鎌倉八百ヶ谷戸

鎌倉の街はそのものが環境遺跡

善財 一 写真集

鎌倉の谷戸

2020-04-08 12:02:32 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

西御門奥から建長寺の裏辺りを歩いている。

大覚池の工事が始まったころ。

 

湿地帯であった谷地が綺麗な水田に。左右に迫る斜面も木々が除かれて地形と地層が良くわかるようになってしまった。

 

建長寺から半僧坊へ向かう途中の竹林。現在は、現代の建築家が設計した虫塚にされてしまった。古い竹林のままであったらよかったのに。奥にやぐらがあるのだが、やぐら辺りからの景色がすごくよかった。

 

 太平寺跡。ずいぶん以前のことだが、調査のために雑木と下草が刈られた頃に撮影ができた。現在は再び草木が茂って立ち入れない状態。

 

西御門奥の石切り場跡。

西御門奥の平坦地。かつて寺院があったと思われる。

建長寺奥の石切り場跡。

 

建長寺奥の石切り場跡。内部から。

 


鎌倉の谷戸

2020-04-08 10:04:35 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
鎌倉の街は山襞を侵食するように形成されている。古くから山の裾が開削されて平坦地が築かれ、宅地や農地とされており、現在でも山裾を背後にしている宅地が頗る多い。これらの山は決して標高が高いわけではなく、武家はこの谷に屋敷を構え、あるいは農地を拓き、空域を囲むような山の尾根筋を守りの要とした。谷戸(やと)である。
そもそも八百年前に、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれた理由も、幾重にも山並が連続するこの地勢が外敵の侵入を防ぐと考えられたからであろう。鎌倉を取り巻く山並を城壁として機能させたのである。実際に山の尾根を歩いてみると、驚くほど緻密に山襞が利用されていることが判る。天然自然の地勢をそのまま利用しただけではなく、高い機能性を求めて山肌を切り削ぎ、いわば地形に手を加えて城壁に造り変えていたのである。
山を開削し造り変えるとはどのようなことなのであろうか。あらゆる地域で山を崩して平坦な土地を造り、宅地とし、畑地とし、交通のために道路を廻らしている。土地の利用は、自然のままで行われることはない。
山の裾野を削り道路にすることはもちろん、畑や宅地など生活の場、墓地なども、鎌倉の多くの寺社は、開削された山裾や平地に築造されていると考えて良い。谷戸も奥に行くに従って次第に高くなる。谷戸の斜面をひな段状に切り拓いて平坦な場を設け、寺院を建てた。その際を開削してヤグラと呼ばれる横穴式の墓や供養石窟を設けた。さらに、谷戸の最奥には巨大なヤグラを設け、壁面を彫って石仏を安置するなど、寺院のような機能をも持たせた。
また、鎌倉防御のための施設として、急峻な山の頂近くを切り拓いて平坦な場を無数に造り出している。これを平場(ひらば)と呼んでいる。構造としては段々畑のようであるが、尾根の外部から攻められた場合を想定した、守りを堅くするためのもの。その一方、山の外部は、侵入を防ぐ目的から垂直に切り仕立てることが行われた。それが切岸(きりぎし)である。
鎌倉の中心街では近代的な建築が進められた結果これらの石造遺跡は少なくなり、辛うじて山際に設けられている庭の一部に往時の様子を窺い知ることのできるヤグラが見られる程度である。それでも、鎌倉市街地の周囲には古い時代の地勢がそのままの状態で残されている場もある。谷戸と呼ぶに相応しい空間である。
 

大覚池畔の回春院の奥は、かつて湿地帯であったが、何年か前に整備され、現在は水田。

整備される以前の大覚池奥

建長寺の奥、回春院を経てさらに奥へと谷間を進むと、勝上嶽から鷲峰山に至る山並みの南面のいたるところに鎌倉石の切り出し場跡がある。この山並みは覚園寺奥のやぐら群に連続している。

 



山崎 谷戸の池