先に述べたように一度作り上げた社会は構造的に再生産されるために個人の思い通りの変化は容易に望めない。それが例え心身の生物的限界に関わらず,強制的に依存させてしまう構造が存立していると分っていてもである。無理なダイエットが原因とみられる拒食症や過食症,いじめや自殺,滋養強壮剤で働き続けることが正義とされている社会での過労死などはその例として挙げられる。このような現代社会の価値観の押しつけは,社会や教育の“オブセッシブ・コンパルシブな”態度であり,シェフという学者が言う所の“嗜癖システム”そのものである。嗜癖システムとは,オブセッション(脅迫観念)を知らず知らずのうちに染み込ませ,ある種の考えに取り憑かせてしまうシステムのことである。このように,人間本性に関する信条体系がある人々の集団に支持され,それが人々の生き方にまでなっている場合,それは普通「イデオロギー」と呼ばれ,個人的・社会的にわれわれが何をすべきかを考える上で影響を与えているのである。このような社会的に培われる道徳や倫理は信念となって個人の価値基準になっているのである。以下これを社会的信念と呼ぶことにする。社会から刷り込まれる信念は、人間の生物的限界をも凌駕し、健康を蝕む。
現代社会において社会と個人というテーマが確立したことは先に述べたが,その関係をもう少し詳しく考えていきたい。社会と個人の関係を十分な客観性を持って明確に言い表したのはことは社会構築主義の功績である。社会構築主義に見られるように社会的動物としての人間の研究において,人間世界についての知識(社会の理解の仕方やアイデンティティ)は社会生活における人々の間の日常的相互作用を通じて構築されるという考えに基づいている。
フランスの社会学者,ブルデューはライフスタイルの考察でよく知られている。彼の名著,ディスタンクシオンではハビトゥスという概念を用いてそれを説明している。「ハビトゥスとは(各個人が社会を)構造化する構造,つまり慣習行動および慣習行動の知覚を組織する構造であると同時に,(社会の中で個人を知覚させる)構造化された構造でもある」と述べている。つまり,社会の道理にかなった慣習行動を必然的に身体化していく一方で,その作られた慣習行動は他人の行動に対する検閲の基準にもなり得るというもので,文化継承の構造を端的に説明しているものの一つである。
つまり、社会と個人は別なようで同じものでもある。複数の個人がおこす犯罪や病気も社会の問題として捉えるべきであり、個人の責任は社会の責任であるという視点の重要性を示唆している。
フランスの社会学者,ブルデューはライフスタイルの考察でよく知られている。彼の名著,ディスタンクシオンではハビトゥスという概念を用いてそれを説明している。「ハビトゥスとは(各個人が社会を)構造化する構造,つまり慣習行動および慣習行動の知覚を組織する構造であると同時に,(社会の中で個人を知覚させる)構造化された構造でもある」と述べている。つまり,社会の道理にかなった慣習行動を必然的に身体化していく一方で,その作られた慣習行動は他人の行動に対する検閲の基準にもなり得るというもので,文化継承の構造を端的に説明しているものの一つである。
つまり、社会と個人は別なようで同じものでもある。複数の個人がおこす犯罪や病気も社会の問題として捉えるべきであり、個人の責任は社会の責任であるという視点の重要性を示唆している。
わずか数百年の間に、人間はどう変わっていったのであろうか。今日の生活は,20世紀前半の生活に比べて著しい変化を遂げた。その一方では,人々の価値体系の大きな変化も原因している。かつては精神文化的な次元に重点がおかれていた人生価値が,今日ではどちらかというと物質文化に重点がおかれて来た。また自已満足にのみ志向しており,それを妨げられた場合に大きな精神抵抗を生む。出社拒否や不登校はその例として捉えられるが,果たしてその責任はその個人にのみ帰属させて解決してしまってよいのだろうか。社会の反省として認識するべきかという問いにも解答が求められている。
現代の癒されるべき個人の病いは現代生活の問題とかかわっていることが多く,医療においてもその役割は単に体を治す(Cure)だけではなく,社会での生活復帰までも考慮した介護(Care)までの幅広い転換が求められ“医療の質”が検討されているのである。こうして今,あらためて本当に豊かな生活とはどのようでなければならないのかという点が問われている。哺乳類の縄張り争いなどで、壮絶な死闘を繰り返しても相手を死に至らしめるほどには攻撃しない。後進国と呼ばれる文明化されていない国々や、南の島でのんびり暮らしている人々などは、自殺をする確率はとても低い。我が国の自殺者数は史上最多を更新し、国内の混乱が続いている国を除けば、世界1の自殺率となっている。特に経済と密接に結びついた自殺はまさしく社会病理と言えよう。動物が自ら命を閉ざす社会が正しいあろうはずがないし、そもそもそんな動物であったはずがない。日本では生まれた瞬間に社会に蔓延した病理に蝕まれていくという表現は過大表現であろうか。
現代の癒されるべき個人の病いは現代生活の問題とかかわっていることが多く,医療においてもその役割は単に体を治す(Cure)だけではなく,社会での生活復帰までも考慮した介護(Care)までの幅広い転換が求められ“医療の質”が検討されているのである。こうして今,あらためて本当に豊かな生活とはどのようでなければならないのかという点が問われている。哺乳類の縄張り争いなどで、壮絶な死闘を繰り返しても相手を死に至らしめるほどには攻撃しない。後進国と呼ばれる文明化されていない国々や、南の島でのんびり暮らしている人々などは、自殺をする確率はとても低い。我が国の自殺者数は史上最多を更新し、国内の混乱が続いている国を除けば、世界1の自殺率となっている。特に経済と密接に結びついた自殺はまさしく社会病理と言えよう。動物が自ら命を閉ざす社会が正しいあろうはずがないし、そもそもそんな動物であったはずがない。日本では生まれた瞬間に社会に蔓延した病理に蝕まれていくという表現は過大表現であろうか。