間はここ2万年ほどのあいだ生物学的にはほとんど変わっていないが,生活環境は急変しており,その変化に適応することができないために脳神経系や健康などの社会問題が顕在化してきているのだとも推測できる。つまり現代社会は多くの人にとってその生物学的限界を超えているとも考えることができるのであり、そこで生物的限界とそれを告知する動物的感性との関係は一体どういうものなのかを注目すべきと訴える。もう少し詳しく説明しよう。
 先ずは、私たちが近代生活の中で手放したもともと備わっていた感性は、実はその限界を察知するための重要な機能だったと考える。そのような動物的な生き方を理解するには動物行動学者のローレンツの著書を参考にすることをお勧めする。彼は以下のように進化の過程において感性がいかに重要かを説いている。動物の進化の過程は機能的な淘汰によって獲得してきた。交尾や採餌を開発するといった刺激状況のように,極めて特殊な刺激状況を求めるように動物を強化することが重要である場合には,進化は常に下記のような問題解決の道を歩んできた。極めて特殊な行動様式が強化されることが動物にとって重要であって,そしてそれがあるまったく特定の,ごく限定された場所を求めることであるのならば,負の反応をおこす刺激のみによって動物をそこへ追い込むことは困難だと思われる。報酬を与える刺激の作用によって動物を望ましい場所に引き寄せる方がずっと容易であろう。快によって導くか、不快によって追い込むか、報酬と罰は自然界に君臨する基本原理なのである。その原理を自らに変換する機能が感性なのである、と言う。
 効率を追求するために、本能的な感性を理性で潰していく社会には、いつしか限界がやって来るに決まっている。もう既に来ていると判断しなければならないと思う。果たして我々の社会は、いつその限界に気付くのであろうか。



2.社会構造と健康 ③

2010年04月07日 | 政治
 つい最近までの日本の道徳や社会的価値はおよそこのように理解している。戦後の日本では官許の価値基準として,忠君愛国とその補強材として孝行があり,人々の心の中の事実は別として,表向きの価値観は一応統一されていた。そしてその社会道徳的価値感は戦後の経済成長には都合よく会社や仕事に対する価値観へと摩り替えられ,産業的・物質的価値観へと転換していった。そのように培われた経済資本を軸とした価値観は現代の日本では未だに大きな影響力を持っているに違いない。資本主義と同調した急激な進展が,システムへの依存を強制し,現代人に何の疑問も抱かせぬまま,社会の文化・風景として定着させ,心や体を蝕み,快を求めるようにとかきたてる自然の衝動を産業社会の要請に服従させるようにしたのである。
 そのように社会を見てみると,我々は現代社会の道徳や労働倫理の奴隷になったとも解釈できる。「身も心も会社に囲い込まれていて,自立心のない人間を「家畜」ならぬ「社蓄」という。そんな著書があります。会社にエサを与えられて飼われているうちに野生を失ったサラリーマンのことである。企業における徹底した効率化・合理化(生産性の向上)の追求は,人員削減と労働の管理強化へつながってきており,厚労省が行った「労働者健康状況調査」でも,自分の健康状態につい何らかの自覚症状のある労働者の割合は8割を越え、自分の仕事や職業生活に関して強い不安、悩み、ストレスが「ある」とする労働者の割合はおよそ6割となっている。痛みや不快感はあきらかに身体の異常の信号であるはずであるのにそれを我慢しているのは,身体の要請よりも社会の要請に従っているからである。生身の人間が耐え得るあらゆる許容範囲を、社会はどのように織り込んでいくのであろうか。