安田よしひろ 駅立ちブログ!

日本の安寧。未来への責任。次世代の幸せを憂い、創る。

PTAの光

2019年02月28日 | 駅立ち
義務教育とは、子供が嫌でも勉強しなくてはならないという義務があるという意味でしょうか? そうではなく親権を持つ者が子供に普通教育を受けさせる義務と捉える方が正しいのではないですか? つまり義務は親にあるのです。子供には権利があるのです。学校で楽しく学びたい!と訴えています。

それなのにPTAは子供そっちのけの議論が多い。自分がPTAをやらない事情を擁護するために不要論まで唱える人も少なくなさそうです。先生は職務ですが、親は義務です。放課後・土日の対応は先生の仕事ではないと、文科省の働き方改革では言い切っています。それでも子供のことを思って、時間に関係なく接してくれる先生がいます。そういう先生が居なくなることは、結果的に誰の権利を奪うことになり、誰が義務を怠ることになるのでしょう。

天文学でアソシエーションとは、特定の種類の恒星の集団を指すらしいのです。恒星というのは自ら光を発する太陽のような星ですよね。熱は必ず伝わり、光は闇を照らします。そうです。子供のために情熱を持って輝いている保護者と先生の集団をPTAと呼ぶのです。やれない人に優しく、やる人は楽しく、みんなそれぞれに義務を果たしてまいりましょう。

共生社会の平等

2019年02月27日 | 駅立ち
PTAは社会の縮図。小学生は、たまたま近所に住んでいる同年齢の子とクラスメートになる。アトランダムに集まった統計サンプルのような集団と似ている。それが中学の部活、高校の進学、大学の専門、会社の風土、趣味などといったように、どんどん共通の価値観を持つ人たちとの関係が強くなる。

それがPTAでは振り出しに戻って、価値観の全く違った大人が偏りなくもう一度集められる。さらに、それぞれの価値観だけでなく生活の事情も全く異なってクラスに帰ってくる。そこは言わば、障害も持つ人や異文化の方もいるような共生を目指すべき集合体と捉えた方が良い。

それなのにPTAという装置は、平等という名で全てのメンバーに同じ役員を強いようとする。だから無理が生じている。もし、我々の事情や能力が同じならばそれで良い。でもそんなことは奇跡に近い。みんなが違うという認識から始めないと、PTAの平等原理は弱い立場の人を追い詰める装置として働くことになる。市や先生は、共生社会の人権問題を啓発しつつも、PTAの共生問題には口出しできない。だから保護者でやらなければ。

平等にも結果の平等と機会均等の平等という違いがあるように、PTAの平等にも個々の事情を認め合う「寛容」という観点が必要なのだ。理想は、やってもらえる人に気持ちよくやってもらい、やれない人もやれる時だけは気持ちよく参加してもらうこと。だからくじ引きで役員を決めるのはたいへんではあるけれど出来るだけやめた方がいい。その代わりに役員をやってくれる人に対して「物好きがやっている」とか「あの人、偉そうにしたいだけじゃない?」とか(でも本当にたまにいる)、「説明が悪いから参加しない」「責任をとれ」とか言わず協力すること。それがルール。

それでも何か言ってくる人もいる。でも負けずにそんな文化を残せるようにしていこう。未来とは、子供たちが生きていく世界のことを言うのです。自分の体の一部なんです。


次の人へのマナー

2019年02月26日 | 駅立ち
先輩って「俺たちの時代はこうだった。私たちの時はもっと大変だった。」などと言いがち。PTAもそう。単年度で交代することが多いことで、新しく役員になったときには、前年の人が事業も予算も決めている。変えなきゃいけないと思っていることを乗り越える労力より、前年に言われたまま一年をやりすごすストレスの方が楽なのかもしれない。不満をもって過ごしたので、後輩にも同じ苦しみを…?。

トイレ使用後にトイレットペーパーを三角に折る方。洗面台の水しぶきをちゃんと拭く方。次の人の気持ちを考えるという点では考えさせられます。

共稼ぎなどのライフスタイルはどんどん変化をしても、PTA活動は先に述べた構造的な理由で時代に対応しづらい。洗面所の話のように少しでも良いので、次の年の人の為に事業計画を優しくする運動が必要だと思います。省けるところを省いて、労力や情熱がもっと子供達のために向けられるようにしていくことが良いと思います。
あおり運転や喫煙マナーだって世間の力で常識は変わったと思います。同じようにPTAも次年度に優しくすることを、マナーとしてやるべき社会常識に変えていきませんか?
次の人のことを考えるのは、今を生きる大人の 未来への責任です。

PTAの在り方

2019年02月25日 | 駅立ち
PTA。任意団体だから入らなくてもいいという人もいます。でも、団体で入る保険のメリットとか、卒業式を華やかにするためのお花の飾り代を出すとか、パトロールしてくれている方々へのお礼を保護者代表で行っているなどの説明をすると、それは必要だねと理解してくれる人は多いです。

ポイントは、役員になったり、仕事を休んだり、家庭の用事が後回しになったりしなくてはならないことへのスケジュール的なこと。また、それに伴う人間関係への警戒感がほとんどのように感じます。共稼ぎやシングルの方、介護や経済的に苦労している方も時代とともに増えているので、やり方も変えていかなければなりませんよね。

PTAに入りたくないのではなくて、出来ないと感じているという実態解消が解決のカギになるのでしょうか。そこを見誤ってしまうと解決策が変な方向に行ってしまいそうです。

とにかく自分の子どもやその友達の安全で楽しい学校生活のために、親としてやらなければならないことは最低限やりたいですね。全国的な課題ですから、そこは行政が事務的な負担だけでも減らせる工夫をし始めるべきかもしれません。子育てを応援するというのであれば、きっとお金の問題だけではないですよね。


I’m POSSIBLE 勇気を

2019年02月22日 | 駅立ち
あなたは会社や学校で、何かしらの数字で評価され、その程度の人間だと決めつけられていませんか? 今までの人生経験の中で、気付かないうちに自分はこんなものだと周囲からあきらめさせられているってことはありませんか?

旧姓 松江美季さん。1993年、東京学芸大学1年のとき居眠り運転のダンプカーにはねられ脊髄損傷、下半身不随となった。同じ研究棟で学んだ後輩です。その後、競技をはじめ長野オリンピックの金メダリストで有名に。そこで知り合ったカナダ人と結婚してマセソン美季さんに。東京オリ・パラの組織委員会メンバーでパラリンピック教育「I’m POSSIBLE」日本語版を広めています。国リハのある所沢市の全学校にも教材として配られていますが使われているのだろうか?

Impossible(できない)は周囲の大人が教え込んでいる。出来ないことを数えるより、出来ることに注目しようと教えてくれます。ガンなどで余命宣告されてから生き方を変えることって自分に当てはめても想像できますよね。会社や学校で悩みがあっても、工夫次第で乗り越えられたら人生をいくらでも変えられるということ。世の中、無くなって初めて気付くことも多いから、苦労は気付くためのきっかけと思いましょう。あることだけが恵みではない。ないことは必ずしも悲しみではない。

I'm possible(工夫次第で不可能が可能になる)は、障害を持った方々の頑張る姿から学ぶことができ勇気をもらえます。出来ないこともはあるかもしれないけど、出来ることがもっとたくさんあるんじゃないかと。安心して失敗できる環境、そして掴みとる成功体験。ハンディと歩んでいる仲間を応援してパワーを頂き、もっとチャレンジできる世の中にしていこう!


その差を別にしないで

2019年02月21日 | 駅立ち
東京パラリンピックが徐々に盛り上がりを見せていますが、その多くは身体にハンディがある方なのです。知的なハンディを持つ方の競技規則などはその設定が難しいのでなかなか広まりません。本人たちが自らアスリートを望むというケースも多くないのでしょう。

パラリンピック自体が4年に一度ですし、東京開催でなくなった後はまた注目されないかもしれません。ですからパラリンピックを盛り上げて下さる皆様には、どうかこの機会に、知的なハンディを持つ方々の存在をもっと認知してもらえるようにも応援をお願いしたいのです。

養護学校の先生や特別支援の方々は普段から頑張ってくれています。15年やっていた所沢市のスポーツフェスティバルで知り合ったボランティアの方や専門職の皆さんは人格的に尊敬できる人ばかりでした。こういう方がいてくれているので社会が成り立っているのだと知りました。地上に輝く星です。

そして選手たちは、スポーツを通じて健康になり、仲間と思い出が出来ます。地域の運動会にはそういう方の種目を必ず入れて欲しいと訴えてきました。そして頑張る姿を地域の人に応援されて欲しいのです。選手1人1人の金メダルです。

夏になる前に、みんなを誘ってみようと思います。また やりましょう。


心の壁

2019年02月20日 | 駅立ち
障害を持つお子さんのお母さん。子供の通学では地味な服を来て後ろから付いて見守る。お叱りを頂くかもしれませんが、子供の頃の私はそんな印象を持っていました。親としてのその心中は、1人立ちさせたいという願いも相まって張り裂けそうな複雑な思いだったことでしょう。

私は15年間、所沢の秩父学園や国立リハビリテーションセンターで、障害者スポーツフェスティバルを運営させて頂いておりました。一日がかりのこの大会が恒例になるにつれ、子供たちをスタッフに預けてお母さんたちの木陰のテーブルランチも豪華に。私にはとても気楽で楽しそうに映りました。先ほどの通学を見守るお母さんの地味なイメージが吹っ飛びました。

何も気にしないでいいんだって気付きました。どんな人も脳梗塞や認知症になって言わば障害者になる可能性があります。誰も何も気にしないで、堂々と生きていけばいいんです。共生社会では心の壁を勝手に作ってはダメです。その壁は見えづらい。でもきっと、自分にやってほしいことを、人にやってあげれば見えるはずです。

違いがあること

2019年02月19日 | 駅立ち
左足を付け根から切断してしまった8歳の男の子が、人工間接の膝で足がつながらない11歳の男の子に「お前は足がないからこのブラブラは出来ないだろ」と言われた。私が二十歳の時、右腓骨の骨腫瘍の摘出手術で入院していた防衛医大の整形外科病棟での相部屋での会話。

周りの大人はヒヤリとして左足がない男の子の顔を見る。その子は「僕には足がないからそんなこと出来ないよ」と笑顔で答え、そのまま仲良く二人はじゃれあっている。病院生活の長い二人は医師や看護師さんや、どこか肢体に不自由のある人と常に囲まれている。そこで彼らにハンディがあることへのためらいを感じることはなかった。むしろ、ハッとした我々に問題があるのだと学んだ。

差があることが かわいそうだなんて誰が決めているか ってことです。

そう。私たち社会です。彼らがバリアになっていることを必要にされている分だけ取り除けばいいんです。かわいそうな人と決めつける必要はない。もちろん、それを悲しんでいらっしゃるのであればその分だけ心に寄り添えばよいのだと思っています。

君と僕はここが違うよね。それだけでいい。



小さい声

2019年02月18日 | 駅立ち
自分の娘の首を絞めて、一緒に死のうと何度思ったことか。そう、涙ながらに話してくれた重度のハンディを持った女の子のお母さんが数年前に私に話してくれました。娘と二人になると、ごめんね ごめんね とつぶやいてしまうそうです。働きながら育てるのにも限界があると。

せめて、週に一度でも所沢でお医者さん付きの施設に預かって頂けたらとの相談。ショートステイの予算要望やお医者さんにも事情を聞きにも行きました。議会で訴えても明日からその家族は救えない。1年経っても2年経っても変えられない。

自分の利益しか考えない故郷納税より、指定寄附制度を拡充した福祉に関するクラウドファンディング納税でもあった方が、よっぽど早くその家族を支えられそう。頑張っている親を応援できる社会になりそう。

自分にさえ被害がなければ余計なことは言わない風潮の世の中。政治家は代弁者なら議会で訴えるだけで仕事したと言ってはならない。小さい声を出来るだけ拾い、地域愛を集めて再分配したい。


子供に冒険を

2019年02月15日 | 駅立ち
ある成長の時期に、その時期にあった刺激を与えないと、もうその時期に得ることのできる能力は身につかない。外国語の発音・ヒアリング、なまり、音痴、運動神経などがそうでしょうか。臨界期といいます。

受精卵はプログラム通りに分裂して器官に分かれていく。赤ちゃんは産声とともに呼吸をし、泣けば親が授乳することを知っている。目が見えるようになれば動くものを追いかけ、歩けるようになるために反り返ったりハイハイしたり。その頃に日本語を聞けば日本語が話せるし、英語で育てれば英語が話せるようになる。

必要な時期に必要な刺激。子供はなぜ遊びたがるのか。それはその時期に必要な、その時に遊ぶことでしか得ることのできない大事な経験をするため。命はそうすべきだと体の中に知っている。危ないから。受験だから。お金がかかるから。親は子供の中にある太古の昔からの叫びを閉じ込めて、現実への準備をさせる。

子供達に冒険をさせてあげたい。それも人生の大冒険を。そしていつでも帰って来ることのできる場所も暖かくして用意してあげたい。親のエゴではないそれが本当の親心なのかな。


そばに居てあげて

2019年02月14日 | 駅立ち
ある裕福な娘の話。「私の父は大学教授。母は有名なピアニスト。暮らしに何の不自由もない。でも私は死にたい。」昔そんな話を聞きました。忙しい親とは会話もしない。家族の一員として役割もない。思い出もない。極端かもしれませんが、自分の家族に思い当たることありませんか?

私の気持ちを聞いてほしい。時には叱ってほしい。家族皆で大笑いしたい。子供は社会と自分の関係を学んで成長している最中。
イジメをしてしまう子。引きこもってしまう子。心の居場所を探しているのかもしれない。幸せは見えづらい。

都会暮らしにあこがれている遊牧民の子は、都会に行けば見えなかったものが見えるかもしれない。家族の中の役割、家族がそばにいる安心、口喧嘩、スープをこぼして皆で笑ったこと。

青少年の健全育成。先ずは家庭。子供のために働くっていうけど、子供には見えないもっと必要なことがあるはず。これは貧困とか雇用の問題だけのものではない気がしますよね。

色々含めて、親が子供と長くそばにいられる世の中にしたい。


挨拶は表情で

2019年02月13日 | 駅立ち
あいさつ は 言葉だけでなく表情が大事なのです。人類は霊長類からしっぽや体毛がなくなり、大脳が大きくなり表情筋が複雑に進化して表情が豊かになった。人は他人の表情を見ると、右脳が活動するみたいです。これと対峙する左の脳は言語だそうです。言葉をもたなかった類人猿が意思の伝達をするのに表情はとても重要だったのだと思う。ここに我々の社会が幸せになるヒントもあるような気がしています。

進化の過程で必要なものは残され、いらないものは残らないから表情ってすごく大事なもの。学校や地域で「挨拶運動」がある。PTAや町内会の人が好きでやっていると遠巻きに見ている人。せっかくの我々の知恵であり能力である表情と言葉。挨拶のない社会、表情を出せない社会、コミュニケーションを閉ざす今時の社会の傾向はいいことではないですよ。孤独・孤立は社会の不幸せだと思います。

挨拶のできる社会に変えていくことも、これも今を生きる大人の 未来への責任。


大人の教育

2019年02月12日 | 駅立ち
大人って教育できるものなのでしょうか。ゴミの分別等を指導しようと講習会やチラシ頒布の啓発活動を行っても、ルールを守らないような人はそもそも来ないし読まない。来る人は動員かけられたPTAや町内会の役員ばかりで、守っている人に負担が余計にかかってしまうという矛盾が起きる場合がある。

自動車の免許は違反をした程度によって研修が異なり、それに応じて適切なカリキュラムが施される。それはいいねぇとなると、ゴミ捨てや子育てを免許制にするってことでしょうか? 理屈は理解できたとしても実際は無理ですかね。やはり監視と罰を厳しくするしかないのでしょうか?

社会から締め出す動きと、社会に受け入れる動き。社会は振り子のように大きく右に左に揺れ動きながら時を重ねていく。虐待や過保護の関係のように問題が起きてから考える。考えない大人を含めながら前に進むには、考える大人が子供達に社会のあり様を教えることしかできないか。

学校でのスマホの使用方法や言葉づかい、髪型や服装。これら自体が社会に悪いとか正しいとかではない。こうゆうことをちゃんと指導できている社会は、秩序と安寧を手に入れられるのだと信じる。そうして他人と一緒に生きていくこととは他人がどう感じているのかを学ぶことができる。それが社会の中で生きるというルールだから。

そうなれば孫のために貯めたおばあちゃんのお金を平気でだまし取る大人にはならない。ポイ捨てもしないだろう。あらためて立法府の役割は大きいことと、青少年の健全育成の活動は尊いと、強く感じた寒い朝でした。


命の意味と責任

2019年02月08日 | 駅立ち
子供の前で夫婦喧嘩したことありませんか? 言葉にもひどく人を傷つける力がありますから暴力の一種になり得る。そこで子供に心理的外傷を与えたのであれば、児童虐待の防止等に関する法律の虐待の定義(第2条4号)によって心理的虐待とみなされる場合もあります。

また、甘えてくる子供に、ついうるさいと叱ってしまう。それは情緒的なネグレクトとみなされるかもしれません。身体的な虐待だけが虐待ではない。事件というのは氷山の一角。夫婦喧嘩や子育てに時間をかけてあげられないことは、氷山の下の部分だとすれば、他人ごとではないでしょう。

不安定な雇用や困窮は、親と子供の関係も引き離す。そこまでして仕事をしなくてはならない国になってしまったのか。命をつなぐことが命の意味。個の欲求を満たすことは人生の意味かもしれませんが、命の意味ではない。

今を生きる大人の 未来への責任 だと思う。


町の泣き声

2019年02月07日 | 駅立ち
隣りの部屋から毎日聞こえる子供の泣き声。こんなことになるなら勇気を出して通報すればよかった…。あの子の泣き声が耳から一生離れることはない。虐待事件が起きた部屋の隣りに住んでいた女性の泣きながらのインタビューを忘れない。

現実的には家庭内のことに行政が介入しづらいのは基本的なこと。虐待の件数が増えたのは通報が増えたことにもよると思う。地域に住む住人は、関係機関とも十分な連絡環境を整え、それぞれが出来る最低限度の役割を担うべき。

先ほどの通報しなかった女性の後悔は、自分に被害が来るのが怖いので他人のことには関わらない方がいいという風潮に勝てなかったこと。自分へのリスクを計算する人が賢い生き方ではない。やらない人を指さすことなく、人から損するとバカにされようとも、自分に後悔しないようにやると決める。

世の中の小さい泣き声が聞こえたら、世の中を変えようと行動しなければならないと思っています。